日本史のブラックホール・四国

 

 


 

 

阿波邪馬壱国説

 

 日本古代史をめぐる異説がもっとも熱っぽく語られている地方、それは意外と四国かも 知れない。古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提 供する無類の材料」(『世界的研究に基づける日本太古史・上』、一九一一年、所収)を 現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり 、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」し たが、むろん学界の容れるところとはならなかった。
 比較的最近には、阿波邪馬台国説が話題となった。それは最初に郷土史家・郡昇の『阿 波高天原考』(自費出版、一九七五年)で示され、古代阿波研究会『邪馬壱国は阿波だっ た−魏志倭人伝と古事記との一致−』(新人物往来社、一九七六年)によって全国に知ら しめられたものである。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊 平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正 識各氏の名が記されている。
『古事記』は阿波国の別名をオオゲツヒメとするが、これは農作物を産んだ女神の名でも ある。『邪馬壱国は阿波だった』ではまず、その事実に着目し、阿波国が穀霊の国であっ たということから論を進めていく。
『邪馬壱国は阿波だった』によると、邪馬壱国(同書では『三国志』の現存刊本にある「 邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではない、という立場をとる)とは、阿波国のことであ り、それはまた記紀神話の高天原に他ならない。
 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町 神領の高根城址、御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売神社の奥の 院にある五角形の石壇だという。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂 川方面であり、『三国志』倭人伝の狗奴国にあたるという。この卑弥呼=天照大神の宮都 ・陵墓と、出雲=狗奴国の所在に関する比定は、後述の山中・岩利・大杉各氏に引き継が れることになる。
『邪馬壱国は阿波だった』のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして、「卑 弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を 予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継 通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号で」おくるという一種の光通信が行われて いたという主張がある(焼山寺山は標高九三〇メートル、阿波の他の山々からの見晴らし がよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく 、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりで なく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあったという。
 それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中 津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、こ のごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、 ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のよう に語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹 殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いった い何があるのでしょか」とそれこそ感極まった口調で説明している。
『邪馬壱国は阿波だった』では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理 由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも 関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」と暗 示するにとどめている。

 

 

『高天原は阿波だった』

 

 俳優の故フランキー堺はこの『邪馬壱国は阿波だった』を読んで驚き、日本テレビのプ ロデューサー、山中康男氏に連絡した。かくして制作された番組が「いま解きあかす古代 史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)であった。
 山中氏はその取材調査成果を『高天原は阿波だった』(講談社、一九七七年)という書 籍にまとめた。同書によると、番組制作中、プレスと山中氏の間で次のようなやりとりが 繰り返されたという。
「“邪馬台国と取り組んでるそうで”−いえ、高天原です。“それで卑弥呼ですか”−い や、ヒロインはオオヒルメ(アマテラス)なんですが」
 敗戦の少し前の世代に生まれた女性から、「タカマガハラってどんな字を書くんですか 」と聞かれた時には、山中氏自身、「私はよほど偏屈な時代遅れのテーマと取り組んでい るのだろうか」と不安になったという。
 山中氏は阿波の高天原が隠された理由を、聖徳太子の仏教国教化に象徴される外来文化 信奉に求める。山中氏は敗戦の結果、「並のアメリカ人以上にアメリカに対して愛国的な 元フルブライト留学生」や「自分がフランス人に生まれなかったことを生涯の悔いとして いる画家志望の少女」などが生まれた例をひき、それに相当するようなカルチャー・ショ ックが聖徳太子の時代にもあったのではないかとする。そして高天原隠しは天皇の神格化 を招いたとして「国家神道が、生きた歴史の目潰しに果たした役割がそこにあった」とも いう。そこには第二次世界大戦(およびその敗戦)がもたらした日本人の思想的混乱に対 する反省が読み取れる。
 山中氏は同書において、戦時中の「皇国史観」と、戦後の「唯物史観」を共に拒絶し、 自らの考え型の基盤に「生態関心型史観」を置いたと称するが、その意味では同書は戦中 戦後の日本における歴史観の混乱に山中氏なりの決着をつけようとして書かれたものであ ったとみなすこともできよう。

 

 

聖徳太子も阿波にいた?

 

『道は阿波より始まる』は「その一」「その二」「その三」の三部作で、それぞれ一九八 五年、八六年、八九年に出されている。同書は岩利大閑氏が自ら主催する阿波国史研究会 の成果として発表していた自家版を、(財)京屋社会福祉事業団が、“好きとくしま大好 き”運動の一貫として増補・再販したものである。
 岩利氏は『邪馬壱国は阿波だった』奥付に古代阿波研究会の編集委員として名を連ね、 また山中氏の番組制作に際しては、その取材現場を案内した人物である。
 岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿 波国のことであるとし、大和朝廷は天武もしくは持統の時代にようやく畿内に入ったとす るところである。
 岩利氏は語る。「『日本書紀』の記事の中に“阿波国”の国名が一切でてきません。『 古事記』神代の物語りから“伊予”“阿波”の二国のみが記され、そのうえ衣類、食料ま でが原産地阿波国と明記されているにもかかわらず、『記紀』何れの文中にも“阿波国” 云々がでてこないのは誰が考えても不思議と思いわれませんか?」(「その三」)
 岩利氏によると、聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波 っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山 下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。
 面白いのは、『宋書』倭国伝に記された倭の武王の上奏文の解読である。その中には、 「東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国」とあるが、岩利氏は 武王こと雄略天皇の都も阿波国にあったとする立場から、毛人の国々を近畿地方、衆夷の 国々を九州地方、北の国々を中国地方に求める。「渡平海北」は一般に「海北に渡りて平 らげる」と読まれ、朝鮮半島への進出を示す記述と解されているが、岩利氏はこれを「北 に平海を渡り」と読み、単に瀬戸内海を渡ったところにある国々の描写にすぎないという わけである(その一、その二)。
 なお、“和製インディ・ジョーンズ”の異名を持つ鈴木旭氏はこの『道は阿波より始ま る』三部作を読んで以来、邪馬台国阿波説に立つことにしたと表明しておられる(鈴木『 もしもの日本史』日本文芸社)。
 また、聖徳太子が四国にいたという論考としては岩利氏の著書の他に西野八平『法興天 皇記』(講談社出版サービスセンター製作、一九八七年)がある。
 西野氏は聖徳太子は大王に即位し、蘇我馬子と共に愛媛県松山市の来住廃寺遺跡の地で 日本を統治していたとする。推古朝遺文に現れる年号「法興」は聖徳太子の年号だという 。また松山氏の天山神社は天から下りた山が二つに分かれ、その一つが天山となったとい う縁起を有するが、それは聖徳太子と蘇我馬子の二人が共に大王であったことの暗喩だと いう。また、西野氏は祐徳稲荷(佐賀県)、伊予稲荷(愛媛県)、伏見稲荷(京都府)、 豊川稲荷(愛知県)、笠間稲荷(茨城県)、最上稲荷(山形県)という日本六稲荷の順番 は邪馬台国の勢力が広がる過程を示すもので、伊予稲荷近くの谷上山宝珠山(聖徳太子創 建)に「愛比売」が降臨したとの伝承は卑弥呼の宗女・壱与(伊予)の地を引く娘に関す るものであろうともしている(察するに西野氏は邪馬台国については九州説をとっておら れるらしい)。

