陳 述 書
一九九六年一一月二二日
坂 本 さちよ
一 経歴
1 私は、一九三一(昭和六)年一一月一三日に山梨県甲府市で生まれ、二三歳まで甲府に居住していました。
甲府湯田高等女学校を卒業後、県の山梨医学研究所に勤務し、総務の仕事に従事していました。
一九五五(昭和三〇)年二月にその職場を結婚のため退職し、その後は主婦を務めてきました。
2 私の夫である坂本良雄(以下、「良雄」といいます。)は、一九三一(昭和六)年二月一二日に山梨県中巨摩郡で生まれました。
小学校三年生の時に横浜へ転居し、横浜市立本牧中学校を卒業した後、日本郵船に勤務し、私と結婚した当時は米軍基地情報部で通訳として働いていました。
その後、何回か職場を変えましたが、楠原輸送には一八年間勤務し、一九九〇(平成二)年二月一二日に定年退職となりました。定年退職後も嘱託として同社に勤務していましたが、一九九〇(平成二)年七月一〇日、職場で勤務中に労働災害に遭い、現在まで寝たきりの状態となっています。
二 私たちの結婚
私と良雄は、一九五五(昭和三〇)年三月一〇日に結婚しました。
結婚当初は横須賀市逸見で間借りの借家に住んでいましたが、結婚後五ヶ月ほどしてから現在の自宅に住むようになりました。
三 堤の出生
1 翌一九五六(昭和三一)年の四月八日、私と良雄との初めての子どもとして、長男坂本堤が生まれました。生まれたときの堤の体重は三三三〇グラム。予定日よりは出産が多少遅れたこともあり、大きな赤ちゃんでした。
2 私たち夫婦の希望としては、とにかく明るく正直な子であって欲しい、ということでした。良雄の勤め先がなかなか一定しないので、どこまで十分な教育を与えることができるか分かりませんでしたが、決して豊かとはいえない暮らしの中でも、自分も内職している姿も見せ、決して卑屈にならないように育てたい、という気持ちでした。
四 赤ん坊のころの堤
堤は、赤ん坊のころからいつもニコニコしていて誰にも笑いかける子でした。近所の方からも「笑顔千両だね。」などと言われ、外を歩いていると「私にも抱かせて」と言われたりしました。自分で歩くようになってからも、人なつっこい笑顔が可愛がられたのでしょう、どなたからか、いろいろおやつをもらってきたりしていました。
五 幼児期の堤
1 幼児期には、「健康第一」がわが家の子育てのモットーでしたので、いつも「表に出て遊びなさい。」と堤に言っていました。堤も、ざりがに採りやバッタ採りなどに夕方遅くまで走り回っていました。
また、堤は小さい頃から読書が好きでした。すぐに友達の家に上がり込んで友達の本を読ませてもらったりもしていたようです。
2 当時、私たちの家にはテレビがなかったので、夕方になり、「赤胴鈴之 助」の番組が始まると、隣の雑貨屋へ行ってテレビの前の席を占領していたことも思い出します。家でテレビを買ってからは、力道山のプロレスを見たり、月光仮面の真似をして風呂敷をマントにして遊んだりしていました。
六 バイオリンについて
私たち夫婦は、堤に知的な教育をできるだけ与えてあげたいという気持ちで、バイオリンを習わせるようになりました。これは、良雄が以前からバイオリンを趣味で弾いていたこともきっかけとなりました。ちなみに、「堤」という名前も、バイオリンの和名である「提琴」からとったもので、最初は「提」という字で「つつみ」と読ませるように役所の戸籍係に届けたのですが、受け付けてもらえず、「堤」という字にしたものでした。
堤自身も、バイオリンを弾くのが大変好きで、四歳の時から先生について習うようになり、毎日進んで練習をしていました。五歳のころだったか、「次のレッスンまでに進歩していないと先生に悪いから」と言って練習していたのを覚えています。先生のところへ通ってのレッスンは中学校三年生まで続けました。
七 堤の妹弥生
堤が生まれた後、一九五九(昭和三四)年三月五日には、長女坂本弥生が生まれました。堤と弥生は兄妹仲もよく、堤は兄として弥生の面倒をよく見ていました。
堤が小学校五年生の時に、兄妹二人だけで山梨の親戚の家に遊びに行ったことがありましたが、その時も堤が妹の世話をしながら無事に帰ってきました。
八 堤の学校時代
堤は、幼稚園の年少の頃は、「お医者さんになりたい。」と言っていました。
その後、小学校一、二年生の頃には、中学校は私立の進学校に行きたいと言っていましたが、結局、地元の池上中学校へ進学しました。二年生からは自宅の近くに新しく中学校ができたので、そちらに移りました。
