インチキ新興宗教−「アポロの眼」

 

 


 

 

太陽崇拝の新興宗教

 

「アポロの眼」は、ブラウン神父譚の中でも唯一、新興宗教との真向からの戦いを描いた
ものである。その宗教のシンボルは巨大な金色の眼、教祖は「アポロに仕える新しき僧」
を自称する、堂々たる美男子カロン。

 さて、元怪盗にして今や私立探偵のフランボウによるとその教義は−
「もともと罪なんてありゃしないんだと言って人の罪を赦す新しい宗教の一つですよ。例
のクリスチャン・サイエンスという一派と同じようなもんです。(中略)あの一派の理論
に、自分の精神さえしっかりしていればどんなことにも耐えられるという一項があるんで
す。連中のシンボルは二つあって、太陽と眼がそれなんですが、ほんとうに健康な人間な
らお陽さまを見つめることができるという説をもっているんです。(中略)もちろん、ど
んな肉体の病いでも治せるという触れこみですがね」

 ブラウン神父は「太陽というのはあらゆる神のなかでいちばん残酷な神だ」とクギを刺
し、「たった一つの魂の病いは治せるのかな?」と疑問を呈する。たった一つの魂の病い
、それはブラウン神父によると「自分がまったく健康だと考えること」なのである。

 この新興宗教の信者の一人、ポーリン・ステイシーは莫大な財産を相続していたが、職
業婦人であることに誇りを持ち、タイピストの事務職を続けていた。

 彼女は人間は意志の力で健康になれるというカロンの教義に心酔し、妹の眼鏡を取り上
げると床にたたきつけるほどの狂信者だった。ポーリンは語る。
「バッテリーやモーターや、そのほかいろいろなものはみんな人間の力のしるしなんです
。フランボウさん、それは女の力のしるしでもあるんですよ。距離を縮め、時間に挑戦す
る偉大なエンジンに、今度はわたしたち女が手をつける番です。機械は飛躍的で堂々とし
ている−それが真の科学というものです。ところが、医者が売りつけるこういうけちくさ
いつっかえ棒や膏薬ときたら、なんのことはない、腰ぬけの記章にすぎないんです。医者
たちは、まるでわたしたちが生れつきの不具者か病気の奴隷ででもあるかのように脚やら
腕やらを継ぎたします。でも、わたしたちは自由に生れついたんですよ、フランボウさん
。世間の人がこういうものを必要だと考えるのは、力と勇気を教えられる代りに恐怖をた
たきこまれたからで、たとえば、間ぬけな育児婦が子供にお陽さまを見ちゃいけないと言
うもんだから、子供たちはお陽さまを見るとかならず眼をぱちくりさせるんです。ほんと
うにおかしなことですわ、たくさんの星のなかで一つだけ人間が見ちゃいけない星がある
なんて。お陽さまはわたしの支配者じゃありませんもの、わたしはいつでも好きなときに
眼をあけて太陽を見つめます」

 やがて惨劇は訪れる。カロンが日課とする正午の太陽礼拝のためビルのバルコニーに現
れ、ブラウン神父がそれを見上げていた、まさにその時、ポーリンがその同じビルのエレ
ベーター昇降路に墜落死したのだ。

「轟音一発、ロケットが墜落したような大音響があがり、それをつんざいて軋るような悲
鳴が長くつづいた。(中略)この上を下への大騒ぎのすむまで泰然としていたのは、ただ
二人、上のバルコニーに立つアポロの麗しき司祭と、その真下にいるキリストの醜き司祭
だけだった」

