獣神信仰の再生

 

 


 

 

DOGとGOD

 

 ブラウン神父曰く−「さよう、わたしは犬が好きだ。ドッグをさかさまにつづってゴッ
ドとしたんではまずいがね」
「犬のお告げ」はこのような人を食った一言で始まる。なるほどdogをさかさまにすれ
ばGodである。そんなことを言いながら犬をなでているブラウン神父にその犬の飼い主
、ファインズ青年は語り始めた。
「と言うと、犬のことを世間の人は過大評価しすぎるというわけですか(中略)そうかな
。たいした生きものだと思うけど。ぼくらよりずっと多くのことを知っているんだと思う
こともありますよ(中略)たとえば、神父さんに相談しようと思って来たこの事件に犬が
からんでいるんです。この事件は、それ、いわゆる“見えない殺人事件”というやつで、
きてれつな話なんですが、ぼくの見るところでは、そのなかではいちばんきてれつなのが
問題の犬なんです。もちろん、この事件そのものが大きな謎で、ドルース老人がたったひ
とりであずまやにいたところを自分でないだれかほかの人に殺されたっていうことがそも
そも・・・」

 事件そのものはいわゆる密室殺人事件の様相を呈していた(実際、この短編はしばしば
密室ものアンソロジーに採り上げられる)。ここで不思議な役割を果たしたのは犬である
。その犬は被害者の家で飼われており、その名をノックス(ラテン語で夜の女神を意味す
る)といった。ちょうど事件のあったその時刻、ファインズ青年は友人たちとともに海岸
を散歩していた。犬は海に向かって投げられたステッキを泳いでとってくる遊びに熱中し
ていたが、突然、泳ぐのをやめ、岸にあがってきて、青年の前に立ち止まり、それまでこ
の世で聞いたこともないような吠え声とも泣き声ともつかぬ悲鳴をあげたのだという。

 そして事件の直後、犬は事件の関係者の一人に荒々しく吠えかけ、その男は小さくなっ
て逃げだしてというのだ。ここまで話が進んだ時、ブラウン神父は突然怒りはじめた。
「犬のお告げが有罪を宣告したというわけか。どうかな、そのとき空にはどんな鳥が飛ん
でいたかご覧になりましたか。鳥はみんなあんたの右側におったか、それとも左側でした
かね。生贄について占い師にお伺いをたてることもおやりでしたか。ならば、もちろん、
その犬を引き裂いて内蔵を調べることもおこたりなくやったんでしょうな。あんたのよう
な異端の人道主義者がひとりの男の生命と名誉を奪おうともくろんでいるときに頼りにす
る科学的なテストは、どうやらそういうものであるらしい」

 ファインズは驚き、我に帰った神父はどぎまぎと謝罪した。青年は事件について一通り
の話を終えると帰っていった。

 

 

迷信の再生産

 

 それから二日後、執務中の神父は、とつぜん部屋に飛び込んできた犬にむしゃぶりつか
れた。事件が、犯人の自殺という形で急転直下の解決を迎えたことを、ファインズ青年が
告げにきたのである。

 ファインズには、そして警察にも判っていない事件の真相をブラウン神父は解き明かす
。「犬です。むろん、あの犬ですわ。あの犬が浜べでしたことのなかに事件の全貌が隠さ
れておったのです。が、あんたはそれを目の前にしていながら、正しく犬を観察しなかっ
た(中略)あの犬こそ事件とすべての関係をもつもの、ということは、もしあんたがあの
犬を人間の魂をさばく全能なる神とせずにただの犬として扱っていたなら、あんたにもす
ぐわかったはずですがな(中略)じつを申せば、私はえらく犬が好きときている。ところ
がこの事件では、犬についての迷信が怪しい後光のようにまといついているのに、ほんと
うに犬のことを思いやった人はおりません」

