両面宿儺伝説をめぐる奇想

 

 


 

 

両面宿儺は凶賊か

 

『日本書紀』は仁徳天皇六五年、和珥臣の祖・タケフルクマが飛騨国の怪人・宿儺を退治 した話を伝える。
「六十五年、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を一にして両の面有り。面各 相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。 左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて 楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ」
 原文ではわずか八四文字、この話は『日本書紀』にのみあって『古事記』にはない。タ ケフルクマは仲哀記に「難波根子建振熊命」、神功紀に「和珥臣の祖武振熊」とあり、神 功・応神と争う忍熊王を攻めた将軍と伝えられる。タケフルクマの事績として伝えられて いるのは、忍熊王追討と宿儺退治の二つのみである。
 ただし、『古事記』では忍熊王を近江で入水に追い込んだのはタケフルクマその人とさ れているが、『日本書紀』ではその役を武内宿禰が果たしたことになっている。
 いわば、『日本書紀』におけるタケフルクマは、忍熊王追討で武内宿禰に譲った分の出 番を、宿儺退治で取り戻した形になっているのである。
 仁徳紀では、宿儺は怪物まがいの凶賊として語られているが、美濃・飛騨の現地での両 面宿儺への信仰には根強いものがある。高山市郊外、丹生川村の千光寺は両面宿儺を「御 開山様」と伝え、宿儺を刻んだ円空仏も伝わっている。
 また、同じく丹生川村の善久寺も宿儺を開基とし、その近くにはタケフルクマに攻めら れた宿儺が立て籠もり、ついに首を括って死んだという洞窟がある。
 その他、美濃・飛騨では多くの古寺が両面宿儺を開基として「両面さま」「両面僧都」 などと尊称している。
 さらに高山市南方の位山について、南北朝時代の飛騨国司・姉小路基綱(一五〇四年没 )は自ら選んだ和歌集の裏書に、この山の主が「両面四手」であり、しかもそれが「神武 天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと記しているという(注1)。
 谷川健一氏は「美濃、飛騨は大和朝廷にまつろわない異族の国である。両面宿儺はその 首長であると考えられている。その名は『日本書紀』に一度登場して、誅殺されたあと正 史に姿を見せないが、濃飛ではいまでも敬愛されている」とまとめる(注2)。
 岡部伊都子氏は千光寺の両面宿儺像について次のように評した。
「千光寺にある大きな宿儺の石像には、時代をこえてうけつがれた、住民の敬慕の念がこ められている。大和朝廷にとっては、許せぬ抵抗者であったが、その地方にとっては人の 倍の力を持った、すぐれた人物だったのだ。飛騨を愛する心いっぱいに活躍していた貴重 な存在だったからこそ、千六百念のちの今日まで、その名や像が守られているのだろう。 円空が仏像を刻する熱情の中で、心をこめて両面宿儺を刻んだのも、こうした土地感情に 共感してのことにちがいない」(注3)
 両面宿儺伝説に対して、谷川・岡部各氏は一応は常識的な線にそって解釈しておられる 。両面四手の怪人などが実際にいるはずはない(ちなみに、豊田有恒氏は、そのような怪 人が実在した、というアイデアに基づき伝奇SF『両面宿儺』を著している)。
 しかし、現地での伝承の根強さを思えば、両面宿儺の実在をむげに否定するわけにはい かない。大和朝廷と戦った現地の英雄が、伝説の中で超人化した、というあたりで話を落 ち着けるのが分別というものである。
 しかし、両面宿禰伝説の奇怪さには、さまざまな奇想を誘うところがある。本論考は、 先学の、両面宿儺をめぐる奇想を取り上げ、そこから新知見へのヒントが得られないかを 探るものである。一本筋の通った研究史など構成しようもない珍説・奇説の数々で恐縮な がら、つきあっていただければ幸いである。

 

 

両面宿禰とヤマトタケル

 

