階級社会の透明人間1−「見えない男」

 

 


 

 

透明人間はそこにいる

 

「ブラウン神父」シリーズの代名詞ともなっている傑作といえば「見えない男」、その原
題“The Invisible Man”はハーバート=ジョージ=ウェルズの傑作S
F「透明人間」と同題である。ウェルズの小説における透明人間は人体を透明化する薬を
発明した科学者であり、自らを透明化して悪事を繰り返したあげく、友人が警察にその弱
点を密告したため、あっけなく滅ぼされる。

 ウェルズは透明人間を科学が生んだ怪物として描いたわけだが、チェスタトンは科学の
進歩によらずとも、現代社会にはいくらでも透明人間がいるではないか、と皮肉ってみせ
たわけだ。
「見えない男」は、一人の青年がある菓子屋を訪ねるところから始まる。その菓子屋はと
いえば「蒼く冷たい黄昏のなかで、葉巻の火のようにほんのりと輝いていた。人によって
は花火の先のようだというかもしれない。複雑に混りあったさまざまの色彩がいくつもの
鏡にはね返されて乱れとび、はなやかにきらめく無数のケーキや砂糖菓子の上で踊ってい
たからだ」

 さて、青年アンガスは菓子屋の娘ローラに恋し、まさにプロポーズしようとしていた。
だが、娘は自分自身の身にふりかかった謎めいた事件で頭が一杯だった。

 彼女はかつて二人の男から結婚を申し込まれたことがある。一人は小男のイジドア・ス
マイス、もう一人は藪にらみのジェイムスン・ウィルキン。

 求婚を断られた二人は彼女の下を去ったが、最近、そのスマイスの方から便りがあった
。彼は「スマイスの物言わぬ召使」、家事万端をひきうける首なし自動人形の発明者とし
て一財産築こうとしているというのだ。

 さて、不気味なのはウェルキンの方だ。彼からは何も便りはないが、最近、誰ものいな
いはずのところでその笑い声を聞き、スマイスの手紙を受け取った時には、読み終えたそ
の瞬間に「だが、あいつにはきみを手に入れさせないぞ」という、ぞっとするような声を
聞いたというのだ。当然、そこには誰もいなかった。
「わたし気が狂っているんじゃないかしら」といぶかるローラに「ほんとうに気ちがいな
ら自分は正気だと思うものですよ」と、答えるアンガス。さらにちょうどその場にかけつ
けたスマイスは菓子屋のウィンドウに、ウィルキンの筆跡で「きみとスマイスが結構すれ
ばやつは死ぬ」と書きつけてあるといった。だが、ローラやアンガスもいつの間にウィル
キンが現れたのか、まるで気づかなかったのである。

 スマイスもウィルキンから脅迫状を受け取っていたのである。スマイスは身の回りのこ
とをすべてを自らの発明品にまかせていた。「ここだから言いますが、この召使にもそれ
なりに不便なところがあるのは否めませんな。(中略)あいつらには誰があの脅迫状をア
パートに持ってきたのか言えんからね」

 アンガスは警官を含む四人の人々にスマイスのアパートへの道を警戒するように頼み、
私立探偵フランボウの事務所に急ぎ、その奥の私室へと通された。
「その部屋の装飾品といったら、サーベルに火縄銃、東洋の骨董品、それにイタリア産葡
萄酒、土人の料理鍋、毛のふんわりしたペルシャ猫とばっとしない小柄のローマ・カトリ
ックの神父さんだったが、とりわけこの坊さんは場違いな感じだった」

 フランボウらがかけつけた時、すでにスマイスはそのアパートから姿を消していた。
「アンガスは機械人形で立錐の余地もない暗い室内を見わたしたが、彼のスコットランド
魂の片隅にあるケルト人気質がそのとき全身をわななかせた。等身大の人形が、おそらく
殺された魂が倒れる直前に呼び出したのだろう、血だまりに蔽いかぶさるように立ってい
た。腕のかわりを勤めている高い肩についた鉤の片方が幾分もちあがっており、アンガス
はとっさにこの哀れなスマイスの鉄製人形が彼を打ち倒したのではないかと想像して恐怖
におののいた。物質が謀叛を起し、これらの機械どもがみずからの主人を殺したのだ。だ
が、そうだとしても、いったい彼をどうしまつしたのだろうか? “食ってしまったのか
?”夢魔が彼の耳もとでささやいた。引き裂かれた人間の死体があの首なしのゼンマイ人
形に打ち砕かれ、その腹のなかに呑みこまれてしまったのかと考えると、胸くそが悪くな
るようだった」

