平成七年(ワ)第四五七四号 損害賠償請求事件
準備書面(三)
原 告 坂本良雄外三名
被 告 オウム真理教外五名
一九九六年一二月六日
右原告ら訴訟代理人
弁護士 横山國男
同 杉本 朗
同 武井共夫
同 芳野直子
同 伊藤幹郎
同 岡田 尚
同 飯田伸一
同 小島周一
同 三木恵美子
同 山崎健一
同 鈴木義仁
同 根岸義道
同 影山秀人
同 高橋 宏
同 星山輝男
同 森田 明
同 岡部玲子
同 中村裕二
同 伊藤芳朗
同 滝沢秀俊
横浜地方裁判所
第四民事部合議係 御 中
原告らは、本準備書面において、本件被害者である坂本堤弁護士一家の生前の姿を明らかにする。
第一 坂本 堤
一 生い立ち
1 坂本堤は、一九五六(昭和三一)年四月八日、父坂本良雄(一九 三一(昭和六)年二月一二日生)と母坂本さちよ(一九三一(昭和六)年一一月一三日生)の長男として、横須賀市内で出生し、同市内で育った。
堤は、同市内の市立公郷小学校を卒業し、同じく市内の市立池上中学校に進学して二年のときに設立された市立公郷中学校に転校・卒業し、神奈川県立横須賀高校を卒業後、一浪して東京大学教養学部文科一類に入学し、法学部に進学した。
2 堤の家は、経済的には決して豊かな方とはいえなかったが、明る く性格のよい子に育ってほしいとの両親の願いを受け、自然環境に恵まれた横須賀の地で、自由にすくすくと育った。
バイオリンの好きだった父良雄の影響で、堤は四歳から中学二年までバイオリンを熱心に習い、絵画教室にも通って全国コンクールで入賞したこともある。自宅で書道教室を開いている母さちよの影響で、書道も三段であった。
3 小・中学校を通じて成績がよく、地元の進学校と言われる横須賀 高校にも優秀な成績で進学した堤は、ある日中学時代の友人に会い、友人から、夜間高校に通わせてくれる約束で就職した会社なのに学校の始まる夕方になると仕事を言いつけられ、高校に通学できなくなったと聞かされた。友人の話を聞いた堤は、初めて世の中の力関係を知り、それに対して何もできない自分を情けなく思って、自分に力を付けたいと思ったが、当時アメリカでラルフ・ネーダーがゼネラルモーターズに欠陥車訴訟で勝ったとの記事を読み、法律を武器にする弁護士というものを知り、将来は弁護士を目指そうと思った。尚、堤のアパートの書斎には、今もラルフ・ネーダーの人物紹介記事が貼られている。
4 東京大学入学後の堤は、友人と読書会を開いて社会問題の本を読 み、労働事件のルポルタージュを読んで、仲間と事件の当事者や担当弁護士に話を聞きに行ったりもした。 大学三年のときには、障害者の大会のボランティアに参加し、そこで妻都子と知り合い、後にライフワークにしようとする障害者の問題を学ぶようになった。
5 堤は、一九八二(昭和五七)年に大学を卒業後、一九八四(昭和 五九)年に司法試験に合格し、翌一九八五(昭和六〇)年第三九期司法修習生になった。
堤は、修習生時代に少年事件研究会や医療問題研究会の中心メンバーになるなど自主的修習に熱心に取り組み、日常生活でも修習生仲間のリーダー格であった。
また、実務修習の弁護修習で配属された法律事務所で担当していた、脳性麻痺の後遺症で障害を持つ青年がひったくり容疑で起訴されたえん罪事件に熱心に取り組み、無罪になるまで彼を励まし続けた。
二 法律家坂本 堤
1 堤は、一九八七(昭和六二)年に横浜弁護士会に弁護士登録し、 横浜法律事務所に入所し、法律実務家となった。
堤が弁護士になった年は、横浜法律事務所で一番先輩だった横山國男弁護士が横浜弁護士会の会長に就任した年であり、堤は、同弁護士の担当事件のほとんどを引き継ぎ、新人弁護士として非常に忙しいスタートを切ったが、ときには事務所の先輩のアドバイスを受けながらそれらの事件をこなし、弁護士としての力を付けていった。
同時に弁護士を目指した原点である社会的「弱者」のための事件にも積極的に取り組み、自らライフワークとしようと考えていた障 害者問題や少年問題の他にも、医療問題・霊感商法や住民運動の事件、労働事件などを多く担当した。