 邪馬台国エジプト説(注4)で有名?な木村鷹太郎はプラトンの『饗宴』に登場する「 原始人間」について次のように述べている。
「元来性なるものは現在では男女の二性であるが、原始人間では男性、女性、男女兼性の 三性であった。(中略)原始人間の身体は今の人間と全く異つて、球の形を為し、胸も背 も円く、手は四本足も四本、頭は一つで両面あつて裏表反対の方に向き、耳は四個ある、 (中略)其力は恐ろしく強く、又其思想も甚だ偉大で、神々に対して攻撃を加へる程で、 其中オーツや、エフィアルテースの如き巨人は、ホメーロスの神話に言ふが如く、天に昇 つて神々に反抗しようとした事もある」
 神々は人間の力を削ぐためにその身を二つに断ち割り、現在の姿形にした。そのため、 人間は常に失われたもう半分の我が身を求めている。これが恋愛の起源だという。
 そして、木村はその「原始人間」について、「此人間は日本書紀−仁徳天皇紀の飛騨の 宿儺−と同じ人間で(中略)プラトーンと同じ材料から出て居るものと思はれる」という のである(注5)。
 坂口安吾は、両面宿禰に双生児のイメージを見出し、古代史に現れる双生児で最も有名 なのは大碓小碓、すなわちヤマトタケルとその兄であるというところから想像の翼を広げ ていく(注6)。大碓は美濃へと二人の美女を迎えに行ったとされ、また『日本書紀』に は美濃に流されたとあるなど、美濃・飛騨と関係が深い(飛騨はもとは美濃の一部)。
「日本武尊が景行天皇にうとまれて天皇は彼を殺すために諸方の悪者退治にだされたとい うのは、表向きで、実際は兄大碓命が暗示するように、彼はヒダかミノに住み、ヒダかミ ノの女王と結婚して諸国を平定しつつあった豪傑であり首長であった。古事記の伝えが天 皇に殺意ありと云うのは、景行とは血のツナガリなく、実は本来敵として対立する両氏族 の両首長を意味するらしい」
「日本武尊をこういう方と見ると、ヒダに伝わる両面スクナの一生に似てくる。両面スク ナを退治したのは仁徳六十五年、武振熊であるが、この人物はその百何十年前の神功皇后 時代にも他にただの一度だけ史上に現れて、この時は武内スクネの命令がカコサカノ王、 忍熊王の二兄弟を殺している」
「要するに日本武尊兄弟、忍熊王兄弟、両面スクナは同一人物で、スクナは一体で顔二ツ というのが変っているだけですが、このことは、これらの兄弟の神話は二人一組で一人を さし、もしくは、たった一人の史実をいろいろの兄弟や双児の二組にダブらせて、その総 合でその一人の真相を暗示していると見ることもできます」
 坂口はまた、この「兄弟の神話」の原形となった史実とは、いわゆる壬申の乱の際、日 本の正統な首長である高貴な人(国史では天智天皇、大友皇子と記される)が、飛騨で天 武天皇によって殺されたことではなかったかとも論じている。
 坂口の論は大いに暗示に富むものであり、後の両面宿禰をめぐる奇想はことごとく坂口 の影響下にあるといっても過言ではない。
 ちなみに坂口が両面宿儺、ヤマトタケルなどと同一人物とした忍熊王について、杉本壽 氏が興味深い伝説を記しているので、引用しておきたい(文中、「著者」とは杉本氏御自 身のこと)。
「越前国の二ノ宮に国幣小社剣大明神(丹生軍織田町鎮座)があり、祭神は第十四代仲哀 天皇第二皇子である忍熊王(記・オシクマノミコ)で、慣例として皇位に即かれるのであ ったが第四皇子誉田別皇子(紀)が第十五代応神天皇となられた。(中略)神功皇后や武 内宿禰らの軍のため淡海(近江)国瀬田川畔に追いつめられた忍熊王らは、我が身を川中 に投じ神功元年(二〇一)三月五日自ら薨じさせ給うたということになっているが、実は 身代りを立てて越前国角鹿に遁れ後海路をへて織田荘の山間に入られ、織田郷開拓の祖神 になられたというのが剣大明神社記の教うるところである。著者は、たまたま兵庫県宝塚 市の中山寺ですがすがしい忍熊王尊影を拝し、一千八百年の昔の歴史記録に驚愕したもの である。ところが国幣社昇格のさい忍熊王を祭神として申請したところ、正史に『神功皇 の后元年二月熊坂・忍熊王二反す』とあるから承認成り難しと却下された。しかし郷民た ちは敬慕する忍熊王は我らの祖神たり忍熊王を措いては昇格を希望せずと抗するので、已 むなく素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祭神に代えて申請し目出度く国幣社列格を仰出さ れることになった」(注7)
 なお、この剣大明神の神官家の一族からは後に戦国武将・織田信長が出ている。

