真の愛国心−「手早いやつ」

 

 


 

 

頑固爺さんの死

 

 サセックス州の海岸近くにそびえる大ホテル、そこに現れたのはブラウン神父とグリー ンウッド警部の二人連れ。ホテルのサルーンでは変わり者の老紳士ラグリー氏がなにやら 悪態をつきつつ、チェリーブランデーを飲んでいる。

 肝心のバーには誰もいない。警部もまた、給仕の不在に悪態をつき始めたが、ふと見る と神父はぼんやりと考え込んでいる。

 何を考えているのか、問う警部に神父答えて曰く、「わたしが考えていたのは、ここで 人を殺すのはどんなに簡単だろうかということなんですよ」

 警部も機嫌を直して言う。「うらやましいかぎりですな。神父さんは今までにたっぷり ひとり分以上の殺人事件にありついてきたというのに、われわれ警察官は一生ひもじい思 いで手をこまねいて待っているだけですよ」

 そこに陽気なセールスマンの一団がなだれこんできた。酒造会社の遣り手のセールスマ ン、ジュークス氏の声を聞いて、ホテルの支配人がバーにとんできた。先程の警部への対 応とはえらい違いだ。

 その喧噪の中にもっとも場違いな人々が紛れ込む。緑色のターバンを巻いた東洋人とプ ロテスタントの牧師だ。高名な伝道家デヴィッド・プライス・ジョーンズ師は、その禁酒 主義が嵩じたあまり、世界最初の禁酒主義者マホメットの教えに目をつけ、さる高名なイ スラム教指導者を講演旅行の相手に選んだのである。改装中の喫茶店に入れずにバーへと 送り込まれた御両人だが、彼らが賑やかなセールスマン一行と出会った以上、そこで一騒 ぎ起こさずにはいられなかった。

 ジョーンズ師が禁酒主義の演説を始めたその時、火に油を注ぐかの如く、かの不平屋ラ グリーがバーに乗り込んできた。ラグリーはイギリスの酒について一席ぶつ。 「なんたることだ、イギリスに残っているイギリスの物といったらチェリー・ブランデー だけじゃないかと思うことがよくある。チェリー・ブランデーなら、たしかにチェリーの 味がする。ところが、どうだ、ホップの味がするビール、林檎の味がするサイダー、ほん のかすかにでも葡萄から造られたらしい味がする葡萄酒ってものがあったら、ぜひ持って きてくれ。今やわが国のホテルというホテルで言語道断の詐欺がおこなわれつつある。こ れがよその国だんたら、とっくに革命が起こっているところだ。このことについて拙者は 二、三の事実をさぐりだしてある。印刷して発表するつもりだから待っているがいい、み んなそれを読んだら目の玉がとび出るだろう。わが国民がこういう悪酒で中毒にかかるの を防ぐことが拙者にできたら−」

 ここでラグリーの演説を聞きかじり、禁酒主義の同士と勘違いしたジョーンズ氏がその 先を続けようとしたために、また騒ぎが大きくなる。ラグリーがどなる。 「汝の魂、呪われてあれ! 世界の果ての遠い砂漠で葡萄酒がマホメットとかいういかさ ま師のために禁じられたからというので、イギリス人までがイギリスのビールを飲んじゃ いかんというのか!」

 その時、ひとふりの剣がラグリーの耳元をかすめ、壁につきささった。イスラム教徒の 紳士が壁にかかっていた装飾用の短剣をとり、ラグリー氏めがけて投げつけたのだ。

 しかし、このいさかいはラグリーの哄笑によって幕を閉じた。 「この人に酒が許されているのなら、一杯おごりたいところだ。拙者はこの人の宗教を侮 辱したんではない。拙者の望みたいことは、おまえたち腰抜け連中がいやしくも自分の宗 教を侮辱されたならば−いや、侮辱したくともおまえたちには宗教がないんだから、それ はだめだが、−とにかく自分の国のビールでもいいから侮辱されたならば、その相手を殺 すくらいの勇気があってほしいものだな」

 一同は部屋に引き上げ始め、西と東の狂信者も和解の挨拶をかわして、そのまま別れた ・・・だが、そのあくる朝、ブラウン神父はホテルのバーで、短剣に貫かれたラグリーの 死体を発見したのである。

 

 

国を救いうる人

 

「手早いやつ」はブラウン神父が進んで警察に協力し、捜査の指揮をとった唯一の作品で ある。他の作品では、神父にとって、事件に関する最大の関心事はその関係者(特に犯人 )の魂の救いであり、刑事的決着には無頓着でさえあった。しかし、「手早いやつ」は例 外である。 「わたしはこれまで一度として警察機構に活動命令をくだしたり、犯罪人をつきとめたり したりすることに関係したことはないのですが、唯今、生まれて初めて、それをしてみた くなりました」

 神父は警部に語る−「あなたはひっきりなしに、これこれの事件が重大だとおっしゃっ ておいでだ。ごくありふれた現実家として、わたしは殺されたのが総理大臣であることを 認めねばならぬでしょう。同様にして、ごくありふれた現実家として、わたしは総理大臣 が少しでも大切だとは思わない。人間としての重要さということに関するかぎり、総理大 臣は存在しないにひとしい。かりにあした総理大臣はじめ多くの閣僚が撃ち殺されたとし ても、たちまちほかの人たちが立ちあがって、道筋という道筋に探索の手が伸びておると か、政府はこの事件を容易ならぬものとして考慮中とか、発表するんではありませんか。 現代の巨匠たちにしても、大切じゃありません。正真正銘の巨匠たちですらあまり大切で はありません。新聞にのるような人はほとんど皆と言っていいくらい少しも大切ではあり ません。・・・