 ポーリンはカロンの愛人であり、生前、その財産をカロンの教団のために遺産を贈ると
約束していた。カロンの前に断つブラウン神父、だが、カロンは「とうとう顔を合せまし
たな、カヤパ殿」と神父に語りかけ、ポーリンが死んだ時には衆人監視の中、バルコニー
に立っていたというアリバイを主張し、次のようにうそぶく。
「高遠な真理を学ぶ人なら誰でも知っていることだが、達人や哲人が空中浮遊の能力を体
得したことは歴史的な事実となっている。これは、拙者どもの神秘学の要点である物質の
全面的征服というテーマの一部にすぎないのだが、それはともかく、不幸にしてあのポー
リンは衝動的で野心の強い女だったため、拙者が思うには、自分の実力以上に神秘の奥義
を究めたと思いこんだ。そういえば、よくエレベーターでいっしょにおりたとき言ってま
した−意志さえ強ければ、鳥の羽のようにふわふわ舞いおりてかすり傷一つ負わずにいる
ことができると。そういうしだいだから、彼女は高邁な想念に陶然となった瞬間にこの奇
蹟をやってのけようとしたのにちがいない。ところが、彼女の意志あるいは信念が大事の
瀬戸ぎわで彼女を裏切り、より下等な物質法則が怖るべき復讐をなしとげた。というのが
、皆さん、この事件の真相であり、これはたいへん悲しく、皆さんの考えでは思いあがっ
た邪な所行というところでしょうが、およそ犯罪とは言いがたく、拙者とはなんのつなが
りもないのです」

 だが、あてにしていた遺産が手に入らないと知るとカロンの仮面ははげおちた。かん高
い野卑な声での悪口雑言の嵐・・・ポーリンはやはりカロンによって殺されたのだった。
カロンはポーリンの太陽を見つめるという悪習(それはそれそれカロンが吹き込んだもの
だ)、機械への崇拝にも似た信頼、そしてカロンその人への愛情を利用し、彼女を死の罠
へと追い込んだのである。

 ちなみにカヤパとはイエスに死刑を宣告したユダヤの神官。カロンは自らの神がキリス
トよりも古く、しかもキリストが死なんとする神であるのに対し、自らの神は生きつつあ
る神だと主張するのだが、そのカロンが自らをキリストになぞらえずにはいられないとこ
ろに多くのカルトが共有する脆弱さ、すなわち言語的に既成宗教に寄生しながら、既成宗
教を非難するという矛盾が現れている。

 

 

カロンの教団とオウム真理教

 

 さて、カロンの宗教はもちろんチェスタトンによる架空のものだが、これと現代の実際
の新興宗教がよく似ていることには驚かずにはいられない。

 今でも現代医学を否定し、信仰によってあらゆる病気が治ると主張する教団は多いし、
独特の治療法を提唱しているところもある。その求めるところは完全な健康である。

 ところが、その一方では、科学技術に安易に依存し、その教義を「科学的」に説明しよ
うと試みたりもする。こうした傾向がもっとも極端に走った例として私たちはあのオウム
真理教を思い出すことができる。

 オウム真理教の信者たちは、完全なる健康を求めて教祖のすすめる行法に勤しんだ。事
実上、教団が運営していた病院では、無理な食餌療法や、患者を熱湯につける温熱療法を
行い、何も知らない一般の入院患者にまで地獄の責め苦を味わわせた。

 その一方で彼らは、教祖のDNAに特殊なエネルギーがあることを証明しようと試み、
教祖と信者の脳波を同調させる装置(実際にはもちろん効果なし)まで開発した。そして
、彼らはさらに科学技術のもたらす力をその手にしようとして、VXガスやサリンまで造
り出し、それで罪のない多くの人々を殺傷するにいたったのである。

 カロンのポーリンの死に関するぬけぬけとした弁舌には、一九九五年、オウム真理教の
犯罪行為が次々と発覚していた頃、教団側から出されたコメントを髣髴とさせるものがあ
る。そういえば「空中浮遊」というのもオウム真理教教祖の得意ワザだった。

 そして、オウム真理教による初期の殺人も、カロンのそれと同様、カネ目当て、教祖の
金銭欲に基づくものだったのである。

 とはいえ、別にチェスタトンはオウム真理教の出現を予言したというわけではあるまい
。チェスタトンはあくまで今世紀初頭の世相を背景として、その当時流行していた新興宗
教をモデルに「アポロの眼」を創作したのである。

 それがなぜオウム真理教と似ているのか。結局、その当時から今まで新興宗教のしてい
ることというのは、それほど変わらないということなのだろう。しかし、宗教の美名を借
りた詐欺行為がやがて殺人の容認にむかう危険を警告する点で、「アポロの眼」は今、改
めて読まれるべき必要がある小説といえよう。

