都子さんへの追悼文集
都子さんの大学時代のお友達を中心として、追悼文集が制作されました。ご無理をお願いして、その一部を当ホームページ掲載させていただくことになりました。人見さんを始めスタッフの皆さん、掲載をご快諾いただいた執筆者の皆さん。本当にありがとうございます。
一つ一つを読んでいると、私たちの知らなかった都子さんのあたたかい人柄、真摯な生き様、そしてすばらしい交友関係がくっきりと浮かび上がってきます。あらためて、悲しみと憤りがこみ上げてきます。本当に残念でなりません。
5年10ヶ月に及ぶ坂本一家救出活動は、弁護士のみならず多くの市民の皆様に支えられ、かつて例を見ないほどの大きな運動となりました。しかし、どうしてもその中心は弁護士や坂本弁護士と関わりのあった方々がメインとなり、都子さんを直接知っている人は決して多くありません。「救う会」のメンバーですら、都子さんに会ったことのある者は数えるほどです。また、運動論として「弁護士業務妨害」「民主主義」という側面を強調しなければならないということもありました。それだけに、都子さんのことがなかなか運動の前面に現れず、大山さんご夫妻や都子さんのお友達の皆さんには、歯がゆい思いが多々あったことでしょう。この場を借りてお詫び申し上げたいと思います。 瀧澤
ある秋も近い日の午後、授業からの帰り道、立教通りで大山都子さんと久しぶりに一緒になりました。3年生にもなるとそれぞれの時間で学校に来ているので、なかなか会うことは少なくなっていました。その頃私の頭を占めていたのは、卒業した後どうしようかという事で、自分の考えを信頼できる人に聴いて貰うのを何よりの研鑽?楽しみ?のように考えていた私は、さっそく大山さんに言いました。
「何かが変わる為にはまず心が変わらなければならないと思う、従って自分はもっと個人の心に働きかける方向に進みたい」というような事を。
すると都子さんは通りの雑踏の中、数秒だったと思いますが、じっと口をつぐんでから言いました、「自分は、もっと直接社会のハードな側面を変えなければダメだと思う」と。それまで漠然と漂うようだった考えは、ただちに欠けていたものが補われ、個人の心的なものとハードな社会的なものとは切り離せない一対なものとして書き換えられて、私の胸に刻み込まれました。ですから私自身にとっては、より今後の自分の方向性が明確になった第一歩の場面として鮮明な思い出です。同時に一緒に入学して以来 3年の間に、大山さんとの歩みの違いも浮き彫りになったようで、淋しいような、しかしやはり、さすがに大山さんで、既に卒業後どんな立場でやって行こうとしているのか?〜具体的には後に堤さんと共に法的な側面に身を置かれた訳ですが〜まで決心されている様子が、印象深く心に残っています。
もし都子さんを何かに例えるとしたら?花なら<ひまわり>、そうでなければ<太陽>かしらと、学生時代も今も、思いを巡らせると同じイメージが浮かんで来ます。<ひまわり>も<太陽>も生命を司るエネルギーの源、投げかける光は命を育み、暗さを明るみに、そして優しくさわやかに、暖かく万物を包み込むもの等、たくさんのシンボルが都子さんのお人柄を膨らませてくれるように思います。聖書の言葉に「ともしびを下に置く者はいない」というたとえ話がありますが、<ひまわり>のような都子さんの命のともしびが、現代の日本の社会全体を映し出すにふさわしい光として、大きく高く引き上げられた事を感じずにはおれません。
うつし出されたものは、加害者オウムの実体をはじめ、TBSを通したマスコミのあり方の問題、横山弁護士のような有資格者の倫理感覚、この事件の捜査における警察のスタンス、裁判の成りゆき・・など、現在の私たちが生きる社会の多岐に渡る数々の問題や課題であり、ひいてはこうした諸事を発生させるに及んだ源にある市民感覚にも及ぶものであるといえましょう。大きな湖が大きな山の姿を映すように、澄んだ真っ直ぐな光こそが事物を在るがままに描き出すことができるように、都子さん堤さんのご夫婦であればこそうつし出した日本の姿であるように思います。
都子さんとの思い出を語ろうとするとき、クラスが一緒だった、クラブが一緒だったという他に、特に何をしたという思い出がたくさんある訳ではないことが、今となっては大変悔やまれてなりません。年齢を重ね、様々に経験した事柄をいつか会って語る日を心待ちにしていたのに!