 しかし、ラグリーは大切だった。イギリスを救いえたかもしれない半ダースほどの大人 物たちのひとりだったのです。その人物たちは、見る人もない看板のように荒涼として控 え目に、この単なる商業主義の泥沼で終わっているあのなめらかな降り坂の要所要所に立 っているのです。(中略)あのラグリー老人が、獅子のごとき心をもっていて、いさぎよ く敵を許した、あの態度は戦う勇者のみが示しうるものです。あの人は禁酒の説教屋さん が説教なさったことを見事に実行しました。われわれキリスト教徒に模範を示し、みずか らキリスト教精神の手本となったのです。さあ、そういう人がいわば闇討ちに会って殺さ れたとなると、それはもう一大事と言わねばなりませんので、たとえ現代の警察機構のご ときものでも、あえて利用させていただかねばなりません」

 ブラウン神父の活躍で明らかにされた事件の真相、その動機もトリックもラグリーの酒 へのこだわりに関わるものであった。ラグリーはイギリスの酒を守ろうとして戦い、卑怯 な敵の魔手に倒れたのである。

 

 

愛国心という美徳

 

 ブラウン神父はイギリスについて「その国で何よりおかしな点は、たとえ自分がその国 を愛していて、その国民のひとりであってさえも、さっぱりその正体がつかめないという ことなのです」と述べている(「共産主義者の犯罪」)。

 一八九九〜一九〇二年、イギリスは南アフリカのトランスバール共和国とオレンジ自由 国に戦争を仕掛けた。いわゆるボーア戦争である。その結果、イギリスは南アフリカを征 服して植民地となし、南アフリカ連邦を立てた。

 イギリスの世論は、わがままなボーア人(オランダ系南アフリカ人)に文明の鉄槌を下 すことを支持していたが、ただ一人、若きジャーナリスト、チェスタトンだけは、「愛国 心がイギリス国民の最高の美徳である以上、ボーア人の愛国心も認めるべきである」とい う立場から論陣を張った。

 なるほど、現時点からみれば、ボーア人も南アフリカへの侵略者であったことは間違い ない。彼らが原住民に対して、搾取と差別をもって望んだことは否定できない。しかし、 だからといってイギリスの侵略が正当化されるわけではあるまい。イギリスは決して原住 民の解放者ではなかった。イギリス統治の下、南アフリカでは過酷なアパルトヘイト(人 種分離政策)が進められることになったのである。

 チェスタトンの愛国心はイギリスが世界の覇者となることを望む者ではなかった。チェ スタトンの愛した祖国は、パブ(英国風の酒場)や教会、ありふれた田園風景にこそあっ た。「大英帝国に日の没することなし」と誇る帝国主義に対して、チェスタトンは常に批 判的であった。

 戦後の日本では愛国心などというと、すぐ戦前への回帰だ、大日本帝国への野心だ、な どと批判する者が現れる。しかし、帝国主義と対立する愛国心というものもありうるのだ 。そもそも自らも愛国心を持たずして、どうして他国民の愛国心を理解することができる だろうか。

 もっとも愛国心というものをやたらと振り回す輩の方にも問題はあった。その人々は「 日本」に対して常に強く正しい国であらねばならないという思い込みがあった。だから、 第二次世界大戦は侵略戦争ではない、というおよそ実証的とも思えない論がその口をつい て出てくるのである。本当の愛国心とは、国の威信を守るために黒を白といいくるめるこ とではなく、悪いことは悪いと認めた上で、二度は国ぐるみの過ちをくりかえさせないよ う心がけることではないか。

 ボーア戦争時のチェスタトンにならっていえば、第二次世界大戦時の日本人の愛国心な どは怪しいものだった。だからこそ当時の日本人はアジア諸国の人々にもそれぞれの国へ の愛国心があるという当然のことが理解できなかったのである。

 今、「愛国心」をやたらと振り回す輩は戦時中の怪しげな「愛国心」をいまだ引きずっ ている連中と見てよいだろう。

 戦時中の日本の権力者は国民に、「国」のために死ね、と強要した。彼らがいう「国」 とはあくまで自分たちの権力のことだった。しかし、ブラウン神父のいう通り、権力者の 首がすげかわることというのは、本当は大したことではない。

 では、本当に守るべき国、愛国心の対象となるべき国はどこにあるか。ラグリーはイギ リスの酒のために戦い、命を捧げた。本当に守るべき国はその国民の生活と密着した文化 そのものである。

 そのように考えつつ、現代日本の状況を見ると悲観的にならざるをえない。緑の山は崩 され、大気汚染のために木々は枯れていく。近海漁業の場だった湾や内海は汚され、また 埋め立てられた。食料の大部分を輸入にたよりながら、政府は減反など農業潰しの農政を 続けている。そして、商店には添加物だらけの紛い物の食品が並ぶ。かつての日本人が持 っていた自然と共存する知恵はもはや失われてしまったようだ。

 このような惨状こそ、日本人が真の愛国心を持てなかった証だろう。そして、このよう な破壊を押し進めてきた輩に限って「愛国心」について云々したがるのである。

 私たちの子孫、後世の日本人のために安全な空気や水、食品を残したい。このように願 い、努力することこそ真の愛国心の発露だと思わずにはいられない。

 

 

神秘と軽率−「顎ひげの二つある男」 奇妙な動機

 