 

 


 

 

懐疑と盲信−「ムーン・クレサントの奇蹟」

 

 

盲信に至る心理

 

 チェスタトンの時代と今と、新興宗教において変わらないのは教団の行いばかりではな
い。教団を支える基礎となるもの、すなわち信者たちの盲信にいたる心理というものもチ
ェスタトンの時代からそれほど変わりはないように思われる。

 世間では新興宗教のうさんくさい教義と科学とは対立するように考え勝ちである。だか
らオウム真理教幹部に理工系で一流大学卒、修士号や博士号まで持つ者がいたことがセン
セーショナルに報じられることになる。しかし、実際には盲信に至る心理ととなりあわせ
にあるものこそ、科学への崇拝なのである。

 チェスタトンは科学が迷信(新興宗教も含む)を駆逐すると信じられた、今世紀初頭の
イギリスにありながら、すでにそのことを見抜いていた。だから、機械の力を賛美するポ
ーリンはやすやすとカロンの魔手に落ちてしまうのである。

 あるいは次のような意見もあろう。科学において重要なのは徹底した懐疑である。だか
ら科学への信仰は真の科学精神ではない。真の科学精神がある者なら、新興宗教のうさん
くさい教義など、その懐疑の力で切り捨てることができるはずだと・・・

 ところがブラウン神父(そしてチェスタトン)は「ムーン・クレサントの奇跡」におい
て、やみくもな懐疑こそ盲信の至る道であると述べているのだ。

 

 

懐疑の果ての盲信

 

 ムーン・クレサントは当時、まだ古都の雰囲気を残していたニューヨークに建つ三日月
形の「その名と同じくロマンチックな造りの建物」だった。その一つのフラットには有名
な百万長者ウォレン・ウィンド(そのモデルは自動車王ヘンリー・フォードらしい)の事
務所があり、部屋にひきこもってはあわただしく働き続けていた。

 その受付に、石油王のサイラス=T=ヴァンダムと、オクラホマにおける大精神運動の
指導者アート・アルボインが現れる。一方は融資を、一方は寄付を求めて−。だが、肝心
のウィンドは事務所に閉じ籠もったきりである。

 それまで、さんざん信仰宗教に金を注ぎ込んできたヴァンダムは、「この種のいかさま
はもうたくさんだこれからは自分の目で見たものしか信用せんことにする。こういうのを
無神論者というのだろう」とアルボインをそしり、アルボインは「わたしだってあなたと
同様の無神論者です。わたしたちの運動には超自然的な迷信じみた子どもだましはありま
せん−ありふれた科学常識あるのみです。真に正しい科学は健康をおいてほかになく、真
に正しい健康とは、正しい呼吸法以外のなにものでもありません」と、その大精神運動に
ついて一席ぶつ。

 二人のやりとりを聞く秘書のフェンナーの顔には暗い表情が浮かんだ。
「わたしはうれしくなんかありません。ただ確信があるだけです。あなたがたは無神論者
であることをうれしがっていられるようですが、だとすると結局、あなたがたは信じたい
と思うものを信じているにすぎぬのでしょう。ところがわたしは、神が存在してくれるこ
とを神に願いながら、神は存在しないのです。わたしは運が悪いのです」

 だが、ここに四人目の人物が現れる。その時、ちょうどアメリカに赴任していたブラウ
ン神父その人である。彼は、その建物の下で、あるアイルランド人がウォレン・ウィンド
に呪いをかけると称して拳銃で空砲を撃つのを見た、ついてはウィンドが事務所にまだい
るのか確かめたいという。アルボインとヴァンダムはあきれ、フェンナーは拒もうとする
がブラウン神父は動じない。好奇心にかられたアルボインが事務所のドアを開けるとそこ
には誰もいない。他の三人も加わって捜索するが、ついに百万長者は事務所のどこからも
現れることはなかった。出入口は受付のドアのみ、この四人の目に触れずして出られるは
ずはない。そしてその夜、ウィンドは建物の裏の公園の立木に、首をつった姿で発見され
たのである・・・