 犬が吠えたてたのは、その人物が神経質で犬のきらうタイプだったからであり、相手が
逃げ出したのは、単に犬が恐かったからで罪の影に脅えたわけではない。そして、犬が泳
ぐのをやめ、海岸で悲しんでいたのは拾おうとしたステッキがそのまま海に沈んでしまっ
たからだ−真犯人は犬相手のゲームにまぎれて凶器の仕込杖を始末したのである。
「私が不満なのは、ただ一つ、犬がしゃべれないので代わってあんたが犬の目撃談をでん
ちあげ、人間や天使のことばで犬にしゃべらせたということですな。これは、現代の世界
でだんだん強まってくるように見える現象の一部で、新聞紙上のうわさ話とか日常会話の
きっかけの文句としてほうぼうに顔を出してくる、権威がないのに独断的な話題ですな。
世間の人たちは、あれこれなんでも、実証されていない主張をたやすくうのみにしてしま
う。これにかかったら、おなじみの合理主義も懐疑主義も沈没です。まったく海の波のよ
うに押しよせてくる。その名は迷信という(中略)人が神を信じなくなると、その第一の
影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる。人が話題にの
せ、これには一理も二理もあるとしてもてはやすものはなんでもかんでも、まるで悪夢の
けしきのように際限なく伸びてゆき、犬が前兆となり、ねこが神秘に、ぶたがマスコット
に、かぶと虫がお守りになるといったあんばいで、エジプトから古代インドまでのあらゆ
る汎神論の一大動物園が現れる。エジプトのアヌビス、大きな緑の目をしたパシュト、そ
れとバシャンの牡牛、これは現にたくましく血色のいい男という意味でつかわれているく
らいだが、そういったものを通じて、この世の始まりの獣神へとみんなよろよろ逆戻りし
、像やらわにやらのうちに逃避する。というのも、ただ“人は人として創られたり”の一
句が恐ろしいばかりに」

 ブラウン神父が非難した迷信の再生産、それはいまなお続いている。エジプトや古代イ
ンドに起源するという類の怪しげなお守りの広告はオカルト雑誌のみならずマンガやゴシ
ップ誌などさまざまな雑誌で見ることができる。

 

 

異星人崇拝とイルカ崇拝

 

 さて、世の中には異星人を神として崇める人々もいる。その元祖となったのはジョージ
・アダムスキーなる人物で、一九五二年、カリフォルニアで金星人オーソンと接触し、以
後、空飛ぶ円盤に同乗して太陽系の各惑星を訪ねたと主張、一九六五年に世を去るまで勢
力的に著述・講演活動を続け、日本も含めた世界各国で多くの信奉者を得た。

 アダムスキーによると、異星人は容姿美しく、高度な「宇宙の法則」に目指した素晴ら
しい人々だったという。その後もエドワルド(ビリー)・マイヤーやクロード・ボリロン
(ラエル)など、神の如き宇宙人に出会って教えを受けたと称する者は次々と現れ、それ
ぞれに信者を獲得していった。このように宇宙人と接触したと称する人のことをコンタク
ティーという。

 また、一九七〇年代には、聖書の神とは円盤に載った宇宙人のことであり、エジプトの
ピラミッドやペルー・ナスカの地上絵など謎の古代遺跡といわれるものはいずれも宇宙人
が建造に関わっているという古代宇宙飛行士仮説がマスコミにもてはやされ(この説の宣
伝に努めたのはスイスのホテル経営者エーリッヒ=フォン=デニケン)、それもその後の
コンタクティーの主張に影響を与えていった。もっとも、古代宇宙飛行士仮説の元祖の一
人は、アダムスキーの元盟友で自身、コンタクティーだったジョージ・ウィリアムスンな
のだから、コンタクティーの主張と古代宇宙飛行士仮説は最初から同じ穴のムジナだった
のである。