 ブラウン神父はクラブで高名な犯罪学者クレーク教授に紹介された。教授は、犯罪学は 科学だと首長するのだが、神父はそれを信じられないという。

 教授曰く−「殺人ならかなり手際よく分類できる、とわれわれは信じています」

 教授によると、殺人は合理的殺人は非合理的殺人の二つに大別でき、後者には殺人マリ アや、理由なき犯行というものがある。後者には復讐のための復讐、他人の財産を横領な いし相続せんがための殺人、他人の行動を阻止するための殺人がある、以上のような分類 であらゆる殺人を包括しうるはずだという。

 ところがブラウン神父は納得しない。神父が知っているある殺人犯人は、殺人狂でもな かったし、相手を憎んでいたわけでもなかった。相手の男の方は加害者のほしがりそうな ものを持っていたわけではないし、加害者のしてほしくないことをしてもいなかった。事 件には、女も関係していなければ、政治も関係していない。 「あの男は、ほとんど見ず知らずの男を、それもずいぶん変わった理由で殺したものです 。ああいうことは、人間の歴史の上でも珍しいでしょうな」

 

 

怪盗ムーンシャインの最期

 

 話は郊外に住む富裕な紳士バンクスの家から始まる。ある日の朝食、一家は新聞記事の 話題で盛り上がっていた。かつて、マイケル・ムーンシャインというなまえで知られてい た怪盗が最近出獄し、バンクス家のあるチーチャムの地に住み着いたらしいというのだ。 当主のサイモン・バンクスはロンドンっ子がマイケル・ムーンシャインを恐れていた日の ことを、ありありと覚えていた。エメラルドのネックレスが御自慢のバンクス夫人も、泥 棒の話となると大いに関心があった。令嬢のオパールは心霊現象や霊感の話に夢中だが家 族からは相手にされていない。弟のジョンはカーマニアでいつも車を買い換えている。そ のまた弟のフィリップは株屋の店員らしく整った身なりをしている。そして、その一族と 同じ食卓についているのがフィリップの友人ダニエル・デヴァイン、実はマイケル・ムー ンシャインの話はその朝、またも兄弟喧嘩が始まりそうなのをみてとったデヴァインが、 一同の注意をそらすために持ち出したものだった。

 一家は近所に越してきたばかりの面々、レオポルド・ブルマン卿とその秘書バーナード 、そして養蜂家スミス老人の客カーヴァーといった人々についてひとしきり噂した。  その晩、オパールは放心のていでバンクス邸内を徘徊していた。玄関からノックの音が する。オパールは玄関をあけ、深夜の客−ブラウンという神父を迎え入れた。 「オパールはこの神父をちょっと知っているだけだったが、好きだった。心霊現象に凝っ ているオパールを支持してくれたからではない。事実はまったくその反対である。しかし 、オパールの考えをしりぞけるにしても、ブラウン神父はこれを頭から問題にしなかった のではなく、りっぱに問題にしてくれた。オパールの考えに同情がなかったのではない、 同情しながら同意しなかったのである」

 オパールは神父に今、幽霊を見たという。それは窓に現れた人の顔であり、いかにも死 者らしく、朽ち果てたような感じがまとわりついていたという。

 オパールが幽霊を見たという部屋に行ってみると、そこには一家が集まり、すでに電灯 をつけていた。ブラウン神父は一家にその家に来た用件を説明する。ブルマン家に泥棒が 入って宝石が盗まれ、バーナードが拳銃で撃たれた。そして、その現場からある有名な犯 罪者の足跡や指紋、そのほかの特徴がいくつも検出されたという。

 怪盗ムーンシャインを追って探偵がバンクス家を訪れる。バンクス夫人自慢のエメラル ドが狙われているという。その時、オパールが悲鳴を上げた。窓にまたもや青白い恐ろし い顔が現れたのだ。それがオパールの幻覚でないことは、その場にいた一同、みなその目 で確かめることになった。銃撃戦、庭に転がるムーンシャインの死体。

 だが、ブラウン神父はかつて怪盗ムーンシャインと呼ばれた男がすでに改悛し、二度と 犯罪を犯すとは信じられないという。

 ジョン・バンクス曰く−「何と行ってもあいつはりっぱに有罪判決をくだされて服役し た前科者じゃありませんか」

 神父曰く−「さよう、りっぱに有罪判決に服しました。だからこそこの世であの保証の 言葉を聞いたのです−今宵汝は我と共に天国に在るべし」  ところが探偵の持ってきた証拠品と、ムーンシャインの死んでいる状況の間に神父はあ る矛盾を発見する。そこから神父はたちまちのうちに真相へと到達する。

 

 

神秘をあざ笑うこと勿れ

 

 ムーンシャインが殺された動機はクレーク教授の分類にはうまく収まらないものだった 。この犯人は死体を操り人形にしたて、宝石泥棒の小道具として用いるためにムーンシャ インを殺したのである。通常の殺人では死体は厄介な副産物に過ぎないというのに、この 犯人は死体そのものを必要としていたのである。

 神父は語る−「オパールはあれを幽霊と呼びました。しかも、それはそんなに見当はず れでもなかったようです。オパールが幻想にとりつかれやすい人だということは事実です 。しかしそれは別に異常でもなんでもない。ただ、あの人は幻想の不思議を霊魂の神秘と 取り違えてしまった。それが間違っていただけです。幻想に現れるくらいのことは霊魂の ない動物にだんてできることですのに。それはともかく、オパールの感受性は、甚だ鋭敏 ではあっても狂ってはいなかった。窓に現われた顔をおたとき、亡んだものをおおう光芒 のようなものを感じてぞっとした、とあの人は言いました。それはまったく正しかったの です。(中略)ある意味では、あれは幽霊とは反対のものでした。肉体から解放された霊 魂のいたずらではなくて、霊魂から解放された肉体のいたずらだったのですから」