天国での都子さんとご家族の御魂の平安を祈るのみです。
1996年4月13日、立教大学のチャペルにおいて、坂本都子さんご一家の追悼記念式が行なわれた。記念式の前に、I元チャプレンの司式で、都子さんのご両親や多数の友人、知人の参列のもとに、記念樹の植樹式が行われた。場所は8号館の裏、赤レンガの体育館の前である。かつて老朽化した部室のあったところが、取り壊されて庭園になっていた。日本野鳥の会の協力のもとにつくられたミニバードサンクチュアリもあり、手狭なキャンパスの中では、緑うるおう貴重な憩いの空間となっている。新学期の活気にあふれる中で、満開のシダレザクラがひときわ美しかった。
ここに植えたのは紅梅である。都子さんの出身地である茨城県にちなんで選び、茨城で育った株を取り寄せた。立教大学の中では唯一の紅梅になるという。都子さんの出身地である勝田は、水戸市のすぐ東隣りであり、観梅の名所の偕楽園もすぐ近くという。都子さんの誕生日は、梅香る2月の24日という。そして昭和53年の梅咲く頃には、立教大学受験のために上京した。それからの東京の生活では、梅の花を見るたびに生まれ育った懐かしい故郷を思い浮かべていたにちがいない。
私の勤務している高校の校章にも梅が使われており、私は梅にまつわる故事を調べたことがある。そのときの資料を読み返してみた。梅は馥郁たる香りと清雅な姿は古くから日本人に愛されてきた。早春、百花に先がけて春を告げることから、「花の兄」と古典や謡曲にもうたわれている。追悼会の中で、「都子さんは地味で控え目ではあったが、しっかりと自分や周囲を見詰める芯の強さをもち、そして優しさをもっていた」と、多くの人が語っていた。暖かさに誘われて一斉に賑やかに花開く桜などとは異なり、厳しい寒さに耐えながら、一つ一つじっくりと花を咲かせ、香りを放ち、人の心をなごませる個性は、都子さんの性格と通じるものがある。 梅には「好文木」という別名もある。私は都子さんとは立教大学在学中、炭坑の閉山で荒れ果てた夕張の町の整備のために、労働奉仕を通じて学びあったワークキャンプ(立教キャンプC)の仲間である。その後、このキャンプのメンバーの有志は「結」という読書会をつくり、社会の様々な問題を話し合い交流を深めた。これらの活動の中で、彼女はいつも社会への鋭い問題意識を持ち、読書に励んでいた。また自分の抱いた問題意識や感動を文章や言葉で、多くの人に伝えようとしていた。追悼式で朗読された文才あふれた直筆の文章は、彼女の優れた知性と感性を思い起こさせ、参列者の涙を誘った。
梅の花言葉は「澄んだ心」、「高潔」、「忠実」である。都子さんは中学時代からボランティア活動に関心を持ち、社会の中で弱い立場にある人のことを考え、そうした方々への奉仕を惜しまない、「澄んだ心」の持ち主であった。夫である堤氏との出会いもボランティア活動とのことである。そして堤氏が弁護士をめざしたのも、社会的な弱者のために戦おうとする純粋な正義感からのことらしい。独善的な価値観で、反社会的な行動を繰り返すオウム真理教に、夫婦で励ましあいながら「潔く」挑んでいったことだろう。ウメの果実は、梅干、梅酢、梅酒など、健康食品としても重宝されている。現代社会の病理が生み出したガン細胞とも言える狂気のカルト集団に対して、社会の「健康」のために、表面的なきれいごとに終わることなく、身をもって命懸けで戦った実践的な人だった。「高潔」な志に「忠実」な、梅の花言葉が似合うご夫妻であった。酸鼻な事件の被害者になってしまったのは、悲劇としか言いようがない。
ご一家の墓所となった鎌倉にも梅の名所は多い。茨城に因んで単純に選んだ梅だったが、不思議と都子さんとつながることが多い。記念樹にぴったりの樹木を選ぶことができ、世話人の一人として安堵している。この梅の木に花が咲く頃、大学は入学試験が行なわれ、卒業の準備が整えられる。行き交う人達に、春の訪れを告げ、新たな季節への決意を促し、またこの悲惨な事件を思い起こさせることだろう。