 さて、コンタクティーを教祖とするカルトでは、宇宙人を真理に目覚めた完全な存在、
あるいはバイオテクノロジーで人類そのものを創造した存在、ひいては神そのものとみな
すことになる。宇宙人が本当にいるのか、彼らがいたとして本当に地球に訪れているのか
、そして空飛ぶ円盤あるいはUFOといわれる現象が本当に宇宙人の仕業なのか、疑問を
懐くべきことは多々あるにも関わらず、議論など一切抜きに信者たちはコンタクティーの
いうことを鵜呑みにし、宇宙人を神と崇めるわけである。

 だが、たとえ宇宙人が実在し、それが地球人よりもある点で優れた能力を持っていると
しても、それだけで神とみなすのはおかしな話である。

 キリスト教やイスラム教の立場からいえば、宇宙人といえども地球人と同様、神によっ
て創造された被造物であり、彼らそのものを神と崇めるのは倒錯である。また仏教の立場
からいえば、宇宙人といえども生命あるものである限り、他の生物と同様の業(カルマ)
から逃れることはできない。まっとうな宗教である限り、宇宙人を救済の対象ではなく救
済者そのものと見なすような論理は引き出せようもないはずである。

 もしも本当に宇宙人がいるとして、地球人に本格的なコンタクトを求めてきても、神様
扱いされたとあってはかえって迷惑するだけの話だろう。

 宇宙人崇拝というのは、人間とは異質の能力を持っているというだけで動物を拝んだ古
代の獣神崇拝とあまり代わりはないのである。

 なお、最近はUFOを宇宙人の乗り物と信じている人々の間でも、彼らは地球侵略を狙
っている、あるいは政府と組んでの謀略で大多数の人々を騙しているといったマイナスの
イメージが広まりつつあり、コンタクティー信者の旗色は悪くなっている。

 その代わり、というべきかイルカがテレパシーで人類の進化を促進するという本や、馬
は宇宙の原理に従って走るなどという競馬必勝法(?)の本など、新手の獣神崇拝を説く
いわゆるトンデモ本は増加の一途をたどっているという(と学会編『トンデモ本の世界』
洋泉社、一九九五)。ブラウン神父の言う通り、「人が神を信じなくなると、その第一の
影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる」ものらしい。
なお、UFO目撃例できちんと調査が行われたものについてはその九五パーセントまでが
金星や飛行機、気球など既知のものの見間違いと判明しているそうだが、その事例の一つ
にそのまま「犬のお告げ」のような話があるので紹介したい。

 一九六六年三月三日、オハイオ州コロンバス市である女性理科教師が犬を連れての散歩
中、三つのUFOの編隊を目撃、双眼鏡で確認した。その間、犬は恐ろしさのあまり、地
面に横たわってくんくん泣いていたという。その同じ夜、テネシー州ナッシュビルとイン
ディアナ州でもUFO目撃の報告があった。

 だが、この日はちょうどロシアのロケット、ツォンド四号の大気圏突入の日にあたって
おり、その軌跡はテネシー、オハイオ、ペンシルヴェニア、ニューヨーク各州上空を通っ
ていた。そして多くの天文ファンが観測した、このよく目立つ発光体について、当日のU
FO目撃者の中で見たという人は一人もなかったのである。この「UFO」がロケットの
誤認であることは明らかだ。

 では犬はなにに脅えて地面にはいつくばり、鳴いていたのだろうか?
「目撃者が後に述べているように、その晩はとても寒かったのだそうだ。それに彼女の犬
は寒さが嫌いだった。主人がUFOに見とれていたためいつもより余計な時間を外で過ご
すこととなって犬はすっかり冷えきってしまい、主人に家に帰りたいとねだっていたのだ
」(テレンス・ハインズ著、井山弘幸訳『ハインズ博士「超科学」をきる』化学同人、一
九九五、原著一九八八)

 犬は犬としてごく自然にふるまっていたのである。飼い主の先入観が、UFOに不吉の
影を見て脅える犬という虚像を作り上げてしまったのである。

 

 

世界を見下ろす害悪−「神の鉄槌」   緑色の虫

 

