坂本都子さんのお母さん、大山やいさんが、民事損害賠償請求訴訟の証拠として提出するため「陳述書」を作成されました。小島周一弁護士が丹念にお話をうががい、文書にまとめてくれたものです。少し長いですが、お母さんの思いが痛いほど伝わってきます。是非お読みください。
陳述書
一 都子は昭和三五年二月二四日に生まれました。 都子が二歳か三歳の頃、私が味噌汁を都子の靴下の上からかけてしまい、水をかけて靴下を切るなどすればいいのに、あわてて靴下を脱がしたら皮がむけてしまい、そのことが一番心に残っています。医者に連れていったら、治療が痛かったろうに都子はあまり泣きませんでした。その頃から我慢強い子でした。 近所の子と喧嘩になって、その子が泣いているのでどうしたのだろうと思っていくと、都子が血を流しているのに泣いていないで、その子がびっくりして泣いていたのでした。爪で切ったのでその跡が顔の左目の横に残ってしまいました。それも三歳の頃のことです。その頃は私達は茨城県の大宮に住んでいました。 都子は、三歳の頃、字と絵が一つ一つに書いてある積み木を見ていて、「く」と「へ」の積み木を見て「おんなじだよ。それなのに絵が違うよ」と言うので教えたこともあります。そんなことがきっかけになって自分でどんどん見て字を覚えていったようです。小さいときから自分で気がついていくようなところのある子でした。
二 今の家に引っ越したのは都子が四歳の時です。こちらに引っ 越してから都子は本を良く読むようになりました。ここは近所に家が少なく、友達もいないし、私もいつもかまってやれないので本を良く読むようになったのだと思います。 その頃都子が泣いているので、あまり泣かない子なのにどうしたのかと思って聞いたら、「龍の子太郎」をテレビで見て、「太郎がせっかくお母さんに会いに行ったのに蛇なんだよ。かわいそうだよ。」と言って泣いていたのでした。その頃から他人の気持ちが良く判る、良く思いやれる子でした。 都子はお人形遊びなどもよくしていました。二歳の時におばあちゃんが買ってくれたお人形が気に入っていました。お人形と良く話をしていた子でした。寂しかったのかもしれないと思います。この事件が起きてから都子の持っているものがいとおしくていとおしくてたまらない思いがして、このお人形が残っていたのでそれを大切にとってあります。今見るとみすぼらしいお人形ですが、都子がお嫁に行くときに私が「棄てようか」と言ったら「おばあちゃんにもらった思い出のお人形だから残してよ」と言うので残しておいたものです。今も押入の中に入っています。
三 都子が五歳になって幼稚園に通うようになってからはお友達 もできるようになりました。弟の裕が生まれて、おばあちゃんと一緒に私が裕と一緒に入院していた病院に行くとき、「おばあちゃん危ないからこっち通りなよ。」と言って、自分が車道側を歩いたそうです。おばあちゃんは「都子が『おばあちゃんは一人で歩いていくとアメリカの方まで行っちゃうからついていないと駄目なんだよ』なんて言うんだよ。」と言っていました。
四 小学校は駅の近くで子供の足で三〇分くらいかかるところで した。弟の裕と都子は五歳違うので、裕が二歳くらいから、裕が都子の遊んでいる玩具をとっても、都子に「裕はまだちっちゃいから、都子はお姉ちゃんだからあげようね」と言っていました。都子はそのときは不満そうな顔もせず、私は納得していると思っていました。 でも都子が小学校二年くらいの時、都子が泣きながら「お姉ちゃんだからっていつまでも我慢は嫌だよ。」と私に言いました。そのとき初めて私は「そうか我慢させていたのか」と気づかされました。 都子が二年生の時、担任の先生から「あまり前に出ないところがある。どんどん突き放すようにした方がいいんじゃないか。」と言われたことがあります。その先生はその後都子になるべく発表させたりしてくれたので、少しずつできるようになりましたが、六年生の時児童会長をやらされたのはとても負担だったようです。みんなの前で大きな声を出すのが大変だったようです。でも先生が都子は責任感が強いし、しっかりやるから大丈夫だということで推薦したそうです。 