小学校時代にはずっと学級委員を務めていました。中学校でも、二年生の時に生徒会長一年間務めました。このときには、新しい中学校だったので二年生が最上級生でした。堤は自分から立候補しなかったのですが、他の生徒から推薦されて当選したようでした。
九 堤の成績
堤の学校での成績は、小学校の頃は体育か美術家が「四」でしたが、残りは全て「五」をとっていました。中学校に上がっても、ア・テストでは横須賀市内で五番以内の成績をとり、県立横須賀高校に入学する際にも全体で五番の成績でした。
勉強面ではコツコツと努力するタイプで、試験期間中もいつもしっかり勉強していました。
その一方、運動はあまり得意でなかったようで、部活動も中学一年生の一年間だけ柔道部に入っていましたが、その後は生物部などで活動していたようです。堤は、生物部に入った理由について、「自分が用事で部活に出られないときにも他のみんなに迷惑をかけなくて済むから。」などと言っていました。マラソン大会の前などは自主的に練習をしていたことも思い出します。
一〇 高校入学後の堤
高校に入学してからは、弁護士を志すようになり、大学は東京大学をめざすようになりました。高校二年生の時に文系に絞ったようですが、特に志望の理由などを私に話すことはありませんでした。
この頃も、堤は友達付き合いを大切にしており、高校からの帰りにも友達みんなが家に寄って遊んでいったりしていました。自然と周りに人が集まる子でした。
堤は、物をとても大切にする性格でした。鉛筆や筆箱やノートなど、使える物は最後までしっかりと使っていました。
一一 司法試験
1 堤は、弁護士を志す理由について、私に直接話したことはありませんで した。後からわかったことですが、堤の中学時代の友人が、家庭の事情から全日制の高校に進学できず、定時制高校に通わせてくれるという約束で会社に就職したにも拘わらず、夕方になると仕事を言いつけられるなどして、結局高校に行けなくなってしまった、という話を聞き、堤は社会の矛盾に満ちた力関係を感じたようです。そんなとき、堤は、アメリカのラルフ・ネーダーという弁護士が、消費者の立場にたって大企業に勝訴した、というニュースを聞いて、弁護士を志した、とのことでした。 
法律を活かして、弱い立場の市民とともに歩もうと考え、弁護士を志したのだと思います。
2 司法試験に受かったとき、堤は「母さんたちが歳をとっても、母さんた ちに小遣いはやれないかも知れないよ。あてにしないでくれよな。障害者や労働者のために働く弁護士になりたいんだ。」と私に言いました。弱い立場に立つ人々のために尽くすから、それほど多くの収入は得られないかも知れないよ、と言いたかったのでしょう。私が冗談で「左うちわは駄目なんだね。」と言うと「そうだな。諦めてくれ。」と言っていました。
一二 都子さんとの結婚生活
堤は、大学生時代に大山都子さんと出会い、受験生活中の一九八四(昭和五九)年、都子さんと結婚しました。
司法試験に受かってからも、「弁護士として一〇年間は親のことも考えず集中して弁護士をやりたい。」と言う希望で、私たち夫婦とは同居せず、別に居を構えました。
一三 龍彦の誕生
1 一九八八(昭和六三)年の八月、堤と都子さんとの間に初めての子、龍 彦が生まれました。私は、都子さんに「出産のときには自分の母親のところで見てもらうのが一番いいのよ。」と勝田での出産を勧めたのですが、都子さんの「産前産後は横須賀のお母さんに見て欲しい」という希望は強く、横浜の日赤病院で出産をしました。
都子さんは、龍彦の妊娠中に流産気味でよく入院していましたので、私はそのたびに病院で見舞い、何とか無事に生まれて欲しいと願っていました。最終的には、龍彦は帝王切開で生まれましたが、「ああ、無事に生まれて良かった。」と本当にほっとしました。
龍彦が生まれる三ヶ月ほど前に、堤の妹弥生の子どもも生まれていましたが、私たち夫婦にとっても男の子の孫は初めてでしたので、本当に可愛く思いました。
2 龍彦が生まれて間もなく、堤のアパートにお祝いを持って行ったとき、 都子さんのお母さんのやいさんがいらしてて、都子さんと二人で産湯を使っているところに出くわしたことなども思い出します。今から考えると一番幸せな時期だった気がします。やいさんも一緒に龍彦の世話をすることができた時期があったのは、今となってはせめてもの救いです。
堤もいなくなり、子や孫に男がいなくなった今、坂本の家は今後どうなるのだろう、という気持ちが心のどこかにはあります。
一四 龍彦の想い出