 ボーハン家は十字軍にも参加した歴史を誇る旧家だが、今ではすっかり落ちぶれ、いま
や深酒と女色にあけくれるノーマン・ボーハン大佐と、その弟で英国国教会の牧師ウィル
フレッド・ボーハン師を残すのみとなった。ウィルフレッドは神に仕えるにきわめて敬虔
な人であったが、口さがないものに言わせると、彼の熱心さは「神のおんためというより
ゴチック建築への愛情のためであって、彼が亡霊のように教会にしげしげかようのは、彼
の兄をして女と酒に浮き身をついやさせた病的な美への憧れが別のもっと純粋な方向をと
ったごけのことなのだ」という。

 ある早朝のこと、ボーハン大佐が教会のとなり、鍛冶屋の庭で殺された。知らせを受け
てウィルフレッド師が駆けつけた時には警官たちと医者による現場検証の最中、鍛冶屋の
妻はその所属するカトリック教会の神父になぐさめてもらっているところだった。

 大佐の頭はトレードマークのヘルメットごとハンマーで打ち砕かれている。それほどの
怪力を揮えるのは、村では鍛冶屋一人だけだ。そして、鍛冶屋の妻は大佐の数多いスキャ
ンダルの相手の一人だった。事件はたちまち解決するかに思えた。

 ところが鍛冶屋が現場に戻ってきたとたん事件の様相は一変する。鍛冶屋は前日の夜か
らとなり町で信仰復興特別伝道会の会議に出ており、一人になることはなかった(鍛冶屋
の信仰はその妻とも異なり、プロテスタントの清教徒だった)。当然、大佐が殺された時
間にもそのアリバイは完璧だったのである。

 鍛冶屋は大佐の頭は神の力により打ち砕かれたのだという。
「ふん、皆さんがた、たんとおれを物笑いの種にしなさるがいい。日曜日の説教に、主な
る神がセンナケリブを顔色ひとつ変えずにたたきのめしたという話をなさる坊さんがたか
らしてこうだ。あらゆる人の家という家に姿を見せずにお入りになるおかたがおれの名誉
を守って、闖入者をわが家の門前で息の根が停まるまで打ちのめしてくださった。その一
撃をくらわせた力は、まさしく地震を起こす力と同じもので、それ以下のものじゃなかっ
たんだ」

 ブラウン神父は震えるウィルフレッド師を導いて現場を離れた後、ぜひウィルフレッド
師の教会を見たいともちかけた。先の教会の階段を登るウィルフレッド師、続こうとする
神父を医者が呼び止める。
「神父さん、あんたはこの怪しい事件についてなにか秘密を知っているような口ぶりでし
たね。その秘密をあんたは一人じめにするおつもりなんですか」

 神父は聖職者の守秘義務について説明した上で、事件についてのヒントだけなら言えな
くもないという。
「この事件はやっぱりあんたの管轄内ですよ。形而上の問題なんかじゃありません。鍛冶
屋さんはまちがっておいでだ−と言っても、あの一撃が神業であるという主張よりも、む
しろあれが奇蹟によって起こったという主張においてまちがっているわけなんです。あれ
は奇蹟なんかじゃない−人間そのものが奇蹟だというなら話は別ですがね。なんとも説明
のつかない邪な心、それでいてなかば英雄的な心をもった人間、それはたしかに奇蹟です
な。しかし、大佐の頭をくだき割った力は、科学者がとっくに知っている力なんです。自
然法則のなかでもとりわけしばしば論議の的になっている力(中略)鍛冶屋さんの言った
ことを憶えておいでですかな−自分は奇蹟を信ずるといっておきながら、あのハンマーが
翼を生やして半マイルも飛んで来たというありえないお伽話をあの人はせせら笑ったでし
ょう。(中略)あのお伽話こそ、きょう、人の口から出たことで事件の真相にいちばん近
いものだった」