 

 

双格神ミトラ−ヴァルナ

 

 さて、飛騨における古代史異説となれば、避けて通れない問題にいわゆる「古史古伝」 の一つ『竹内文献』のことがある。『竹内文献』そのものは昭和初期に成立した偽史だが 、その中では飛騨のことが「日球国」「日玉国」などと表記され、太古の日本のみならず 世界の中心たる大宮が置かれた、と記されている。そのため、昭和初期から『竹内文献』 を奉じて飛騨高天原説を説く論者は跡を絶たない。
 また、『竹内文献』にはピラミッド日本起源説が示唆されていたため、位山こそエジプ トのものよりも古いピラミッドだ、などと主張する者も現れた(注8)。
 そして、一九八四年、『サンデー毎日』が行った「日本にピラミッドがあった!?」キャ ンペーンにより、位山ピラミッド説は大きく宣伝された。こうなると、『竹内文献』を両 面宿禰と結びつけた説が出るのも必然だ。鈴木旭氏は次のように述べる(注9)。
「仁徳天皇の時代というのは、漢字などの中国渡来文化が導入され、ようやく大和の地を 中心として古代国家の萌芽がみられつつあったころで、まだ完全に定着したとはいえない 時代ではなかったか、と推測される。そして、まだ不慣れな土地である日本には、かつて 輝ける先史王朝時代があったことを記憶する人々も残っていたことだろう。そんなおり、 飛騨の地にとんでもない事件が勃発した。“飛騨こそ、真の高天原である”として日球王 朝再興運動が始まったのであった。仁徳天皇は、さぞかし驚いたことであろう。当然のこ とながら、それを放置すれば、せっかく日本に定着して勢力基盤を築きつつある時、その 存在そのものを否定されることになる。先史王朝の記憶もろとも、その子孫たちを抹殺せ んと決断し、軍隊を派遣したに違いない。その際、位山のピラミッドは徹底的に破壊され 、日球王朝の痕跡を残すものはすべて消し去られてしまったのだろう。しかし、民間伝承 までも抹殺することはできなかった。そして、細々と正史で伝えられる“両面宿儺伝説” とはまったく別の姿が語り伝えられてきたのであろう」
 もっとも、やはり飛騨高天原説に立つ山本健造氏は、若田仁太郎翁という古老からの聞 き書きとして、両面宿儺の正体は信州出身の「大やりての男」であり、両面というのは飛 騨と信州の双方に顔が効いたということと、剣術の名人で顔が前と後の両方についている ように強かったということから、つけられた綽名にすぎない、とする(注10)。
 山本氏記すところの若田翁の話によると、宿儺は丹生川の谷を本拠に、岐阜県大野郡宮 村にあった飛騨政府(高天原)を攻めようとしたため、大和朝廷の飛騨救援軍に殺された 。ところが後世、両面宿儺の残党や子孫が、宿儺を神仏のように敬い、さまざまな伝説を でっちあげたのだという。
 山本氏はまた、「ある書には、両面宿儺は天空から飛来して神武天皇に位を授けたとか 、両面宿儺の住んでいた出羽ケ平の洞窟から神代の秘密を記したタブレットが見つかった とか、書いてあるが、そんなことは地元の私たちも初耳です」とも述べておられる。
 どうやら飛騨高天原説の論者といえども、両面宿儺をありがたがる人ばかりではないら しい。しかし、飛騨高天原説は、両面宿儺が高天原の再興を図ったとみなすにせよ、征服 を図ったとみなすにせよ、なぜ大和朝廷が、応神朝の創建に活躍した有力な将軍をわざわ ざ山深い辺地の凶賊一人のために派遣しなければならなかったかを、説明するのには有効 である。実際問題として、飛騨高天原説は成り立ちえないにしても、飛騨には大和朝廷に とって、それこそ高天原にも匹敵するほど重要な何かがあったのではないか。