また、都子は学校から帰ると、家で座ったところに鞄をおいて、そこで少しの間休んでいたり本を見たりしていたので、都子が座りそうなところに本をおいておくようにしたら、都子はそこで本を読んでいたりしていました。家で本をまとめてたくさん買うようなことはなかったのですが、それも理由の一つなのかもしれないのですが、都子は私が「よく飽きない」と思うほど同じ本を繰り返し読んでいました。でもそれが熟読ということではよかったとも思います。「いたずらラッコとロッコ」とか「象の鼻はなぜ長い」というような本がおもしろいと言って読んでいました。
五 都子は二年生の頃からオルガンを習いはじめました。小学校 の近くなので、帰りにオルガン教室に寄って、私が迎えにいくということを三年生までやっていました。三年生の終わりにオルガンの先生から「ピアノはどうですか。」と奨められ、迷いましたが都子に聞いたら「やる」というので四年生からピアノ教室に通いはじめました。ピアノ教室は中学校の一年か二年頃まで通っていました。中学校では部活があって大変でしたが頑張って何とか通っていましたが、都子は鼻のアデノイド肥大で小学校三年の頃に手術したことがあり、時々鼻の調子が悪くなると耳にも影響するので、さすがに部活とピアノと医者の三つは無理ということでピアノをあきらめたのです。
六 都子は中学校の一年の時から部活はブラスバンドにはいって いました。そしてフルートの音色が素晴らしかったというのでフルートをはじめたようです。都子は「みんなと演奏していると別世界が頭の中に開けてすごいんだよ。演奏が終わるとそれがふっと消えちゃうんだよ。」と言っていました。三年生の一〇月に国体に参加するために猛練習をしていたら、担任の先生から「いつまでやってるんだ。高校に入れないぞ。」と相当厳しく怒られたようで、人の悪口を言わない子が泣きながらそのことをいっていました。そして国体が終わってから猛勉強して水戸第二高等学校に合格してから「自分で本当に三ヶ月苦労してみて、先生の言うことは本当だった。自分は後輩には一年の時から勉強したらいいよと言ってやりたい。」というようなことを言っていて、自分の子ながら本当に素直な子なんだなあと思いました。「ほら三ヶ月の勉強でも入れたじゃない」と言うのではなくて、こういうふうに言うところが本当にあの子の良いところだと思いました。
七 高校ではブラスバンド部はありませんでしたが、クラシック ギターなどをやっている部があって、その中に入ってフルートを吹いていました。高校に入ってから一年くらいは漫画を夢中で読んでいたようでした。うちではほとんど漫画を買ってなかったので、高校で漫画がたくさんあって読むようになったようでした。 中学校では都子は成績は上位でしたが、高校一年の時の進路指導で、先生から「高校に入ったら成績が中位なんですよ。とても国立は無理です。クラスで五番くらいに入らないと国立には入れません。」と言われました。それで都子と相談したら、一年でも浪人させてくれるなら国立に挑戦してみると言うのですが、主人が浪人は駄目だというので、「好きな科目、国語、英語、世界史で挑戦してみたい、東京の私立に挑戦したい」と言い、高校二年で専攻を決めてしまいました。そして高校二年生の頃から一生懸命勉強していたようです。特に三年生になってからは授業が終わるとさっさと図書館に行って図書館で勉強していました。それから、私たちが家に帰ってきたときには夕飯も食べ終わっていて、さっさと寝て、夜中の二時に起きて朝まで勉強していました。これは先生から「自分が朝型か夜型か見極めろ。」と言われて自分で見つけたようです。受かった後「大変だったね」と言ったら、「起きるときはつらいけど、やるときは全然つらくないんだよ」と言っていました。 私がお米を研いで朝方都子がスイッチを入れるようにしていたのですが、私が研ぎ忘れて空っぽの時に都子がスイッチを入れてしまったことがありました。そのとき私が自分の失敗を棚に上げて怒ったら、「そうだね。そういうこともあるんだからよく見なくちゃね。」と言うのです。