 

 

その他の四国説

 

 古代阿波研究会の活動に触発されて、邪馬台国四国説を唱えた論者としては、まず浜田 秀雄氏が挙げられる。浜田氏は『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』(新国民社、一九七七年 )において、邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求め た。浜田氏は同書において「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界 では無視されています」として、暗に古代阿波研究会のことに触れている。
 浜田氏は時節を裏付けるものとして『契丹秘史』『上記』『宮下文書』などのいわゆる 古史古伝を用いている。
 同書カバーに出版社がつけたコピーに曰く、「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹 秘史三千字(中略)著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台 国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国 松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮 下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべ て同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋め た」
 一方、土佐文雄『古神・巨石群の謎』(リヨン社、一九八三年)では、『邪馬壱国は阿 波だった』のことが「意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介されて いる。『古神・巨石群の謎』は邪馬台国土佐説をとり、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐 山田町の古神にある巨石群に求める。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したも のではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ 番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションで ある。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。
 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は「甦った。なる邪馬壹」「平和日 本お誕生ご所」「倭華宮」「日本のルーツ・ヤマトの国センター」「とさ若宮日本蓬莱山 邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。もっとも、それを守ってい るのは樫谷義広ただ一人だそうだ(根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島『全 国お宝スポット魔境めぐり』一九九八年四月所収)。
 さて、邪馬台国四国説では『三国志』倭人伝の方位で「南」とある箇所を「東」の誤り とするのが通例である。倭人伝に北部九州から先の行路に「南、邪馬台国に至る。女王の 都する所、水行十日、陸行一月」と明記されている以上、方位の訂正なしで、九州の東に ある四国に邪馬台国を持っていくことはできないからなのだが、土佐説だけは例外的に「 南」のままで正しいとする。つまり、北部九州から九州東岸をそのまま南下して土佐を目 指すのである。
 愛媛県伊予松山市在住の三島明氏は自費出版で、『新説古代史・神話と宇摩(天・邪馬 台・日)』(一九九二年)、『謎の女性像は卑弥呼!?−宇摩の不思議と古代史の解明−』 (一九九三年)、『邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった』(一九九四年)を著し、愛媛 県宇摩郡を中心とする北四国に邪馬台国=高天原を求めている。
 三島氏によると「古代史の混迷は、九州や近畿との思い込み、また、統一の時期の思い 込みなど、多くの思い込みに阻まれて、史実の扉が残されているのに、気付かないところ から始まっている」という。
 三島氏は、西暦紀元前後の日本にはすでに伊予王朝による統一国家が存在し、記紀が伝 える初期の大和朝廷の天皇は伊都国王と同様、邪馬台国の下位にあったとする(『邪馬台 国は北四国,伊勢神宮となった』)。三島氏の伊予王朝説はまだまだ発展途上にあり、今 後の展開に期待したい。

 

 

邪馬台国四国山上説

 

 さて、現在、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動しておられるのは倭国研究 会を主催する大杉博氏であろう。大杉氏は一九七七年、『日本の歴史は阿波より初まる− 天孫降臨の地を発見す−』を自費出版、七九年に『ついに解けた古代史の謎』で「大和朝 廷の秘密政策説」を発表、その後も自費出版で自説の発表を続け、九二年に、『邪馬台国 はまちがいなく四国にあった』(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。
 一方で大杉氏は八〇年から、榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦各氏ら高名な研究 者たちに、私信による論争を挑む。その経過は『邪馬台国の結論は四国山上説だ−ドキュ メント・邪馬台国論争』(たま出版、一九九三年)という本で公開されている。人が他者 と理解しあうということがいかに難しいことか、暗澹たる気分にさせられる本である。
 大杉氏は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとす る。ただし卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究 会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。
 大杉氏は自説の証明として「写真の公理法」なるものを持ち出す。
「富士山は写真などでもよく見る山である。そして、写真を見たときに、“富士山だ!” とすぐ分かる山である。この富士山をカメラで写した場合、できあがった写真は富士山を 写した写真に間違いなく、一方、富士山もその写真に写っている山(実体)に間違いない と言うことができ、双方がそれぞれ間違いのない本物であるということができるのである 。これが“写真の公理”である。(中略)では今度は、どこかの路上で一枚の紙を拾った とする。その紙には、“その山は日本一高く、広い裾野には湖が五つあって、湖面に美し い山の姿を映している”と書いてあったとする。その場合、日本人なら誰でも“ああ、こ れは富士山のことだ”と認めるだろう。その場合、何時、誰がその紙に書いたのかという ことには関係なく、“富士山のことを書いている”と認めるのである。また、富士山は、 その紙に書いてある山に間違いないと認められ、その比定に異議を唱える者はいないので ある。すなわち、その紙に書いてある記事の信憑性が有ることと、“富士山”とする比定 が正しいこととが、双方同時に認められたことになるのである」(『邪馬台国はまちがい なく四国にあった』)。
 大杉氏は阿波の風土・産物と記紀神話の舞台を比較したところ、百項目以上の共通点を みつけたという。これだけの共通点がある以上、阿波は高天原で邪馬台国に間違いない、 他の説をとなえる論者は自分を論破できない限り、すべて邪馬台国から手をひかなければ ならないというわけだ。
 また、邪馬台国が忘れられた理由について、大杉氏は大和朝廷の大秘密政策の存在を主 張する。それは、白村江の敗戦と壬申の乱の後、大和朝廷が一時、信望を失い「大君の先 祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流 れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が行われたというのである。その政策は 平安時代まで続き、空海が四国八十八箇所を定めたのも、四国の霊地を訪ねる巡礼を本当 の聖域に近づけないための方策であったというのである。大杉氏は、この大秘密政策によ って四国は「死国」にされてしまったのだと主張する。

 

 

不毛なる論争

 