 ゴチック建築の高い塔の上から下界を見下ろすブラウン神父とウィルフレッド師。

 ブラウン神父−「いくら祈りのためとはいっても、こういう高い場所にいるのはなんと
なく危険な気がしますね。高みというやつは、下からながめるものであって、そこから見
下ろすものじゃなかったんですね」

 ウィルフレッド師「落っこちやしないかという心配ですか?」
「からだが墜落しなくとも、魂が堕ちるかもしれないという意味ですよ」
「どうも呑みこめませんね」
「たとえば、あの鍛冶屋さんをごらんなさい。あれは善良な男ですが、キリスト教徒じゃ
ない。冷酷で我が強く、赦すことを知らない。あの男のスコットランド式宗教は、山や高
い絶壁の上で祈りをつづけ、天を見あげることよりも世界を見くだすことのほうをより多
く学んだ人たちの創ったものです。卑下は巨人や超人を生むものなのです。谷にいる人は
そこから偉大なものを見る。ところが山のてっぺんからは小さなものしか見えぬのです」
「しかし、犯人はあの鍛冶屋じゃないんでしょう」
「あの人じゃない・・・あの人の仕業じゃないことはわかっている・・・わたしの知って
いた一人の男は、最初はほかの者たちといっしょに祭壇の前で礼拝することから始めなが
ら、やがて祈りの場所として鐘楼の片隅だとか塔のてっぺんとかいうような高い淋しい所
を好くようになった。あるとき、世界が自分の足もとで車輪のようにまわっているように
見えるそういう眼のくらむ場所で、その男の頭までがくるくる回りだし、自分は神である
と思いこむところまで行ってしまった。こうして善良な人間であったのに、その男は大き
な罪を犯した」

 ウィルフレッド師のきつく握りしめた手が青ざめる。ブラウン神父はなおも続ける。
「この世を裁き、罪人を打ち伏せることが自分に許されているとその男は考えたのです。
そんな考えは、ほかの者といっしょに床に膝まずいていたならば、とうてい思いつかなか
ったでしょう。ところが、その男はすべての人が虫けらのようにうごめいているのを見て
しまった。なかでも目だったのは、すぐ足もとで闊歩していた生意気な虫、派手な緑色の
帽子でそれと知れる毒虫だった・・・誘惑の種はもう一つあった。もっとも怖ろしい自然
のエンジンが自分の手中に握られていたということがそれです。自然のエンジンすなわち
重力です。この地上のあらゆる被造物がひとたび解放されると地球の中心めがけて飛びも
どろうとするあの死に物狂いの突進力。ほうら、警部さんがこの増したの鍛冶屋の庭を歩
いているでしょう。今わたしがこの欄干から一粒の小石でも落としたなら、それは警部さ
んに当たるころには弾丸のようなスピードになっているでしょう。そこでもしハンマーを
、ごく小さなものでもハンマーを・・・」

 欄干に足をかけ、飛び下りようとするウィルフレッド師をブラウン神父は引き戻す。壁
にもたれ、頭を手でおさえて苦悶するウィルフレッド師がブラウン神父に問うたのは、「
兄を殺したのが私だとどうしてわかったのです?」ということではなく、「兄の帽子が緑
色の虫に見えたということがどうしてわかったんですか?」ということだった。

 

 

比叡山の伝説

 

 以前、新宿の高層ビル街の一角、その中でも高い階に陣取るオフィスを訪ねたことがあ
る。商談の相手は窓を背にしていたが、その肩越しに見下ろす景色はまるでミニチュアの
よう、ビルの下を行く雑踏はそれこそ虫の群れにように見えたものだ。こんなところに毎
日通っていると精神衛生によくなさそうだな、とそう思い始めると目の前の相手がなにや
ら傲然として見えてきた。結局、その話はものにならなかったわけだが、その件について
私は後悔していない。