一連のオウム事件は、戦後教育の欠陥が生み出したとも言われている。物質的に豊かにはなったが、その反面自己を抑制したり、他人を思いやる気持ちが育ちにくくなっている「豊かさの中の心の貧困」。都市化、核家族化、情報化が進んで、過保護や管理的な社会で育った結果、自分の頭で考え、責任を果たす姿勢が乏しくなっていること。自分の利益だけを追求するあまり、思いやりとゆとりのない社会となっていること。こうした社会の風潮がオウム事件の背景と指摘されている。私は教育現場にいる一人として、こうした点からも事件を見詰め続けて行こうと思う。
追悼式には人と人との繋がりを大事にした都子さんらしく、不思議な縁で結ばれた多くの人が集まった。毎年2月24日頃にこの梅の木の下に集まろうという声も出ている。悲しい出来事ではあったが、追悼式、そして記念樹を通して、人と人との交わりが豊かになり、社会を見詰めるきっかけになれば、せめてもの救いである。
植樹式の式文の最後には次のようにあった。「天の父よ、あなたに召された坂本都子を記念して植樹するこの紅梅の木を祝福して下さい。み名によって建てられたこの大学に学ぶすべての者が、その麗しく咲き出た花を見るときに、虐げられた弱い人々を解放し、あなたの正義を実現しようとして命を捧げた先輩をしのび、その良き模範に倣う志を起こさせてください。すべての人の罪をわが身に負い、十字架の上でとりなされた主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。」アーメン。
同時代のこと ─都子さんとCキャンプ・結のこと─ K. H
1 都子さんと私の出会い
都子さんとの出会いは、立教大学の学生だった18年前にさかのぼります。都子さんが1年生、私が3年生の1978年の夏、ともに大学が主催する大夕張ワークキャンプ(立教キャンプC)に参加しました。大夕張というかつて炭鉱で栄えた町に、ボランティアの学生達が地域の活性化、町おこしに何らかの形でかかわろう、との趣旨で前年の1977年から開始されたキャンプでした。当時の都子さんは、くりくりした大きな目とふっくらした顔、少しぽっちゃりした外見と同様、あったかな人柄という印象でした。キャンプでは、スキー場の草刈り、廃線となった駅舎のペンキ塗り、地元の盆踊り大会への参加など盛りだくさんの内容で、都子さんとはろくに話す時間もありませんでしたが、キャンプから帰ってから、大夕張にどうかかわるかを考える会合に都子さんも加わっていました。まじめな人柄と熱心に他人の意見に耳を傾ける姿を覚えています。都子さんは一度かかわったテーマをとことん掘り下げるというだけでなく、そこで知り合った人との付き合いを大切にしたいという気持ちが強かったのではないか、と今にして思います。私と同じ社会学部社会学科でゼミの後輩でもある都子さんとは、話す機会も多くなりましたが、時々、「この問題について人見さんはどう思いますか?」と問われ、立ち往生した思い出があります。
2 「結(ゆい)」について
私が大学を卒業し一年たち都子さんが4年生となった1981年の夏、78年のキャンプ参加者を中心に読書会をつくりました。都子さんもその最初からのメンバーでした。みんなで読む本を決め、月一回程度集まって意見交換するほか、会報を発行しました。読書会の名称を決める際、都子さんが「結(ゆい)」にしたい、と意見を述べ、会の名称に決まりました。
都子さんは「私たちの集まりを『結』と呼びたいわけ」という彼女自身の文章の中で、次のように書いています。