 そして犯人の性格について次のように語る。 「もし世の中に、ほかの人たち以上に神を忘れてしまう傾きのあるタイプがあるとすれば 、それはあの荒稼ぎをこととする実務家のタイプでしょうな。あの種の人間には、宗教は さておき、社会的な理想がひとつもない。紳士の伝統もなければ、労働組合員の階級的忠 誠もない。うまい取り引きをしたという手柄話を聞いてみると、何のことはない、人をだ ましたという自慢話ばかりだ。それに、オパールがせっかく一生懸命に神秘説を唱えるの を笑いものにしようとするあの態度は何です。なるほどオパールの神秘説というのもあや しげなものだった。しかし、○○○○が神秘ということをきらっていたのは、それが人間 の霊性に関わりあいのあることだからでした」

 また、ブラウン神父はこの事件のことを他の事件と共に回想して次のように述べる(「 フランボウの秘密」)。 「世間には魔術師や千里眼や山師の“化けの皮をはいでやった”と得々として吹聴する連 中がいるものですが、この手合いは、十人が十人、矮小な心の持ち主です。よくあるでし ょう、たわいのないいかさまを“看破して”流れ者の魔術師などをいじめて喜んでいる手 合いです。どういう大義名分があるのか知らんが、そういうことをしていてよくいや気が ささないものですな。なみなみならず卑しい喜びです。で、わたしは、そういうふうなこ との好きな人間が矮小な心の持ち主であることに気がついたとたんに、どこに犯人捜しの 見当をつけたらいいのかがわかりました。予言者の化けの皮をはぎたがっていた男に当た りをつけてみると−ルビーをかすめたのはその男でした。オパールの心霊家がかった言動 を妄想だと嘲っていた男に当たりをつけてみると−エメラルドを盗んだのはその男でした 。ああいう手合いはいつも宝石に目をつけます。神秘哲人を騙る高踏的いかさま師とこと 変わり、俗臭を脱して宝石を蔑視することが、けっしてできないのです。ああいう悪党は どれもこれも低俗です。俗な気持ちの塊りだからこそ悪党になったのです」

 さて、書店の店頭では相変わらず、UFO、心霊現象、超能力、ユダヤ陰謀論、古代文 明(その多くはすでに解決済みの問題をむりやり「謎」にでっち上げるていのもの)、そ れに大脳生理学の名を借りた人生論に根拠のまるでない健康法と怪しげな本の花盛りであ る。ところが、最近、そうした本の矛盾点にツッコミを入れ、ギャグのたねにしてしまう という本が現れ、やはり多くの読者を得ている。その代表がベストセラーになった『トン デモ本の世界』『トンデモ本の逆襲』(と学会編、洋泉社)である。

 オカルトなど怪しげな主張の本、いわゆるトンデモ本の著者というのは、みな大真面目 なのだから、笑いものにされるのは不本意だろう。しかし、批判本の出現というのは、批 判される側にとっても宣伝となりうるわけで、今まで、そうした世界の存在を知らなかっ た読書人にまで問題の所在を知らしめた功績は、いわゆるトンデモ本の著者の側でも認め るべきだろう。

 また、ユーモアまじりの批判でも該当問題に十分な知識と関心のある人が書いたものは ツッコミの中にも暖かさのようなものが感じられて、読後感も良い。私自身、と学会の会 員でもあり、一概にトンデモ本を笑うなというつもりはない。

 ひどいのは、本来、該当問題に関心のない人が自分の矮小な知識に照らして揚足をとっ たつもりになっているものだ。中には問題のすりかえや詭弁がひどくて、もとのトンデモ 本よりもトンデモない主張をしていい気になっているような本もある。それは暖かな笑い というよりも嘲笑であり、ブラウン神父のいう「矮小な心」の発露なのである。

 トンデモ本と同じくらい、その批判本が店頭にならぶようになったというのは悪いこと ではない。しかし、その内容を見る時、これらの本を喜んで読んでいるのはどのような人 たちなのだろうと思わずにはいられない。

 批判本のブームを支えるものが健全の批判精神を持つ人々なのか、矮小な心の持ち主な のか、結論が出るのはまだ先のことだろう。しかし、もしも後者の方が主流だとすれば明 日はいかなる世界が待っているか、私は、一抹の危惧を拭えないのである。

 

 

無関心という危機−「ギデオン・ワイズの亡霊」− アリバイの原理

 

「ブラウン神父は、この事件を、アリバイの原理を証明するもっとも風かわりな具体的一 例と見なしていた。神話に出てくるあのアイルランドの鳥の例を無視して、おなじ人間が 、同時に二カ所に存在することは不可能なりとするのが、このアリバイ原理である」

 アイルランド出身の新聞記者ジェームズ・バーンはアイルランドの鳥よろしく社会的か つ政治的な世界の両極端に位置する二つの場所を二十分間隔で往復していた。かたや大バ ビロン・ホテルにおける財界の三巨頭の会合、かたや人目に隠れた居酒屋での三人のボル シェビキたちの会合。ホテルでは、寡黙なヤコブ・スタインと饒舌家のギャラップが、独 立独歩の人ギデオン・ワイズに、急進派への対抗のためにもカルテルに加盟するよう、説 得している最中だった。