このように都子と話すと喧嘩にならないというか、こういう考え方もあるんだね、こういう見方もあるんだね、というように考える子でした。 私が会社の人間関係などで都子に愚痴を言ったりすると「お母さん、人の考えかたは頭の数ほどあるのよ。お母さんのように考えなくてもいいじゃない。」と言われたりしたのでした。およそ愚痴というものを言わない子でした。自分に人が合わせないと不満に思うことがないという子でした。いろいろ本を読んで気持ちを受け入れる器が大きくなっていったのかなと思ったりします。 都子は四歳の時に龍の子太郎をかわいそうだと言って泣いたり、五歳の時に「おばあちゃんこっち通りなよ」と言ったり小さいときから人のことや気持ちを思いやれる子でした。でも大学を選ぶときのように自分の要求があるときはそれをはっきり言える子でもありました。そうして大学に入ったのですが、うちも大変だろうと生活はずいぶんつましかったようです。
八 でも立教大学社会学部に入ると、周りはお嬢さんで、あんま り勉強していないように見えても勉強ができる人が多いので、一年生の時みんなが寝た後朝まで勉強していたようです。そして「おかげさまで小鳥とお友達になりました。」という手紙を書いてくる子なのです。 そうして一生懸命頑張って勉強して二年生になるときに三〇〇〇人の中から一一人選ばれる学業奨励奨学金奨学生に選ばれ、一〇万円の奨学金の支給を受けました。でも都子はそれをお友達にも決して言わず、二年生の時にインド旅行に行った後で、高校卒業した後で就職した友達から「学生はいいよなあ。お金使いながらそんな外国旅行なんかしていられるんだから。」と言われたときにも「ほんとそうよねえ、働いている人は大変よねえ。」と言うだけで、このことや寝ないで勉強していることは一言も言わなかったそうです。それもきっと本当は言いたいけど我慢するというのではなくて本当にそう思って言ったのだと思います。
九 都子は高校の一年生の頃、障害者の方に接した後で大学なん て行かないでボランティアとして障害者の介添えの仕事をしてみたいということもちらっと言ったことがありました。ただそのときは私が都子に「大学に行って勉強して、もっと違う視野から関わる方法もあるんじゃないの」というようなことを言いました。 都子が中学校三年生の時に国体のすぐ後にパラリンピックがあって、都子のブラスバンド部が参加しました。そこで初めて障害者の方に接して「障害を持った人達も協力し合ってあんなことまでできるのに五体満足な私は何よと思った。」というようなことを涙を流しながら話していました。そしてパラリンピックに参加した選手何人かに感想文を送ったそうで、その返事が何通か来ていたようです。 そして詳しいいきさつは判りませんが高校に入ってからすぐに赤十字の障害関係の組織(JRC)に加盟してボランティア活動をはじめました。その他、都子より学年が一つ上の勝田工業高校の生徒などが中心となって「勝田ファミリー」というボランティアサークルが作られましたが、都子は「勝田ファミリー」を作るときにも始めから参加していました。「勝田ファミリー」では、介助などの活動のほかに住んでいる町が障害者にどれだけ暮らしよいかを足で歩いて調べて「福祉マップ」を作ったりしました。 都子は自分で考えつく子というか、自分で考えてやっていく子でした。
一〇 都子は大学に入ってから、家に電話をしてもなかなかいなか ったのですが、後で聞くと、中国帰国者の会の関係のことをしていたり、施設に行って一緒に遊んだり、仲間と一緒にいろんな議論をしていたり、いろいろな活動をしていたようです。「机の上の勉強だけじゃ駄目だ。」ということをよく言っていました。「だから私は社会の中に入って行くし、それにはまず弱い人達のところに行ってそこで私も教えられることがあるから行くんだ」ということを言っていました。施設でカレーを作ったというのも、ただ作ったのではなくて、ジャガイモの種芋を勝田から持っていって、植えるところからはじめて花を咲かせて収穫までして、そのジャガイモを使ってカレーを作ったのです。ただ芋を持っていって作るだけではただ慰めただけですが、一緒にジャガイモを植えて収穫し、カレーを作るまで一緒に体験するという活動をしていたのです。 大学を卒業してからも同じ気持ちで活動をしていて、松戸に住んでいるときも障害児施設の子供達との餅つきのために「四〇人分のお餅をつくにはどれくらいの餅米が必要ですか。」という手紙を私たちのところに送ってきたりしました。 都子は「これからどんな社会にしていったらいいんだろう。」というようなことも言っていました。龍彦が生まれてからも「子供達が平和に過ごせる社会にするためにどうしたらいいんだろう。」というようなことも言っていて、本当に夢が大きい子でした。
