松本智津夫被第65回公判
1998/2/12
(毎日新聞より)
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(42)の第65回公判は12日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、松本サリン事件の審理が始まった。この日は地下鉄サリン事件で犠牲者の遺体を鑑定した法医学者への弁護側反対尋問、松本サリン事件の捜査に当たった2人の警視庁警察官への検察側主尋問と反対尋問が行われた。傍聴希望者は150人だった。
裁 判 長:阿部 文洋(52)
陪席裁判官:(48)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(35)
検 察 官:山本 信一(49)
=東京地検公判部副部長ら4人
弁 護 人:渡辺 脩(64)=弁護団長
大崎 康博(64)=副弁護団長ら12人
被 告:松本智津夫(42)
検察側証人:黒田 直人(40)=弘前大法医学教室教授
天野 新一(44)
金原哲比己(48)=以上警視庁警察官
(敬称・呼称略)
午前10時、松本被告がいつものように不機嫌そうな表情で8人の刑務官に誘導されて入廷した。紺色のジャンパーにスエットパンツ姿。静かに被告席に座る。10時1分、開廷。
地下鉄サリン事件の犠牲者5人の鑑定書を作成し、昨年9月に検察側主尋問を終えた黒田直人・弘前大法医学教室教授に対する弁護側反対尋問が始まった。
黒田直人証人
弁護人「解剖は6遺体では?」
証人「(1995年)3月22日だったでしょうか、(別に)1体解剖した記憶はある」
小伝馬町駅から運ばれ死亡した76歳の男性のことだった。
弁護人「この方は初めの段階で12人の死亡者の1人に入っていた。サリン中毒による死亡と証明できないということで最初の起訴状では殺人未遂の中に(名前が)載っていた。今回の(被害立証絞り込みの)訴因変更で殺人未遂からも落とされたのでお聞きしているが、サリン中毒でないと判断したのはなぜ?」
証人「冠動脈硬化症という心臓の病気があったので、直接それで亡くなったと思った」
弁護人「先生の判断で殺人から殺人未遂に落としたのか」
証人「だれが判断したか知らないが、私は病死と判断した」
弁護人は、事件翌日の95年3月21日に行われた5遺体の解剖時間が一部重なっていることをただす。
証人「珍しいことはない。遺体を2体並べ、助手が交互に解剖して私が所見を拾う。5体の解剖は、どうやっても12時間以上差が出る。所見に影響が出ると思い、できるだけ短い時間でやった方がいいと思った」
弁護人「サリンに関する知識は?」
証人「松本で事件があったので、文献を調べて読んだ記憶がある」
弁護人「先入観が入って、そういう方にしか見ないということはないか」
証人「むしろ他の見落としがないか、気をつけているので、先入観はなかったと思う」
弁護人「平成7(95)年6月1日に意見書を提出していますね。鑑定書の前に意見書を提出することは多いのか」
証人「いえ、多くないと思う。一つは警察から『意見書でもいいから早く提出してくれ』と言われた。もう一つはこの仕事ばかりしているわけではないので、物理的な理由もあった」
弁護人「その後、なぜ鑑定書提出まで1年もかかるのか」
証人「物理的要因で忙しさもあり、遅くなりました。結果的に結論は意見書段階と変わらない」
弁護人「縮瞳(しゅくどう)は遺体で分かるのか」
証人「分かる場合もある」
弁護人「胃の内容物の記載があるが」
証人「検査したが、結果はここに書いていない」
弁護人「サリンかどうか分からない段階で、農薬を飲んだのかもしれないのに」
証人「もちろん胃の内容物は取ってあります。しかし、検査の順番はまず血液。それを待っていたら、コリンエステラーゼ値の活性があったと結果が来た」