 尾関章氏は位山ピラミッド説に触発されながらも、『竹内文献』流の「日球王朝」説と は別の角度から、両面宿儺伝説に挑んでいる(注11)。まず、尾関氏は位山を御神体山と する水無神社が古くから飛騨国一之宮として崇敬されながら、その祭神に諸説あって定か ではないことを指摘し、「隠された祭神こそが宿儺ではなかったか」とする。
 尾関氏は両面宿儺を中国神話の蚩尤と比較した。『戦国策』『荘子』『史記』などによ ると蚩尤は三皇五帝の時代、黄帝に反逆して討たれたとされる鬼神で、『述異記』はその 姿を「人身牛蹄にして四目六手あり」と伝える。しかし、蚩尤は一方で武神としても崇敬 され、兵頭神という名で蚩尤を祭る神社は日本でも『延喜式』の神名帳に十九社もある。 そして、蚩尤は斉(山東)の地主神だったともいわれている。尾関氏は宿儺はもともと蚩 尤によく似た飛騨の地主神であり、「宿儺伝承が飛騨に先ずあって、『紀』はこれを中国 の史書にならって“逆賊”とした、というのが真相ではなかったか」とする。
 また、尾関氏はインドのヴェーダ神話に現れる至高の双神格ミトラ−ヴァルナ、ローマ 神話の双面神ヤヌスなどを引き合いに出し、ミトラ−ヴァルナから分離独立した神ミトラ が仏教に取り入れられて弥勒となり、イランでは善神マズダと悪神アングラ・マイニュの 「仲保者」とみなされ、さらに一世紀末頃のローマではミトラスの名で「不敗の神、太陽 神」として崇拝されたことを述べる。
 そして、イラン、ローマがあったミトラ崇拝の戦士集団の東アジア版が、六世紀の新羅 における弥勒崇拝の戦士集団・花郎であり、飛騨の宿儺は新羅系の勢力から弥勒=ミトラ として祭られたのではないかとする。
 弥勒=ミトラ信仰では東北という方位が重要視されており、位山の、ピラミッドといわ れた巨石群はその信仰の担い手たちにより、方位計測に用いられたという。
 尾関氏の語る宿儺の栄光は壬申の乱でクライマックスを迎える。
「大海人軍の軍旗は赤旗であり、その軍事的拠点は美濃国安八麿郡の湯沐邑であった。と ころで漢の高祖(劉邦)はその挙兵にあたり、黄帝と蚩尤を祠祭し、蚩尤旗とも称される 赤旗をその軍旗とした。(中略)漢の高祖と同様、決戦に臨んだ大海人もまた、蚩尤(ス クナ)を祭祠し、その呪力を自らのものとしたのではなかったか」
「壬申の乱が朝鮮の新羅<吉野方>と百済<大津方>の対立と深くかかわっていたとする 有力な説がある。(中略)武振熊=百済系によっていったん殺害された両面宿儺=新羅系 の鬼神は、吉野軍=新羅系によって新たに復活させられ、太陽と不敗の軍神としてのミロ クへと変身する。花郎の花主高市皇子は、下生したミロクの霊力をその体内に宿して大津 軍と対決する。太陽王=大海人皇子自ら、そしてそのブレーンであったと推測される新羅 僧行心の裡にあった“日を背負いてこそ撃ちめ”という幻想は、陣営地からみる美濃そし て飛騨山系の景観としっくりと重なり合っていたに相違ない」
「しかし、善悪を超越した猛烈な力を有する双面の至高神は、祝祭の後に明と暗の二神へ とその身を引き裂かれる運命にある。(中略)切り捨てられた反秩序の側面、または両義 性という本来的特性を失わない神は“いかがわしい神”として、マイナーな地位を与えら れ、辺境の地に封じ込められる。ここに反秩序の鬼神スクナが生誕する」
 かくして高市皇子は殺され、行心はその首謀者の一人として、飛騨に流された。そして 、宿儺はマイナーな鬼神として、伝説の中にその栄光を留めることになったというわけで ある。尾関氏の解釈は両面宿儺をあくまで神話的な存在とみなすものだ。