1 都子さんが龍彦をよく横須賀に連れてきてくれていたので、龍彦とは会 う機会も多くありました。二週間に一回くらいは家に来てくれていたのはないでしょうか。今思えば、堤がオウム真理教の仕事を始めてから、都子さんが龍彦を連れてきてくれる回数が増えた気がします。
2 龍彦のお宮参りのときには、都子さんの実家で衣装を作って頂き、堤の アパートの隣の神社でお参りしました。一歳になったときには、横須賀にも残っている風習で、龍彦が一升のお餅を背負ってよちよち歩きました。今でもはっきりとそういった光景が甦ります。
3 龍彦には将来大きくなっても弁護士にはなって欲しくないという気持ち でした。その理由は、堤の仕事を見ていると弁護士の仕事はとても大変そうで、いつも家にいないことが多かったからです。「龍彦が『弁護士になりたい』なんて言い出さなきゃいいな。」と思っていました。
一五 事件の発生
1 私たち夫婦は、堤がオウム真理教の仕事をしていることは、当時は全く 知りませんでした。その頃は、弁護士になって三年目でしたが、「おふくろ、家賃は払えるようになったからな。心配するなよ。」と言うくらいでした。
2 一九八九(平成元)年の一一月二日、夜になって都子さんから電話があ り、堤たちが予定していた旅行をキャンセルしたことを聞きました。翌三日は私が電話しても誰も出ませんでした。
その後六日に朝の一〇時頃電話しましたが、それでも誰も電話に出ないので不安になり、午後一時頃に横浜法律事務所に電話で知らせたのです。夜になっても連絡がつかないため、心配なので、良雄に堤たちのアパートまで見に行ってもらいましたが、やはり三人は帰ってきませんでした。
3 一一月七日、私も堤たちのアパートへ行きました。アパートに入ったと きから、生活をしていてそのまま堤がいなくなった様子が感じとれましたので、何か事件に巻き込まれたのだと直感しました。私は、なるべく現場をいじってはいけないと思い、水道も使わずにいました。
4 堤がオウム真理教の仕事をしていたことは、事件が起こってから、横浜 事務所の同僚の弁護士から聞かされて初めて知りました。私たちはその話を聞いても、どんな宗教か全く分からず、事件と関わりがあるのかどうかも分かりませんでした。
一六 事件後のオウム真理教の対応
1 私たちは、とにかく三人が無事でいて欲しい、生きていて欲しい、とい う気持ちばかりでした。三人を拉致した犯人としてはオウム真理教が最も疑わしい状況でしたが、とにかく三人が無事であって欲しいという気持ちが強く、犯人についての確信は持てませんでした。]
2 それでも、オウム真理教の関係者が、事件後テレビに出演するなどして、 身内が事件に関与したようなことを平然と話しているのを聞いて、「よくもそういい加減なことを言うなあ」と驚くと同時に憤慨しました。 また、マスコミの取り上げ方も興味本位で、オウム真理教の宣伝になるような感じであり、三人を拉致された私たちにはとても納得できないものでした。
一七 事件後の全国での訴え
1 その後、事件を公開しても情報がなかなか得られず、不安な日々が続き ました。
それまでの私たち夫婦にとっては、人前に立って話をするということなどは考えられませんでしたが、とにかく三人が無事に帰って来て欲しい、という気持ちで、三人に関する情報を寄せて欲しいということを人々に訴えようと決意しました。
良雄は、都子さんの父友之さんとともに、一九九〇(平成二)年五月に開かれた弁護士の集会に参加し、壇上から「正当な弁護士業務を続けておりました。また何ひとつ落ち度のない仕事を続けていたかと思います。私は息子坂本堤を信じております。」と三人の救出への協力を訴えました。
2 その後も、私たちは、三人の救出を求めて全国をめぐりました。途中、 良雄が労働災害に遭って倒れてしまったので、その後は私がひとりで大山さんご夫妻とともに、集会で訴え続けました。
その頃私は、自分自身の気持ちを込めて「あなたへ」という文章を書きました。
あ な た へ
息子一家が拉致される。
そんな、想像したこともない恐ろしい事件が起きた。
何がどうなったのか、何をどうしたらよいものか。初めは、考えることもできなかった。
早期救出の願いも虚しく、その年は暮れ、新しい年が明けた。
何の飾りもつけず、ただただ無事を祈った正月。
日に日に厳しくなる寒さの中で、不安は募った。
「堤たちはどうしているだろうか。龍ぼうのオムツはどうしているのか。
暖かいものを食べることができているのだろうか。こんなに雪が降っているのに‥‥‥」
梅の花が咲いた。都子さんも一つ年を重ねる。どんなに心細いことだろう。
思わず「しっかりして。待っていてね」と声に出している私。
新緑の訪れと共に、救出活動が全国に広がっていった。