弁護人「血液検査の結果が出たからそこまでする必要はないと」
証人「少なくとも致死量の農薬を飲むと、ものすごいにおいがする。しかし、遺体にはなかった。特に検査をする必要はないと判断したと思う」
弁護人「しかし、別の鑑定書にはあるんですよ。不十分ではないのか」
黒田教授はやや早口で答えた。「積極的には書かなかったということです」
被告席の松本被告がつぶやき始める。「オウム真理教が……」。弁護人がたしなめる。
弁護人は、黒田教授が解剖したそれぞれの犠牲者について、死因を詳細に尋ねていく。
弁護人「サリンを吸うと縮瞳は必ず起きるのか」
証人「文献には高頻度で起きるとある」
弁護人「例外的に起きないことは」
黒田教授はしばらく考え込み、答えた。「筋肉がいかれているとか、眼球がないとかなら……」
松本被告は背筋を伸ばし、ぶつぶつと話し続ける。
弁護人「縮瞳は、鑑定書の中でそれほど重視していなかった?」
証人「はい」
弁護人「重視しなくていいのか」
証人「サリン・イコール・縮瞳と言われ、臨床医学上は逃してならない所見だが、遺体の場合は生前と比べて瞳孔は変化するからそれほど考えなくていい」
弁護人は「午後、もう少し」と要望。
午後0時2分、休廷。
1時15分、再開。
弁護人は、呼吸停止と心臓の停止のどちらが先なのかを細かく尋ねる。
弁護人「呼吸停止が先で心停止ではなく、逆もあるのでは?」
証人「逆もないとはいえないが、大きい問題とは考えていない」
弁護人「障害を受けた後に延命措置が取られた場合、体のうっ血は残るのか」
証人「普通の人が1週間程度で消えるうっ血も、そういう場合はある程度残存することはありうる」
弁護人の質問は、専門的な部分へと踏み込んでいく。黒田教授は困惑した様子で、「そこまでは覚えてない」「大学で習って以来なので……」と繰り返した。
弁護人が交代。
弁護人「サリンを注入して直接心臓に影響を与える場合はあるのか」
証人「心筋の収縮力と心拍数がゆっくりになる」
検察官が補充尋問をして、2時5分、黒田教授への尋問が終わった。
天野新一証人
続いて、松本サリン事件の捜査にあたった警視庁捜査1課の天野新一巡査部長が証言に立った。
検察官「捜査1課はいつから勤務しているか」
証人「平成4(92)年から現在までです」
検察官「平成6(94)年6月27日のいわゆる松本サリン事件などの捜査にかかわりましたね」
証人「はい」
検察官「どのように」
証人「平成7(95)年6月14日に山梨県上九一色村の第6サティアンから加熱容器3基を差し押さえました。麻原彰晃こと松本智津夫ほかの殺人、及び殺人未遂容疑です。いわゆる地下鉄サリン事件です」
検察官「加熱容器はどこから見つかったか」
証人「第6サティアンのわきの作業所、治療棟とプールとの間」
松本被告はうつむいたまま両手をひざの上に置いて、つぶやき続けている。
検察官「治療棟の北側にプールがあって、その間に倉庫、ポンプと工作室があるのですね」
証人「はい」
検察官「容器はどんなものか」
証人「一斗缶と同じ形で下にコードがついていた。底にヒーターが差し込まれていたので、ヒーターのコードと理解した」
検察官「その後、松本サリン事件の容疑で再度差し押さえた理由は」
証人「供述から、松本の事件で使われたことが判明したからです」
続いて弁護人の反対尋問。「捜索場所には教団の宿舎8棟とあるが、見取り図と食い違ってないか」
証人は調書をにらみ、首をかしげた。裁判長が「コピーだと色が分からないから分からないんじゃないの」と口を挟んだ。
弁護人「加熱容器をだれが発見したのか」
証人「私です」
弁護人「地下鉄サリン事件の容疑事実で、傘で突き刺して散布したことは分かっていたのか」
証人「はい」
弁護人「すると、容疑事実と加熱容器がどういう関連があるのか」