 

 

日本海を支配した海人王朝?

 

 斎藤守弘氏はまず両面宿儺の正体について、「ズバリいえば、両面宿儺は幻の飛騨王朝 の正統な王権継承者であったのだ」と規定する(注12)。
 宿儺が座した位山は分水嶺であり、その流れは、南は飛騨川から木曾川へと合流して太 平洋に、北は宮川から神通川となって日本海へと注いでいる。すなわち位山の水源地は南 北二つの顔を持っているのである。これが両面宿儺の顔二つの実体だった。
 両面宿儺は水源を確保することで太平洋側と日本海側の文化の双方に支配力を及ぼし、 列島規模の宗教的神権を有していた。倭王「讃」として国内統一、海外雄飛を志す仁徳天 皇はこの宗教的神権と衝突し、山深い辺境の飛騨まで討伐軍を出すことになった。
 斎藤氏は、両面宿儺の全国支配を支えたのは水分祭祀だとして、次のように述べる。
「縄文時代に遡るその水分祭祀を毎年行ったのは、両面宿儺の宮殿というか、むしろ神殿 であり、この飛騨の水無神社こそ、ほかならぬ縄文中期以来の縄文神学の伝統を伝える我 が国最初の教育機関、いわば“縄文アカデミー”であったと考えるのである。全国各地の 縄文村から子女が集まり、ここで正式の巫女教育をうけ、再び各地の拠点的祭祀場に配属 される。そして、この神権統治システムは『魏志倭人伝』の時代には、もちろん健在であ り、卑弥呼はそのシステムを自己の邪馬台国体制に利用した。すなわち神託卑奴母離体制 である」
 飛騨の伝承によると、「位山」と呼ばれた山は三つあるという。長野県と岐阜県の境の 乗鞍岳、千光寺のある袈裟山、そして現在の位山である。縄文中期、長野県に人口が集中 していた頃の「位山」は乗鞍岳で、その頃、統合の祭りを行っていたのは『日本書紀』に 一度しか登場しない謎の女神・菊理媛神であった。
 だが、古墳時代、神体山・位山の移動に際して、巫女アカデミーの校長が菊理媛神と呼 ばれる女性から、両面宿儺と呼ばれる男性に交代する。それと同時に最後の女性校長を奉 じる一派は加賀一之宮・白山神社に移り、また別の一派が現岐阜県可児市の「泳宮」で代 々の菊理媛神の霊を祭ることになった。泳宮は後に景行天皇の皇后、八坂入媛の実家とな る(注13) 。飛騨の伝説に、武振熊に敗れた両面宿儺が首を「括り」死んだとあるのは、 菊理媛との関係を暗示したものだというのである。
 また、斎藤氏は、姉小路基綱の和歌裏書に神武天皇云々とあることについて、ナポレオ ンが皇帝即位に際してヴァチカンから法王を招いた例を挙げ、「大和に侵入した神武も初 代天皇を名のるには、必ず盛大な即位式を行ったのであり、その即位を万人に承認させる ための宗教的権威者を要したはずなのである。それは何者だったのか。水無神社の縁起書 によれば、飛騨位山に居を定める両面宿儺、もしくは菊里媛である、ということになる。 当時の日本列島の人々にとって位山の縄文アカデミーの校長は、ナポレオンのヴァチカン 法王クラスの大権威を誇っていたのである。いわば天皇制確立以前の“古天皇”だった」 と述べている。
 吉田信啓氏は創価大学の萩原明教授による「両面宿儺の原形はシュメールの神像にある 」という仮説に基づき、古代メソポタミアはシュメール文明の紀元前二千二百年頃の回転 印章に刻まれた、「前後に顔を持つ」神イシュムドに言及する(注14)。
 イシュムドは水と知恵の神エンキのメッセンジャーだが、その神格は日本神話で出雲の 大国主の助力者とされるスクナヒコナに似ている。また「宿儺」の名はスクナヒコナに通 じるものがある。
 大国主は福岡県宗像の奥津宮(沖の島)の神タギリヒメを妻としており、その実体は「 北部九州から玄界灘、響灘を経て日本海沿岸を北上し、出雲、北陸へと伸びる海上の道を すべて制圧していた海人王朝の王」と見るべきである。
 大国主の海の王朝は西方のシュメール航海民やケルト海洋戦団とのつながりも持ってい た。だが、大和朝廷はその王権を武装解除し、出雲へと押し込めた。以上の考察によって 、吉田氏は宿儺の正体を次のように結論づける。
「飛騨の山奥深くにある深遠な洞窟に祭られている“前後二つの顔を持つ宿儺”とは、近 畿大和朝廷に先行した海人王朝の参謀・スクナヒコナ(少彦名命)を大和朝廷の目の届か ぬ所で密かに祭祀したものであると私は想定する。それはオオクニヌシを出雲大社に祭る ことで、殺戮した前王朝の群衆や軍勢の魂を鎮めようとした近畿大和王権に対する恨みと 復讐の念を新たにし、ひいては滅亡させられたオオクニヌシ海の王朝の再興を祈念する秘 密の祭祀場であった」
 つまり、吉田氏は飛騨と日本海との関係を重視し、両面宿儺に出雲神話の神々の面影を 見ようとするわけである。