 大杉氏に論争を挑まれたことがある安本美典氏は、『虚妄の九州王朝』(梓書院、一、 九九五年)で、その際の経験についても触れつつ、次のように慨嘆しておられる。
「『季刊邪馬台国』の編集を通じて知ったことは、世の中には、ほとんどまったく誤りだ と思える自説を強く信じて、他説を論難攻撃してやまないタイプの人が相当数存在してい るということである。その説は、どのような説得によっても、訂正されることがない。( 中略)自説は“仮説”ではなく、いかなる方法をもっても死守すべき“絶対の真実”なの である。そして、ひとたび自説の立場に立てば、自説にとって、いかに不自然な事実も、 眼にはいらなくなる。みずからが、ゆがみ、さか立ちしている可能性もあるのであるが、 みずからは、絶対にゆがんだりさか立ちしていないと、頭からきめてかかるのであるから 、他の説はみなゆがみ、さかだちしていることになる」
 大杉氏は著書『天皇家の大秘密政策』(徳間書店、一九九五年)の序に「私は、発見し た事実の正しさを確認するために、多くの研究者に手紙による論争を申し込んだ。(中略 )論争の結果は、まことに不毛なものに終わった。私が論争に敗れたというのなら、それ はそれで実りある論争だったはずだ。ところが私は、決して敗れはしなかったし、勝ちも しなかった。勝ちもしなかったというのは、相手が負けを認めてくれなかった、というこ とだ。明らかに詰んだ将棋でも、棟梁さえしなければ負けないということを、私は初めて 知らされた」と述べる。しかし、相手が負けを認めなければ勝てない、というのは、大杉 氏が一方的に論争を挑んだ相手の方からしても同様だろう。第一、一方が自らの「正しさ を確認するため」の論争などは、始める前から不毛なのである。
 議論においては、仮説の反証可能性が問題とされる。すなわち、ある仮説について、ど のような反証が現れればそれが成り立たなくなるか、仮説の提唱者と論争相手の間に共通 の認識があって、初めて学問的な論争が成立する。
 しかし、大杉氏は自らの正しさを自明の前提としており、その仮説である四国山上説に ついて、何ら反証可能性を示そうとはしなかった。このような態度が学界で相手にされな いのはむしろ当然なのである。
 大杉氏の「写真の公理法」に対して、結果としてもっとも辛辣な批判となっているのは 前田豊氏の『倭国の真相』(彩流社、一九九七年)であろう。前田氏はその前著『古代神 都東三河』(彩流社、一九九六年)で高天原=邪馬台国が東三河にあると主張したが、『 倭国の真相』ではその説の傍証として二箇所、大杉博氏の著書からの引用があるのだ。
 まず、前田氏は、大杉博著『天皇家の大秘密政策』で『万葉集』の柿本人麻呂の歌に基 づき、古代の大和国には海があったはずだと論じている箇所を引いて、「大杉氏は四国に “倭の国”を想定されているのであるが、この状況はまさに、東三河やまと説について当 てはまるのである」とする。
 また、同書の別のところでは『邪馬台国は間違いなく四国にあった』から、『釈日本紀 』に、畿内を北倭、女王国を南倭とするくだりがあるという記述を引用し、「四国邪馬台 国説の大杉氏には悪いが、その文献はまさに東三河のことを表している(中略)南倭は古 代中国の地理観では、東に相当するから、東倭でもある。まさに日本の東海に地方にある 倭、東三河の大和であったのだ」と述べている(ちなみに『釈日本紀』の「北倭」「南倭 」の説はもともと『山海経』の誤った訓読から生じたものである)。
 大杉氏には「写真の公理法」で四国のことを指しているとしか思えなかった記事が、前 田氏の目には東三河を指しているものと写るのである。主唱者の信念の強さでいえば、前 田氏の東三河説は、大杉氏の四国山上説に決してひけをとらない。そして、信念の強さを 競うのは、真実の探究とは何ら関係のない不毛な行為なのである。
 なお、古代阿波研究会が卑弥呼の陵墓とみなし、大杉氏もそれに従っている矢野神山の 石壇について、原田大六氏は「日本全国の考古学者で、これを三世紀の卑弥呼の古墳と考 える人は、誰一人なかろう」「星形祭壇は、弥生時代にも古墳時代にもなく、それは“矢 野神山の奥の院”の後世のちゃちな石壇にすぎない」「石棺を崩して、棺材を石壇とし、 その上に小祠を立てて祭ったというのが実情と考えられる。見取図では特別の石を敷いて いるように見えるが、掲載の写真を見ると石棺材に間違いなかろう。大墳丘を持たぬ粗製 の組合せ式石棺は古代庶民の墓である。それを江戸中期になって盗掘したもので、卑弥呼 の墓とは全く言えぬ代物であった」と批判している(原田『卑弥呼の墓』六興出版、一九 七七年)。

 

 

アークは四国にあり?

 