「結(ゆい)というのは昔の村共同体にあった助け合いの制度のことなのですが、ここでは もっと根源的に人と人とを結ぶもの、と考えたいのです。…この「結」を通してもう一度つな がるきっかけをつくりませんか。…今、少し勇気を出して心を開く作業を始めませんか。」
「結」では読書だけでなく、自然活動と称してハイキングや山小屋に行ったりもしました。都子さんと4〜5人のメンバーでイチゴ狩りに行ったことがあります。都子さんは真面目ではあるがガリ勉タイプではなく、健康的で体を動かすことも厭わない人でした。当時も熱心に福祉施設や中国からの帰国者たちのボランティア活動に取り組んでいた頃でした。
3 同時代のこと
「結」で最初に取り上げた本が吉野源三郎の「同時代のこと」(岩波新書、1974年)でした。その本の中で、吉野氏はジャーナリストに要求される姿勢を次のように述べています。
「人間に対する溌剌とした興味と関心、共感と愛情とを備え、したがって一切の非人間的な もの、抑圧的なものに対しては、常に拘ることなく反対の立場に立つ、飽くまでも人間的で自 由な生活態度を根底とするものであって、このような態度を必要とするのは、ジャーナリスト だけに限らないのである。」
この文章に書かれている通りの、人間的で自由な生活態度を都子さんは身につけていました。同時に不正を憎み、人間が抑圧されている現実に対し、声を上げなければ、とやっきになっていました。就職して法律事務所に勤めていた関係で、サラ金に追われ打ちのめされている人達の話をしてくれこともありました。時には第五福竜丸のこと、冤罪のこと、また時には監獄の現状についてのレポートを持参したりと様々なテーマを私や「結」のメンバーに提供し、自分でもできることを模索していた時期でした。
弁護士志望の坂本堤さんとつきあい始めたのもこのころです。坂本さんと車椅子の全国集会で知り合ったこと、彼はラルフ・ネーダーの生き方に感動し、社会の不正を正すことを志したこと、そうした熱い胸の内を語ってくれたことがあります。都子さんが生涯の伴侶として坂本堤さんを選んだのは必然だったと思います。
4 事件のこと
「結」はその後、有力なメンバーがUターンなどで東京近郊を離れてゆき、それぞれ所帯を持ったりしたため、活動停止の状態が続いていました。最後にほとんど都子さんが独力で発行した会報は、1983年9月の第14号です。都子さんは最後の「結」に、その二年前に起きた北炭夕張炭鉱のガス突出事故(坑内火災の後水没させた結果93人が死亡)を題材に、行動する心の大切さを書いています。
その後、私と都子さんとは年賀状のやり取りをする程度の付き合いとなっていました。便りに横浜市磯子区に転居したことを知り、同じ市内だから子育てが一段落したらそのうち会えるだろうと漠然と考えていました。
1989年11月半ば、事件を報道するTVを見たときの衝撃は昨日のことのように思い起こすことができます。平和な家庭生活がある日ぷつんと途切れた形で、一家三人が突然いなくなる。当初はマスコミでも「失踪」と報道されていました。都子さんを知るものとしては釈然としない思いを抱きつつ、すぐに現れるものと考えていた時期もありました。いよいよ何らかの事件に巻き込まれたことが確実になった段階で、捜索と救出を求める活動を私も手伝いました。職場や立教のOB、とりわけCキャンプの参加者や「結」のメンバーに、坂本さん一家の救出の署名やカンパを呼びかける手紙を送りました。都子さん、堤さんを知るものとしてだけでなく、幼い龍彦ちゃんと同年輩の子供を持つ親としても、一家を拉致した犯人たち(当時彼らの実像は知るよしもありません)が憎くてたまりませんでした。坂本さん一家救出のため「救う会」の集会などにも足を運びました。当然のことながら弁護士としての坂本さんとの関係者が中心だったため、都子さんのことがなかなか紹介されずもどかしい思いを感じたのも事実です。関係者に都子さんの実像を伝えたく、彼女が「結」に書いた文章を、当時の「救う会」の事務局に届けたこともありました。