 担当の警部は現実家を自認し、アルボイン、ヴァンダム、フェンナーの証言を最初から
信じようとはしない。その警部以上に三人を怒らせ、またあきれさせたのは有名な心理学
者ヴェア博士の解釈だった。
「この種の事件では、必要なのは断じて事実だけではありません。幻想を調べることも、
事実を究明する以上に重要なのです。(中略)わたしはこのブラウンという神父さんのこ
とを前に聞いたことがありますが、あのかたは当代きっての人物のひとりです。こういう
有名人は、いわばその身辺にある種の雰囲気を漂わせており、それに触れるひとはだれで
も、自分の神経や、さてはその感覚までが、それからどんな影響を一時的に受けているの
か、自分でもわからなくなる始末です。(中略)この点をきわめればきわめるほど、ます
ます人間の感覚というものがおかしくなってきます。事物を真に観察しているひとは、ま
ず二十人にひとりとおりません。真の正確さをもって観察しているひととなると、百人に
ひとりもいないでしょう。ましてや、まず観察し、次に思い出し、最後に表現することの
できるひとは、百人中皆無です。何回も繰り返し行われた科学実験によりますと、緊張し
た状態にある人間は、開いているドアをしまっていると考え、しまっているドアをあいて
いると考える、という結果が出ております。面前の同じ壁にある窓や扉の数についてさえ
、ひとによってまちまちの答をする有様です。白昼のさなかに目の錯覚にかかっているの
です。人格の及ぼす催眠的な影響のない場合でさえ、こういうことが起こるのです。とこ
ろが、目下の場合では、あなたがたの心にあるひとつの画面だけを焼きつけようとやっき
になっている、非常に協力かつ説得力旺盛な人格が登場しております。(中略)超越の観
念にとりつかれているあの神父兼説教者は、あなたがたの心を超越のイメージで一杯にし
たのです。呪いによって塔を揺り動かす巨人そこのけのケルト人の姿を植えつけたのです
。おそらく神父は、さりげないが強制力のある身ぶりをこれと同時に行なって、下にいる
未知の破壊者の方向にあなたがたの目と心とを向けさせたのでしょう。(中略)こうして
意識が暗黒となった瞬間に、ウォレン・ウィンド氏は戸口から抜けだして死への道をたど
ったのでしょう。これがいちばん可能性の高い説明です。心理学上の新発見にもとづく解
明です。心はけっして連続した線でなく、むしろ点線であります」

 フェルナーは答える−「あなたは、わたしの五感に感じられるこの世界の事実を否定し
ろとおっしゃる。あなたのお話だと、わたしたちが立ち話をしているあいだに、わたした
ちの心の盲点をとび石づたいに伝っていけば、喇叭銃をかついだアイルランド兵の一隊で
も、ぞろぞろとこの部屋を通り抜けることさえできた、というわけですね。あなたの話に
くらべれば、坊さんのいう奇跡−たとえば、どこからともなくわにを呼び寄せたとか、お
天道さまに外套をかけたとかいった奇跡さえがまったく正気に見えてきます」

 ヴェア教授は言う−「あの神父さんを信じ、例の奇跡がかったアイルランド人の話をう
のみにしようとご決心されているのなら、もはやいうべきことはありません。どうやらあ
なたは、心理学を勉強する機会をおもちになられなかったようですな」

 フェンナーも冷淡に言う−「おっしゃるとおりです・・・それでも、心理学者を考察す
る機会にはありつけました」

 すでに事件を新聞紙上を賑わし、神秘主義、心霊主義の信奉者たちはこの話をいたる所
でもてはやしていた。ヴァンダム、アルボイン、フェルナーは自分たちが奇跡を見たとす
る書類をしたため、心霊研究協会に提出すべく、ブラウン神父にも署名をせまった。