2 労働事件
横浜法律事務所には、会社が倒産したり、解雇されたりして職を失い、賃金をもらえなくなって困っているような人たちが多く相談に来ていた。また、労働組合活動を理由に不利益な取り扱いを受けた労働組合や組合員の相談も多かった。
堤は、それらの人の雇用や労働債権の確保・権利の擁護のために文字通り寝食を忘れて働いた。
堤が弁護士になった直後に担当したサンパックという会社の倒産時件では、会社や会社財産を守るために労働者とともに会社の事務所に泊まり込み、床に段ボールを敷いて寝たこともあった。この事件は、堤の大活躍もあって、親会社に責任を取らせる形で無事解決することができた。
その後一九八九(平成元)年に担当した大同運輸という会社の倒産時件でも、会社財産を狙って暴力団筋までが暗躍し、やはり会社や会社財産を守るためにパジャマと洗面用具持参で泊まり込んだこともあった。この事件は、堤がいなくなった後、事務所の先輩が担当して解決したが、解決時に会社の敷地を取得した相手方の不動産会社の社長から「坂本さんの事件のために使って下さい。」と一〇万円のカンパが寄せられるなど、堤の活躍は労働者にも相手方にも印象に残るものであった。
又、国鉄が分割・民営化される直前の昭和六一年一二月に国鉄横浜貨車区人材活用センターで上司に傷害を負わせたとして国鉄労働組合横浜支部の五人の組合員が逮捕・勾留され、うち三人が公務執行妨害罪で起訴された事件では、弁護人の一人として、検察官が証拠として提出したマイクロカセットの録音テープの分析を中心となって担当し、そのテープの裏面に事件をでっち上げようとした助役達の謀議が録音されていたことを突き止めた。そして、坂本一家がいなくなった直後の一九八九(平成元)年一一月一七日に、他の弁護人により、右録音テープの検証請求がされ、堤らの録音テープの分析が決め手となって、平成五年五月、横浜地方裁判所は、「暴行事件は管理者が策謀し、国鉄当局がつくり上げたもの」と認定して全員無罪の判決を言い渡した。
3 障害者の問題
学生時代に障害者のボランティアに参加して以来、堤は、障害者の問題をライフワークに据えようと決意していた。
堤は、養護学校高等部の自閉症の男子生徒が、水泳の授業中足にヘルパーという浮力を付ける補助具を着けられたために頭が沈んでおぼれ死んでしまったという事件を担当した。
又、堤と一家がいなくなった直後の一九八九(平成元)年一一月二五日に「子供の人権と管理選別教育」をテーマに行われた関東弁護士会連合会の人権研究大会では、障害児教育に関する分科会がもたれた。堤は、この分科会で基調報告を行う予定だった。堤は、、この事件のため、予定されていた基調報告はできなかったが、既に報告書は堤らによって完成しており、堤は、そのための、学習会を持ち、学校を見学し、各国・各県の資料の収集・分析・研究をして報告書をまとめ上げるなどの分科会の実質的な準備の中心となった。
更に、翌一九九〇(平成二)年に横浜で開催された「障害者と人権シンポジウムU〜障害者が弁護士や裁判所を身近に利用するために」が障害者の人権ネットワーク等の主催で開かれたが、堤は、この準備の中心でもあった。
4 少年問題(子どもの人権)
堤は、このように障害者問題の中でも特に子どもの問題を多く取り上げたが、少年問題(子どもの人権)は、堤にとって、もう一つの重要なライフワークであった。
堤は、弁護士一年目から横浜弁護士会の少年問題委員会に所属し、多くの少年事件を担当した。
一九八九(平成元)年八月、堤は、両親を鉈で殺害しようとした少年の殺人未遂事件を担当した。両親の依頼で引き受けた堤は、その夏をつぶしてこの事件に取り組み、頑なだった少年の心を開かせた。そして、堤がいなくなった後、少年は母親とともに担当した他の弁護士のところに挨拶に来ている。