都子さんは単に坂本さんの妻というだけでなく、本人自身どれだけ社会の不正や非人間的行為を憎んだ人か、そして「人間に対する溌剌とした興味と関心、共感と愛情とを備え」ていた人であるかを、知って欲しいのです。その都子さん一家の命を、教団の目的のため、殺人という手段で排除した松本以下の人達の行為ほど非人間的行為はないと思います。思うに、堤さんの教団に対する追究がそれだけ厳しかったからなのでしょう。しかし正義を暴力で排除するという行為が、法治国家といわれる日本で許されてよいのでしょうか。このことが厳しく処断されない限り、この国の将来は無いのではないでしょうか。
5 追悼会のこと
1996年4月13日、立教大学のチャペルで都子さん一家の追悼会を行いました。主催したのは、生前の都子さんを知る有志たちで、同じ学科・クラブ・寮の卒業生、そしてわれわれCキャンプと「結」のメンバーです。追悼会は、百名を越える参列者と都子さんのご両親の出席を得て行われ、都子さんの参加したCキャンプの時の立教大学チャプレンであったI先生に奨励をしていただきました。また、堤さん、都子さんとも親交の深かった日フィルの人達に弦楽五重奏を奏でていただき、二人の愛した音楽に包まれた追悼会とすることができました。
都子さんを失った悲しみと怒りを当初は何にぶつけていいかわかりませんでした。そんな同じ思いを共有する者たちが集まり、追悼会を企画し準備する過程で、おしきせでない自分たちらしい集いにしようと話し合いを続けました。追悼会は、都子さん一家の追悼とともに、ご両親を励まし、さらに堤さんのかげでなかなか知られていない都子さんがどんな人だったか、堤さんと同様非人間的な行為を憎み、社会的な正義の実現のために自分なりにできることを実践した人であったかを伝えることを意図したものです。
会に先立ち、梅の木をキャンパスの一角に植樹しました。都子さんの出身地勝田(茨城県水戸市に近い)にちなんで、紅梅の苗木を選びました。追悼会のスタッフは毎年紅梅の花の咲く頃この木のもとに集まろう、と約束しています。
私と都子さんとのつきあいは今後も続いて行くことと思います。同じ時代に生まれ、同じ大学で同じ学問を学び、キャンプで知り合って以降、卒業後も様々なテーマについて語り合いました。都子さんの人へのやさしいまなざしと笑顔、人と人との関係をずっと大切にしていく態度、社会的な問題を自分の問題としてとらえ、何よりも人の痛み、悲しみを自分の痛みとしてとらえる感受性は、私にもたくさんの影響を与えてくれました。人権が踏みにじられ、非人間的な行為がまかりとおる、そんな状態を許してはいけない、と今も都子さんが語りかけているような気がします。今でも都子さんに相談したいこと、語り合いたいテーマはたくさんあります。
都子さん、どうか私たちが同時代の様々な事件や出来事にどう反応し、自分のこととして捉えるのか見守って下さい。この国を私たちが自分の息子たち、娘たちに自信をもって受け渡すことのできる社会にしていくためにも。
「″おかあさん″のような人です。」
テレビ局のリポーターに「都子さんはどんな方ですか」と問われて、わたしの口から出た答えです。自分でも意外な答えでした。インタビューを受けることとなって当然出てくるであろう「どんな人?」という問いに、なんと答えるのがいいだろうと色々用意もしていました。ところが、私の口から飛び出したのは、「おかあさん」の五文字でした。誰かの母親のような人、という意味ではなく「おかあさん」という言葉の持つどこか懐かしく、あたたかく、優しく包み込んでもらえそうな響きが都子さんの顔を思い浮かべた時私の中でぴったりと合ったのだと思います。