一一 都子は大学二年の時に堤さんと全国車椅子の市民集会で出会 ったそうです。 都子は「学生結婚だって合理的でいいんじゃないか。家賃も払わないでいいし。」というようなことを言いだしたことがありました。お父さんが「なんだと思ってるんだ」と言って怒ったので、その話はそれきりになりましたが、後にして思うと堤さんがいたのでそういう話をしたのです。 次に都子は保谷市に下宿していたのですが、大学四年になるとき、北千住に引っ越したいと言い出してさっさと引っ越してしまいました。「勝田に近くなるからいいじゃない」とか言っていましたが、これも堤さんが近くにいるので言い出したことでした。
堤さんのことを都子から最初に聞いたのは都子が大学の二年生の夏頃、ボランティアをやっている東大生がいるという話としてでした。「東大生がボランティアに来たんだよ、東大生だからなにか冷やかしに来たのかと思ったらそうじゃないんだよ。真剣に考えてる人なんだよ。」と言っていました。 そしてそのしばらく後で車椅子の全国集会の終わった後、都子が大学二年生の一〇月前頃に、都子から堤さんのことを「福祉の考え方で共感することの多い人がいる」というような言い方で聞きました。「私の考えている福祉のことよりもっと大きい、全然違うんだよ。」というようなことも聞きました。 都子と堤さんがいつ頃からお付き合いをはじめたかなどはあまり聞きませんでしたが、都子が大学の四年生になって北千住に引っ越した後くらいに堤さんとお付き合いをしていることを知りました。
一二 堤さんが学生の時にはじめて私の家に来ました。私は古くな っているくずかごを恥ずかしいと思って隠したのですが、それを都子が堤さんに言ったらしく、堤さんが来てみんなでデパートに行ったとき堤さんがきれいなくずかごを買ってくれたのでした。それは堤さんが都子と結婚する前です。そんな風になんの飾り気もないざっくばらんな人でした。それから堤さんは、都子と結婚した後も「はじめて給料をもらったから無駄遣いしてくれ」と言ってお金をくれたので、お花をさす壺を買いました。
私は都会に娘を出していつも気になっていたのですが、結婚して、男の人がいつもついているのはなにも心配することはない、結婚するってこんなにいいものかと思いました。
結婚してからも私は何か援助をしなければならないこともあるかもしれないと思ったこともありましたが、都子は「結婚するということは一人前になるということで、経済的にも自立するということだから援助はいらない。」とハッキリ言いました。結婚式もみんな自分たちで段取りしてなんの心配もいりませんでした。
一三 龍彦は結婚して五年目に生まれた子です。都子は一度流産し て、龍彦を身ごもったときも出血して危ないということで、都子は仕事を辞めるかどうか本当に迷ったのですが、大事をとって仕事を辞めたのです。 都子は龍彦を生んだ後も、時間を見つけてはロシア語を通信教育で勉強していました。そして「テレビで発音の練習をしているとたっちゃんもまねしてこうやるのよ」ということを言っていました。
何か自分でこれは素晴らしいと感動してやりたいと思うと本当にためらわずにすっと入って努力していける子です。私は何か能力があったらそのことに集中してやっていくことがいいことだと思っていましたが、都子は「お母さんいいんじゃない、好きなことがあったらそれをやっていけば。」と言っていました。私はそうかなあと思っていましたが、最近新聞で、好きなことをしながら人格を高めていくという記事を読んで、都子が言っていることもそうだったんだなあと思いました。