又、横浜弁護士会が昭和六三年一月一九日から開設した「子どもの人権相談窓口」の開設準備と運営にも委員の一人として尽力し、同窓口は、毎週火曜の午後面接・電話相談を行い、最初の約一年間に面接相談四七件、電話相談五七件という実績を上げた。前項の養護学校生徒水死事件もこの窓口に寄せられた相談の中から取り上げられ、堤がいなくなった後に解決した事件であった。
そして、堤が乗ったオウム真理教の被害相談も、入信した子どもの問題からであった。
5 霊感商法
堤は、先輩に勧められ、霊感商法の被害救済の事件にも弁護団の一員として取り組んだ。
堤が弁護士になった当時被害救済に当たっていた弁護士を中傷するビラがまかれ、それにどう法的に対抗するかの検討を堤は担当した。 先輩と一緒に担当した被害者(脱会者)の事件で、統一協会の道場に置いてきてしまった脱会者の私物を堤が本人らと一緒に取りに行ってきたこともあった。
この霊感商法に取り組んだことが後に堤がオウム真理教の被害相談に乗る一つのきっかけとなったのである。
6 オウム真理教
平成元年五月、堤は、オウム真理教に入信してしまった子どもの安否を相談する親からの相談を受けた。
難しい問題であったが、子どもの人権や霊感商法に取り組んでおり、問題を感じた堤は、困り切った親の相談に親身に乗った。
そして、これをきっかけにして、未成年者を含む子どもが出家すると称して家を出るが、出家すると、全財産をお布施し、家族との縁を切るため、親が出家した子どもの安否を気にし、所在を訪ねても、会うことが許されないばかりか、オウム真理教に尋ねても安否・所在すら教えてもらえず、安否が心配だという相談が、堤の下に多数寄せられるようになった。
こうして堤は、オウム真理教の被害救済の活動に熱心に取り組むようになったのである。
三 「にんげん」坂本堤
1 家庭での坂本堤
堤は、大学三年のときに障害者の大会のボランティアで知り合った当時大学一年の都子と交際を始め、二人は、昭和五九年三月に結婚した。
結婚当時司法試験受験生だった堤を、都子は、法律事務所事務員をしながら支え、その年、堤は、合格した。
二人は、円満な夫婦生活を送っていたが、なかなか子宝に恵まれず、堤は、それを気にする都子を気遣っていた。昭和六三年八月二五日、都子は、待望の長男龍彦を出産したが、妊娠中も都子がスーパーで倒れて入院するなどの危機が何度かあり、堤は、前にもまして都子を気遣いながら漕ぎ着けた出産であった。
龍彦の誕生後、堤は、忙しい弁護士活動をしながらますます家族との時間を大切にし、夜泣きしたときは遅く帰宅した堤が相手をするなど子育てにも積極的に参加し、又、自分が外で食事して帰宅するときに都子に寿司をおみやげに買って帰るなど妻都子への気遣いも忘れなかった。
堤の龍彦に対する可愛がりようも、周囲を微笑ましくさせるほどであり、堤は、いつも龍彦の写真を持ち歩いて、周囲の人に自慢するかのように見せていた。
2 事務局や弁護士仲間らとの付き合い
堤は、横浜法律事務所の同僚を始め、事件を一緒にする同じ弁護団のメンバーや同期生など弁護士仲間との付き合いも大切にした。 飲食をしながら議論をしたりするばかりでなく、ときには冗談を飛ばしたり、カラオケで豊かな声量の自慢の歌を聴かせて、周囲の仲間を楽しませてくれたりした。そんな堤との付き合いを楽しみにしていた仲間は少なくない。
堤は、事務所の事務局にもいろいろと気を遣い、又、事務所内をはじめいろいろなところで、いつも明るく冗談を言って、事務局員や同僚弁護士など周囲の人を笑わせ、明るくしていた。
さらに、堤は、小さい頃に習った絵の技量を活かして似顔絵を書くことも得意であり、暇があるとすぐに描いて相手に見せたりしていた。
3 憲法劇
横浜では、毎年憲法記念日の頃に、憲法に関する事件などを題材にミュージカル仕立てで演じる「憲法劇」が、上演されている。
出演者は、サラリーマン・学生・主婦など素人ばかりであったが、弁護士も何人か出演し、堤は、弁護士になった年から毎年出演した。