 アパートへの道を見張っていた四人は、行きも帰りも、その道を通る人を誰もみなかっ
た。スマイスは透明人間に襲われ、透明人間につれさられたようなのである。

 だが、ブラウン神父はローラの話から「受け取ったばかりの手紙を街頭で読みはじめた
人がまったく一人きりだということはありえないのですよ。娘さんのすぐそばに誰かいた
にちがいありません。それこそ心理的に見えざる男だったのです」として、その「心理的
に見えざる男」が、四人の監視の目をかすめてスマイスを殺し、その死体を大きな袋に入
れて悠々と運び去ったことを指摘する。
「フランボウはたくさんの仕事が待っているサーベルと紫の絨毯とペルシャ猫の部屋に帰
った。ジョン・ターンブル・アンガスはあの店の娘のところへもどったが、この軽はずみ
な青年は彼女とこのうえなく楽しくやっていくことだろう。しかし、ブラウン神父は、雪
に蔽われた丘を星空のもとで何時間も殺人犯と歩き続けた。二人がなにを話しあったかは
知るよしもない」

 見えない人のトリックはあまりにも有名である。もっとも実際にこのトリックが可能か
どうかは難しい。ある男が恋しい人に一年間毎日、ラブレターを送ったところ、彼女は○
○○○○と結婚してしまったなどという小話などは、この「見えない男」のトリックが容
易にひっくり返しうるものであることを示している。

 瀬戸側猛資氏は友人のSF作家・鏡明氏がこのトリックをいかにけなしたか、楽しげに
書いている。
「あんなバカな話があるかよ。だってね、おれんちの隣に空巣が入ったことがあるのよ。
そんとき、近所の連中がなんといったと思う?みんな口をそろえて『○○○さんが怪しい
!』っていいだしたんだぜ。それで、ほんとに警察に連れてかれちゃったんだ。結局はま
ちがいだったらしいけどさ」

 瀬戸川氏はこれについて「具体的で説得力があり、本格推理小説の問題点と魅力とを同
時についている意見だと思う。(中略)“見えない”のは実は読者に対してなのである。
なぜなら、本格物の読者は、あくまで架空の物語としてこの小説を楽しんでいるからだ。
架空であるからこそ、○○○○○のごとき現実的な人物が犯人のはずはない、と心のどこ
かで考えているのである」と述べる(瀬戸川『夜明けの睡魔』早川書房、一九八七)。

 しかし、このトリックがなりたつのは犯人が「現実的な人物」だからなのだろうか。こ
の「見えない男」が存在しうるのは、あくまで本格推理小説のワク内だけなのだろうか。
チェスタトンはその当時のイギリスに「見えない」人々が蔓延しているのを現実の問題と
してとらえていた。この作品は一面では、今もなお続く英国社会の宿痾、階級社会の弊害
を暗に告発したものだったのである。

 イングランドは、太古以来、ヨーロッパ大陸側から幾度もの征服の波が押し寄せ、その
度に支配者がいれかわることで形成されてきた国である。そもそも英語で牛肉、豚肉と生
きている牛、豚がまったく違う言葉で呼ばれるのも、肉を食べるだけの貴族と、家畜を世
話する農民がまったく異なる言語的・文化的伝統を背負っていることに由来する。

 十八世紀の産業革命以降、貴族以外の出自の人々から経済力を得て支配層に食い込む人
が現れ、「紳士」という新しい階級ができると階級社会はかえって固定的なものとなった
。紳士はかっての同胞から自分たちを区別するため、ことさら下の階級に無関心な態度を
とったからである。紳士を含めた上流階級にとって下の階級の人々は単なる労働力にすぎ
なかった。そして、社会の矛盾のために貧しい境遇に追いやられた人々は良くて慈善の対
象、より一般的には犯罪者の群れおよびその予備軍とみなされたのである。