都子は結婚前の頃、裕に手編みでセーターを編んでやったこともありました。全然習ったこともないのに手編みで一針一針編んだのです。都子は小学校の時に編み方を覚えて自分でベストを編んでしまったこともあります。編み上がったときにはゲージが合わなくて小さくて着られなかったのですが、三色か四色の編み込み模様の力作なので、私はそれを取っておいて、たっちゃんが生まれた後、たっちゃんに着させられると思って洋光台に持っていったことがあります。
龍彦が生まれる前、都子は、パッチワークで、曲線で一つ一つの布を合わせて、綿を入れた丸い敷物を作ったこともありました。それは見事なものでした。都子の、産まれてくる子への思いやり、「これに赤ちゃんを乗せて遊ぶんだ」と言った都子の笑顔を今も忘れません。
一四 龍彦が生まれてからは、お宮参りに、昭和六三年の一〇月初 めに洋光台に行きました。お正月になると寒くなるので、「初客」と言って一二月初めに車で迎えに行って親戚周りをしました。それから平成元年三月頃、都子が龍彦を連れて勝田の私達の家に来て、五月の初節句前の四月上旬頃には、今度は主人と二人で、初節句の内飾りを持って日帰りで洋光台に行きました。その後七月には、私が洋光台に行って、そのとき港南台駅の松坂屋で買い物をしたことを覚えています。洋光台に行ったのはその七月が最後でした。
でも電話ではよく話していました。三〜四日に一回電話をしました。私も勤めていたので長電話をしたことはありませんでした。 ロシア語の勉強をしているのは、都子から「試験を受けるのでたっちゃんを誰か見てもらえないか」という話を聞いてはじめて知りました。都子はそんな風に、何か始めてもそれを人に言うことはしない子でした。 そんな都子達と私達の幸せが、平成元年一一月三日の事件によっていきなり奪われてしまったのです。
一五 事件が起こってからは救出のためになにをどうやっていいか 判らないし、報道関係にしろどう対応していいか判らないので、横浜法律事務所に聞きながらやってきました。 事件が起きるまでは人前で話すこともなかったし、話し始めれば感情のままに話してしまうところもあるので、大勢の前で話すときも臆してしまって、なにを言っていいか、なにを言ってはいけないか判らず震えてしまいました。一人では気が狂ってしまったと思います。
極度の不安と緊張の中、「とにかく救出の活動をしなければ。捜査の縮小になっては見つけだせない。」と思って、署名活動を重点に一人一人に声をかけ、必死の思いで署名集めをしました。その中では、例えば私と主人が袋田の滝で署名をお願いしているとき、「もう殺されてるよ。」と、見てきたかのように事細かに話をするような人もいて、身の震えるような思いをしたこともありました。そのような話を聞いたときには、それ以上署名を続けることができなくなってしまって、途中で帰ったこともありました。でも、多くの人達は、「頑張ってください。必ず見つかりますよ。」と暖かく声をかけて下さいました。 署名に集会に、主人とともに駆けずり回りました。「どっかに必ず生きている。」と生存を信じ、捜し続けました。五年一〇か月の歳月は、筆舌に尽くせるものではありません。
主人は「女はうちにいた方がいい」と言って、事件が起きるまでは、私が働くことについて反対されたこともありました。ただ、主人は「女の領域に手は出さない」と言ってはいましたが、男としての自分の領域はきちっとやってきました。そのような主人と一緒に力を合わせてきたので、私も何とか五年一〇か月の救出活動を続けることができたのだと思います。主人や大勢の人に支えられなければ私は絶対にやってこれなかったと思います。