三回目のそして最後の出演となった平成元年には、堤は、抜擢されてフィナーレでソロで熱唱する大役を演じ、観客を感動させた。このときの様子は、ビデオテープに残されており、今でも見る人を感動させずには置かない。
四 まとめ
堤は、弱い者の見方になろうと考え、弁護士となった。僅か二年半ではあったが、堤の弁護士活動は多くの者の印象に残るものであった。
もし堤がそのまま弁護士活動を続けることができたならば、この七年間にいったいどれほどの仕事をし、どれほどの成果を上げることができただろうか。
そのことを思うとき、堤を知る者は、誰もが無念でならない。そして、誰よりも無念に思ったのは、堤本人だったであろう。
被告らの本件犯行は、これから弁護士として花開こうとしていた堤の全てを奪い去り、人間性豊かで多くの人を愛し、多くの人にに愛されていた堤の命を奪って、多くの人を悲しみに陥れた。
堤は、弁護士としての使命を全うしようとし、倒れた。
二度とこのような事件を起こしてはならないと多くの人が誓った。
今はただ、妻子とともに安らかに眠れというほかない。
第二 都子
一 都子の誕生・幼年時代
都子は、一九六〇(昭和三五)年二月二四日に、父大山友之・母やいの長女として、茨城県那珂郡大宮町で出生した。一九六五(昭和四〇)年三月二七日には弟裕が生まれ、二人姉弟で育った。
都子は、幼い頃から、読書を好み、人形遊びが好きな少女であったが、他人を思いやる感受性にすぐれ、祖母と道路を通行しているときも、祖母をかばって自分が車道側を歩くような子どもだった。テレビで「龍の子太郎」を見て、太郎がせっかく会いに行ったお母さんが蛇なんだよ。太郎がかわいそうだよ」と太郎の為に泣いたこともあり、他人の気持ちを自分のことのように尊重することができる子どもだった。
小学校時代にも、いじめに遭っている子どもがいじめられないように、どうしたらよいのかを考え、一緒に遊び、友達をかばっていじめっ子と喧嘩したこともあった。
小学校時代の都子は、責任感が強く、人の面倒見がよく、誰にでも公平に接し、優しさと芯の強さを持っていた。その側面を評価されて、六年生の時は児童会長に推薦され、それまで引っ込み思案の傾向があったにもかかわらず、持ち前の責任感で職責を立派に果たした。
二 都子の学生時代ーボランティア活動との出会いー
1 中学時代ーパラリンピックへの参加ー
都子は、一九七二(昭和四七)年四月に茨城県勝田市立第一中学校に入学し、吹奏楽部に入部した。都子はフルートの音色を愛しフルートを担当した。そして、多くのパートが集まって一つの音楽を奏でる様子に感動しながら、努力家の都子は懸命になって練習を行った。
中学校三年生の時(一九七四年一〇月ないし一一月)、茨城国体およびパラリンピックが地元茨城で開催され、都子は吹奏楽団の一員としてこれに参加した。
そして、このパラリンピックへの参加が、都子とボランティアとの出会いであった。都子はパラリンピックで、肢体不自由者と視力障害者が協力しあって競技を競う姿に信頼と協力の美を発見して感動し、涙を流しながらこの感動を両親に語ったこともあった。
都子は、国体・パラリンピックへの参加のために、中学校三年生の一一月まで吹奏楽の猛練習のため、勉強をする時間すらなかなかとれなかった。担任教員から「いつまでやっているんだ。高校に入れないぞ」と怒られたこともあった。しかし、都子は、一一月までは部活の猛練習をやり遂げただけでなく、その努力家の面は、高校受験にも発揮され、パラリンピックが終了した後のわずか数カ月の短期間に集中的に猛勉強をした。その結果、希望高校に合格することができた。このように、都子は、自分が行ってきた活動のために勉学をおろそかにしたりあきらめたりすることなく、目標に向かって精いっぱいの努力を忘れなかった。
2 高校時代ーボランティア活動への参加
都子は、一九七五(昭和五〇)年四月に、茨城県立水戸第二高等学校に入学した。
都子は、入学と同時に、中学校三年時のパラリンピックの感動を生かし、JRC(青少年赤十字)活動に参加した。さらに、高校生有志によるボランティアサークル勝田ファミリーの設立呼びかけ人となり、ボランティアサークルで積極的に参加し、活動をした。