各地で開かれる集会に、私もできる限り出席した。
大勢の前で話すなんて、生まれて初めてのこと。声も膝も震え、無我夢中で訴えた。
そんなさ中に、夫が倒れた。仕事中の事故だ。意識のない夫を前に、何度思ったことだろう。
今ここに、堤がいたら、都子さんがいてくれたら、と。
病状は、一進一退の繰り返し。病院から集会へ駆け付け、また病院へ戻る生活が続いた。
息子たちのことで、いやな知らせも幾度か聞かされた。
「生存の見込みは薄いよ」
面と向かってそう言われたこともある。こんな時はどっと涙が出た。
でも、多くの人々が救出を信じ、懸命に動いてくれている。
大勢の方に励まされ、私はまた立ち直った。
堤は生きている。どんな困難があっても、必ずがんばれる。小さい時からそういう子だった。
芯のしっかりした都子さんのことだもの、龍彦を守って必ず元気でいる。私は信じている。
夫も、何とか命は取り止めた。伊豆・修善寺の病院で、つらいリハビリテーションに励む毎日。
どうか明日こそ、朗報を届けることができますように。
そう祈りながら、私は帰りの列車に乗り込む。
疲れた体を座席に預け、目を閉じると頭の中を駆け巡る、あの子たちのことが。
私はそっと話しかけてみる。
「都子さん、聞かせて。堤も龍ぼうも、元気ですか。貴女と一緒ですか。せめてそれだけ知りたいのです」
事件が起きて、もう二年。歳月の重さだけが、どっしりと私にのしかかってくる。
いったい誰が息子たちを連れ去ったのか。どうして、未だに三人を解放してくれないのか‥‥‥
その人たちを責めようとは思わない。理由を聞くのもやめましょう。言いたいことは一つだけ。
「この事件に関わったあなた。どうか三人を、無事に、元の場所に帰して下さい。
とりわけ幼い龍ぼうを、早く返して下さい」
繰り返し繰り返し、見知らぬあなたに心の中で叫び掛けている。
ふと目を上げると、小さな可愛い靴が、駅の階段を昇っていく。
真ん中あたりがちょっとくびれたまあるい足。内股で、一段一段を「ヨイチョ、ヨイチョ」。
その後ろ姿から、二年前の龍ぼうが浮かび上がってくる。
駆け寄って、抱き締めたい。そんな衝動をこらえ、一人ホームに立ちつくす。
龍ぼう あなたももう三歳 階段だって、しっかり昇れるね
お話も上手にできるでしょう だったら教えて 今どこにいるの
大きな声で叫んでちょうだい 「おばあちゃん」って
いつでもお迎えに行く支度はできているから
君のその姿を見たくて 君のその声を聞きたくて おばあちゃんは今、一生懸命です。
早く帰っておいで 龍ぼう 早く帰ってきて 堤 都子さん
そして 早く帰して下さい あなた
3 私は、三人が何時帰ってきてもいいように、堤の家の中をきちんと整理 しておきました。龍彦が帰ってきたらすぐに着られるよう、「今ごろはこのくらい大きくなっているかな」と龍彦の成長ぶりを想像し、それに合わせて洋服を買い揃えたりもしました。
4 一九九五(平成七)年の四月には、とうとう龍彦が本来なら小学校に上 がる時期が来てしまいました。
私は、龍彦の代わりに小学校の入学式にも出席しましたが、椅子に座った新一年生の子どもたちの足が揺れるたびに、「なぜ龍ぼうの足はここで一緒に揺れていないの‥‥」と悲しい気持ちになりました。
一八 遺体の発見
1 オウム真理教による事件が次々と起こり、とうとう三人がオウム真理教 の手によって殺されていたことが分かりました。
実行犯である岡崎の供述はかなり以前から得られていたと聞きます。警察がせめて自分だけにでも教えてくれ、岡崎に会わせてくれていれば‥‥という気持ちもあります。三人を殺した岡崎と対決したかった。
2 三人の遺体捜索の時には、とてもニュースなどを見ることはできず、マスコミが押しかける自宅から逃れて静かに過ごしていました。
こんな形でしか帰ってこれなかったことは、本当に悔しく、残念です。
ただ、三人がバラバラに埋められていたということを聞き、三人の遺体が無事に発見され、三人一緒にしてあげられることができたのがせめてもの救いです。
一九 最後に
多くの人々が事件を風化させまいと頑張って下さり、警察にも働きかけを続けてきて下さったおかげで、何とか三人の遺体を発見し、三人一緒にしてあげることができました。
オウム真理教がまさかあんなひどい集団だとは、想像だにしていませんでした。本当に悔しい気持ちでいっぱいです。
今、鎌倉の三人のお墓に毎月墓参しています。
三人が亡くなってから六年間はお線香もあげてやれなかったのですから。お参りして下さる人がいない朝の早い時間に行って三人に話しかけています。