一六 ところが、平成七年の春頃から、新聞などで、都子達がもう 殺されているというような記事が出始めました。始めて私達がその記事を見たのは、六月下旬の毎日新聞でした。その記事を見たとき私は、「こんなに大きい新聞に出るのだから、これは殺されている確率の方が高いのでは。」と思ってしまいました。でも、その絶望のどん底にいるときに、都子のボランティア仲間の方で救出活動をずっと一緒にやってくれた人が駆けつけてきて、私達が心配しているのと違った雰囲気で「あれはただのリーク情報だよ。」と話し始めてくれたのでした。「犯人にこの記事を見せて、『もう判っているんだから本当のことを話せ』というためにリークすることもあるんだと報道関係に勤めていた友達から聞いたことがあるから、そんなにこの記事で決めつけて悲観することはないよ。」と言ってくれたのでした。それで少し気持ちが癒された思いがしました。
でもその後、毎日新聞だけではなく、読売新聞にも都子達が殺されているという記事が出ました。それでも私は、まだ朝日新聞は書いてないからと自分に言い聞かせていたのですが、とうとう朝日新聞にも都子達が殺されているという記事が出てしまいました。私はその記事が出たとき、主人に「お父さん、朝日新聞にも出ちゃった。」と言いに行ったことを覚えています。
それでも私は、警察からは何も言ってこないし、この年の二月には、警察の方から、「山の中で子供を連れた若夫婦が歩いていた。その子供に犬がじゃれついたので買い主が駆け寄ってその犬を離して、夫婦に話しかけたけれども何も言わずに立ち去ってしまった。そういうこともあるんだから。」と、生存救出をほのめかすような話を聞いていたこともあったので、まだ、生存救出の望みはあると自分で信じて救出活動を続けてきました。
一七 でもその後、新聞、テレビ、週刊誌などで、都子達の埋めら れている場所まで記事や報道が続くようになったり、警察の上の方の人が「水芭蕉の咲く頃解決する」というようなことを言ったとの報道がなされたりするようになって、私は、八月七日に磯子署に電話を入れて、「いろいろな報道があるけれど、どういうことになっているのですか。」と聞きました。その時には「お話ししなければいけないことがあって、考えていたところです。」と言われました。私はそれを聞いて、「これはやっぱり厳しいのかなあ。磯子署でそういうのだから駄目なのかなあ。」と思ってしまいました。 そして、八月九日に、磯子署の現場の責任者の方と刑事さんが家に来て、「坂本さん一家は厳しい状態です。」と言いました。その後にも何か言われたのですが、私はそれを聞いたとたん、その後の話は耳に入らず、何を言われたのかも判らなくなってしまいました。
一八 警察が八月下旬に合同捜査本部を作り、九月上旬には一家の 捜索を始めるということになって、私達はマスコミの取材を避けるために九月一日から家を出ました。 九月六日は朝からずっと旅館にいました。夕方の四時過ぎ頃、磯子署の責任者の方から電話があり、主人が出ました。主人に警察の方は「犯人が供述した場所から女性の遺体の一部が発見された」と話したそうです。それから三〇〜四〇分経ってから、今度は「堤さんの遺体が発見された」という電話もありました。堤さんの遺体は確認できる状態だったとのことでした。
私は主人から女性の遺体の一部が発見されたという話を聞いたとき、「これはもう駄目だ」と思って主人にも言ったのですが、主人は、「まだ都子と決まったわけではない」と言い、私はそれもそうだと自分に言い聞かせることをして、そんなことを繰り返していたのです。でも、次の電話で堤さんの遺体が発見されたということを聞き、そこで「これはもう本当に駄目なのだ」と思いました。この話を聞いてからは、何か聞いたことを書き留めておかなければとは思うのですが、書き留められるような状態ではなくなってしまいました。
一九 九月一〇日に龍彦が発見された後、私は、「どうしても三人 に会いたい。こんなに一生懸命捜してきたのに。会えなくても外から声をかけるだけでもいい。」と、岡田先生に我が儘を言って、九月一二日に、三人のいる病院三カ所に連れていってもらいました。主人は、報道関係者も捜しているし、会うのは無理だと言ったのですが、私はどうしても会いたかったのです。会いに行きたかったのです。最初に行ったのは都子のいる北里病院でした。でも結局都子のいる部屋の中には入れず、扉越しに都子に声をかけました。「都子」「都子」と呼びかけながら、その場でわあわあ泣いてしまいました。でも都子に扉越しでも声をかけることができたことで、少しは気持ちが落ち着いたようにも思います。