 そこにシャーロック・ホームズを初めとする世紀末探偵小説のヒーローたちの活躍の舞
台が準備された。ホームズは紳士階級でありながら、下層階級の社会への知識を駆使して
、犯罪の渦中へと乗り込んでいく。また、ホームズは紳士の家に潜り込む時には鉛管工や
馬丁に変装しているが、それは紳士といわれる人々が最下層の労働者の顔など見ようとも
しないことをよく知っていたからである。つまりホームズの変装がうまくいったのは、彼
が当時の英国社会に「見えない」人々がいるのを知っていたからなのである。

 奇妙なことにホームズを生んだはずのドイル自身は、この「見えない」人々にも内面が
あることに気づかなかった。ホームズは潜入した先の家の小間使いに、結婚してやると偽
って情報を探ったりもする(「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」)。だまさ
れた娘の悲しみについてホームズは、そしてドイルは斟酌することがない。

 ところがブラウン神父はその「見えない」人について、「彼等とても人間ですから情熱
もある」と語り、その姿を明らかにした上で二人連れ立って歩み始めるのである。

 

 

顔のない機械人形

 

「見えない男」の秀逸さは、三つの部屋の描き分けにも現れている。冒頭では、どこにで
もあるような菓子屋の日常的な光景が詩情豊かに語られ、そこがやがてロマンスの舞台に
なるであろうことが自然と予感させられる。アンガスを迎える場所である。

 フランボウの部屋は前半生をスリルと美の追求に過ごした男のデカダンな価値感を表し
ながら、そこにあたかも家具の一つででもあるようにブラウン神父がいることでこの部屋
の主の回心のあり様をも示している。フランボウはその部屋に帰っていった。

 そして永遠に主を失ったスマイスのアパート。そこでは頭のない自動人形がたたずんで
いる。「スマイスの物言はぬ召使」の広告は次のようなものだという。
「ボタン一押し−一滴の酒も飲まぬ召使頭」「ハンドルを一ひねり−けっしていちゃつか
ぬ女中十人」「一生つむじをまげない料理人」
「スマイスの物言はぬ召使」は、当時の紳士たちが求める使用人の理想像かも知れない。
彼らは使用人の労働力を求めたが、その人間味には関心がなかったからである。だが、チ
ェスタトンはこの魂なき使用人を一種の怪物として描いた。

 彼らに頭がないということは重要である。自分の使用人に頭(精神)があり、顔(個性
)があることなど気づきもしないか、あるいは、そんなものなどない方が煩わしくなくて
よいと思っている人にこそ、この機械の召使はふさわしいというわけだ。
『フランケンシュタイン』は、神の手によらずして魂を与えられなかったものの悲劇だっ
た。だが、その後のロボットSFでは魂をもたない者の恐怖がしばしばテーマとなる。「
見えない人」のタイトルがウェルズを皮肉ったものであることは前述したが、この魂を持
たない機械人形というガジェットもまたウェルズ流の未来予測をからかうために引っ張り
出されたようである。

 

 


 

 

階級社会の透明人間2−「奇妙な足音」

 

 

紳士と給仕

 

 ホルヘ=ルイス=ボルヘスによれば、「奇妙な足音」は「新手の変装の方法が工夫され
ている」点で注目すべき作品である(『バベルの図書館1 アポロンの眼』序文、富士川
義之訳、国書刊行会、一九八八)。

 社交界でも第一級の人士のみを集めた「真正十二漁師クラブ」、その日の晩餐も何事も
なく進行していた。実はホテルの事務室では年老いた給仕の一人が神父への懺悔をすませ
、息をひきとったばかりなのだが、そのようなことは紳士方には何の関心もないし、実際
、彼らの誰一人としてそれを知る者はなかった。