 さて、大杉氏は『天皇家の大秘密政策』において、大秘密政策の理由について、意見の 修正を行っている。大杉氏は述べる。「“天皇家の出自は四国の山上であるという噂が広 まると、民衆に嘲笑されて大和朝廷を維持することができなくなるので隠した”というの は、天皇家の出自を隠した理由として弱いということは、私自身も感じていた。しかし、 私としては当初、それ以上のことは脳裏に浮かばなかったのである」
 ところが、大杉氏は、ユダヤ問題研究家として名高い宇野正美氏と剣山に登ってから新 しい知見を得た。つまり「現在の世界を陰で支配しているといわれるユダヤ人は、実は本 物のユダヤ人ではない。その決定的な証拠が、日本の、しかも四国の剣山に隠されている というのである」、そして、その証拠とは「契約の箱」であり、大秘密政策は「契約の箱 」を隠し通すためのものだったというのである!
『旧約聖書』によると、「契約の箱」こと、アークはもともと出エジプトの際、モーゼが シナイ山で神から授かった十戒の石板を納めた箱である(「出エジプト記」第十九〜四十 章)。イスラエル王国三代目の王ソロモンは、ツロ(テュロス)の王ヒラムの協力を得て 、エルサレムに壮麗な神殿を建て、アークを安置した。
 その神殿建設には黄金、青銅、レバノン杉など高価な装飾や建材が惜しげもなく用いら れた。ヒラムは偉大な航海民族・フェニキア人の王の一人だった。またソロモン自身もタ ルシシ船といわれるフェニキア人の船団のオーナーだった。ヒラムの船団とソロモンのタ ルシシ船団は、協力して紅海、地中海、そしてさらに遠い海の彼方へと交易に向かい、イ スラエルに富をもたらしていたのだ。それが世に言う「ソロモンの栄華」である(『旧約 聖書』「列王紀上」第五〜十章)。
 だが、ソロモンの没後、その王国は北朝イスラエルと南朝ユダに分裂、イスラエルは前 七二一年、アッシリアに滅ぼされ、ユダは前五八七年、バビロニア王ネブカデネザルに滅 ぼされた。「列王紀下」二五章は、ユダ滅亡の際、その首都エルサレムにネブカデザルの 兵が乱入し、神殿も王宮も焼き払って、その財宝をすべて持ち去ったことを記す。ところ がそこにはアークに関する記述はない。
 常識的に考えれば、アークはその時、壊されたのだろう。イスラエル人から見れば神の 栄光の象徴たるアークも、バビロニア人から見れば、石板を入れたただの箱に過ぎない。 彼らの関心はただその箱を飾る黄金にのみ向けられたはずである。
 しかし、ユダヤ教、キリスト教の信仰者の立場から言えば、アークがあっさり壊された などと認めたくはない。そこでアーク探索の試みは、史上、幾度となく繰り返されること になったのである。ルーカス、スピルバーグ監督の映画『レイダース 失われたアーク』 の国際的ヒットにもそのような歴史的背景があった。
 さて、剣山にアークが隠されていると言い出した最初の人物は、神奈川県出身の元小学 校校長・高根正教という人物である。高根は『新約聖書』「黙示録」と『古事記』を比較 研究した結果、剣山に「契約の櫃」が隠されているという結論に達したという。
 高根は戦後の一九五二年、その研究成果?を『四国剣山千古の謎−世界平和の鍵ここに あり』という小冊子にまとめている。また、その遺稿が御子息の高根三教氏により、『ソ ロモンの秘宝』(大陸書房、一九七九年)、『アレキサンダー大王は日本に来た』(シス テムレイアウト、一九九〇年)という二冊の本にリライトされており、そこから高根の考 えの道筋をたどることができる。
 それらによると、高根は「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述( 獅子、牛、人、鷲)と『古事記』国産み神話に、四国は「面四つあり」とする記述が対応 するものと考え、神の栄光の象徴たる「契約の櫃」が四国の剣山に隠されているという結 論にいたったらしい。高根は「四国」とは「死国」であり、黄泉国であったとする。
『アレキサンダー大王は日本に来た』によると、西洋史で早逝したとされるアレキサンダ ー大王(前三二六年没)は、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、崇神天皇となった 。その後、アレキサンダーは田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本 へと運ばせ、四国剣山に隠したのだという。
 また、剣山の麓、徳島県祖谷地方に伝わる次の民謡も、「契約の櫃」の所在を示すもの だという。

  九里きて、九里行って、九里戻る。
  朝日輝き、夕日が照らす。
  ない椿の根に照らす。
  祖谷の谷から何がきた。
  恵比寿大黒、積みや降ろした。
  伊勢の御宝、積みや降ろした。
  三つの宝は、庭にある。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  先なる車に、何積んだ。
  恵比寿大黒、積みや降ろした、積みや降ろした。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  中なる車に、何積んだ。
  伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  後なる車に、何積んだ。
  諸国の宝を、積みや降ろした、積みや降ろした。
  三つの宝をおし合わせ、こなたの庭へ積みや降ろした、積みや降ろした。

 高根の説はあまりにも抽象的、神秘主義的であり、文脈を追うことさえ難しい。また、 その発想には木村鷹太郎の新史学の影響が強く読み取れる。
 高根は一九三六年、内田文吉という古神道の研究家と出会った。内田は剣山に鉱区採掘 権を持っており、高根と意気投合するや、その年の七月から鉱区採掘の名目で高根の指揮 により、発掘を開始したのだ。その坑道からは、大きな玉石や鏡石が出てきたが、アーク と関係のありそうな出土品はついに得られないまま、二人は一九四三年十二月、発掘を中 止せざるをえなくなった。高根と内田が発掘を再開したのは、敗戦後の四五年九月だが、 たちまち資金が底をついてまたも断念、四九年には内田が貧窮の内に世を去った。
 なお、五〇年前後の頃、清水寛山という人物がやはりアークを捜して剣山に登ったが、 岩穴で一夜を過ごす途中、岩の下敷きになって死んだという地元の人の証言もある(大塚 駿之介「四国にあるソロモンの秘宝」『特集人物往来』昭和三十三年五月号、所収)。

 

 

ソロモンの財宝

 

 五一年、高根は徳島県に埋蔵文化財発掘許可申請書を提出したが、翌年、元海軍大将・ 山本英輔と映画監督の仲木貞一、新興宗教・宙光道教の幹部らが同様の申請書を提出、県 ではそちらのみを取り上げて、高根の申請を黙殺した。
 山本、仲木とも太古史マニアともいうべき人物であり、山本はかつてソロモン群島にソ ロモンの埋蔵金を捜したことがあるという(ソロモン群島の名は、一五七六年、スペイン の探検家がこの島を発見した際、島民が黄金の装飾品を身につけていたことから、ソロモ ンに黄金を供給した伝説の国オフィルかと疑われたことに由来する)。仲木は関東大学教 授になったこともあるインテリだが、戦前には自ら青森県戸来村のキリスト伝説の映画を 海外向けに制作したこともある。このように山っ気のある人物がそろうことで、剣山発掘 の目的はアークから、時価八千億円のソロモンの埋蔵金にすりかえられてしまった。
 山本は新興宗教・宙光道の中村資山ら同志を伴って五二年八月七日に剣山入り、十七日 から発掘を開始した。その発掘により、山本らは五十体以上のミイラを発見したと主張す るが、それは風化のため、土と見分けがつかなくなっていたということで真偽不明である 。途中から、竜宮教教主・伊藤妙照なる人物も剣山に入り、古代の土器や人体の化石を掘 り出したと発表したが、その現物は公開されなかったらしい。九月に入ると山本らの発掘 は資金難から次第に行き詰まり、残ったのは発掘口の穴と山本の借金、そして神域を荒ら したことに対する地元の怒りの声ばかりという有様となった。

 

 

剣山に来たユダヤ人?