 学生時代のある日、比叡山に登った時にも奇妙な思いをしたことがある。山頂の見晴ら
しのいいところで一息つき、下界を見下ろした時、京都の町並みを碁盤の目とはよく言っ
たものだと感心した。

 比叡山にはこんな伝説がある。その昔、若き日の平将門と藤原純友は比叡山参詣の途中
、偶然出会い意気投合した。そして京の町を見下ろしながら、将門は東国、純友は西国出
挙兵して天下を覆し、志なれる時にはそれぞれ新皇と摂関となろうと誓いあったというの
だ。なるほど、眼下の京の都はなにやら碁や将棋のようなゲームの盤に見え、これならゲ
ーム感覚の天下とりという伝説が生まれるのももっともだと納得した。

 法然、親鸞、栄西、道元、日蓮はいずれも若き日に比叡山で経論を学んでいる。また、
一遍も諸国遍歴の最中、比叡山に籠もったことがある。彼らがそのまま山に留まっていれ
ば、それぞれ一宗の祖となることはなく、鎌倉新仏教なるものも起きなかっただろう。だ
が、彼らは山から下りて、そこに本当に仏の救いを求めている人々を発見したのである。
真の高みにいたるのは、へりくだることを知っている者なのである。

 だが、高層ビルの林立は人を見下ろす習慣を持った人々を増やしているようである。こ
とに高層マンションの上の階ともなれば、ただ住んでいるだけで常日頃から人を見下ろす
ことになるわけだ。

 もう一つ、気掛かりなのは東京都庁を皮切りに県庁、市役所など日本各地の自治体で予
算の許す限り大きな建物を作ろうとする傾向があることだ。

 なるほど、建物を大きくすることで地方行政の能率化を計れるというのだろうが、用が
ある時に訪れるだけの一般市民からすれば大きな建物を右往左往する羽目になるわけで、
さほど能率が上がるとも思えない。

 なにより市民と同じ目の高さでなければならない公務員が人を見下ろすような位置をい
るというのは、心理的に考えると決してよいことではないだろう。東京都庁のあの権力へ
の意志をそのまま形にしたようなデザインを見ると、自治体の建物の巨大化は決してよい
傾向とは思われないのである。公務員のかたがたには、せめて「神の鉄槌」でも読んで、
建物の大きさに惑わされない謙虚さを養っていただきたいものである。

 

 

プラス思考の罠−「三つの凶器」  笑い続ける男

 

 エアロン・アームストロング卿殺人事件という言葉ほどしっくりしないものはなかった
。というのは、卿は殺人に象徴される暗黒の世界とはいっさい無縁の人物と思われていた
からである。
「エアロン・アームストロング卿の愛想のよさは、度を越して滑稽味さえおび、その人気
たるや、伝説中の人物あつかいだったからである。(中略)卿の政治や社会に関する演説
は、逸話と哄笑の本流であり、肉体の健康ははちきれんばかり、道徳感は楽天主義に貫か
れ、十八番の題目である飲酒問題に関しては、富裕な完全禁酒主義者によく見られるあの
不滅にして単調な容器さをもって論じていた。(中略)誰もが、卿こそは世にも稀な謹厳
きわまりない朗らか男であると感じていたのである」

 発見時、卿の遺体は自宅近くの土手にころがっており、その足には一本のロープがから
まり、まとわりついていた。卿の秘書パトリック・ロイスの要請でブラウン神父が招かれ
ることになった。ロイスは私立探偵フランボウの友人であり、フランボウの友人であれば
いやでもブラウン神父についての話を聞かないではいられなかったからである。

 事件が起きた時、アームストロング邸にいたのは、ロイスと卿の従僕マグナス、そして
卿の娘アリス。三人とも動機はない。担当の刑事マートンは神父相手に「いったい、誰が
アームストロングみたいな朗らかな老人を殺したいと思うでしょうか?まるでサンタクロ
ース殺しじゃないですか」とグチをこぼす。