二〇 前にも話したように、都子は、何をするにも一生懸命で、前 向きで、それに自分さえよければいいというところが全くなく、みんなの幸せをいつも考える子でした。それなのにこのような残酷な結果になってしまって、「こんなに一生懸命に生きていた子がなにをやったのよ」と、どうしても思ってしまいます。 私達は、密葬の終わった後、一〇月の上旬に都子達が埋められていた三カ所を回りました。そしてその直後、警察から洋光台の家で麻原達への気持ちを聞かれたときには「あそこに行って麻原や犯人達を同じようにして埋めて欲しい。」とまで言いました。すると警察の人は「そういうことはちゃんと言ってくれる人がいるから。」と言いました。私は、子供と別れるということがこんなにつらいものだということを本当に思い知らされたけれど、犯人を生き埋めにしたりすると、その親もこの私と同じ思いをすることになるのかと思い、でも許すことは絶対にできないとも思いました。それで警察の人には「麻原に対してなりふり構わず、気が狂ったと思われてもかまわないからありとあらゆる言葉を投げつけたい、それしかできることはないから」と言いました。
きれい事は言ってられない、生きてかえればあまり醜いところは出したくないけれどこうなってしまえば、という気持ちになってしまいます。それに、本当に一生懸命生きてきた子なのに、最後になって都子が鍵を閉め忘れたからこんな事件になったと言われるのは本当にかわいそうでたまりません。
二一 今年の四月一三日に立教大学で追悼集会を開いてくれ、私は そこに主人と出席したのですが、都子と同じゼミの上級生で、夕張に行った人が、その席で「短い人生だったけど、濃縮された人生だったよなあ。」と言ってくれました。それを聞いて私は、私だけでなくて人もそう認めてくれているのだと思いました。その席では、立教の同じ社会学科の人も「都子さんが社会学科の集まりの時に時間ぎりぎりに息せき切って駆けつけてきて、映画を見てきたと言ってその感動を話すときの様子が強烈な印象に残っている」と言ってくれました。
二二 このような事件を起こした麻原や犯人に対しては、なんと言 っていいか判らないほどの気持ちを持っていますが、麻原達に何をしたとしても、都子達が戻ってくることはないのです。そんなことを思うと、都子達はこの世の中を命を懸けて良くするために生まれてきた犠牲者だと思うようにしないとやりきれません。この事件が起きて、このような結果になってしまうと、都子達は、世の中の過ちを正すために、命を懸けて、その過ちをみんなに知ってもらいたくてこんな事件が起きたんだなというふうに思ってしまいます。事件が起きたということを諦めるというわけではなく、そう思うようにでもしないと都子達がただ無意味に殺されてしまったというようで耐えられないのです。そして、都子達が発見されるまで六年近くもかかったということについても、みんなに知ってもらうためには六年の歳月が必要だったんだと、私にはそれが何かはよく判らないけれど、世の中のおかしなものを直すための、そしてそれをみんなに知ってもらうための、そのための必要な期間だったんだと無理に自分に言い聞かせています。そう思う以外に自分は立ち上がれないから、みんなに知ってもらうためにあの子たちは六年間耐えたんだと思わないと私が立ち直れないから、そう思うようにしているのです。
二三 都子は、事件の直前に「命ある限りに思う。燃えてつきたし 女なりせば」という本を読んでいました。私が事件の後に洋光台の家に行ったとき、その本がライティングデスクの前辺りに落ちていたのです。そこに椅子もありました。そういう様子からすると、都子が龍彦に添い寝をして鍵をかけ忘れて寝てしまったということは私には考えられません。都子が鍵をかけ忘れたために犯人達が洋光台の家に入ることができたというような報道がされているのを見ると、都子が不憫でたまりません。
この裁判を通じて、この鍵のことも含めて全ての事実が明らかにされることを願っています。それが私達が都子達にしてあげられることだと思っているからです。
平成八年一一月一八日
大山やい