 

 さて、大塚駿之介氏によると、山本の剣山発掘に同行した中村資山は霊媒であり、次の ような剣山の秘史を霊視していたという。
「剣山は、むかし、岩石が花の雄しべのように乱立していて、その真ン中に、雌しべのご とき一本の大きな石の柱があった。その残りが、根幹だけとなったいまの宝蔵山である。 故国を脱出したユダヤのソロモン王家とその一族六、七千人がいまから三千七、八百年前 に東進してきて、剣山のこの特異な姿にひかれ、室戸岬に上陸し、山頂において十四代八 百余年に及ぶ文化生活をはじめた。頂上には王家と近親五百人くらいが残り、三代めの王 のころは、大半が下山して祖谷地方に走り西に移動しながら伊予の奥に達した。頂上族は 、信仰の象徴であり中心であった大石柱が倒壊したので、王は自殺し、嗣子がなかったた め、十四代をもって解体した。そして、王宮と重宝を埋蔵し、すべての史跡を岩石化する ために、約二カ年の歳月をついやし、現在のような姿の剣山とした。下山族は、この悲報 を伝え聞き、王妃と姫を守って故国へ帰ろうと計り、さっそく実行に移ったが、途中、北 陸の金沢付近まできたとき、王妃と姫が相次いで病死してしまった。その後、頂上族と下 山族の間にしばしば対立と闘争が続いたが、やがて、伊予の奥地一帯にほとんどが定住し 、帰国する者がなくなり、平和になった」(前掲「四国にあるソロモンの秘宝」)
 また、七八年に剣山のソロモン秘宝伝説を現地取材した柞木田龍善氏は、「剣山が阿波 の古代文化発祥地で、約四千年前も、室戸岬から約一万人のユダヤ人が北上して付近にす みついていた」「平家落人部落で知られるこの祖谷山の住民は、世界各国でみたユダヤ民 族の顔と共通点である。あそこにはユダヤの血が残っている」という山本英輔の言葉や「 二千五百年前に十四万四千人のユダヤ人が日本に移住し、剣山にユダヤの三種の神宝を埋 蔵し、新しいユダヤ国家を日本という名で創始した。神武維新とはほんとうはこれをいう 」という第三文明会会長・小笠原孝次の説を伝えている(柞木田『日本超古代史の謎に挑 む−日本・ユダヤ同祖論の深層−』風濤社、一九八四年)。
 武内裕氏(武田洋一)は、剣山は縄文時代以前の原日本人が遺したピラミッドであり、 そこに埋められているのは原日本人の宝物であろうという(武内『日本のピラミッド』大 陸書房、一九七五年)。
 佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船がインド、東南アジアまで至っていたとして、「お そらく、古代世界最大、最良質の真珠採取海域であった日本近海も彼らの視野に入ってい たであろう。タルシシ船団は、ルソン島沖で日本海流(黒潮)にのれば、それこそ目をつ ぶっていても、日本列島に到着する。九州、大分で発見された前八世紀の縄文製鉄の遺跡 は、この船団の仕業と見てよい。彼らは、わずかな鉄と大量の真珠や砂金とを交換して巨 利をむさぼったのであろう。(中略)このようなソロモン時代にさかのぼれるユダヤ人の 渡来が、四国の剣山に伝わるソロモンの財宝埋蔵伝説の集団無意識的背景となっているの ではないだろうか」と述べる(佐治『謎の九鬼文書』徳間書店、一九八四年)。
 ちなみに前八世紀の大分県にソロモンの製鉄プラントがあったというのは、もともと鹿 島昇氏の説である。
 鹿島氏は『古事記』の大国主命(大物主命)の一族はソロモンの末裔だという。すなわ ち、『古事記』の因幡の白兎の話の原形と思われる説話がマレー半島にあり、そこではソ ロモン王の命令を受けたと称する鹿がワニをだましたという話になっている。したがって 「マレー神話の“ソロモンの命令を受けた鹿”は『古事記』の“大物主命に助けられた兎 ”に対応するから、ソロモン・イコール・大物主命という図式が成立するのである。なる ほど、大物−オーモン−ソロモンと考えれば、謎はとけてしまう」というのである。
 また、鹿島氏は、日本のいわゆる神代文字の中にフェニキア文字から発展したものかあ るとも述べている(鹿島『日本ユダヤ王朝の謎』正・続、新国民社、一九八三・八四年、 他)。
 なお、大分県の製鉄遺跡について、その年代を前八世紀とするのは九州大学助手の故・ 坂田武彦の鑑定によるものだが、現在の考古学的常識では日本列島で後三世紀より前の確 実な製鉄遺跡はまだ見つかっていない。

 

 

日本民族フェニキア起源説の諸相

 

 さて、鹿島、佐治両氏の主張するソロモン船団の日本渡来説は、タルシシ船がもともと フェニキアの船であることを思えば、フェニキア人の日本渡来説とみなすことができる。 柞木田龍善氏は高知高等商業学校の校歌の歌詞に「古代ユダヤ人の子孫がわれらである、 という意が潜在しているように感じられる」という。それは次の通りである。

  鵬程万里はてもなき
  太平洋の岸のべに
  建依別のますらおは
  海の愛児と生まれたり
  天にそびゆる喬木を
  レバノン山の森を伐り
  船を造りて乗り出でし
  フェニキア人のそれのごと
  (前掲『日本超古代史の謎に挑む』より)