 

 

東海系王朝の残光

 

 以上、紹介してきた諸説はいずれもそのまま真に受けるわけにはいかないが、それぞれ 示唆するところは誠に興味深く思われる。特に注目すべきは次の二点であろう。
一、両面宿儺伝説には、中近東・地中海方面の神話に登場する両性具有神・双格神・双面 神などを連想させるものがある(木村・尾関・吉田説)。
二、両面宿儺(と呼ばれた何者か)は、単に飛騨一国のみの存在ではなく、全国的規模の 権力・権威を有し、大和朝廷からも畏怖されていたらしい(坂口・鈴木・斎藤・吉田説)。
さて、坂口安吾は両面宿儺伝説と壬申の乱を結びつけ、尾関章氏はその方向を発展させ たわけだが、私にはこの伝説の根は仁徳のはるか後代の天智・天武朝よりも、安吾がもう 一つの方向として示唆した、景行〜仲哀朝に求める方が妥当と思われる。
『日本書紀』の紀年による仁徳六五年は西暦三七五年、四世紀後半であり、むしろ神功・ 応神の実年代としてふさわしい頃である。タケフルクマが神功元年(二〇一)から、百七 十年以上の時を隔てて現れる矛盾は、両面宿儺退治(のモデルとなった実際の事件)の実 年代を『日本書紀』の紀年にむりやりはめこんだために生じたものであろう。
 そのころ、飛騨に神功、応神らが怖れるようなもう一つの王権が存在した可能性はある だろうか。ありうる。それは景行〜神功の時代に近畿およびその東方を支配した東海系王 朝の後継である。
 私はかつて本来の景行天皇が九州の王だったと思われることを指摘した(注15) 。九州 系景行王朝が神功、応神の時代に畿内に入ったとすれば、それは先述のように四世紀後半 の事件と思われる。四世紀と言えばすでに古墳時代、日本列島各地で大型の墳墓を造るだ けの権力が出現している以上、畿内にも大きな権力中心が存在していたはずである。
 私はそれを九州の景行天皇とほぼ同時代、美濃を経て大和平野に入り、纏向に都を建て た東海地方出身の王の王朝であったとみなす。坂口が両面宿儺の影を見たヤマトタケルは 実は東海系王朝の王と九州の景行天皇の太子の合成人格であり、香坂王・忍熊王は東海系 王朝の最後の王たちであった(注16) 。
 宮崎康平氏は、ヤマトタケルの別名ヤマトヲグナ(記・倭男具那、紀・日本童男)のク ナは河口の水田の意味でヤマトタケルの正体はそのような土地の王だったのだろうという 。また、宮崎氏は出雲神話のスクナヒコナの名も同様の由来だとする(注17) 。スクナヒ コナの名は吉田信啓氏が示唆したように両面宿儺とも通じる。
 あるいはヤマトヲグナ、スクナヒコナ、両面宿儺の名は、『先代旧事本紀』が東海地方 、現在の静岡県磐田市周辺にあったと伝える久努国と関連するものかも知れない。久努国 は天竜川東岸で、河口の水田の国と呼ばれるにふさわしい所である。
 記紀によるとヤマトタケルは伊吹山の山神が降らす氷雨にあたり、病を得て崩じること になる。ヤマトタケルから見れば伊吹山の山神は畿内の東北(鬼門)に陣取る悪神である 。しかし、畿内から見ればヤマトタケル自身が東北から侵入する鬼神であった。伊吹山の 山神には、鬼門に封印された悪神と鬼門を守る神という二面制があり、ヤマトタケルにも 畿内を守護する神人と、畿内に侵攻する禍々しきものという二面性がある(注18)。
 おそらくヤマトタケルの正の面には本来のヤマトタケルと東海系王朝からの視点による 東海の王ヤマトタケルのイメージとが重ね合わされている。そして、その負の面には九州 系景行王朝の視点から見た東海の王ヤマトタケルのイメージが反映しているのだろう。ヤ マトタケルその人がすでに「両面」だったのである。
 ちなみに尾関章氏は飛騨に両面宿儺像を残し、美濃の弥勒寺再興を祈願した円空が伊吹 山に足跡を残していること、伊吹山頂に日本武尊像と共に弥勒像が祭られていることなど から、伊吹山の弥勒信仰と両面宿儺との関係を示唆している(注19)。
 東海系王朝が畿内進出の基地としたのは美濃の泳宮だが、その遺称地、久久利村(現岐 阜県可児郡可児町)は飛騨川の水系で両面宿禰ゆかりの地、丹生川村とつながっている。 記紀ではっきり死んだとされている忍熊王が、越前に逃れたという伝説もあるくらいだか ら、東海系王朝の皇位継承圏を持つ人物が泳宮の縁で美濃へ、そしてさらに飛騨へと向か ったとしてもおかしくはない。
 東海系王朝の王族が飛騨で再起を図った(あるいはそのような噂が流れた)、それが両 面宿儺の正体だとすれば、追討のため、タケフルクマほどの有力な将軍が飛騨の奥地まで 派遣されたのも当然である。
 東海系王朝が滅ぼされた後も、その威光の名残は、勝者の側に潜在的恐怖となってのし かかった。だからこそ彼らはヤマトタケルが伊吹山に阻まれて畿内には帰れないという説 話を作り、また想像の中で両面宿儺のような怪物を生み出してしまったのである。
 また、記紀編纂時に、東海系王朝の存在を隠蔽する方針があったとすれば、その追討譚 が『日本書紀』にのみ、しかも両面宿儺伝説のような奇怪な形でしか残せなかったことも うなづける。なお、両面宿禰伝説の西方的性格は、東海系王朝の文化的背景を考える上で 参考となりうるかも知れない。
 諸先学の奇想に触発されて、私なりの解釈を示してみたが、両面宿儺伝説は思いの他、 根が深そうである。とりあえずはこの辺で筆を置くことにしたい。

