松本智津夫被告第57回公判
1997/11/20
(毎日新聞より)
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(42)の第57回公判は20日、東京地裁で開かれ、地下鉄サリン事件の死亡者の血液鑑定にあたった警察庁職員に対する2回目の弁護側反対尋問が行われた。検査方法などをめぐって専門用語が法廷に飛び交い、松本被告は時々眠り込んだ。
傍聴希望者は156人だった。
午前10時1分、松本被告は青のジャンパーに白のスエットパンツ姿で入廷。今月7日の前回公判後に東京拘置所で散髪し、襟首がすっきりした。夏休み明けの散髪姿よりも短くなり、ひげも刈りそろえられた。しかし、被告席に足を投げ出して座り、眠そうにする。
警察庁科学警察研究所の瀬戸康雄氏が陳述台につく。
瀬戸氏は地下鉄サリン事件の犠牲者の血液鑑定でサリン分解物のメチルホスホン酸モノイソプロピルを検出した。1月に検察側が主尋問を行い、6月5日の第39回公判で弁護団の反対尋問を受けたが終わらず、3回目の出廷になった。
瀬戸氏は1994年6月の松本サリン事件の被害者の血液鑑定も担当。その結果、赤血球のコリンエステラーゼ値の平均値が4・9だったことについて弁護人が確認する。
弁護人「松本サリン事件の時に鑑定した8検体の数値をもとに、地下鉄サリン事件の時に亡くなった11人の数値が高いか低いかを鑑定したのですか」
証人「はい」
松本被告が「恋人たちの……」とぶつぶつとしゃべり始めた。
弁護人は検体数が少ないことから、統計的に不正確なデータでないかとの疑念を持っている。
専門的なやりとりに傍聴席からは、かすかな寝息が聞こえ始めた。
質問は詳細になり、裁判長は「その点はいいんじゃないですか」と弁護人に声をかけた。
「それは関係ないことだと……」と松本被告。別の弁護人が後ろから肩をつつくと、松本被告は押し黙った。
傍聴席の前から2列目に座ったジャンパー姿の若い男性が軽いいびきをかいて寝ていた。裁判所職員が近づき、肩をたたいて注意した。
弁護人はコリンエステラーゼ値の標準偏差に関して質問した。
証人「弁護人はよく勉強されている。しかし、そういう知識は必要ない。厳密な注意は必要ない」
証人は皮肉を交えて答え、弁護人はムッとした。
松本被告は「私の長男は……」「二男についても……」と言い始める。
地下鉄霞ケ関駅で亡くなった営団地下鉄職員の菱沼恒夫さんの鑑定結果について弁護人が尋ねる。
弁護人「コリンエステラーゼ値3・37が正常人と比べて若干低いとなっているが、統計上は疑問を持たなかったのか」
証人「疑問があったかどうかは別の話で」
弁護人「価値判断は『若干低い』の言葉に含まれているように思うが」
哲学問答のようなやり取りが繰り返される。今年流行の青いベロアのシャツを着た若い女性が、傍聴席で髪の毛の先を触っている。
弁護人「結局、証人は『若干』と考えざるを得なかった、と」
弁護人はこだわる。
裁判長が「先ほども同じ質問をしたのではないですかあ」と眠そうにただした。弁護人は「いえいえ」と手を振って、そのまま尋問を続けた。
先ほどから居眠りして再三注意されている男性がいびきをかきながら眠っていた。職員が「眠るなら外でどうぞ」と声をかけると、男性は頭をかいて座り直した。
法廷に専門用語が飛び交う中、松本被告は両足を広げて前に出し、頭を下げて眠っている。
メモを手に真剣に耳を傾ける傍聴人も難解なやり取りに手を止めたままだ。
コリンエステラーゼの検査方法についての確認を終え、別の弁護人に交代。
うなだれている松本被告からかすかないびきが聞こえた。裁判長は「被告人、起きなさい」と大きな声で呼び掛けると、松本被告は口をもぐもぐと動かしながら、薄目を開けた。
弁護人「前回の反対尋問で、過去のオウム関連の事件でも鑑定をされたと言っている。山梨県上九一色村の土壌からサリン(の副生成物)が検出された報道(95年1月)があり、(94年に)異臭騒ぎもあった。関与したか」
証人「科学警察研究所では異臭事件の鑑定嘱託を受けた」
弁護人「副生成物とは」
証人「副生成物とは何ですか。どの鑑定書のことか言ってもらわないと答えようがない」
弁護人「こちらも分からない。新聞記事でしか」
証人「そんな未確認情報のようなことを聞かれても困る」
裁判長「質問がおかしいんじゃないですか」
弁護人は手で制止し、質問を続けた。
弁護人「では(95年3月の)京浜急行の異臭事件は」
証人「はい、鑑定しています」
弁護人「何も検出されなかった?」
証人「そうです」
弁護人「平成7(95)年3月15日の霞ケ関駅のアタッシェケース事件は?」
証人「事件があったのは報道で知っているが、わかりません」
法廷に大きないびきが響いた。職員に注意された男性が、また眠っていた。
弁護人「血中のサリンについては、証拠の中で東大の高取(健彦・法医学教室)教授が同様の検査をしているが」
証人「結果は詳しくは知らないが、サリンの分解物が検出されたと聞いている」
10月17日の公判で証言した高取教授の鑑定では、瀬戸氏の鑑定よりも多くの被害者からサリン分解物が検出された。
弁護人「結果の違いはどうして生じたのか」
証人「私はサリン分解物を検出する方法。しかし高取教授の場合は、コリンエステラーゼを結合させる手法で、方法が違う」
二つの検査方法をめぐり応酬が続いた。
裁判長が「そのへんは簡単に答えて。あまりそこんとこはいいと思うけど」といらだたしさを見せた。
松本被告は、体をよじってあくびをかみ殺した。