1981年6月の蒸し暑い夕方、六本木のテレビ朝日文化福祉事業団の会議室で私は都子さんと出会いました。おとなしそうな雰囲気の彼女は決して人より先に意見を言うことはなく、必ず周りの意見を聞き、「そうね」と相槌を打ってから自分の主張をする人でした。そして、厭味なく押し付けがましくなく、けれど確かに正論を必ず教えてくれる人でした。私が都子さんと一緒に参加していたのは、中国からの帰国子女(中国残留孤児の子供たち)や生活扶助を受けている家庭の子供たちと共に夏休みにキャンプに行くというものでした。中国から帰国した子供たちは、なかなか日本語が覚えられない両親と自分より年下の日本の同級生(たいていの子は二学年下に編入していました。)の間で大変なストレスを抱え生活していました。都子さんはキャンプに参加するだけでなく、子供たちに日本語と勉強を教えるボランティアも法律事務所に勤めながら続けていました。
都子さんが特に心を痛めていたのは、子供たちが最初に覚える日本語が「ダイジョウブ」という言葉だということです。周りに心配をかけたくない気持ちと自分にかまわないでほしいという気持ちの両方が、子供たちに「ダイジョウブ、ダイジョウブ」とくり返させます。「大丈夫な事なんて何ひとつないのに」と子供たちをいつも心配していました。
1984年の春、キャンプの行き先に東京都日の出町にある「太陽の家」を紹介してくれたのも都子さんでした。「太陽の家」は9年前に施設としてオープンしましたが、当時は地元の反対運動が激しく、説得運動の最中でした。この時のキャンプは台風のため中止になりましたが、私たちは説得運動の一つとして行われていた障害をもった人たちとの月一回の宿泊訓練に幾度か参加しました。
訓練に参加している中に、Rちゃんというダウン症の女の子(とはいっても成人の方です)がいました。都子さんを最初からとても気に入り、ハイキングも作業の間もずっと一緒でした。夜になっておかしそうに都子さんが話してくれた事です。
「Rちゃんがね、しきりに『せんせいきれい』って言うの。うれしくてそのたびに『ありがとう』って言ってたら何か様子が変でね、木を指さしながら『せんせい、きれい』って言うからよく見たら、でんでん虫がいたの。私『でんでんむし』と『せんせい、きれい』を聞き間違えていたのよ。」
ダウン症のRちゃんは、ほんの片言しか話せません。けれど大好きなでんでん虫を一生懸命都子さんに教えてくれようとしていたのでしょう。翌日の作業中には、Rちゃんと立ち止まってはでんでん虫を見つめている都子さんの姿がとても優しく見えました。飽くことなく、とても根気よく、都子さんはRちゃんと手をつないでいました。
都子さんと堤さんは同志のような二人でした。二人の目は常に社会的弱者に向けられ、熱く励ます堤さんと対照的に、慈愛をもって「一緒に頑張りましょう」と穏やかに励ますのが都子さんでした。けれど、不条理や不正に対した時はまるで別人のように鋭い口調で攻撃しました。お金や権力よりも大切なものをしっかり守り、言葉でなく身をもって教えてくれた人でした。
都子さん、会わないうちに私は私の知っている貴女の年齢を追い越しました。堤さんまで追い越してしまいました。けれど不思議です。貴女はいつも私の前にいます。同い年の男の子を産み「一緒に子育てできるね」と話しましたね。「子供と一緒に親である私たちももう一度成長していかなくちゃ」という貴女と幼稚園のこと、学校のこと、なにより子供たちを取り巻く社会のこと、たくさん話したかった。都子さんならなんて言うかしら、そう思うことの多いこの頃です。