 クラブ自慢の銀のナイフとフォークで一同、魚料理を食べた後、病人のような顔つきの
ホテルの主人が現れ、とぎれがちな声でいう。
「とんだ心配事ができましたもんで。皆さまの魚料理用の皿なんでございますが、ナイフ
とフォークをのせたままきれいに片づいているのでございます!(中略)皿を持ち去った
給仕をごらんになりましたか? その男をご存じでいらっしゃいますか?」

 クラブ会長は皿が片づくのは当然で、「給仕など知っているものか!」と憤慨するばか
り。クラブの一員パウンド大佐は他の会員より逸早く何が起きたのかに気づいた。「とい
うと、つまり、何者かがわたしたちの銀製セットを盗んだわけだな?」

 ホテルはてんやわんやの大騒ぎ、パウンド大佐は会長、副会長らを率いて廊下を駆け抜
ける。携帯品預り所で黒服を来た背の低い人影を見た副会長が声をかける。
「おいきみ、誰か通るのを見かけなかったか?」

 それに応えて、小柄の黒服の男−神父は一ダースのナイフとフォークを取り出した。泥
棒が神父の前で改悛したと聞いた時、副会長はげらげらと笑いこけた。
「妙なことですなあ、盗人や宿なしが悔い改めるというのに、いっぽうでは、金があって
心配ごとのない大勢の連中が、いつまでたってもかたくなで浮薄な生活をやめず、神さま
にも人間さまにも償いをしようとしないのですからな。(中略)やつが改悛したというの
が事実でないと思うなら、このナイフとフォークをごらんになるがよい。あなたがたは真
正十二漁師の面々で、ここにあるのはあなたがたの魚形の食器でしょうが。だが、神さま
はわたしを、人間を捕える漁師にしてくださいましたよ」

 ボンクラぞろいの会員たちが仲間のところに戻った後、一人その場に残った大佐はブラ
ウン神父から事件の真相を聞き出そうとする。
「わたしがあの部屋に閉じ籠もって書き物をしていると、誰かがこの廊下で死の舞踏みた
いに奇怪なダンスをしている足音が聞こえてきましてな。まず最初は、競歩大会に出場し
ているようなすばやいおかしな足音が軽く聞え、つぎには、大男が葉巻をくゆらしながら
歩いているみたいな、のろのろして無頓着なきゅきゅという靴音が聞えてきました。とこ
ろで、これが両方ともまちがいなく、同じ人間の足音だった。そして、それが交互に聞え
てくるではありませんか−まず駆け足、次にぶらぶら歩き、それからまた駆け足といった
ぐあいにな。いったい同じ人間がいちどきにこんな二役を演じるなんてどうしたわけなの
だろうと、わたしはふしぎに思いました」

 駆け足は給仕の歩き方、ぶらぶら歩きは紳士の歩き方だった。犯人はそのクラブで給仕
も会員もそろいの夜会服を着ていることに目をつけ、紳士の前では給仕のように、給仕の
前では紳士のようにふるまったのである。

 クラブの晩餐会のような格式ばった場にあって、紳士は給仕の顔を見ようともしないば
かりか、その顔を知らないことを誇ってさえいる。給仕の方でも、紳士方の顔をジロジロ
みれば、御不興をこうむることになるので、正面から向き合おうとはしない。

 相手の目を見る、話しかける、そうした行為は対等の人間関係を作ろうとすることであ
る。しかし、紳士は下の階級のものと対等の関係を結ぶことなど、不可能か、もしくは恥
ずべきことだと思っている。それはすなわち相手の階級近くまで下りていくことを意味す
るからだ。犯人は紳士のそうした「常識」につけこんだのである。

 パウンドが、給仕と会員の夜会服を色分けするよう提案したところ、副会長は叫んだ。
「いいかげんにして下さいよ! 紳士が給仕そっくりに見えるなんて絶対ありません」

 ブラウン神父は言った−「紳士になるのはちょっとやそっとのことではできません。だ
が、どんなもんでしょう、わたしはよく考えるんだが、給仕になるのもまた同じくらい骨
の折れることではないでしょうか」