証人「藤永(孝三被告)が松本サリン事件に使われたと供述したので、同じサリンを使った共通点があり、中間生成物や原料が使われた可能性がある。その容器に使われたと考えた」
松本被告は口をもぐもぐさせ、退屈そうにあくびをし、背中をかいている。
弁護人「捜索の時点で加熱容器が松本サリン事件で使われたことを捜査員は知っていたか」
証人「私は知らなかった。(捜査1課の)管理官から聞いたが、それが松本サリン事件か地下鉄サリン事件かはっきりした判断はできなかった」
弁護人「管理官は、地下鉄サリン事件の関係では差し押さえができないのを知っていたのではないか」
証人「私には分からない」
弁護人「地下鉄事件での散布方法をどう理解しているのか」
証人「加熱容器はサリンの生成、保管、運搬に使われたと認識している」
弁護人「加熱容器は生成に使うものでないでしょ」
証人「生成は……」
弁護人「試験に使ったと考えたのか」
証人「実験には……」
弁護人「コードを差し込んであるのは知っているでしょ。そんな容器を保管に使ったと思うの?」
証人「はい」
3時3分、休廷。
3時23分、再開
弁護人「地下鉄事件にはこの容器が関係ないことが分かったとおっしゃったが、加熱容器を留置する必要がなくなれば、還付すべきではなかったのか」
証人「関係ないわけではない。松本、地下鉄両事件とも、サリンを使ったということで、中間生成物や原料に同じ物を使っているのではないかと思った」
弁護人「地下鉄事件の令状で、松本事件のものを押収するのはおかしいと、言っていいのではないか」
証人「藤永の供述はあったが、同じサリンを使った事件ですから」
弁護人が代わる。
弁護人「松本事件の後の平成6(94)年11月に捨てたものは、翌年3月の地下鉄サリン事件のサリンの生成や保管、運搬とは関係がないではないか」
証人「……」
弁護人は「加熱容器が地下鉄サリン事件に関連あるというのは無理がある」と言って、尋問を終える。
検察官が立ち上がる。「弁護人と証人は議論がかみあっていない。当時は地下鉄サリン事件の裏付け証拠を収集するために第6サティアンを捜索したのではないか」
証人「はい。松本事件も地下鉄事件も、サリンが使われた共通性があります。相互の事件に関連したサリンの中間生成物や原料がある可能性を考えていた」
検察官「地下鉄サリン事件と、容器の残留物を照らし合わせれば、共通性も出てくる?」
証人「はい」
検察官が「本件は……」と切り出した途端、弁護人が「あなたが言わせたいことを証人に言わせているだけではないか」と異議を唱える。裁判長が「もうその話は出たんだからいいでしょう」と引き取る。
4時15分、尋問終了。
金原哲比己証人
警視庁万世橋署員の金原哲比己(てつひこ)氏が入廷する。
検察官「かつて警視庁鑑識課にいたことは?」
証人「はい」
検察官「いつですか」
証人「昭和63(88)年2月から平成8(96)年5月までです」
検察官「松本サリン事件の捜査に関与は?」
証人「山梨県上九一色村の第6サティアン内で差し押さえられたサリン加熱容器3個の付着物を採取しました」
検察官「容器は?」
証人「30センチ四方ぐらい、高さは一斗缶ぐらいで、上のふたに穴があり、下にも小さな穴があり、カートリッジヒーターの多数のコードが出ていました」
検察官「内側は肉眼で分かる付着物があったか」
証人「粉状のものがついていた」
4時47分、尋問が終了した。金原氏が退廷後、弁護側が「坂本堤弁護士のTBSで録画したビデオが検察庁にあるということだが、開示してもらいたい。事件の動機の重要な要素になっている」と求めた。
この日尋問予定だった青山吉伸被告が入廷した。
裁判長が「朝から来てもらったが、審理が長引いたため尋問ができませんでした。あしからず」と伝えた。
4時52分、閉廷。