 居酒屋では、獰猛なジェーク・ハールケットと、なぜかヤコブ・スタインにその雰囲気 が瓜二つのジョン・エリアス、そして詩人のヘンリー・ホーンがいた。ホーンは急進主義 にたどりついた今も、子供のころからの行き届いた教育と躾をしのばせる穏健な人物であ り、他の二人が強いアルコール飲料を飲んでいるのに対して一人だけミルクをすすってい た。会話の中でホーンが「天は禁ず」という言い回しを使ったところ、例によってハール ケットがその言葉尻に飛びついた。 「天は禁ず−ふん、天にできることはそれだけなんだ。天は、これもいかん、あれもいか ん、なにもいかんとお禁じになるほかに能がないのさ。ひとを打ってはならぬ、戦っては ならぬ、ろくでなしの搾取家や吸血鬼どもがすわっているところに弾丸をお見舞いしても ならぬと、おれたちに禁令をだすよりほかに神様はなにもおできにならんと来ている。ど うして神様は、あいつらのほうにもすこしは禁令をおだしにならないのだ? いったい僧 侶や神父は、なぜ立ちあがってあいつら人非人がやっていることの真相をぶちまけないの かね? なんだんて神様は・・・・・・」

 エリアスがその言を受けて続ける。 「僧侶というやつは、マルクスのことばどおり、経済発展の封建的段階に属していたもの であって、もはやぜんぜん問題にはならぬのさ。かつて僧侶が演じていた役割は、いまや 資本家のエキスパートや・・・・・・」

 バーンが彼らに茶々を入れたが、ハールケットはなおも資本家弾劾の弁を続ける。 「もし貧乏人がこんなことをいったのなら、貧乏人は刑務所に行く。だが、あいつらの場 合は、どこに行くのか見当もつかぬうちに、もっとひどい場所に行くんだ。もしやつらが 地獄に行かないとしたら、それ以外のいったいどこに・・・・・・」

 エリアスがハールケットをさえぎる。 「相手がたとおどかしっこをする必要はあるまい。われわれに関するかぎり、あいつらの 脅迫はまったくきき目がないというだけで充分だ。それに、こっちの手はずは、すべて整 っているし、計画の一部は実行されるまではわからぬようになっている。われわれに関す る限り、即刻の決裂と実力行使の大試練こそが計画に合致しているのだ」

 さて、バーンはその居酒屋を出たところで、思わぬ人とでっくわした。
「ブラウン神父! お門違いじゃありませんか。まさか、ここで行われている陰謀に神父 が加わっているはずがない」
「わたしのは、まあどちらかというと古くさい陰謀でしてな。だが、結構、世に広まって いる陰謀ですよ」
「ですが、ここに集まっている連中は、あなたの商売とはおよそ縁の遠いひとばかりです よ」
「そうとはかぎるまい。実際の話が、あと一歩でわたしの領域にはいってくるひとがここ にひとりいる」

 バーンはホテルの方に戻った。まもなく富豪たちは散会する。その時、スタインはバー ンに告げた。 「ご苦労でした、バーン君。まだいってなかったことは準備万端完了す、ということだけ だな。この点にかんしては、敵がたのエリアス君と同意見だよ。わたしがあす提出するこ とになっている証拠にもとづいて、警察はあすの正午前にエリアス氏を逮捕し、夜までに はすくなくともあの三人は、ぶちこまれていることだろう。きみもご存じのように、わた しはこの方策をとるのを避けようと努力したのだ。話はこれだけです、みなさん」

 だが、翌日、スタインは警察のその証拠を提出できなかった。スタインは殺され、自宅 の庭に建築中のローマ式浴槽に投げ込まれていたのである。

 新聞は三人の大富豪がことごとく、それぞれの自宅近くで殺されたことを報じた。ワイ ズは海に面した崖の上から、海中へと投げ込まれた痕跡を残していた。ギャロップの死体 は茂みの折れた枝の間に、もんどりうった姿で見つかった。

 ボルシェビキが富豪を殺した直接の証拠はない。警察との関係を匂わせる調査員ネアー ズが、三人のボルシェビキを招待して、奇妙な話し合いが行われることになった。そして その席にはバーンと、なぜかブラウン神父も、出席することになったのである−。

 

 

資本家と職業革命家

 

「ギデオン・ワイズの亡霊」は冒頭でも述べられた通り、風変わりなアリバイ・トリック を扱った作品である。

 ちなみに「アイルランドの鳥」についてだが、アイルランドの民話には、人を乗せたま ま、一飛びで九つの峰、九つの谷、九つの山の湿原を越える魔法の烏が登場する(J・ジ ェイコブズ著、木村俊夫・山田正章訳『ケルト民話集II』一九八〇年)。

 それはさておき、ブラウン神父のいう「あと一歩でわたしの領域にはいってくるひと」 とは実はジェーク・ハールケットのことだった。 「わたしがここに参ったのは、あのハールケットさんのしかるべき利益を守るためなので す。現状では、次のことをお知らせすることはハールケット氏の利益になるものと存じま す−あのひとは間もなくあの団体とたもとをわかち、いわゆる社会主義者をやめることに なりましょう。そして、最後にはカトリック信者となるだろうと信じてもいい理由があり ます。(中略)あのひとが神父をののしったのは、神父が全世界に反抗してまでも正義を 貫こうとしなかった、と思い込んだからです。神父にこんな要求を課したということは、 神父とはいかなるものであるかをすでにあのひとが感じはじめていた証拠でしょう。いや 、わたしたちはいま改宗の心理学を論ずるためにここに集まっているのではない。これを お話ししたのは、あなたがたの仕事が簡単になる−調査の範囲がせばめられるだろうと思 ったからにすぎぬのです」

 ハールケットは正義を希求するがゆえに社会主義者になった人物として描写されている 。ブラウン神父は、そしてチェスタトンは、このような人こそかえって信仰への道に近い のだという。

 エリアスは職業的革命家であり、宗教は旧時代の遺物と割り切っている。だから、ハー ルケットが地獄の話を始めればいきなり遮り、また、聖職者の仕事は「資本家のエキスパ ート」が引き継いだなどと、見当違いのことを平然という。