 さて、ここで「真正十二漁師」なるクラブ名にいかなる含意があるか、考えてみたい。
『新約聖書』福音書によると、イエスは海辺で魚をとっていたシモン(後の初代教皇ペテ
ロ)とその兄弟アンデレを弟子に迎える時、「あなたがたを人をすなどる漁師にしよう」
と言われた(「マタイ伝」四−一九、「マルコ伝」一−一七、「ルカ伝」五−一〇)。

 つまり「真正十二漁師」とは本来、自分たちをキリストの十二使徒になぞらえた命名な
のである。十九世紀以降のイギリス上流階級はことさらに自らが善きキリスト教徒である
と宣伝する傾向があり、当然、自分たちでもそのことを信じていた。ところが、その彼ら
が目の前の給仕さえ人間扱いしていない・・・社交クラブをあえて十二使徒になぞらえる
ことでチェスタトンは、イギリス上流階級の信仰の空疎さをからかっているのである。

 

 


 

 

武装カルトの恐怖−「銅鑼の神」

 

 

帝国主義と階級

 

「ブラウン神父」シリーズで唯一の冒険活劇「銅鑼の神」では、イギリス人の外国人への
偏見が問題とされている。

 自国民どうしの間に厳格な階級差があるイギリスのこと、この国がかつて海外の植民地
に加えてきた搾取にも過酷なものがあった。また、いわゆるイギリスはイングランド、ス
コットランド、ウェールズ、アイルランドの連合王国だが、実際にはイングランドが他の
国々を征服した結果、出来上がった国であり、自治を奪われた国々の怨念はこの国の暗い
影を落としている。イングランドによる支配をすなわち「恩寵」、一方的な搾取をすなわ
ち自由な経済活動の結果とみなして何ら疑うことなき精神、それが十九世紀〜今世紀前半
のイギリス帝国主義を支えてきたのである。

 こうした精神は外国人への偏見にも容易に結びつく。十九世紀イギリスの科学者たちは
イングランド人こそもっとも優れた人種であり、他はみな劣等人種にすぎないことを科学
的に証明しようとあれこれ試みたものだ。そうした試みから一八八五年、F・ゴールトン
博士が主唱した優生学(配偶者の選択や劣悪な人種・階級の断種によって悪質な遺伝形質
を淘汰し、優良な人種のみを残そうとする学問)が生まれ、それはやがてヨーロッパ大陸
へと輸出されて、ナチス=ドイツとそのホロコーストを準備することになる。
「銅鑼の神」で描かれているのは、こうした人種差別への抵抗の一形態といってもよい。
しかし、その発現はいかなる形でも市民権を得られない形をとった。すなわちその抵抗は
反社会武装カルトとして姿を現したのである。

 静かな冬のエセックス海岸、かろうじて休暇がとれたブラウン神父はフランボウと共に
その昔務めたことのある教区を訪ねてきた。二人はイタリア人の経営するホテルに入るが
、そこではなぜか黒人のコックが経営者以上に尊大な態度をとっている。

 神父がそこに来る途中で一人の人物に出会ったと言い出し、その風体を話し出すとホテ
ル内に不穏な空気が流れる。やがてコックが神父に襲いかかり、フランボウは神父をかか
えて大立ち回りを演じることになった。ブラウン神父が出会ったという人物、それは実は
近くの公会堂で見つけた死体のことだった。コックはその風体を聞くうちに冷静さを失っ
たのである。神父とフランボウは試合開始の迫るボクシング会場へと迫る。イタリア人と
黒人のチャンピォンが競い合う一戦、その試合中に行われるであろう殺人を阻止するため
に・・・

 試合の主催者が恐れていた者、それはイタリアのチャンピォンの応援にやってきたコル
シカ島民の一団「色の黒い野蛮な連中」だった。試合中止となれば彼らが暴れ出すにちが
いないというわけだ。

 だが、本当に危険なのは黒人チャンピォンの方だった。彼はことさら粗野にふるまって
いたが、実は自ら秘密結社を組織し、その首領におさまるだけの知能の持ち主で、その結
社の神を満足させるべく儀礼殺人を繰り返していたのだ。