最後に友人宅で会った日、ようやく歩き始めた、たっちゃんは一歳を迎えたばかりでした。少しの段差を引き返しては貴女を呼ぶたっちゃんに「少し慎重すぎるんじゃない」と笑いながらもその度に立ち上がっては付き合う貴女は本当に優しいお母さんでした。その時には子供のことばかりでなく、バングラディシュの洪水のこと、当時話題になり始めたセクシャルハラスメントのこと、近くなってきた選挙のことなども話題にのぼりました。セクシャルハラスメントのことで、「これまで声をあげられなかった人たちの声をあげるチャンスになるといいね」と貴女は言っていましたが、本当にその通りになりましたね。 貴女は常に外にも目を向け、色々な問題について考えている人でした。帰りの電車の中では、少しオナカの出で来たという堤さんの体を気遣いながらもとても幸せそうでした。今度は十一月に貴女の家で、という約束はとうとう果たせなかったけれど、私は貴女が行方不明になった一報を聞いてから、繰り返し繰り返し貴女と過ごした時間を思い出しています。貴女の優しい声をいつでも思い出せるように。
TBSが問題になっています。
私たちは、6年間、坂本さん一家の救出運動に音楽家としてできることを精一杯取り組んきました。ささやかな行動でしたが、演奏にこめられる願いや祈りは深く真剣なものでした。TBSのビデオ問題は、多くの人たちは坂本さん一家救出のためにささげた、人として示すことができる愛情や善意のうねりとは対極にある、無神経、不道徳、非文化そのものだと思います。
テレビは日本フィル事件の頃から堕落した、と私は思っています。放送局の開局には「文化」の装いが必要でした。「文化」の担い手としての気概に満ちて、放送局は競って専属のオーケストラを創りました。日本フィルもその一つです。23年前に「不採算部門の切り捨て」を理由に、放送局が運営を拒否し、日フィルは存続の危機に陥りました。解雇された音楽家たちが数々の暴力的な攻撃にも負けずに立ち上がり、自主運営の道を歩み始めたとき、たくさんの市民や労働者や学生が“オーケストラの灯を消すな!”と支援にかけつけてくれました。
その中に坂本堤さんと都子さんがいました。
音楽は神様からの贈り物、音楽家はそれを伝える天使たち・・・。音楽を心から愛する二人は、こんな日フィルの音楽家たちに限りない憧れと共感を寄せてくれました。堤さんはヴァイオリンを、都子さんはフルートを奏でるアマチュア・プレーヤーでもありました。
日本フィルのサマーコンサート( 2泊 3日のイヴェント)には5年連続して揃って参加れ、都子さんは演奏や運営で忙しくしている団員の子どもたちの世話役をかって出てくれました。深夜の大宴会では、酔っ払った演奏家に酔っ払った坂本さんが必ずリクエストする「タイスの瞑想曲」に、肩よせあって聴きいる二人の姿がありました。
坂本弁護士一家救出活動にかかわるなかで、都子さんがお母さんにあてた手紙を、ある本のなかで見つけました。龍彦ちゃんと過ごす何げない日常のなかで、FM放送から流れる渡邊暁雄指揮日本フィルのシベリウスの曲に心ふるわせた、という内容でした。母となった彼女の姿が目に浮かび涙が止まりませんでした。
音楽を愛し、人間を愛した都子さん。理性や品性が輝く美しい人の社会の在り方を追求していたあなたが、その対極にある醜悪なものたちの犠牲になってしまうとは・・・。
昨年夏の終わりにやっとご一家に巡り会えて半年、あまりに想像を超えた結果にしばらくは天国にいる3人への祈りの気持ち以外、何も言いたくない気分だったのですが、TBS事件以来怒りがムラムラとわいています。
ご両親と同様、本当のことが究明されることを心から望んでいます。
(1996年4月13日)
*この文章は、追悼会当日、参列者にお配りした「追悼会のしおり」から転載させて
いただきました。