 だが、それに対する神父の答えは「ともかく署名はごめんだと申しておるのです。(中
略)わたしのような立場にある者が奇跡を茶化すのは、どうもうまくありませんのでな。
(中略)わたしは奇跡だなどといった覚えはありません。わたしはただ、あのことが起こ
らぬとも限らないといったまでのことです。それに対してあなたがたは、そんなことは起
こりうる道理がない−起こったとしたら奇跡だ、とおっしゃった。ところが、そのとおり
のことが起こった。そこであなたがたはこれこそ奇跡だといいだした。しかし、わたしほ
うは、最初からおしまいまで、奇跡だの魔術だのとは一言もいってはおりません(中略)
わたしは奇跡を信じておる−たしかに、ひとを食う虎の存在を信じてはいます。が、だか
らといって、その虎が世界至る所をかけまわっているのを見ることはない。奇跡がほしけ
れば、どこに捜しに行ったらよいか、それをわたしは承知しております」

 なおも署名を迫るヴァンダム−「こういう奇跡によって、あらゆる唯物主義が一瞬にし
て崩壊してしまうことがあなたにはおわかりにならんのかな? 霊の力は作用することが
でき、現に作用しているということを全世界に特筆大書して示すものが、こんどの奇跡な
んだ。かつてどんな教区の神父も行なったことのないしかたで、あなたは宗教に尽くすこ
とになるというのに」

 神父は答える。「よろしいか・・・まさかあなたは、わたしがこの奇跡をうそと承知の
うえで、この奇跡によって神に仕えるのをすすめているのじゃありますまいな? あなた
のおっしゃったことばの意味がわたしにはよくつかめないし、率直にいわせてもらえば、
あなた自身もつかんではなられるのでしょうな。うそをつくことは、宗教に仕えることに
はなるかもしれぬが、神に仕えることには断じてなりませぬ」

 そして、なおも得心のいかない三人に、神父はこの事件の真相が計画的な殺人だったこ
とを告げる。それを引き起こしたものは神や聖なる天使でも、悪魔や邪な天使でもなく、
あくまでもこの世に生を受けた人間の素朴な怒りだったのである。

 そしてブラウン神父は語る−「あなたがたが、これは超自然的な事件だという結論にと
びつかれたことを、わたしはけっして非難しているわけではない。その理由はじつに簡単
です。あなたがたは三人とも、自分は殻の厚いがんこな無神論者であると断言されたが、
実際問題として、あなたがたは信仰の一歩手前のところであやうく均衡を保っていた−つ
まり、なんでもかんでも見さかいなく信じてしまう寸前の状態だったわけです。昨今では
、こういうきわどい一点で均衡を保っている人が無数におります。しかし、この一点は、
落ち着くにはあまりにけわしく居心地の悪い断崖のはずれにある。なにものかを信じてし
まうまでは、不安の状態が続く。(中略)超自然を信じるのは自然なことで、自然なもの
だけを信じることは自然とは感じられぬものです。しかし、あとほんの一歩であなたがた
がこういった問題に対して超自然主義者となってしまうところだったとはいえ、こういっ
た問題は単に自然なことにすぎなかったのですな。自然だったばかりか、不自然なほど単
純でした。これほど単純な事件がほかにあったとは思えませんな」

 ブラウン神父の警句「うそをつくことは、宗教に仕えることにはなるかもしれぬが、神
に仕えることには断じてなりませぬ」は、現代のカルト宗教批判にもあてはまる。教団名
を隠し、アンケートや販売などを装っての信者勧誘はもちろんだが、それ以上にこの小説
と通じるものがあるのはオカルト雑誌である。オウム真理教の信者に『ムー』『トワイラ
イトゾーン』などのオカルト雑誌読者が多かったことは知られているが、オウム以外でも
信者集めにオカルト雑誌の記事、広告、文通欄などを利用しているカルトは多い。

 思えば現代のオカルト雑誌は、安易な奇跡や予言、超能力などの記事で埋めつくされて
いる。これはまさにブラウン神父がいうように真の奇跡を茶化すものでしかないだろう。
そして、それが「きわどい一点で均衡を保っている人」を一押しし、結果としてカルトの
側に追いやってしまうのである。

 余談だが、推理小説としての「ムーンクレサントの奇跡」のテーマは密室殺人(脱出)
であり、そこで使われているメイントリックは機械的トリックの古典として知られ、最近
では人気マンガ『金田一少年の事件簿』でも用いられている。