 木村鷹太郎が宇和島人をホエニシア人(フェニキア)の子孫とみなしていることは前に 述べた通りである。ここで余談ではあるが、フェニキア人日本渡来説の流れをたどってみ たい。
日本民族とフェニキア人を関連付ける学説として、まず筆頭に挙げられるべきは、明治 の歴史家・竹越与三郎の『二千五百年史』(一八九六年)の日本民族フェニキア起源説が ある。竹越は記紀などの日本古典には南洋人・マレー人種・シャム人・シナ人種・蒙古人 種・小人種(コロポックル)など、あらゆる地方・あらゆる人種の伝説が含まれていると して、それらの伝説は各人種の祖先が日本に渡来してもたらしたものであろうとする。
 しかし、その中でも日本民族・国家形成の中核と成った人種について竹越は次のように 考察するのである。
「フェニキア人の文明は、独り歴史の伝うるがごとく、インドに達したるのみならず、神 武紀元の前、数百年早くすでにインド、コーチンを経て、フィリッピン群島に達し、しか してフェニキア人の経過せる海路は更にインド人の襲うところとなり、欧亜大陸の勢威は 、漸々南東に下り来り、セミチック人種なるフェニキアの文明と、ハミチック人種なるイ ンド・アリヤンの文明とは南島の中において新たに一大化合を始めたるもののごとし。( 中略)フェニキアよりフィリッピン群島、フィリッピン群島より日本に至るまで、沿道の 国土における、古神伝説の多くは海原を主とするの点において、海魚をもって人語をなさ しむるの点において、言語の性質において、婚姻の風において、涅歯の風において、家居 の風において、人身御供の風において、骨格において、神木を尊ぶの点において、跣足の 風において、婚嫁に処女を尊ぶの風において、男子の陰を祭るの点において、みな一様の 形跡ありて、セミチック、ハミチックの両文明がこの地を経過して日本に至れるを示す」 (以上、『二千五百年史』引用は講談社学術文庫版、一九九〇年より)
 高越はまた、「フェニキア人が貿易によりて世界の民に交通せるより、各国の言語を写 さんとして発明せる声音文字の文明に傾きて、自然に『いろは』四十七字を生じて、国民 的言語を成すに至りし」として、日本のカナ文字が、フェニキア人のアルファベットに起 源することを主張している。
 もっとも一方で竹越は、フランスのル=ブルンジョンが説いた世界文明ユカタン起源説 、ユカタン=アトランチス説に基づき、「日本はメキシコより直接に渡来したるものあり しなるべし」とも述べている(ル=ブルンジョンの説についてはロバート・ウォーカップ 著、服部研二訳『幻想の古代文明』中公文庫、一九八八年、原著一九六二年、ライアン・ スプレイグ・ディ・キャンプ著、小泉源太郎訳『プラトンのアトランティス』ボーダーラ ンド文庫、一九九七年、原著一九七〇年、を参照されたい)。
 工藤雅樹氏は竹越の論の特徴の一つとして「ヨーロッパ人学者のやや通俗的とも言える 説を引用して、自説を補強しようとする態度」があることを指摘している(工藤『研究史  日本人種論』吉川弘文館、一九七九年)。
 竹越が参照したヨーロッパの通俗的な書籍はル=ブルンジョンのものばかりではない。 日本民族フェニキア起源説は、学術的というよりも、そうした通俗的な諸説を基礎として 構築されたもののようである。
 語源研究家の山中襄太は日本語「ふね(舟、船、艦)」は「古代の有名な地中海の航海 民族、船民族たるPhoenicia」の“Phoeni−”“poeni−”と関係が あるのではないか、と唱える。また、“Phoenicia”はギリシャ語で紫、紫赤、 鮮紅を意味し、この民族が製した紫紅色の染料に由来するとされるが、それはまた日本語 「べに(紅)」と似ているともいう(山中『国語語源辞典』校倉書房、一九七六年)。
 田口賢三氏は著書『日本語の謎』(大陸書房、一九七四年)において、日本語と英語の 間には「本当」と“found”、「そっと」と“soft”、「そろそろ」と“slo w”、「かばう」と“cover”「名前」と“name”など概念と音韻が共にほぼ一 致する単語が多いとして日英両語同祖論を唱え、さらにそれを根拠に日本民族フェニキア 起源説を説いた。
 田口氏によると、英語のアルファベットの起源はフェニキアにあり、一方、七世紀以前 、「フェニキア人の使用した言語をペルシア人が受け継ぎ、それが海路を距てて中国南部 のピンに定着し、いわゆる南方系混血をして東洋人となったものが日本人の祖先」である というわけだ。
 日英両語同祖論といえば、清水義範氏のパロディ小説「序文」(『蕎麦ときしめん』講 談社文庫、所収)が思いおこされる。それは日英両語同祖論を唱える学者の著書の序文と いう体裁をとった短編である。おそらく清水氏は御存知なかったのだろうが、「序文」よ り前に、同様の説を大真面目に主張した研究者が実在したのだ。
 むろん、田口氏の研究は学界から相手にされなかったが、その黙殺にかえって闘志をか りたてられ、田口氏はさらに二冊の著書『邪馬台国の発見−卑弥呼と七支刀』(新人物往 来社、一九七五年)、『邪馬台国の誕生』(新人物往来社、一九七六年)を発表した。そ の中で田口氏は日英両語同祖論に基づき、『三国志』倭人伝の国名や、記紀神話の神名に 独自の解釈をほどこしている(邪馬台国の所在については畿内大和説)。
 和歌山県地方新聞協会会長の日根輝己氏によると、『花岡青州の妻』で知られる作家の 故・有吉佐和子もフェニキア人の日本渡来説を主張していたという。
 日根氏が自ら主宰する『黒潮新聞』に古代豪族の紀氏が朝鮮半島からの渡来系氏族だと 書いたところ、以前取材したことのある有吉から電話がかかったという。一九八三年六月 のことだった。
「あんたねえ。紀氏を朝鮮からの渡来人だなんて、とんでもないことよ。『新撰姓氏録や 太田亮の『姓氏家系大辞典』には<太古以前の大姓で、他にはなし>と書いてあるわよ。 あの<キ>はね、古代フェニキアのキだと思うの。舟ではるばるやってきたのよ。(中略 )だいたい、人類は三〇〇万年昔、アフリカで生まれているのよ。原日本人がフェニキア からきたところで、驚くにはあたらないわよ。木ノ本というのは木の根本ね。紀州こそ日 本人のルーツなのよ」
 有吉はその電話で「天皇家より古いのよ。うちの母が、えらくおこっているわよ」とも 言っていたという。有吉の母は和歌山市西庄宮山の木本八幡宮の宮司家と縁続きであった 。すなわち彼女は母方の血で古代の紀氏とつながっていたのである(日根『奪われた神々 −騎馬民族王朝と紀氏の謎』アイペック、一九八五年)。

 

 

ソロモン秘宝伝説の復活

 

