はじめに
地下鉄サリン事件から一年間は、連日のようにオウム真理教の信者がマスコミをにぎわせていた。事件関係の報道はどんなドラマより興味を湧かせ、日常生活では考えられないような別世界を繰り広げていた。
事件から二年目になると、もう風化の声がささやかれた。「去年のワイドショーは面白かったわよねー」という中年の女性たちの会話を、私は電車の中で聞いた。マスコミの窓口的な役割だった私は「被害者の報道が少ない」と言われ、困惑した。私は出来るだけ取材に応じたが、ほかの被害者の代弁をすることには限界を感じていた。私たち被害者はつらい気持ちを「風化させてはいけない」という意気込みだけで乗り越え、被害者自身で手記を書くことにした。
平成九年三月二十日、事件から丸二年目に地下鉄サリン事件被害者の会でつくった手記集を霞ヶ関で無料配布した。黄色い表紙の小冊子である。印刷などに必要な資金は、それまで心ある人たちからのカンパでまかなったが、それでも一千部がやっとで、被害者自身と被害者救済要請のための五百部と、配布用に五百部だった。祭日で閑散としている官庁街は、二年前と同じようなよい天気だった。私の主人が倒れて運び出された地下鉄の出口には、長蛇の列ができていた。本当にあのときほど嬉しかったことはない。二年間のつらい思いが小さな塊になって飛んでいくようだった。なかにはオウムの信者もいたようだけど、多くの人たちは「頑張ってください」と声をかけてくれた。「ありがとうございます」と直接応えられた。一人じゃないんだ、これからもやっていかれる、と勇気が湧いた。その手記集についての問い合わせが日本中から、そしてアメリカからもあったが、渡すことが出来たのは一部の人たちだけだった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。事件後丸三年を迎え、より多くの方に読んでいただくために新たに綴られた手記が本書である。
被害者救済の要請のために残しておいた事件後丸二年目の手記集は、上九一色村、富沢町、山梨県庁、東京都庁、総理府、厚生省、法務省、自治省など、あらゆる関係機関に要請に出向いたときに持っていった。地下鉄サリン事件は無差別大量殺人事件、テロ事件である。その狙いとなった東京の霞ヶ関は国家権力の集中する場所であり、被害者はその巻き添えになった。つまり国の身代わりになったと言っても過言ではない。しかし被害者は国から何の補償もなく、お見舞いの言葉ひとつ受け取っていない。損害賠償訴訟で松本智津夫、土谷正実美、林郁夫の三被告に支払命令の判決が下されたものの、原告被害者は賠償金を受け取ることはない。そもそも損害賠償訴訟を起こしたのも、オウム真理教をこのまま野放しにはしておけないという気持ちからで、その結果オウム真理教を破産に追い込めたのだから効果はあった。しかしサリン中毒になってしまった被害者は身体的症状と日々の経済的負担、将来への不安で、苦痛な毎日を送っている。
発生から丸三年目を迎える地下鉄サリン事件は、人々の記憶から遠ざかってしまった出来事かもしれない。被害者救済を訴えた署名活動では、「まだこんなことやってんの?」という声も聞かれた。でも、被害者にとってその記憶は昨日のように生々しく、心に受けた傷は一生消え去ることはない。任意団体となったオウム真理教は、一連の事件が松本智津夫被告の間違った教義のもとに引き起こされたことを認めようとしていない。そのうえ、信者を集めてお布施を徴収したり、パソコンショップなどの営利活動して資金調達をはかり、復活の機を狙っている。警察も、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件の捜査ミスの前例があるだけに、どこまで真剣に捜査取り締まりをしているのか信頼できない。被害者は刑事裁判の迅速化のため訴因撤回をやむなく受け入れた。このような事態はかつて前例がない。被害者があらゆる忍従を強いられているのに対し、被告は国選弁護人を付けられ、健康管理され、今日も生きている。その今日がままならない被害者がまだたくさんいることを、被告だけでなく、被害にあわなかった多くの人に知ってもらいたい。
私たちはいつものように朝を迎え、三月二十日をいつものように過ごそうとしていた。被害にあったかもしれないあなたには、ここから手記の筆者の立場になってみてほしい。私たちはこの本のなかにひとつずつ記録に留めておきたいことを書いてきた。事件当時を思いおこし、いまだに何も解決していない今日にいたるまでの気持ちを率直にあらわした。大部分の事柄が被害者に共通する状況や心情であり、そこから地下鉄サリン事件の被害者の現状をご理解いただければ、私たちの精神的被害の回復につながつものと確信している。ひいては、テロ事件の巻き添えになった私たちでさえ救済されない日本の犯罪被害者の現状改善のために、本書が一石を投じられたら幸いに思う。
本書出版にいたるまで、私たちは多くの人たちのご支援をいただいた。地下鉄サリン事件被害者の会にはげましのお手紙やお電話をくださった人、カンパしてくださった人、被害者救済のための署名活動にご協力くださった人ーーー、皆様のあたたかいご芳情を私たちは決して忘れることはない。
地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人
高 橋 シ ズ ヱ