 しかし、「ムーンクレサントの奇跡」のミソはむしろ、あの一見デタラメな心理学者の
説が真相の一端をついているということだろう。ウィンドは確かに目撃者たちの目と鼻の
先に見えるところを堂々と通り過ぎていた。ところが、それが彼らの心の盲点に入ってい
たために見えなかったのである。また、その盲点を作り出した犯人は、ブラウン神父では
なかった。むしろ神父こそその盲点を逃れうる唯一の人であった。というのも、その犯人
こそブラウン神父を除くすべての登場人物が(ひいては読者も)とるにたりないとみなす
ような人物だったからである。この心理的トリックの併用により機械的トリックがより効
果をあげているところにこそ、この作品の推理小説としての面白さがあるといえよう。

 

 


 

 

虚偽で神に仕えられるか−「ブラウン神父の復活」

 

 

カルトへの堕落

 

「ブラウン神父の復活」も盲信の危険を警告する話である。ちなみにこのタイトルはアー
サー=コナン=ドイルが名探偵シャーロック・ホームズを復活させたことへのバロディと
なっている。名探偵シャーロック・ホームズの物語を書き続けることに飽いたドイルは短
編「最後の事件」でホームズはスイス、ライヘンバッハの滝に落ち、死んだということに
した。しかし、多くの読者(その中にはドイル自身の母親もいた)の要望で、ドイルはホ
ームズを再登場させざるを得なくなり、ついに「空家の冒険」でホームズのロンドン帰還
を語ることになったのである。
「ブラウン神父の復活」の舞台は南米北岸の小国。カンサスからやってきた新聞記者スネ
ースは、日中、日かげでゴロゴロしているインディアンの農民相手に、「おまえたちがな
まけ者で不潔なのはなぜか、動物のように無知で、滅びてしまう動物たちよりも低級なの
はなぜなのか」一席ぶつ。スネースに言わせると、その原因はカトリックの神父にだまさ
れているせいだった。
「うぬぼれきった坊主たちが金色まばゆいマントや三重の冠で身を飾りたてて歩きまわり
、まるで泥を見るような目つきで人間という人間を見くだしている、その態度に恐れをな
してしまうなんて、おまえたちはとんでもない弱虫にちがいない。まるで子どもがパント
マイム劇にまいってしまうような具合に、おまえたちは、王冠やら、天蓋やら、聖傘やら
に目がくらんでしまうのだ、たかが迷信崇拝教のごてごて飾りたてた高僧がこの世の王者
みたいに見えるというだけの理由で、ころりとまいってしまうのだ。ところで、おまえた
ち自身はどうか?おまえたちはどんな姿をさらしているというのだ?そんなわけだからこ
そ、おまえたちは未開の世界にとどまっていて、読むことも書くこともできないんだ−」

 ところがその時、伝道館から姿を著したのは、マントや三重冠どころか、貧相な黒衣に
貧弱な縁広帽子をかぶった、この世の王者とはほど遠い人物だった。ブラウン神父はスネ
ースの誤解を解いていく。インディアンたちはみな読み書きができるが、文字を使うこと
よりも直接話をする方を好むこと、一見怠惰な人たちが実は勤勉な働き手でもあること(
これは今でも熱帯に行ったばかりの欧米人や日本人が陥りがちの誤解である。そうした国
の農民は本当のところ勤勉でも、日中は無駄な体力の消耗を避け、早朝や夕方のみ働くも
のなのだ)、そしてなにより彼ら全員が自分の土地を自分で所有していることなのだ。そ
して、彼らの土地所有を公に認めさせるにあたっては、ブラウン神父の生涯最初で最後の
政治的活動が寄与していた。そして神父はその活動を通して、無神論・無政府主義的な秘
密結社の頭目アルバレスや、地主勢力を代表する保守党首領メンドーサといった有力者と
緊張関係にあった。

 スネースはブラウン神父自身を特ダネにするべく、新聞社に記事を送り続ける。ブラウ
ン神父の探偵物語がアメリカの新聞紙上に掲載される(このくだりは「ブラウン神父」シ
リーズそのものの起源を語るセルフパロディ)。

