陳 述 書
弁護士 武 井 共 夫
一 私は、一九八一年四月に横浜弁護士会に弁護士登録し(三三期)、横 浜法律事務所に入所しました。
横浜法律事務所には、一一年間おりましたが、その間一九八七年の四月に坂本堤弁護士が私の六年後輩として入所してきました。
二 坂本君は、東京大学法学部での私の後輩でもありましたが、学年が三 年違うので、大学時代には特に面識はなく、私が初めて彼に会ったのは彼が司法修習生のときでした。
彼は、ある日の夕方横浜法律事務所に現れたのですが、当時彼は東京修習であり、自宅も確か松戸のあたりだったので、遠いところをわざわざ来てくれたという印象がありました。
その次に彼に会ったのは、彼が就職先を探して横浜法律事務所を訪問して来たときでした。そのとき彼は、一時間近くにわたって自分がなぜ弁護士になろうと思ったか、どういう弁護士になりたいか等熱弁を振るったのですが、特に印象に残っているのは彼がアルバイトで日雇い労務者をしたことがあるということです。居合わせた弁護士は、私を含めて皆彼の熱意と積極性に打たれて彼の入所が決まりました。
三 彼が入所してからは、比較的年も近いので、彼とはいろいろと一緒に 仕事をしました。
私から特に彼に一緒にやってくれるように頼んだのは、霊感商法の事件と横浜市金沢区の南部斎場建設反対の事件でした。
霊感商法の事件では、当時被害救済に当たっていた弁護士を中傷するビラがまかれ、それにどう法的に対抗するかの検討を彼がしてくれました。
彼と一緒に担当した被害者(脱会者)の事件で、統一協会の道場に置いてきてしまった脱会者の私物を彼が本人と一緒に取りに行ってくれたこともありました。
南部斎場の事件では、彼と一緒に何度も現地に行きました。現地へ行くときは、彼は自動車も運転免許も持っていなかったので、いつも私の運転する車で彼を送り迎えしていました。
彼は、自分では、少年問題や障害者問題をライフワークにしたいと言っていましたが、労働事件も熱心でした。当時私も労働事件をやっていましたが、彼と一緒にやったのはなぜか会社倒産に伴う雇用・労働債権確保の事件二件でした。
一件は、東京のサンパックという会社でしたが、彼は雇用の場である会社と会社財産を守るために床に段ボールを敷いて泊まり込んだりして頑張っていました。この事件は、彼の頑張りもあって親会社が責任を取る形で解決できました。
もう一件は、横浜の大同運輸という会社の事件で、暴力団筋が絡んでいる事件でしたが、この事件でもやはり会社と会社財産を守るために彼は事務所に泊まり込んだりしていました。この事件は、彼が一九八九年一一月にいなくなった後、私が彼の分も引き継いで、何とか解決することができました。
坂本君のことは相手にも印象的だったようで、解決したときには、会社の敷地を巡って相手方となった不動産業者の社長から一〇万円を「坂本さんの事件の解決のために。」とカンパされました。
四 一九八九年になって彼がオウム真理教の被害者の相談に乗り、事件の 依頼を受けるようになったのは、彼が霊感商法の事件をやっていたことが一つのきっかけとなったからだと思います。
彼に霊感商法の事件をやるように言ったのが私だということもあり、オウム真理教については、彼からもいろいろと相談されましたし、私の方も気にはしていていろいろとアドバイスしたこともありました。
ただ、彼も私もオウム真理教についてよく知らなかったので、まさかあれほど凶暴な宗教団体だとは、想像もできませんでしたし、私としてもあまり宗教問題には関わりたくないという気持ちも正直言ってありましたので、事件処理そのものは私も関与していませんでした。
ただ、当時私は横浜弁護士会の消費者問題対策委員会の副委員長をしており、彼には消費者問題に詳しい弁護士を集めて弁護団を強化した方がいいとアドバイスし、彼を一〇月の会議に連れて行ったことがあります。その会議では彼が簡単に問題点を紹介した程度でしたが、一一月の会議ではそれを主題とし、彼が報告することとなりましたが、彼がいなくなってしまったので、その機会はついにもてませんでした。
五 私がオウム真理教の信者と初めて対面したのは、一〇月三一日に青山 ・早川・上祐が横浜法律事務所に来たときです。
私と彼はその日私が主催する同じ会議に夕方から出ていたのですが、彼から実はオウムの青山弁護士がどうしても至急会いたいと言ってきているので八時頃途中で抜けることを了解してほしいと言われており、少し遅れて八時二〇分頃彼らが来たので、彼は抜けました。
私は興味があったのでわざわざ用のあるふりをして彼らの前を通って彼らの様子を見たところ、青山は背広を着て普通の弁護士の格好でしたが、後の二人は白い修行服のようなものをきており、異様な印象だったことをよく覚えています。
