坂本堤さんとは、同じ昭和59年に司法試験に合格し、司法研修の2年間は、クラスも実務修習もずっと一緒でした。
研修所入所直後から意気投合し、一緒に飲み、歌い、語り合い、そして多少は勉強もしました(坂本さんはかなり勉強してましたが)。
あまり知られていませんが、坂本さんは研修所のはじめの頃、裁判官を志望していました。
司法研修所の卒業試験(通称「2回試験」)後の休暇を利用して、クラスの仲間10名ほどでヨーロッパ旅行に行きました。都子さんも一緒でした。アエロフロート(ソ連)を使った(往復15万円の格安航空券!)貧乏旅行でしたが、とても楽しい思い出です。
坂本夫妻と私ども夫婦の4人でパリの街を歩きました。絵を見るのが好きな都子さん。ルーブルに入っても歩くペースが違い、坂本さんと私はベンチで休んでばかりでした。
研修終了後、弁護士登録は横浜と東京に別れましたが、時々仲間で集まっては、飲んだり勉強会をしたりしていました。2人で横浜スタジアムのナイターを見に行ったこともありました。夏休みに、坂本夫妻と私と妻とで霧が峰をドライブしたこともありました。
事件を知ったのは、弁護士3年目の1989年11月10日頃。
「坂本さんが家族ごとオウム真理教に連れ去られたらしい・・・」。
そう友人から聞いたときの鳥肌が立つような感覚を今でもはっきりと覚えています。
警察がオウムに踏み込めばすぐに出てくるだろう。そう信じて疑いませんでした。しかし、警察は動かず、手がかりのないまま公開捜査に。モヤモヤした例えようのない不安な気持ちが、次第に大きくなっていくのを感じました。
「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」の結成には、当然のように飛び込んでいきました。
しかし年を越し、1年・2年と歳月は流れていきました。
マスコミが事件のことを報じなくなる中で、私たちは「坂本さんたちは待っている。風化させてはならない。」との一念から、世論喚起のイベントづくりに東奔西走の日々でした。そこで常に使っていたフレーズが「生きてかえれ!」です。
5年10ヶ月。「救う会」への参加者も減り、これ以上なにをやればいいのか、やはりだめなのか、このままライフワークになるのか・・・・などと思い始めた頃、オウムがブレイクしました。
1995年9月6日、実行犯の供述通り、3人が無惨な遺体で発見されました。涙腺は固かったはずなのに、涙が止まりませんでした。私たちにとって3人の命日は、1989年11月4日ではなく、1995年9月6日です。
私たちの活動にどれだけの意味があったのか、少しでも奴らを追いつめる力になったのかどうかはよくわかりません。しかし、残念だったね、で終わらせるつもりは毛頭ありません。徹底的な真相解明を目指し、刑事裁判は何年かかろうとも最後まで追い続けます。破産手続きや民事裁判もその一環です。そして、その延長線上にこのホームページもあります。
1996年11月1日、私は「ホームページ」という名の1本の苗木を植えました。
以来5ヶ月、毎日水をやり、肥料を与え、一生懸命育てています。大きな森の中の小さな樹なので目立たないかも知れません。私の個人的な坂本さんへの想い、そしてこのやり場のない無念さと怒りを、将来にわたってはっきりと形に残していけるものとして始めたこのホームページですが、多くのみなさんに支えられ、少しずつ根を張り、幹も徐々に太くなってきました。
未だ罪を認めない松本智津夫被告。それを信じ続ける多くの信者たち。近い将来、刑期を終え教団に復帰した幹部たちが、松本被告を殉教者のように崇拝し、第二オウムを再興しないとも限りません。それに対抗するためにも、オウムがこんなに酷いことをしてきたのだということを常に世の中に訴えていかなければなりません。熱しやすく冷めやすいマスコミは当てになりません。良識ある人に正しく判断してもらうための情報を、特に埋もれがちな重要情報を、常時提供していく場が必要だと思います。
仕事の合間に作っているのでどうしても限界はありますが、今後とも充実したデータベースになるよう、奮励努力いたします。
これからもどうかよろしくお願いいたします。