『達摩の語録』 柳田聖山, ちくま学芸文庫, 1996
こういった本から、断片的に語句を切り出してきても、意味がないどころか、害悪にしかならないかとは思うのだが、まあ、そういう読み方しかできない人なので。
「そして上は諸仏より下は虫けらに至るまで、それらの現象的な差別は、すべて自分の胸中の妄想の別名でないものはなく、自分の心が勝手にこれは何々だと規定したにすぎぬことを知りました」P76
こういった文章を見るとやっぱ禅宗って記号論的というか、記号の向こうにあるものを見ようとしているんだろうと思ってしまう。いわゆる公案もそうなんじゃないかと思うけど、これは浅学なわたしが言うことではない。
「仏たちが、空の道理を主張されるのは、人々の臆見を破るためだ。それだのに、空という言葉にとらわれるなら、仏たちも導きようがない」P89
仏教といえば、五蘊皆空な人たちには(わたしも含めて)いい言葉っすね。こんな(ある意味)自己否定的な言及がすでに初期禅宗のころにあったとは。
「理法というものは答えることができぬ。理法は意識を超えているが、答えるとすぐに意識が生ずるからである。理法は説明を超えているが、答えるとすぐに説明におちるからである。理法は分別を超えているが、答えるとすぐに分別が生ずる。理法は知識を越えているが、答えるとすぐに知識が生ずる。理法は相対を超えているが、答えるとすぐに相対となる。このような意識や言葉は、すべて計らいにすぎぬ」P133
「智者は、物にまかせて、自己によらぬから、取捨分別がなく、また対立がないが、愚者は、自己中心で物にまかせぬから、取捨分別があり、また対立が生まれるのである」P203
「縁によって生まれたものは、生まれたとはいえません。縁によって生まれたにすぎぬからです。縁によって滅するものは、自から滅することができません、縁によって滅するからです」P230
「人が地獄におちるのは、自分の心に自我があると考え、勝手に想像し分別して、<私は悪事を働いたから、私が報いを受けねばならぬ>とか、<私は善事をなしたから、私が報いを受けるはずだ>と思い込むためで、これこそ悪業にほかならぬ。もとよりこのかた、何もないのに、ほしいままに勝手に想像し分別して、何かがあると思いこむのは、それこそ悪業に他ならない」P234