九時過ぎに私たちの会議が終わってメンバーで食事に行くことになり、青山と交渉中の坂本君にも声をかけましたところ、行くというので場所を告げて一足先に出ました。
そのとき、二度交渉中に覗きましたが、二人とも大声は出していませんでしたが、緊張した様子で緊迫した雰囲気でした。
その後彼と合流しましたが、そのとき彼が、「青山が是非会いたいと言ってきたからてっきり和解を申し入れてきたのだと思ったら、恫喝してきた。」と怒っていたのが印象的でした。
六 私は、一一月二日は、午後から彼と裁判所や打ち合わせでほとんどず っと一緒でしたが、夜九時頃、彼は他の人と食事にいくと言い、私は先に帰宅したので、その分かれたときが私が彼の生きている姿を見た最後となりました。
三日から四日まで休んで、一一月六日は彼の姿が見えませんでしたが、誰かが彼は風邪で休んでいると言ったので、ちょっと変な気はしましたが、風邪だというのでそれほど気にはしませんでした。
私は、七日にはこれはおかしいと思い、午前中彼と一緒の事件があったので、これにこなければ絶対おかしいと事務局に言いましたが、来なかったので、自宅の近い私の妻を見に行かせようとしましたが、小島弁護士が行ってくれるというので、彼に行ってもらいました。
小島弁護士が行っていよいよおかしいということになり、夜七時三〇分頃、彼のアパートに行き、私が指紋に気をつけてハンカチでドアのノブを掴んであけ、中に入りました。
いろいろと室内を探しましたが、手がかりが見つからないので、警察に届けることとし、私が自宅に車を取りに帰って、私の車で坂本君の母さちよさんらとともに磯子警察署に届けに行きました。私は、小島弁護士とともにその場で警察官に彼がオウムの事件をやっていたこととオウムという団体がかなり怪しいことなどを言いました。
七 一一月八日に青山弁護士が横浜法律事務所を訪れたときも、その後の 青山や上祐との電話のやりとりでも、私はオウム真理教に事件の解決への協力を求めましたが、結局協力は得られませんでした。
一一月一二日には、他の弁護士とともに富士宮の富士山総本部まで行き、麻原に面会と協力を求めましたが、面会も協力も拒否されて空しく横浜に帰らざるを得ませんでした。
八 坂本一家を捜す活動は長く続き、警察に御願いすると同時に自分達で も探そうということになり、私は弁護士の間で主としてその担当になりました。
熊本の刑務所から寄せられたオウム真理教の幹部が犯人だという情報の真偽を確認をするため、九州の福岡刑務所や小倉拘置所の在監者に面会しに行ったこともありました。オウム真理教の拠点があった熊本の波野村にも何度も行きました。熊本の八代にある麻原の自宅に行ったこともあります。
けれどもオウム真理教が犯人だとの確信はありながらなかなか真相や証拠が掴めず、もどかしい思いをしながらオウム真理教被害対策弁護団として被害救済の活動もしながら、オウム真理教について調べていきました。
結局、昨年の強制捜査を迎えてやっと解決したのですが、一家を救出できなかったこと、解決まで七年もかかってしまい、その間大勢の犠牲者を出してしまったことは悔やんでも悔やみきれるものではありません。
九 私は一一年前から横浜市磯子区の洋光台に住んでいますが、坂本君は、 弁護士になった頃、私の隣の駅の新杉田駅から山を上ったところのアパートを借りていました。
駅から歩くのが大変だということもあって、私もよく自分の車やタクシーで送っていきましたが、彼から洋光台のような便利で環境のよいところに住みたいと相談され、私が知っている洋光台駅近くの不動産屋さんを紹介して、彼も洋光台ののアパートに引っ越しました。
自宅が近くになったこともあり、彼を自分の車やタクシーで送ることも増え、彼を車で迎えに行くこともちょくちょくあって、そのときに龍彦ちゃんを抱いた彼の妻都子さんに挨拶されたこともありますが、感じのいい女性だったという印象でした。
龍彦ちゃんが生まれる前は、いろいろと苦労したせいもあってか都子さんのことをいろいろと気遣っていたことが印象的です。又龍彦ちゃんが生まれた後に、私と彼とで関内で食事をして帰ったときに、彼が都子さんに特上寿司をお土産に持って帰ると言って、洋光台駅前の寿司屋に寄っていたのもよく覚えています。
彼とは、公私ともにいろいろと付き合い、互いに酒やカラオケが好きだったので、一緒に行くこともよくありましたが、彼の性格からいつも楽しい付き合いだったことを今でも昨日のことのように思い出します。
それだけに事件が信じられない思いがしましたが、昨年九月に新潟県名立町の山中で彼の遺体が発見されるのに立ち会い、さらに火葬直前の彼に対面して、彼と妻子の死を実感せざるを得ませんでした。
今は、後は私たちに任せて一家で安らかに眠れとただ祈るだけです。
以上