第4期(92年9月〜94年2月)
1.はじめに
この時期は、事件後丸3年経過を目前にした時期から、丸4年を経過し、5年目の運動に突入してしまった時期まである。
この時期の運動は、中央事務局のの疲弊(この間の事務局会議の平均参加人数は6・78人)と反比例するように、各地で、特に弁護士会や国民救援会を中心にした創意ある活動が取り組まれるようになり、また、日弁連の独自の活動も、かつてない勢いで取り組まれた。
運動全体としては、3年を経過しても、なお、大きく全国に広がり続けていたといえよう。
2.警察の言動
まず、丸3年を目前にした92年秋の警察の言動は、それまでの2年間と大きく変化していたことが注目される。10月28日の記者会見で知念刑事部長は、「捜査の方向性には自信を持っている」「捜査本部の旺盛な士気は事件が上がるときの雰囲気がある」と延べ、かなりの自信をほのめかした。3年も経過して、通常であれば消極的あるいはいいわけ的発言になりそうなものを、この自信発言は県警が事件解決に向けて、何らかの感触をつかんでいることを示唆するものと当時受けとられた。しかも、県警は3人の生存を前提にして捜査を継続しているとわざわざ私たちに伝えるなど、生存救出への強い期待を抱かせる状況であった。
今にして思えば、あのときの警察の自信ありげな発言はいったい何だったのだろうか。
3.第6回全国代表者会議と請願・陳情運動
92年9月12日、東京において、第6回全国代表者会議が開かれ、「救う会」は、茨城や町田の動きを受けて、全国的に地方議会に向けた請願・陳情の運動を展開するとの活動方針を確認した。
(1) そこで、まず、地元神奈川県では、県議会及び横浜・川崎・横須賀・藤沢の4市に向けて請願署名運動を展開し、約2カ月の短期間に県議会向け署名が20万人分集まるなど、大きな盛り上がりをみせた。その結果、同年12月には1県4市全ての議会で意見書が採択されるに至った。なお、県議会においては、意見書は採択されたものの、請願そのものは継続審議とされ、意見書の内容から民主主義の観点が落ちるなど、若干の問題点も残した。つめの甘さを反省するとともに、山梨県議会がほぼ同旨の意見書を採択するなど、地方への影響も若干出た。
(2) このほか、年内には、静岡県内(静岡市など9市町)、山梨県内(県と甲府など5市町村)、及び大阪の堺市などで陳情が採択された。 
(3) その後、93年に入り、請願・陳情の運動は、全国的規模の広がりを見せた。93年8月末の段階で、意見採択は17都道府県254自治体であったが、さらにその後の半年間に各地の取り組みが強化され、94年3月25日段階では、24都道府県536自治体と、ほぼ倍増の成果を得た。
このうち、東京都・神奈川県・新潟県では、94年の3月議会で100パーセント採択を達成した。また、山形県・京都府でもその後100パーセント採択を達成し、さらに、茨城県・山梨県などもほぼ100パーセントに到達した。なかでも、山梨県・新潟県・山形県では、地元弁護士会の奮闘で、ほぼ全ての市町村に対し、陳情ではなく請願を通していることが特筆される。
このほか、宮城県・岩手県・長野県・静岡県・愛知県・栃木県・群馬県・千葉県・大阪府・兵庫県・奈良県・鳥取県・岡山県・福岡県などで多くの成果が上がった。
「救う会」は、「各都道府県で必ず最低1カ所」との活動方針目標をかかげたが、最終的に1つの採択も得られなかった地域は、約4分の1に当たる12県であった。取り組みをした地域からは、「日本中、どこでも採択は可能、取り組めば必ず成果があがる」との声も出ているが、取り組みの地域的な格差は大きかった。全国のどの地域から、坂本1家に関する決定的な情報が上がってくるかわからず、運動の全国化はこの時期焦眉の課題であった。
(4) そんな中で、日弁連が全国に請願・陳情運動を呼びかけた結果、各地単位会から「救う会」に問い合わせがくるなど、新たな取り組みの動きも出た。また、「救う会」事務局は、94年1月30日に、中村裕二弁護士を宮崎に派遣し、運動強化のための検討会議を開いた。ここには、宮崎を初め、兵庫・大分・鹿児島・福岡の代表が集まり、請願・陳情運動のやり方などを交流しつつ、より強力な取り組みの決意を固めた。また、宮城県や京都府など、全国キャラバンをきっかけにして、取り組みを強めた地域もあった。
(5) この請願・陳情運動の本格的な総括は別稿にゆずるが、全国の弁護士や弁護士会にとっては、その多くが全く新しい経験となった。請願のために署名を集めることも多く、捜査強化署名が1段落ついた中で、この運動は市民をまきこむ新たな運動の提起となった。また、多くの地方自治体や市民に、弁護士の使命や社会的役割について理解を得るきっかけにもなりえた。もちろん、意見書採択が各地で報道されたり、県や市の公報で報ぜられたりすることで、事件の風化防止にとっても、大きな力を発揮した。私たちの請願・陳情による意見書採択は、最終的には、全国836自治体(3,304自治体中の25パーセント)に達した。
4.各地の創意ある活動の展開
この時期は、各地で様々な創意ある活動が展開されたことが、大きな特徴である。
(1) 町田では、4.8集会に引き続き、92年6月市議会に向けた請願署名運動に取り組み、請願を採択させた。
(2) 茨城では、那珂湊(なかみなと)市が、92年3月議会で意見書を採択したのを受けて、6月及び9月議会に向けて、県内1斉に陳情を提出し、県内87市町村中81市町村で採択させた(1部は請願に変更)。これらの動きが前述の全国的な請願・陳情運動につながっていった。
(3) 京都弁護士会及び滋賀弁護士会は、ステッカーを作成し、京都市内を走るタクシーなどに貼っ
てもらった。このステッカー運動は、その後、「救う会」も全国に呼びかけることとなり、具体的には、千葉・名古屋・3重・岐阜・神奈川・新潟・長野・山梨等で実現された。
(4) 千葉県弁護士会はノボリ旗やプラカードを使ったキャラバン行動(92年5月9日)や牛乳パックを使った宣伝を成功させた。牛乳パックの発想は、その後、神奈川県でスーパーのビニール袋などにも応用の動きが出た。 
(5) 大阪・福岡・神奈川など、各地で定期的に街頭署名を訴える活動が定着していた。
(6) 東京では、92年10月16日〜18日、青山のベルコモンズ11階を借り切って、パネル展示とトークショーなどによる坂本展を実施し、大きな反響を呼んだ。これにヒントを得て、日弁連は、93年4月8日、東京駅丸ノ内南口ドームで「坂本弁護士・家族救出展」を開くに至る。この企画は、94年4月7日〜8日にも連続して開かれた。 
(7) 93年3月、坂本さちよさんの詩に曲をつけたものを中心にしたカセットテープ「希望」(1,500本作成・1,200円)を製作した。これは大変好評で、同年5月には、品切れ状態となり、新たに追加作成された。また、その後新曲も作られている。
(8) 各地で開かれる集会・説明会・美術展なども極めて旺盛であり、93年の1年間に取り組まれたものは約80を数える。1カ月に6回以上のペースである。このうち、金沢弁護士会が3年連続の集会を企画したり、岩手の国民救援会が、2回目の集会を企画するなど、継続的な取り組みが生まれてきている。
また、国民救援会による救援美術展の定着や日フィルの協力など弁護士を超えた市民層のねばり強い取り組みが目を引いた。
特に94年2月9日には、日本フィルが坂本救出特別コンサートを池袋の東京芸術劇場に2,000人を超える聴衆を集めて大成功させた。
これには、日本フィルのほか多くの著名なソリストが善意の協力出演をし、収益金は救出活動に活用されている。
日弁連は、このコンサートにつき、異例の後援を行った。
このコンサートを収録したビデオ(98分、3,000円)が3,000本製作され、この収益も救出運動に活用された。そして、これらの集会のほとんどに、坂本さちよさんや大山夫妻、横浜法律事務所の弁護士らが参加している。