 マザー・テレサは「愛情の反対は憎悪ではなく、無関心です」とおっしゃられたが、エ リアスのような態度は信仰への無関心の典型だろう。

 彼にとって革命はあくまでビジネスであり、正義や理想とは関係ない次元のことなので ある。その意味で彼自身、「資本家のエキスパート」に他ならない。エリアスとスタイン が瓜二つとされているのも、そのことを暗示している。 そして、それ以上に信仰とほど遠いのは、偽善の仮面をかぶり続けるホーンだという。神 父は彼ら三人の性格の分析から、事件の真相にたどりつくことになる。

 

 

宗教への無関心

 

 現代日本では信教の自由の名の下、公の場から宗教儀礼、特に神道関連のものを追放し ようとする動きがさかんである。公共的建造物の建設にあたって地鎮祭を行っただけで訴 訟が起こり、政府閣僚が靖国神社に参拝するにあたっても公人か私人かが問題とされる。 たとえばキリスト教国で、閣僚が国を守って戦った戦没者の冥福を祈ることを問題とする などということがあるだろうか。

 批判する側の理屈としては、靖国への公式参拝は国家神道の復活につながるというわけ だが、独立法人としての自由を得た現在の神社界は、もはや戦前のような国家による支配 を望んではいない。また、戦没者の多くが靖国神社での祭祀を望んでいたという事実があ る以上、別の形の慰霊を求めるということはかえって死者の意に背くものではないか。

 イギリスは日本から見れば民主主義の先進国だが、それでもれっきとした国教として、 まさに文字通りの英国国教会がある。

 そもそも信教の自由の概念はマホメット以来、イスラム法で認められていたものが、キ リスト教世界でも取り入れられたのである。当然、イスラム法では他の諸宗教に対するイ スラム教の優位を前提として、信教の自由が説かれていた。そして、十八世紀頃、キリス ト教世界でもようやく説かれ始めた信教の自由とは、当初、キリスト教内部における宗派 選択の自由を意味するもので本当に他宗教を容認するものではなかったのである。

 国教の存在でさえ、信教の自由と矛盾しないとすれば、もはや国家の支配を望まない神 社神道に対する警戒ぶりは異常としか思われない。

 公の場からの宗教の追放はかえって宗教そのものへの無関心を生む。そのため、かえっ て正義や真実を希求する人がまっとうな宗教と触れる機会もなく、無政府主義やカルトに 吸収されてしまうという現象も生じているのではないか。

 公の場から宗教行事を追い出したがっている人には、左翼的な立場の方だけではなく、 キリスト教徒や仏教徒も含まれている。そうした人たちには、自分たちの偏狭さがかえっ て宗教と人を遠ざけているのではないか、今一度考えていただきたい。

 

 

罪は我が内にあり−「ブラウン神父の秘密」

(文中、江戸川乱歩『蜘蛛男』のトリックについての言及があります)  

 

私が犯人です

 

 フランスで怪盗として、イギリスで探偵として働いたフランボウはいまやどちらの仕事 からも手を引き、スペインで大勢の家族に囲まれ、落ち着いた隠退生活に入っていた。そ のフランボウの下を多くの冒険を共にしたあの懐かしい友が訪れる。

 フランボウ、今は本名に戻ってデュロック(さしずめ「巌」か。聖ペトロの名とも同義 )と名乗る彼の城にはしばしばグランディソン・チェイスというアメリカ人観光客が訪ね てくる。彼はフランボウの前身を知らず、ただその城のたたずまいが気に入っていたので ある。チェイスは有名人のブラウン神父と出会って感激する。 「エドガー・ポーはデュパンの方法ならびにその織りなす見事な論理の綾を、会話体の随 想の中で解きほぐして見せています。ワトソン博士は、ホームズの方法ならびにそれが発 揮された具体的事象の細部に関し、理路整然たる解説を聞かせられています。しかし、神 父さんの方法につきましては、まだ誰ひとりとして本格的な解説をうかがった者がござい ません。(中略)事件が発生する。神父さんがそのまっただなかに姿をお見せになる。そ して事件の起こった次第をみんなにご説明になる。しかし、どうして真相が神父さんにお わかりになったかは、けっしておあかしくださらない。そういうわけで、ブラウン神父は あれは千里眼だと言う者も出てこようというものです。カルロッタ・ブラウンソン女史な どは、神父さんのおときになったこうした事件から例をひいて、千里眼の認識形式につい て講演しています。インディアナポリス女流透視術協会は・・・・・」

 超自然の秘法を使っているなどといわれてはブラウン神父も苦笑するしかない。神父は しぶしぶその秘密を明かすことにした。 「つまり、あの人たちを手にかけたのは、実はこのわたしだったのです」

 

 

科学という抑圧

 