 さて、話は戻って山本らの発掘挫折の後、剣山を御神体山とする大剣神社では剣山山頂 の発掘を一切禁じるという立場をとった。その後、七〇年代においても、宮中要吉氏ら少 数の有志による発掘は非公式に続けられていたが、地元の大多数の人々は、その話をもは や忘れさろうとしていた。
 ところが一九九〇年代に入ってから、この状況に変化が生じる。きっかけは国際文化新 聞編集長(当時)の三浦大介氏が、高根三教『アレキサンダー大王は日本に来た』を編集 した縁で剣山を訪ねたことである。三浦氏はそこで大杉博氏と知りあい、国際文化新聞紙 面に、邪馬台国四国山上説の発表の場を設けることになった(大杉『邪馬台国はまちがい なく四国にあった』の推薦文は三浦氏が書いている)。
 かくして、剣山のアークは四国山上説とセットで三浦氏により広められることになった 。真先にこれに注目したのは先述の宇野正美氏である。大杉博『邪馬台国の結論は四国山 上説だ』の帯コピーには「宇野正美氏も絶賛」の文字が踊っている。
 宇野氏は「古代ユダヤは日本に封印された」(『歴史Eye』九四年七月号、日本文芸 社、所収)において、次のように主張する。
 現在、ユダヤ人と呼ばれる人々の大多数は紀元後八〇〇年頃、ユダヤ教に改宗した中央 アジアのカザール人の子孫、アシュケナジー・ユダヤ人である。本当のユダヤ人ともいう べきパレスチナのスファラディ・ユダヤ人はアシュケナジーにより虐げられてきた。
 スファラディ・ユダヤ人の中には日本に渡来して、大和朝廷の日本統一に協力した者も いた。日本の神輿は「契約の箱」にそっくりであり、古代ユダヤ人の日本到達の証拠とな る。「契約の箱」を日本にもたらしたのは、おそらく預言者イザヤの一群であろう。イザ ヤはユダ王国が滅びるのも近いと見抜き、「契約の箱」をもってイスラエルを脱出、日本 に向かった。大杉博氏のアドバイスによると四国山上には古代のハイウェーが走っている 。剣山が人工の山であることは高根正教の発掘で証明された。四国が到着地となったのは 、四国山上の地形がパレスチナの地形によく似ているからである。・・・
 以上の主張は宇野氏の著書『古代ユダヤは日本で復活する』(日本文芸社、一九九四年 )でも繰り返されている。なお、この著書によると、宇野氏が預言者イザヤに着目したの は、記紀神話のイザナギ・イザナミをイザヤとその妻のことだとする川守田英二の説(川 守田『日本ヘブル詩歌の研究』上・下、一九五六・五七年)に基づいてのことだった。
 また、一九九四年九月八日から十一日にかけて、徳島県美馬郡貞光町の商工会青年部は 宇野氏や大杉氏の主張を地域振興に利用するべく、日本探検協会会長・高橋良典氏を招き 、剣山周辺の遺跡調査を行っている。
 その前日、同年九月七日付・徳島新聞は「古代史ロマンで活性化」という見出しでこの ことを報じた。その記事では同商工会青年部の斎藤衛氏が「古代史ロマンは貞光町だけで なく、四国四県にまたがんている。今後は、他地域の有志らにも呼び掛けて情報ネットワ ークをつくり、面的な広がりを持つ地域振興を図りたい」とコメントし、同紙コラムでも 乾道彦記者が「剣山に古代ユダヤ人が移住し、日本の基礎を確立。邪馬台国へとつながっ た−(中略)この仮説と地域振興をつなげ、滞在型の“古代史の里”の整備は、ユニーク な構想だ。過疎化に悩む地域にとっては、一筋の光明ともいえる。いかに育て、広げてい くか。活動に注目したい」と述べている。
 さて、『古語拾遺』は古代、天日鷲命(『新撰姓氏録』によると斎部氏=忌部氏の祖) の一族が四国の阿波に入り、さらに阿波の忌部氏が関東の安房へと移住したことを伝える 。日本探検協会はこの斎部氏=忌部氏の伝承に特に深い関心を寄せたようだ。
 高橋氏の剣山調査に同行した有賀訓氏は、その直後に書いた「房総『笠石遺跡』の秘密 がついに解けた!」(『weeklyプレイボーイ』一九九四年十月二五日号、所収)で 、房総半島に「亀をモデルにした石造物」があるとして、昭和薬科大学教授(当時)・古 田武彦氏の「縄文時代の航海者は亀を崇拝していた」という説を紹介し、「斎部の故郷・ 剣山周辺の古代遺跡を見て回ったが、予想どおり亀をモデルにした巨石を数多く確認でき た。となると、海上のアワ・ルートを通じて房総へ巨石文化を持ち込んだ人々の正体はや はり斎部氏ということか?」と述べている。
 また、有賀氏のこの記事には、房総半島が大和朝廷の関東進出の足がかりになったこと について、「実際には、古くから黒潮潮流を利用していた斎部氏に案内されて、ようやく 大和勢力の関東進出がスタートしたということでしょう」という高橋氏のコメントも引用 されていた。
 その後も有賀氏は同じ週刊誌の記事で、剣山の財宝伝説について触れ、「この約半世紀 前の発掘騒動は、剣山山麓に生まれ育った六十歳過ぎの人ならば大抵は記憶している。発 掘現場に潜入した人も多く、“トンネルの中には海砂が厚く敷かれていて大人たちが首を 傾げていたよ”といった当時の目撃談が聞かれた」と述べる。
 この記事では、有賀氏は、忌部氏族を約四七〇〇年前、初の石造ピラミッドを設計・建 造したエジプトの宰相イムホテプの流れをくむ技術者集団であろうとしている(「古代エ ジプト民族が日本に上陸していた!!」『weeklyプレイボーイ』一九九七年六月三日 号、所収)。
 さて、高橋氏の調査後、日本探検協会では、忌部氏の祖・天日鷲命はヴィマナ(古代イ ンド叙事詩に登場する空艇)に乗って大空をかけめぐった太古の英雄であり、剣山には太 古の地下都市シャンバラの宮殿とヴィマナが今も眠っているとして、「四国は日本太古史 の究極の秘密の鍵を握るところ」であると主張する(日本探検協会編著『地球文明は太古 日本の地下都市から生まれた!!』飛鳥新社、一九九五年。幸沙代子「失われた太古日本の 世界文明」『日本超古代文明のすべて』日本文芸社、一九九六年、所収。幸氏は日本探検 協会事務局長)。
 日本探検協会では、今後引き続いての剣山調査に意欲を燃やしているが、はたして、こ の破天荒な主張が、地元の歓迎するところとなるかどうかは、まだまだ未知数である。

 

 

その他のソロモン秘宝説

 