 神父はさかんにその中止を望んだが「同じ“やめてくれ”でもスネースの耳に入ると、
ブラウン神父はワトスン先生書くところの『最後の事件』の主人公のように断崖から飛び
おりて一時的に消えてしまうべきか否かを論議するきっかけと受けとられた」

 ところがブラウン神父はある夜、路上で一団の暴漢に襲われ、倒れた。医者は神父の死
を宣告した。葬儀の席でメンドーサとアルバレスはお互いの政敵を非難しあう。

 ところが、その時、一同ふるえあがるような事件が起きた。棺の中の神父がうめき声を
あげ、その身を起こしたのである。路上にひれふし祝福を求める人々、そそくさと祝福を
与える神父「神よ祝福をたれて、この人びとにもっと分別をお恵みくだされ」

 そのまま神父は電信局へと走り、司教秘書あてに一通の電報を打つ。
「当地ニハ奇跡ウンヌンノデマアリ。司教ガコレヲ公認セザルコトヲ願ウ。マッタク事実
無根ナリ」

 わけもわからぬまま一通りの処置をすませた神父は、一息ついてからはじめて自らを復
活の聖人にしたてあげようとした陰謀の真相に思いいたる。
「あれがわたしひとりの不名誉だったら、まだしもだった! ところが、あれはわたしが
守っているものすべてにとって不名誉だった。多くの人が守ろうと努めてきた信仰の不名
誉。あのまま行ったら、どういうことになったか、考えても恐ろしい! 十六世紀にイギ
リスの僧侶の陰謀を発見したと偽誓してカトリック迫害を招いたあのタイタス・オーツ以
来の、もっとも大がかりで恐るべきスキャンダルがわたしどもを相手にしてたくらまれた
のです。(中略)連中は奇跡ブームをでっちあげるつもりだった。そうしておいてからこ
んどは奇跡をぺしゃんこにつぶしてしまったろう。なによりも悪どいことに、わたしがこ
の陰謀に荷担していたという証拠を示したろう。それがこの事件の全貌なのですよ。これ
ほど地獄の近くにくることはもう二度とないでしょう。いや、二度とないことを望むもの
ですよ」

 虚偽をもって真理に仕えることはできない。「真理」の名を称する教団が足を踏み外し
、単なる犯罪集団へと堕していったのも、その当たり前のことを忘れたからだった。

 通常の宗教とカルトの区別は難しいが、その一番の目安は教祖もしくは個々の信者が教
団の利益のためにウソをつき続けることを是認(対外的な建前ではなく、実際の運営にお
いて)しているかどうかであろう。

 さらにいえば、特定の学説や商品の普及など、一見宗教とは無関係の目的を掲げる団体
であっても、その組織を維持するのに虚偽を必要とするならば、その内実は果てしなくカ
ルトに近づいていくのである。私は実際、ある古代史学説の支援から始まり、その学説の
破綻が明らかになった後は、カルト的狂信によってのみ支えられるにいたった団体を見て
きている。さらに為政者とその意を呈する報道機関が国を守るという大義の下、虚偽を乱
発していけば、やがては国家ぐるみのカルト化という道が待っている。

 カルトを支える心理というのは、自らが真理と信じるものを守るためにウソをつくこと
を矛盾と思わない心理なのである。

 そして、「ブラウン神父の復活」において神父を襲ったのは、カトリック教会そのもの
をカルトにおとしめようとするものだったのである。カルトから逃れる道、それはブラウ
ン神父のように、明白な虚偽に対しては、それが一見、自らの立場を利するものであって
もはっきりと拒絶することだろう。しかし、それはとても困難なことである。
「王様は裸だ」といった時、その人が最初に闘わなければならないのは、王様御自身より
もまず、さっきまで一緒に王様を歓呼していた隣人たちなのだ。

 ブラウン神父が電報を打った時、堅実な生活をおくる電気技師レースが神父に言った。
「あなたは奇跡よりもなお尊いことをなさったのです」

 だが、私たちの社会が、その奇跡よりも尊いことをあえて行う人々により、狂気を免れ
ているのも確かなことなのである。

 

 

 

                       1997,10  原田 実