弁護人「高取教授の方法論は考慮しなかったのか」
証人「私が鑑定に着手した当時は、高取先生のグループもそういう方法では鑑定していなかった」
居眠りを続けていた傍聴席の男性は、顔を天井に向け、口を大きく開けて眠り出した。職員が不愉快そうに男性をにらみつけ、別の職員が駆け寄って男性をゆすり、「眠るなら目立たないように」と話しかけた。松本被告も頭を垂れて眠っている。
弁護人「サリンとモノイソプロピルエチレンの違いは……。それぞれの化学記号を書いていただけますか」
阿部裁判長「そこまでいるんですかあ」
渋った裁判長だが、弁護人の要請に折れ、瀬戸氏は職員が持ってきた紙に分子構造を書き込んだ。
“化学の講義”のような審理がいったん打ち切られ、11時58分に休廷。
午後1時15分、再開。
松本被告は顔をしかめ、おもしろくないといった態度で被告席に着いた。
弁護人は、警視庁科学捜査研究所による鑑定方法との違いを尋ねた。
弁護人「サリンの鑑定については、科捜研でも検査を行っている」
弁護人は双方の検査条件の違いを明らかにすることで、「サリン」の検出に疑問を投げかけようという狙いがあるのか。しかし、瀬戸氏は「(検査の)条件は異なるが、問題はない」とはねつけた。
松本被告は、やり取りに関心がないのか、目を閉じてうなだれている。
弁護人はサリンの具体的な検出方法を確認する。
弁護人「厳密な意味で他の化合物の(検出の)可能性があるのでは」
証人「学問が進歩すれば別だが、現時点ではその可能性は低い」「もし弁護士さんが(他の化合物を)紹介していただけるなら紹介してください。私はないと思う」
皮肉がこもった言い方だった。
弁護人「ご自身がサリンを生成したことは?」
証人「ありません」
瀬戸氏は不機嫌そうに「サリンが検出されていないのに、そういう質問は関係ない」と続けた。
裁判長「まあ、私もそうは思いますが、一応は答えてあげて」
弁護人「(メチルホスホン酸)モノイソプロピルについて証人が自分で合成したということですが、時期的にはいつ」
証人「松本サリン事件の鑑定をしていた平成7年の1月ごろ作りました」
弁護人「化学式を紙に書いていただきたいのですが」
瀬戸氏が書き込む間、松本被告は固く目をつぶりずっと上を向いている。
弁護人「モノイソプロピルは証人が書かれた方法で合成可能なんですね」
証人「はい」
弁護人「モノイソプロピルがあってもサリンから分解されたとは必ずしも言えないんでしょ。他にも合成の方法は?」
証人「可能性はあると思いますが」
弁護人は、検出物をモノイソプロピルと判断した基準についてただす。
弁護人「ガスクロマトグラフィー検査で出てきたスペクトルを目で見て判断したのか。それとも機械か何かで自動的に判定されるものなのか」
証人「目で見て判断した」「(モノイソプロピルと)同一か、そうでないかという判断を行っている。類似している、あるいは何%類似している、というような(あいまいな)判断はしていません」
専門用語が交わされる法廷には、いくぶんけだるい空気が流れた。最前列の弁護人は首をコクリとさせた。検察官の一人は書類に目を通しながらメガネをもてあそぶ。
弁護人「モノイソプロピルと断言できるか」
証人「はい」
弁護人「100%か」
証人「100%そう思う」
弁護人「今もか」
瀬戸氏はあきれた口調で、「現時点で、というお尋ねだが、もし(モノイソプロピルに似た)そういう化合物を(弁護人が)お持ちならば、示していただきたい。私の方で調べさせていただきます」と答えた。
弁護人はサリンが血液中に入った後、どのように分解していくのか尋ねた。
弁護人「サリンは血中でモノイソプロピルに変化する。死亡した人の場合はそのまま残る。生きている人はさらに分解して排出される可能性がある。その場合、どのくらいの期間でなくなっていくのか」
証人「スピードは想像できないが、半減期は1、2日ではなく、結構長い」
弁護人「そこが問題なんですよ」
証人「難しい」
3時3分、休廷
3時22分、再開。
弁護人は、サリンの吸入量と検出結果との因果関係について質問を始める。
弁護人「モノイソプロピルが検出された人と、検出されなかった人がいるが、もともとサリンを吸わなかった可能性も残されているか」
証人「はい」
弁護人「サリンが検出できなかったのは、仮に亡くなった人がサリンを吸入していたとしても、その量が微量だったということか」
証人「検出結果は血液内の酵素の量や個々人の健康状態などで差があり、直接、吸入量とは結び付けられない。文献を見てもそれは常識」
弁護人は瀬戸氏の答えに満足がいかない様子で、首をかしげた。
弁護人「証人は結論としてモノイソプロピルが検出された人にはサリンの存在を推定するんですね」
証人「はい」
弁護人「他の可能性はいくらでもある。侵入経路が分からなければ、モノイソプロピル自体を吸入したこともあるし、(サリン化合物の)クロロサリンもある。それはお認めになりますか」
証人「その可能性はありますが、よりサリンの精度が高い」
弁護人「モノイソプロピルが検出された2人については(鑑定書の)作成が遅れている。作成が遅れたということと、細かいところで数値が違うということと関連は?」
証人「鑑定書はワープロで作成しておりまして、似たようなものはそのまま文をコピーして使うこともある。11人について9人がどうであったか今は分かりません」
反対尋問が終わった。
裁判長「じゃあ、帰っていただいてよろしいですね。長い間、どうも」
瀬戸氏はほっとしたように一息ついて退出した。
3時45分、閉廷。