 だが、神父は問う−「さよう、たしかに朗らかな家でしたな。卿が生きていたあいだは
朗らかな家でしたよ。ところで、卿が死んでしまったいまでも、やはり朗らかでしょうか
な? さよう、あの人自身はほがらかだった。が、はたしてその朗らかさは他の人に伝わ
ったろうか? あけすけに言って、あの一家では卿以外に陽気な人がいただろうか?」

 考え込むマートンに神父はさらに言う−「仮にわたしが殺人をするとすれば、殺す相手
は楽天主義者といったところかな。世人は哄笑の頻発なら好みましょう。ところが、のべ
つ幕なしにうかぶ微笑に対しては業を煮やすものじゃないでしょうか。なにしろ、ユーモ
アのない陽気さというやつは、まったくたまらないものですからな」

 マートンの上司ギルダーは事件直後に姿を消したマグナスが犯人だと決めつける。「た
だ一つ、難点といえば言えるのは、殺害方法なんだ。頭蓋骨の砕けぐあいはなにか大きな
凶器を使ったらしいんだが、あたりには凶器なぞ全然見あたらないし、そうかと言って、
そんな大きな凶器を持ったまま逃げるのは、いくら殺人犯でもまずいと思ったにちがいな
い−よほど小さくて、ひと目を惹かない物なら話は別だが」

 しかし、警官につきそわれアームストロング邸に帰ったマグナスはアリスこそ真犯人だ
と告発する。彼は卿が屋根裏部屋の窓から放り出された直後、その部屋でアリスが血痕の
ついた短剣を手に握ったまま気絶しているのを見たというのだ。

 続いてロイスが語る。アリスが短剣に握ったのは、父親を守るためだった。卿殺害の真
犯人はロイス自身だったと。一同、ロイスの案内で屋根裏部屋に入ると、そこには全弾撃
ちつくされた拳銃がころがっていた。ロイスはそれが自分の拳銃だと認めた。

 ロイスを連れ去ろうとする警官たちをブラウン神父が止める。
「いかにせん、これはどうも変てこですよ。最初は凶器が全然見つからないということだ
ったのに、いまとなると、続々とあらわれた−刺殺用のナイフあり、絞殺用のロープあり
、射殺用のピストルありだ。・・・これは変てこですな。第一、不経済な話ですよ」

 そして、アリスの証言をも聞いたブラウン神父はそこで本当に何が起こったのか語り始
める。
「あの道具はみんな凶器ではなく、人殺しのために使われたものでないと申し上げよう。
輪型のロープや、血まみれのナイフや、火を吐くピストルといったあの不気味な道具は、
どれもこれも、実は風変わりな慈悲の道具だったのですよ。あれは、エアロン卿を殺すた
めではなく、救うためのものだったのです。・・・あの人は自殺狂でした。・・・世間の
人はなぜ、あの人に、すこしは涙を流させてあげられなかったのだろうか? あの人の先
祖は、みな泣いたのだ。あの人の考える計画は堅苦しくなり、りっぱな意見も冷たくなっ
て、あの陽気な仮面の影には、無神論のうつろな心がひそんでいた。・・・あの人は、み
ずから他人に警告していた心理的な地獄の世界を頭に描き、予想するようになった。哀れ
にもアームストロングさんは、そんな年でもないのに、その妄想に襲いかかられて、けさ
はもう症状が悪化していて、ここにすわりこみ、娘さんには誰の声か聞き分けられなかっ
たほど気違いじみた声で、おれは地獄にいる畜生だとわめきちらしておんた。無性に死に
たがって、狂人らしいたわいないやりかたで、自分の周囲にいろんな死の道具をまきちら
した−輪型のロープ、ロイスくんの拳銃、それに一丁のナイフをちらばらせておいたのだ
・・・」

 ロイスは卿の自殺を止めようとして、拳銃を撃ちつくし、ロープで卿をしばりあげた。
その格闘を勘違いしたアリスはロープをナイフで切ろうとした。血痕はその時のはずみで
ロイスの指を切ったためについたものだった。ロイスはアリスの行為が結果として卿を死
においやってしまったことを隠そうとして、すすんで罪を着るつもりだったのだ。

 真の凶器はギルダーが考えるように小さくて目につかないのではなく、大きすぎて目に
つかなかった。その名は大地。卿は窓から転落した時、首の骨を折って死んだのである。
ブラウン神父はアームストロング卿が示したようなニコニコ主義は「残酷な宗教」である
と言い放つ。

 

 

完全なプラス発想は可能か?