都子が勝田ファミリーの活動として熱心に取り組んだものとして、「福祉マップ」の作成があった。「福祉マップ」とは、市内の視力障害者・身体障害者の生活範囲、繁華街、市の中心部の道路交通情報並びに公共施設の構造を細部にわたり調査し、障害者のために施策が必要な場所もしくは改善が必要な場所を記入した地図のことである。都子は、障害者の為に市内の状況を調査して歩くなど障害者の暮らしやすい勝田市をつくるために、努力した。
この「福祉マップ」は、プライバシーの関係で公にすることができなかったが、このころから、都子は積極的に障害者と共に生きる姿勢を貫いてきた。
JRC・勝田ファミリーの他にも、都子は県社会福祉協議会・勝田市社会福祉協議会等のボランティア活動にも積極的に参加してきた。
3 大学時代
都子は、一九七八(昭和五三)年四月に立教大学社会学部に入学した。大学進学にあたっても、これまでのボランティア活動の中から「障害者が自立できる社会造り」の必要性を感じ、立教大学の社会学部を専攻したのであった。
また、大学進学後も、勝田ファミリーOB会の主要メンバーとして機関誌の発行やOB会の開催などの役割を果たした。 都子は、大学入学後は、豊島区のボランティア団体に登録し、車椅子の介助を主としたボランティア活動を行った。
特に、施設でカレー作りのボランティアをする場合にも、ただカレーを作るだけではなく、ジャガイモを植えて収穫してカレーを作るまでを施設の人たちを共に体験するというような活動をしていたのである。
大学二年次には、車椅子市民集会が行われ、ボランティアとして集会事務局に入り、企画から集会まで積極的に参加をした。
都子は、ボランティア活動だけに終始していたわけではない。サークル活動においても、マンドリンクラブ・北海道大夕張ワークキャンプに参加した。大夕張ではかつて炭坑で栄えたが現在は廃坑になって寂れてしまっている様子、その中で明るく町おこしに取り組んでいる人々と交流した。この状況に、都子らキャンプの参加者は、帰京後地域の人々のために何かできることはないかと考え、「メロン新聞」という壁新聞をつくり大夕張の小学校に送る活動を行った。その集まりが卒業後も引き続き発展して「結」という勉強会をつくった。勉強会では、えん罪のこと、アジアのこと、核のことなどの本を読み、社会に現実に起きている事件や出来事や職場で直面している問題について語り合った。都子は、「結」の機関誌の編集にも中心的に携わっていた。
また、都子は、学生の本分である勉学にも、「障害者が自立できる社会造り」をめざして社会学科に入学したとおり、非常に積極的に取り組んだ。努力家の都子は、小鳥の鳴き始める朝方まで勉強することも少なからずあった。都子はこの時の状況を母やいに「おかげさまで小鳥とお友達になりました」と手紙でつづっている。都子は、努力してもその状況を悲壮に受けとめず、常に良いこととしてプラスに考えていた。
その成果もあって、学内での成績も非常に優秀であり、二年生の時、立教大学の奨学生に推薦され、奨学金の支給を受けた。
4 社会人となって
都子は、一九八二(昭和五七)年三月に大学を卒業後、法律事務所に事務員として就職した。
一九八四(昭和五九)年四月からは、クレジット・サラ金問題に積極的に取り組んでいる宇都宮法律事務所に就職した。都子は、悪質な業者の取立に追われ怯えている相談者を暖かく励まし、心の支えとなっていた。多重債務者が幼い子どもを伴って法律事務所に相談に来たときも、子どもの面倒を優しく見ていた。他方、クレジット・サラ金業者からの悪質な電話には毅然として対応するような強さも合わせ持っていた。都子は、いわゆるサラ金被害者及び残された家族の状況について、深く憂慮し、心を痛め、個々の事件のみならずクレジット・サラ金被害の予防と根絶をめざす全国的な活動にも積極的に参加していた。