 

 

 

1,廣田照夫「異形の鬼神、両面宿儺の敗死」『歴史と旅』平成五年一月号、所収。
2,尾関章『濃飛古代史の謎』三一書房、一九八八年、帯「谷川健一氏推薦」より。
3,梅原猛・岡部伊都子『仏像に想う』下、講談社、一九七四年。
4,原田実「木村鷹太郎の邪馬台国論をめぐって−。かなり埃及−」『古代史徹底論争』 駸々堂、一九九三年、所収、参照。
5,木村鷹太郎『希臘羅馬神話』教文社、一九二六年。
6,坂口安吾「飛騨・高山の抹殺」一九五一年初出、『安吾新日本地理』河出文庫、一九 八八年、所収。なお、この随筆の草稿である「飛騨の秘密」も『安吾新日本風土記』河出 文庫、一九八八年、に収められている。
7,杉本壽『木地師制度の研究』第一巻、清文堂、一九七四年。
8,『竹内文献』とピラミッド日本起源説については拙著『幻想の超古代史』批評社、一 九八九年、『幻想の津軽王国』批評社、一九九五年、およびジャパンミックス編・刊『歴 史を変えた偽書』一九九六年、を参照されたい。
9,鈴木旭『日本超古代遺跡の謎』日本文芸社、一九九一年。
10,山本建造『日本古代正史とその思想・国づくり編』飛騨福来心理学研究所出版部、一 九八九年。
11,前掲『濃飛古代史の謎』。
12,斎藤守弘『神々の発見』講談社文庫、一九九七年。
13,尾関章氏も、前掲書で、菊理媛とは禊ぎを教える水の女で、「くくり」とは水を潜る ことである、という折口信夫の説を紹介し、景行天皇の泳宮伝承との関連を示唆している。
14,吉田信啓『神々の遺産』中央アート出版社、一九九七年。
15,原田実「二つの日向国」『季刊/古代史の海』第十号、一九九七年十二月、所収。
16, 原田実「もう一人の景行天皇」
17,宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社、一九六七年。この著書で宮崎氏はスクナヒ コナを狗奴国王の名のりであるとし、狗奴国=熊本県球磨川河口説をとったが、後の『新 版・まぼろしの邪馬台国』(講談社、一九八〇年)で鹿児島県出水平野説に改めた。
18,原田実『もう一つの高天原』批評社、一九九一年。
19,前掲『濃飛古代史の謎』  

 

 

                       1998  原田 実