 

 さて、一九九五、六年の日本で最大のベストセラーといえば、春山茂雄氏の『脳内革命
』(サンマーク出版)である。

 それによると、物事をプラス発想でとらえれば脳内モルヒネが分泌され、楽しく健康に
日々を過ごすことができるようになる。脳内マルヒネは麻薬のモルヒネと違って依存性や
副作用の心配がないから出れば出るほどよい。そして、プラス発想の神髄とはとてもプラ
スに思えないことをプラス発想で考えること、たとえば最愛の肉親を亡くしても「自分に
起きることはすべてベストである」と思えばよいのだそうだ。

 私はこの本をはじめて書店でみかけた時、脳内モルヒネは出れば出るほどよい、という
くだりを見ただけであきれて関心を失ってしまった。その時点では、まさかこの本が続編
も併せて五百万部を超えるベストセラーになるとは思ってもみなかったのである。

 第一、微妙なバランスで成り立っている人体について、何か特定の物質が無制限に分泌
されてよい、などということがあろうはずもない。
『脳内革命』において、春山氏が、脳内モルヒネという場合には、β−エンドルフィンと
いう物質を指す。春山氏によると、このβ−エンドルフィンに対してノルアドレナリンや
ドーパミンという悪玉のホルモンがあり、マイナス発想は悪玉ホルモンの分泌をうながす
というのだが、健康な人体ではホルモンは常に必要があって分泌されているものなのであ
る。春山氏は創造主の命令にしたがってこそ幸福と健康が得られると説くのだが、どれも
人体にとって必要なはずのホルモンをさかしらに善玉・悪玉にわけるというのは、それこ
そ創造主の命令に逆らうというものだろう。

 また、春山氏は本来、ドーパミンの作用であるはずの快感発生をβ−エンドルフィンの
作用と誤るなど、基礎的な医学知識が欠如していることもすでに指摘されたところである
(永野正史『医者からみた「脳内革命」の嘘』データハウス、他)。

 とはいえ、ファンにとってこの種の批判は単なる上げ足取りにすぎないということにな
るだろう。『脳内革命』の意味はプラス発想の重要性と、それに基づく正しく楽しい生き
方の提唱にあり、その意義の前ではささいな医学的誤りなど関係ないというわけだ。

 だが、私には、これはブラウン神父言うところの「残酷な宗教」の一変種、というより
も直系の異端であるように思えてならない。

 生きている限り、悲しみに胸をふさがれ、怒りに拳をふるわせることもあるだろう。そ
のような時、プラス発想の名の下に悲しみや怒りを抑えることが本当に心を軽くすること
になるのだろうか。伝統的な宗教の神仏はむしろそのような時、信者の悲しみや怒りの声
をすすんで受け止めようとするものではなかったか。そして、この世界を良い方向に導い
てきたのは、悲しみや怒りの感情を正当に生かしてきた人々だったのではないか。

 抑えこまれた悲しみや怒り、怨みが暴走した時こそ恐ろしい。アームストロング卿はそ
の暴走によって我が身を滅ぼし、周囲の人々まで不幸にするところだった。

 だが、『脳内革命』のベストセラーはそのような「残酷な宗教」がいまや日本全土に蔓
延しようとしていることを告知している。そのことを思えば、私はとてもプラス発想で楽
しく過ごすなどということはできそうもないのである。

 

 

 

                       1997  原田 実