さらに、宇都宮事務所の宇都宮健児弁護士が豊田商事破産事件の代理人になったときは、大阪の破産管財人事務所との連絡や資料の整理などを都子が担当し、事務局の中心となって精力的に働いた。
さらに、社会人となった後も、仕事の傍らボランティア活動は精力的に続けた。都子は、当時居住していた松戸にある障害児施設の子ども達と餅つきをしたり、中国残留孤児に日本語を教えるボランティア活動を行ったり、母子施設の児童の遊び相手をするなどの活動を怠らなかった。
三 坂本堤との出会い・結婚生活
1 堤との出会い
都子が大学二年の時の、全国車椅子市民集会の集会準備の場で、都子は、会場ボランティアをしていた坂本堤と出会った。都子と堤は、休憩時間にボランティアについて語り合い、双方の感性が非常に近い相手であることを知り、お互いに好感を持ったのであった。このことが契機となって、都子と堤は交際するようになった。
ボランティア活動の他に、都子と堤は、映画や音楽などでも趣味を共通にしていた。特に日本フィルのサマーキャンプに参加するなど日本フィルの人との親交も厚かった。
2 結婚
一九八四(昭和五九)年三月四日、都子と堤は結婚した。堤は当時司法試験浪人中であった。家計は、都子の法律事務所での収入と堤のアルバイト程度であり、経済的には決して楽ではなかった。しかし、都子は「結婚すると言うことは一人前になるということで、経済的にも自立することだから援助はいらない」と親の援助も断った。結婚式すら自分たちで段取りしてとりおこない、親に心配や迷惑をかけることはなかった。
結婚後も、都子はこれまで続けてきたボランティア活動を続けていた。
一九八四(昭和五九)年一〇月に、堤が司法試験に合格し、一九八七(昭和六二)年四月には弁護士となった。
3 龍彦誕生
一九八八(昭和六三)年八月二五日長男龍彦が結婚五年目にして誕生した。それ以前に、都子は流産をしていたこともあり、待望の第一子であった。しかし、龍彦妊娠当初も切迫流産で危険な状況にあったこともあり、都子は、それまで勤めていた法律事務所を退職せざるを得なかった。都子は、仕事を続けることを希望しており、迷った末の選択であった。
待ちに待った龍彦の誕生は、都子・堤夫妻の喜びそのものであった。龍彦の様子・成長ぶりに触れ、都子の幸せいっぱいであった。
他方、法律事務所を退職後も漫然と時間を過ごすことはなかった。龍彦が生まれる前には、都子は、パッチワークに取り組み、一つ一つの複雑な曲線の端切れをつなぎ合わせて綿を入れた丸い敷物をつくっていた。また龍彦誕生後は、ロシアへ行ってみたいという夢を膨らませて、ロシア語の通信講座で勉強をしていた。このように、都子は、自分が何を今すべきであるのか、何ができるのかを考えて常に一所懸命行動する働き者であった。
四 まとめ
都子は友人から「幸せさがしの名人」と呼ばれる人であった。そして、都子は、自分だけでなく他人の立場に立って他人と共に幸せをさがす人であった。 都子は、幸せをただ待っている人ではなかった。一所懸命に自分から様々な人とかかわりながら、社会の皆が幸せになる方法を考える、そういう人であった。そして、その為には、筋を通す強さと不断の努力が必要であることを知っており、それを実現してきた人でもあった。
被告らは自分勝手な論理を振りかざし、都子の命を奪い幸せさがしの人生を踏みにじったのである。
第三 龍彦
一 龍彦の誕生
坂本龍彦は、一九八八(昭和六三)年八月二五日、父坂本堤・母都子の長男として生まれた。
堤・都子が結婚して五年目にようやく授かった待望の子どもであった。都子は、龍彦出産以前には流産をしたこともあり、また、龍彦妊娠中もスーパーで倒れて入院するなどの切迫流産で危険な状態になったこともあった。そのため、都子はそれまでの勤めを退職し、堤も都子の健康を気遣ってようやく生まれた子どもであった。
二 龍彦の成長
そのため、堤・都子の龍彦誕生に際しての喜びは大きかった。また、坂本良雄・さちよ夫妻にとっては、初めての男の子の孫であり、大山友・やい夫妻にとっては初孫だったことから、原告らの喜びもひとしおであった。