 驚いたチェイス氏は神父の話を聞くうちに、それを「犯罪心理の再構成」という「探偵 科学」の用語に置き換えようとする。だが、神父はそれに抗議した。 「いったいどのようにして人は殺人を犯すようになるのか、それにわたしは思いをこらし ました。わたしに殺人犯の心情が理解できるようになるまで、そのことを考えぬきました 。凶行に踏みきることを自分に許しこそしなかったが、そのほかの点ではまったく殺人犯 になりきったのです。このやりかたは、宗教修行の一法として、むかし友人から教わった ものです。(中略)科学というものは、その本来の姿でとらえるなら、どうしてなかなか りっぱなものだ。科学という言葉、これもその本義を誤らずに使うのなら、とびきりりっ ぱな言葉だ。しかし、当今、科学と言えば十中八九なにを意味します。探偵法が科学だと いうのはどういうことです。犯罪学が科学だというのはどういうことですか。それは人間 を内側からではなく外側から吟味することです、でかい昆虫か何ぞのように。そして偏見 をまじえぬ冷厳なる光とかいうものに照らして研究しようというのだが、そんなものはわ たしに言わせれば非人間的な死んだ光にすぎん。そういうことをいくらやっても、罪を犯 す人間の正体は遠のくいっぽう、ついには先史時代の怪獣のようなものになってしまう。 (中略)こうした手合いが<犯罪人のタイプ>について云々するのを聞くがよい。ご当人 がそのタイプにはいろうなどとは夢にも考えていない。もっぱら隣人のことを考えている 。それもたぶんはあまり金のない隣人のことを。(中略)当今に言う科学は知識どころか 知識の抑圧です。なにしろ、わたしどもの心に近く親しい事柄を、手のとどかぬ遠方の不 可思議として理解したい、というのだから。(中略)わたしは人間を外側から見ようとは しません。わたしは内側から見ようとする・・・・・・いや、いや、それ以上だ。なぜっ て、このわたしは人間の内部にいるのですからな。いつも一個の人間の内部になってその 手足をあやつっているのが、ブラウンなる存在でしてな。そのわたしが殺人犯の考えると おりに考えるのです。殺人犯のと同じ激情と格闘するのです。やがてわたしには、殺人犯 のからだの中に自分がいるのがわかってくる。(中略)人間は自分がどれほどの悪人なの か、どれほどの悪人になりそこなっているものなのか、それがわかっていないうちはいく ら善人ぶっても何にもならん。なにか犯罪のことを聞いてしたり顔に眉をひそませたり、 あざ笑ったり、一万マイルも遠方のジャングルの猿の話でもするように<凶悪犯人>のこ とを話したりするというのは、いったいどういう権利が自分にあってのことなのか、それ をまじめに考えないうちはただの俗物にすぎん。(中略)ふらちな犯罪人なるものを自ら のうちに見つけだしてひっ捕え、こいつが暴れたり狂いだしたりしないよう、同じ帽子を 一緒にかぶって鼻つきあわせて暮らしても大丈夫なよう、こいつを自家籠中のものとして しまうことを念願とするようになるまでは、人間というものはどこまで行ってもだめなも のです」

 そして、フランボウの導きにより、ブラウン神父は自らが出会った犯罪の実例を語り始 める−

 

 

名探偵の陥穽

 

 探偵小説の元祖といえばエドガー・アラン・ポーだが、彼の生み出した名探偵デュパン は、おはじき名人の小学生の言葉を借りて探偵術の極意を説く。 「誰かが、どのくらい賢いか、どのくらい馬鹿か、どのくらい善人か、どのくらい悪人か 、とか、今こいつは何を考えているか、とかいったことを知りたいときには、自分の顔の 表情をできるだけぴったりと相手の表情に似せるんです。そういうふうにして待ちながら 、自分の心のなかに表情にふさわしいどんな考え、どんな気持が湧いてくるかを見るので す」(「盗まれた手紙」一八四五年)

 してみると、探偵小説の中の名探偵たちはその草創期から犯人になりきって思考しよう としてきたのである。だが、そのために名探偵たちはしばしばアイデンティティの危機に 襲われることになった。自らの心理を犯罪者の心理に近づけようとする試みの中で危険な 一線を越え、自らが犯罪者となってしまう、あるいは犯罪者との心中を図ることになると いう危地へと文いってしまうのだ。

 ポーに先立ち、ウィリアム・ゴドウィンとその娘メアリ・シェリーはそれぞれ『ケイレ ブ・ウィリアムス』と『フランケンシュタイン』において、探偵役と犯人役の自己同一化 が進み、共に自滅していくという悲劇を描いている(拙著『怪獣のいる精神史』風塵社、 参照)。

 ドイル描くところのシャーロック・ホームズは、自らに犯罪者の才能もあることを誇っ ていたが、「最後の事件」(『シャーロック・ホームズの回想』所収)で、ついには自分 そっくりの犯罪王モリアティ教授と出会い、死を迎えることになる(後に復活)。

 アガサ・クリスティ描くところのミス・マープルは、デビュー作の連作短編集『火曜ク ラブ』において、「私が人を殺すときには、もっと綿密に計画を練ります」といい、元ス コットランドヤードのヘンリー・クリザリング大佐を震え上がらせている。

 シリーズの名探偵が、犯人として退場した例はオルツィ、クィーン、クリスティと数多 い。ディクスン・カー(カーター・ディクスン)が、ほとんど同じキャラクターの探偵を 二人(ヘンリー・メリヴィール卿とギデオン・フェル博士)作ったのは、最初、一方を犯 人として退場させるつもりだったのがクィーンに先を越されたため、その機を逸したのだ という話もある。

 もっとも犯罪者としての才能を生かして探偵役を努めることになったキャラクターとい うのも少なくはない。ホーナングのラッフルズ、ルブランのアルセーヌ・ルパン、ハンシ ョーの四十面相クリーク、アンダスンの「不敗のゴダール」、チャーテリスの「ザ・セイ ント」ことサイモン・テンプラーら怪盗探偵たちがその代表である。考えてみれば、フラ ンボウもその一人に数えられるだろう。

 最近の犯罪者探偵で異彩を放つ人物といえば、トマス・ハリスの原作小説よりも映画の 方で有名な『レッドドラゴン』『羊たちの沈黙』のハニバル・レクターその人である。

 さて、このハニバル・レクターの先駆となる人物を江戸川乱歩が創造していたという説 がある。『蜘蛛男』(一九二九〜三〇)に登場する畔柳博士である。 「ユニークなのは、畔柳博士。犯罪学者として今でいうプロファイリングを行って警察に 協力しながら、自らも犯罪者であるという、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のレクタ ー博士を先取りする設定である」(森住周の文より。アネックス編『日本特撮・幻想映画 全集』勁文社、一九九七より)