 この筋立てだけだけだと、チェスタトンも他の多くのイギリス人と同様、黒人への偏見
と差別に満ちていたように見える知れない。たしかにそうした側面があることは否めない
。だが、ここで忘れてはならないことはこの黒人秘密結社の首領は粗野にみせかけてはい
てもその実、知的に恐ろしい存在として描かれていることである。

 この当時、有色人種は白人よりも、知的に劣っているという偏見が蔓延していたことを
思えば、危険人物としてではなっても、知的の黒人を描いたということ、そしてその黒人
がわざは粗野な言動をとってその「黒人は知的に劣っている」という白人側の偏見につけ
こむさままで描いてみせたことは、むしろ興味深い。

 自らの不当な境遇に知力をもって立ち向かう(それゆえ白人社会にとっては邪悪なもの
として立ちはだかる)黒人というキャラクターは、後のブラックパワー台頭を予見したも
のともいえよう。なお、私たちはこのような闘う黒人像の先駆としてハーマン=メルヴィ
ルの「ベニート・セレーノ」(メルヴィル『ピアザ物語』一八五六、所収)をあげること
ができる(拙著『怪獣のいる精神史』参照)。

 ブラウン神父はイタリア人の方ばかりを恐れ、警戒していた主催者に言う−「われわれ
イギリス人は、どうしたものか、色が黒くて、きたない人たちと見ると、みんな同じ外人
だときめてかかる悪い癖があるようですな。それにもうひとつ、わたしどもの宗教が生ん
だ道徳精神と、ヴードゥーの邪教が花を開かせた道徳とのあいだに区別をつけることも、
イギリス人にはできぬようですな」

 神父とフランボウはその数カ月後、同じ土地に戻ってきた。もはや黒人秘密結社は壊滅
し、警察とマスコミは行方をくらました首領たちを追っていたが、その手がかり一つなか
った。神父は物語の最後で首領の潜伏先を指差す。それはまさに外国人の区別をつけるこ
ともできないイギリス人の盲点に入るところであった。

 なお、「ヴードゥー」とはジャマイカ、ハイチなどカリブ海沿岸においてアフリカから
強制移住させられた人々の子孫の間で信仰される民族宗教。ドイルのホームズ譚「ウィス
テリア荘」にもこの宗教についての言及がある。アフリカの民族宗教をベースとし、その
呪術者が人を呪い殺す、あるいは死者をゾンビとして甦らせることができると信じられた
ため、怪奇小説、映画の題材としてしばしばとりあげられることになった。

 ヴードゥーには陽気な踊りの宗教でもあり、そのすべてを邪教と切り捨てるのは不当だ
が、いったんカルト化した場合、人身供儀に走る傾向がある。最近でも一九八七年三月、
メキシコのマタモロスという町でアメリカ人大学生がヴードゥー系カルトによって誘拐さ
れ、事件発覚後、現場の農場から計十五人もの死体(誘拐された大学生含む)が出てきた
という例があった。狂信が惨劇をもたらすのはヴードゥーに限るわけではないが、このよ
うな話を聞くと「銅鑼の神」の恐怖は今も生きていると思わずにはいられない。

 第二次大戦後、イギリスはインドを始めとして、植民地のほとんどの独立を認めざるを
えなくなり、さらにチェスタトンの時代には移民の供給元だったイギリス本土が海外から
人種の異なる多くの移民を受け入れざるをえなくなった。上流階級の人種・民族的偏見、
さらにイギリス階級社会そのものの弊害は明らかになっている。イギリスは今、自ら養っ
てきた病弊と苦しい戦いを続けているのである。

 しかし、ひるがえって最近の日本での外国人排斥や弱者切り捨て政策を見ていると、か
つてのイギリスが示した教訓が日本ではまったく理解されていないことに暗澹とせざるを
得ない。

 反社会的なカルトが根絶されるべきなのはもちろんであり、人権派をきどって彼らを弁
護するつもりなど毛頭ない。だが、一面ではその出現は社会矛盾の反映でもある。私たち
はカルトを警戒するだけではなく、カルトを生み出す社会矛盾についても目を向けていく
必要があるだろう。

 

 

 

                       1997,10  原田 実