龍彦は、両親と祖父母らの愛に包まれてすくすく成長した。大山家が作った衣装を来てお宮参りをし、一歳になったときには坂本家のある横須賀の習慣に従って一升の餅を背負って歩かせた。このように、子どもの誕生を喜び、成長を願う一つ一つの行事を積み重ねて、龍彦は育ったのである。
都子は、何気ない龍彦の成長の一こま一こまに感動し、その喜びを実家の両親に宛てて次のようにつづってる。
「今日は本当に良い日でした。
毎日退屈して騒いでいる龍彦を海に連れていってやろうと思い立ち、朝、お酢を少し入れてご飯を炊き、ちぎった梅干しをまぜて、のりとふりかけのおにぎりをつくり、お茶を水筒に入れて山下公園へ遠足に行きました。
(中略)
だいぶ暑い中を歩き回ったので、龍彦も疲れたらしく、十時半頃ねむってしまいました。
ゆっくりゆっくりベビーカーを押して、またスタジアム横まで戻ってきました。
花の咲き乱れる公園のベンチで、なんと私はそこで本を三〇分も読みました。
家にいるとどうしても家事に気を取られるのですが、外出したときに龍彦が寝てくれると本に集中できます。
今日もバックの中に「ゴッホ 星への旅」という新書を放り込んで本当によかった。
(中略)
第二は、目を覚ました龍ちゃんが、三つあったおにぎりのうち、一つは自分の手で握りつぶしながらも一生懸命口に持って食べ、牛乳もよく飲んでベビーカーじゃいやだ、下におろしてくれと騒ぎ、地面を盛んにはいまわって、昼休みで公園に来ていたサラリーマン・OLの注目を集めたことです。
ベビーカーの車輪をまわしたくて、ひょいと持ち上げ、ベビーカーを横倒しにしてから、心ゆくまで車輪で遊びました。
一二時半になり、ますます暑くなってきたので帰ろうとすると、もっと遊びたいとだいぶ抵抗しました。電車に乗っても、だっこされるのがいやで、床をはいはいしたいと騒ぎ、やっとの思いで帰ってきました。
親子とも汗まみれなのでシャワーを浴びて着替えをして、ホッと一息ついたのですが、抱っこしてちょっと外に出ると、もうコンクリートの上におろしてくれと騒ぎだしました。
根負けしておろしてやると、せっかく洗った足を地面にこすりつけてはいまわり、鉄柵につかまって立つと、うれしくて「うわう」なんて言いながら揺すっています。すぐに近所の子ども達が三人集まってきて、もう一人で歩ける子まで龍ちゃんのまねをしてはいはいしだしました。親以上にパワーがあります。これが良いことの三つめ。
夕方弥生さん(注:堤の妹)と子ども達が買い物の帰りに寄ってくれました。
あんまり時間ないんだけれど、志織ちゃん(注:龍彦のいとこ)がいるので龍彦はとてもうれしかったらしく、泣かれても逃げられてもちょっかいを出していました。龍彦より三カ月早く生まれた志織ちゃんはもう歩くのが上手で、二カ月ほど会っていなかったのでその成長ぶりにはびっくりしました。いとこ達が来て、龍彦がごきげんだったのと、志織ちゃんがすごく成長したこと。これがうれしいことの四つめです。
龍彦もさすがに疲れたろうと、夕食とお風呂を早めにすませ、寝付いたのが八時過ぎです、結構タフな子どもだと思いませんか。
(中略)
あんまりたくさん良いことがあったので長い手紙になってしまいました。
若いころいろんな人と機会に恵まれ、多くの体験をすることができたので、そのおかげで子育ての期間も充実するのだろうと思います。
おとうさんとおかあさんにはとても感謝しています
三 まとめ
龍彦は、両親や祖父母の愛を一身に受けて、都子が「良かったこと、うれしかったこと」と感動して手紙につづったような日々の成長を続けて大きくなるはずだった。
一九九五(平成七)年四月、原告坂本さちよは、龍彦の為にランドセルを用意して、孫の代わりに小学校の入学式に参加した。しかし、その年九月一〇日に龍彦は遺体で発見された。龍彦の無限の可能性はわずか一年二カ月で、被告らにより、無惨にも摘み取られてしまったのである。
以上