(9) 93年4月8日に実施した全国一斉街頭署名行動には、その前後の日時の行動も含めると、42都道府県80カ所にわたる大規模な行動となった。のべ参加人数は1,110名、8万枚のビラ配布、約8,000名の署名獲得であった。 また、同年11月2日の全国一斉街頭署名行動も43都道府県65カ所で実施された。
(10) このほか、露店商組合からポスター掲示の申し出があったり、スーパーのビニール袋や全国で使用される書店の紙袋に情報提供の宣伝をのせたり、パチンコ業界から多額なカンパの申し出があるなどの会社・市民からのあたたかい申し入れがあいついだ。
テレホンカードも大好評で、新たに飛行船の画柄のものが作成され、普及された。
5.日弁連・各地弁護士会の積極的活動
この時期は、日弁連の対策本部の活動が活発になり、日弁連が全国の単位弁護士会に呼びかける形で全国的な運動がつくられることが多くなった。
これは、各地の救出運動づくりに大きな力となった。日弁連は、92年4月に中坊先生から、阿部三郎先生に会長が交替したが、引き続き大変熱心にこの問題に取り組んでいただいた。阿部会長は就任直後に現地調査や町田集会への参加をし、日弁連の最重要課題の1つにこの問題を位置づけた。その後、広島総会では決議をあげ、坂本展への共催、10.30全国統1行動の提起(同時に各単位会で声明)、10.27全国集会の共催などを行った。
92年年末には、坂本問題の理事会内対策本部の事務局体制を強化し(各連合会から1名ずつ、及び関東近県の単位会から補充)、事件解決に向けて具体的な行動を提起するなど、その姿勢は極めて積極的であった。

その後、93年4月8〜9日に、JR東京駅丸ノ内南口ドームに於て、坂本弁護士・家族救出展を実施し、事件のパネル展示とともに有名人の色紙展やミニコンサート、会長や両親の訴えなどを行って大成功を収めた。同様の取り組みは、94年4月7〜8日にも実施された。また、対策本部ニュースを発行し、さらに、日経新聞を使った名刺広告を実施し、93年11月2日には、関弁連・横浜弁護士会と共催で第4回「生きてかえれ!!坂本弁護士と家族の救出をめざす全国集会」を開催した。この集会の最後では、全国の弁護士会の代表がタスキをかけて壇上に上がり、聴衆に大きな感動と勇気を与えた。
また、これに先だって、同日午後、横浜弁護士会館にて、各弁護士会の坂本問題担当者会議を開催した。

新潟弁護士会は、93年度1般会計予算に坂本問題対策費として100万円を計上し、弁護士会あげて県議会等への清願に取り組んだのを初め、パンフレット・シール・ステッカー等を作成し、さらに、93年11月12日には市民集会を開催するなど、極めて旺盛な活動を展開した。
東京3会及び横浜弁護士会は、93年9月に郵ペーン6,000セット(1セット200円)を作成し、普及をした。これは、大変好評で、郵便料金改定後は、1セット250円のものを大量に増刷した。
このほか、9弁連が新聞広告を実施し、タクシーステッカーは、広はんな地域で取り組まれた。
また、阿部日弁連会長の発案で、94年2月15日から3月10日まで、警察が飛行船を使って空から情報提供を呼びかけた。
千葉と岡山からは、警察への激励葉書運動が提起され、取り組まれた。