 なお、高根や山本によるアークおよびソロモンの秘宝探索の波紋は剣山以外の場所にも 波及している。故・浜本末造によると、「契約のヒツギ」はエルサレム陥落前にイスラエ ルの民によって神殿から運び出され、釈迦、秦始皇帝、新羅王家の手を渡って、神功皇后 により、奈良県吉野の玉置山に隠されたという(浜本『万世一系の原理と般若心経の謎』 霞ケ関書房、一九七三年)。もっともその後、浜本は「契約のヒツギ」は神功皇后が鳴門 の渦の中に納めたとも述べている(浜本「神国日本の秘められた歴史と使命」『地球ロマ ン』復刊一号、一九七六年八月、所収)。
 沖縄の斎場御嶽にもソロモンの秘宝が隠されているという話がある(喜屋武照真『炎の めざめII 太古の琉球にユダヤの痕跡』月刊沖縄社、一九九七年)。
 同書に掲載された霊能者・石田博の手記によると山本英輔の剣山発掘は当時、「行者の 間では問題になった」とあり、それに続けて斎場御嶽のことが出てくるので、この沖縄の ソロモン秘宝の話が剣山から飛び火したことは間違いない。
 徳島県名西郡神山町で「日本超古代研究所チナカ」を主宰する地中孝氏は、ソロモンの 財宝は剣山ではなく、その東の神山町神領方面にあるとする(地中『ソロモンの秘宝は阿 波神山にある!』たま出版、一九九五年)。
 この地域は阿波邪馬台国論者によって卑弥呼=天照大神の本拠とされたあたりである。 神山町内に立てられた「日本超古代研究所チナカ」の看板には「古代文字を解読してソロ モンの秘宝の謎に迫り解読と発掘に賞金五億円ウガヤ王朝の京は神山にあった」というコ ピーが踊っている。
 神山の山村出身の地中氏は同書において、「庸の時代から三〇〇〇年変わることなく続 けられた高地性山岳農法と生活の体験」を記している。地中氏は、小学校三年生の時、姉 の下宿している徳島の町に出ただけで「山峡の谷あいで生れ育ち、外界の広さを知らぬ井 の中の蛙であった子供心に、あくまで広大でまだ見ぬ世界のあることを、大人のさまざま な生き方があることを単純に開眼した」という。地中氏には申し訳ないが、同書で一番面 白いのは、この山村生活の回想のくだりである。

 

 

邪馬台国とソロモン秘宝の共通性

 

 さて、高根正教から日本探検協会まで、剣山のアーク(もしくはソロモン秘宝)につい ての諸説を見てきたわけだが、なぜ、ソロモンゆかりの宝が遠く離れた四国にあるのか、 その説明がことごとく食い違っているのが面白い。
 高根自身はアークを日本にもたらしたのはアレキサンダー大王(=崇神天皇)と田島守 と考えていたようだが、山本の発掘に協力した中村資光は「ソロモン王家」という実際に は存在しない王朝(ソロモンは人名であって家名ではない)が剣山にやってきたと説く。 佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船団に着目するし、宇野正美氏はイザヤがアークを持っ てきたという具合である。
 結局、ソロモンの秘宝が剣山にある、という結論が先にあって、皆、その理由を後から あーでもない、こーでもない、とこじつけているだけなのである。武内裕の原日本人の宝 という説や、日本探検協会のヴィマナ説ともなると、もうソロモンのことさえどこかへ飛 んで行ってしまっている。
 このような論の進め方は何かに似ていないだろうか。そう、ここに邪馬台国ありき、と いう結論がまずあって、それから根拠を求めていく邪馬台国阿波説、四国山上説などの論 法である。
 もう一つ、剣山のソロモン秘宝説と邪馬台国四国説の論法には類似点がある。
 邪馬台国阿波説・四国山上説の文献を読んでいる時、私が感じたのは、地元への誇りや 愛情よりもむしろ強烈なコンプレックスだった。
 なぜ、古代阿波研究会は岡本監輔が「千葉県平民」を名乗ったということにこだわるの か。なぜ、岩利氏は記紀に阿波国についての記述が乏しい不思議を強調するのか。
 なぜ、大杉氏は四国山上の出身と知られるのが天皇家にとって恥ずかしいことだと考え たのか。大杉氏はまた、四国の歴史があまりにも知られていないことについて、「私には 、四国から目をそらさせようとする、目に見えない意志の力が働いているように思えてな らない」とまで述べている(前掲『天皇家の大秘密政策』)。
 もっとも大杉氏は岡山県の出身だから、その四国への感情は単純な郷土への愛憎などと はまた異なったものなのであろうが・・・
 宇野正美氏は、次のように述べる。
「長きにわたって四国は“死国”とされてきた。四国について書かれた小説はほとんどな いし、四国についての歴史教育はほとんど行われない。日本中に高速道路が張り廻らされ たとはいえ、最後にそれが完成したのは四国の中でも阿波の国、徳島県だった」(前掲「 古代ユダヤは日本に封印された」)
 実際には、夏目漱石『坊ちゃん』に吉川英二『鳴門秘帳』、獅子文六『てんやわんや』 と四国について書かれた小説は決して少なくない。また、歴史教育の場においては四国以 外の地方も結局、中央との関わりでしか取り上げられないものなのである。
 宇野氏の文章には読者の妬み、嫉み、僻みといった負の感情に訴えかけるものがある。 宇野氏お得意の反ユダヤ論が、世界の主流から疎外された国・日本の負の感情に同調する ものだとすれば、この四国論は、日本の中央から疎外された地方・四国の負の感情に働き かけるものといえよう。
 主流・中央から疎外された孤立感は、主流・中央に加わりたいという渇望、さらには歴 史を引っ繰り返して自分たちこそ真の主流・中央なのだと主張したい心理へと容易につな がりうる。
 拝外思想にとらわれ外国へのコンプレックスに苦悩する日々から、一気に「日本こそ世 界の盟主」という妄想に飛びつくことを繰り返す日本人の性向は、このような心理の流れ として説明できよう(日清・日露戦争直後の高揚、第二次大戦開戦時の世論、そして、つ い最近のバブル経済・・・)。
 こう考えていくと、反ユダヤ主義者として知られる宇野氏が同時に日本=ユダヤ同祖論 者であるのも不思議ではない。
 また、大杉氏が大秘密政策の理由を、「天皇家の出自を知られると恥ずかしい」という ことから「アークを隠し通すため」に変えたのも象徴的である。
 この心理が地方レベルで現れれば、トンデモない所に邪馬台国や高天原が出現し、日本 という国家・民族レベルで現れれば、日本=ユダヤ同祖論、日英両語同祖論や太古日本世 界文明説(木村鷹太郎の新史学、『竹内文献』、日本探検協会)などが生まれることにな るのである。
 邪馬台国四国山上説は明らかに前者の例、世界の宝アークが日本にある発想は後者の例 に属する。その両者をささえる心理はきわめて近いところにあるのだ。
 大杉博氏と三浦大介・宇野正美両氏の出会いにより、この二つの異説が結びついたのも むべなるかなというべきである。
 四国は今後とも古代史異説の発信地としてユニークな位置を保ち続けることであろう。 それが観光・情報産業においてどれほどの経済効果を期待できるか、まだまだ未知数とい うところである。今後とも、古代史異説のファンはこの地方に注目し続ける必要があるだ ろう。  

 

 

                       1998  原田 実