江川紹子の裁判報告
19/JUNE/1997
――平成2年の捜査の手抜き隠しか!?岡崎の手紙を無視?
本日行われた麻原彰晃の第41回公判に、坂本堤弁護士の妻都子さんと長男龍彦ちゃんの遺体捜索・検証の責任者、それぞれの遺体の解剖に立ち会って写真撮影報告を作成した神奈川県警の警察官4人が出廷した(あと一人、塩化カリウムについての意見を述べた学者も)。
主尋問で被害者を「タツヒコ」と呼び捨てにした大野比登志警部補は、龍彦ちゃんの捜索にあたっては、岡崎一明の引き当たり捜査報告書も、場所の特定にあたって平成2年2月に岡崎が県警と横浜法律事務所に送ってきた手紙の中の地図も「見ていない」と強弁。
そのうえ、岡崎が平成7年に書いたラフな図面の方が、距離まで記入してある平成2年のものより「詳しい」などと言い張った。
最初に、龍彦ちゃんの遺体から1bくらいの場所に黒い塗料のスプレー缶が埋まっていたという点が話題になった。
――なぜそんなところに埋まっているのか検討はしたか。
「検討というより、そこにあるということを確認して捜査本部に引き継ぎました」
――どうしてそこにあると推測したか
「何ものかは別として、本件かどうかは別として、人為的に埋めた。それ以上分かりませんし、推測もいたしません」
続いて、平成2年2月の岡崎の手紙に基づく捜索に話は移る。
――その時の発掘についてどう聞いているか。
「周辺の雪をさらって、ケンド杖で地表を突き刺して、検索しました」
――発掘したのか。
「検索です。ある程度の土は掘り起こしたかもしれませんが、私の検証のごとき大々的な掘り返しが発掘だと思います」
――現場で平成2年の捜索の痕跡はあったか
「いいえ」
――平成2年の場所は埋められた場所からどれくらいか
「どこなのか分かりません」
――1区から6区まで調べるのに9月9日までかかったわけでしょう。
「はい」
――当然のことながら、この後どうするか検討会を開くでしょ。
「はい」
――その時、過去にここを調べたということになるはず。
「なるまいと思います」
――平成2年についてどういう話が出たのか。
「発掘の後、もといっ、発掘中に平成2年2月に周辺を検索したと聞き及びました。
ケンド杖を使用し、雪かきした旨は認知しました」
捜索現場には、菱形の変色部分があった、という。主任弁護人は、検証調書の中に、そこをずっと掘り進んでいくと遺体の一部がみつかったという記載があることを指摘。証人も、その部分には地層の乱れがあることを認めた。つまり、平成2年に掘ってみた場所がそこなのだろう。
――この変色部分の捜索が最後になったのは、以前に調べて、そこからは発見されていなかったからではないのか。
「平成2年の発掘に関する予備知識は一切持っていません。岡崎供述に基づいて場所を設定し、その範囲内での捜索活動に傾注しておりました。1区から4区に全力を投入しておりました」
岡崎の調書や引き当たり捜査報告書さえ読んでいないことを、この大野警部補は胸を張って主張した。
他の現場の検証責任者は、引き当たり捜査報告書を見たことは認めている。大野警部補も実は見ているはず。
平成2年の捜索現場以外の場所から捜索を始め、結局かつて捜索したはずのところから遺体が出たため、平成2年のことについていろいろ触れると、当時の捜かにおざなりだったかがバレてしまう。だから、その時のことについては知らなかったことにしようということらしい。
もし、万が一この日の証言が正しいとしたら、県警は平成7年の捜索の際には、岡崎が平成2年に横浜法律事務所と県警に送りつけた地図を無視したということになる。
岡崎が逮捕後描いた現場の見取り図より、平成2年のもの方が、距離や目標物などが遙かに正確で詳細。記憶が新しいのだから当然と言えば当然だ。にもかかわらず、二つの見取り図を見せられた大野証人は、「平成7年の方が分かりやすい」と言ってはばからない。
龍彦ちゃんの遺体だけがなかなか発見されず、そのために遺族や関係者はとても心を痛めていた。県警は、その後作業の困難さをPRするビデオを公開した。確かに作業に携わった警察官は苦労しただろう。しかし、遺族の心労も、現場作業に従事した警察官の苦労も、結局は捜査方針の誤りが原因であり、そのうえ今はそれを隠そうとしている。