 畔柳博士は当初、「日本のシャーロック・ホームズともいうべき、民間の犯罪学者で、 兼ねて素人探偵」として現れ、蜘蛛をトレードマークとする快楽殺人者の捜査に携わるが 、惜しいところで必ず取り逃がす。赤松警視総監や浪越警部ら警察幹部は、大陸に渡った 明智小五郎がいさえすれば、と悔やむばかりだ。ところがそこに帰国したその足で明智が 警視総監室を訪ねてくる。 「犯罪学、探偵学の研究は同時に犯罪そのものの研究ではありませんか。名探偵の頭脳で 悪事を働けば必ず大犯罪者となることができます」

 しかし、明智が蜘蛛男=畔柳博士について述べたこの言葉は明智自身にもはねかえるも のではないか。デビュー作「D坂の殺人事件」(一九二五)から、『一寸法師』(一九二 六〜二七)までの明智は、むしろいつ犯罪者になってもおかしくない怪しい人物として描 かれており、己の裁量で事件の真相を揉み消すことさえあった。

 ところが畛柳博士と対峙した時、明智は語る。 「畔柳さん、これで僕と君との勝負はハッキリかたがついたわけですね。僕の智恵が君に 劣っていなかったことが確かめられたわけですね。それでいいのですよ。僕と君との関係 はチャンと精算ができたのです。ただ残っているのは君と社会との関係、つまり警察の領 分に属する問題です。実をいうと、僕はそんなことには一向興味がない。君はご存知かど うですか、多くの場合、僕は犯人を捉えない方針なんです。犯人が逃亡しようとどうしよ うと、第三者に累を及ぼさない限り、僕は知らん顔をして、サッサと引上げる方針です。 僕の仕事は探偵であって、処罰ではないのですからね。しかし、君の場合に限って、そう は行きません。君は真からの悪魔なんだ。放っておけば、いくらだって、婦女誘拐や人殺 しをつづけて行くにきまっている。君には人間の心なんてないのだ。で、実にいやなこと だけれど、僕は君が刑務所の檻の中へ納まってしまうまで、君を見張っている責任がある わけですよ」

 明智は自分の似姿としての犯罪者と出会った時、社会と警察の側に我が身を置く決心を したわけだ。この長口舌はいかにも言い訳めいており、畔柳博士もあきれて「わかってい る、弁解はいいから、早く警官を呼びたまえ」とうながすほどだった。

 そして、これ以降の作品で明智は生来の危険な香りを急速に失っていく。後年の少年探 偵団シリーズでは、かつての明智が持っていたような危なさは二十面相の方にこそ現れて おり、小市民探偵・明智とのコントラストを明確にしている。ここからむしろ明智小五郎 =怪人二十面相説を邪推したくなるほどだ(このことについては、以前、特撮系サークル WHITE FANG PROJECT発行の同人誌で言及したことがある。拙稿「魔天 郎前史」、『東京魔天郎倶楽部』所収、一九八九)。

 ちなみに、今から三十年近くも前、東京12チャンネル(現テレビ東京)の『江戸川乱歩 劇場・明智小五郎』で『蜘蛛男』が映像化された時、畔柳博士を演じたのは、現在、映画 監督して活躍中の伊丹十三であった。そのキレた演技がすばらしくはまっていたのを覚え ている。

 それはさておき、日本では、探偵が自己崩壊を防ぐ一番良い道は、明智が行ったように 、治安維持の担い手としての警察と同化してしまうことなのだろう。そういえば、赤川次 郎、西村京太郎ら安定してベストセラーが望める作家のシリーズ探偵には警察官かその縁 者という設定が多い。

 だが、それに対してブラウン神父は、探偵行為を宗教的な修行として位置付けることに より、その自己崩壊を免れていたのである。

 思うに探偵小説を読むという行為にも、自らの内なるものとしての悪を見出そうとする 意味があるのではないか。「読む」という行為を通して、悪の世界に陥った犯人も、それ を探し求める探偵も読者の中に現れる。現在の探偵小説は多様な方向に分岐しており、探 偵役と犯人が明確に指摘できるものばかりではないが、それはむしろ作者と読者を含めた 現代人の心理の複雑さの反映であろう。

 探偵小説はその程度が強かれ弱かれ、悪が身近なものであること、だからこそ戦わなく てはならないことを告げている。そしてそのテーマを全面に打ち出した小説群こそチェス タトンの「ブラウン神父」シリーズなのである。

 ここ数年来、出版界では凶悪犯罪ブームであり、犯罪者の伝記や犯罪写真集の類が数多 く出版されるようになった。しかし、このブームは犯罪をなにやら理解不能の怪物のよう に扱っているようにしか私には見えない。それではいかなる悲劇も、世間話の中に消費さ れていくしかないだろう。そして、理解不能な怪物として描かれるからこそ、凶悪犯罪者 はかえって魅力的なものとなり、模倣犯罪を生み出し兼ねないということになる。

 誰でも「犯罪のことを聞いてしたり顔に眉をひそませたり、あざ笑ったり、一万マイル も遠方のジャングルの猿の話でもするように<凶悪犯人>のことを話したりする」うちは 「ただの俗物」にすぎないのである。

 このような時代への解毒剤として「ブラウン神父」シリーズの魅力が見直されることを 願ってやまない。  

 

 

                       1997  原田 実