インディ=ジョーンズの時代

 

 


 

 

 密林の奥深く、人知れずたたずむ古代の神殿。そこに忍び込む主人公。彼はいくつもの
トラップをくぐりぬけ(その度に遺跡は壊れていく)、ようやく目指す宝物を手にする。
その時、最後のトラップが発動、主人公は命からがらくぐりぬけるが、もはや遺跡はあと
かたもなし・・・ご存じルーカス&スピルバーグの映画インディ=ジョーンズ・シリーズ
のオープニングである。この他愛ない冒険活劇には、「考古学者」に対する一般の人のイ
メージの一面が反映されている。むろん、現代においては少数の遺物を収集するために遺
跡全体を破壊するような発掘は言語道断であろう。しかし、ほんの一昔前まで、それに類
するような発掘調査が行われていたのも確かなのである。

 十九世紀、アジア、アフリカ諸国における考古学的発掘は欧米列強による組織的収奪の
様相を呈していた。白人の考古学者が現地人を指揮して遺跡を掘り返させ、めぼしい物が
出れば手元に持ってこさせる、このようなやり方が学術調査として通用していたのである
。遺跡よりも遺物、生活遺物よりも特殊な宝物の類を重視する偏った態度・・・考古学者
さえこのような有り様では、とても盗掘・乱掘の横行を防ぐことはできない。

 かくして、多くの考古学的史料が遺跡ではなく、骨董屋の店頭で見出されることになっ
た。そこからまた、いくつもの深刻な、あるいは滑稽なエピソードが生まれることになる
。中近東考古学の草創期には、出土時、ほぼ完全形であった石碑が、考古学者たちの手に
渡る頃には巨大なジグソウ=パズルと化していた例がある。考古学者が碑石の断片でも買
ってくれることを知った現地人が、全体の価格を増やすために割ってしまったのである。
また、今世紀の初頭、トルコで古代ヒッタイト帝国の首都ボアズキョイの発掘が始まった
頃、地元の小学校では祖先の栄光を追体験させるため、ヒッタイトの土製品を真似た陶器
を作らせた。それは父兄の手から骨董屋、さらに考古学者の手に渡り、学者たちは古代人
と小学生の作品の区別に頭を悩まされることになった。

 日本においても考古学の揺籃期、骨董屋は発掘現場と同様に、しばしば遺物の供給源と
して重視されていた。そのため、さまざまな悲喜劇を生ずることになったのである。

 

 

有銘銅鐸と中山平次郎

 

 昭和四年(一九二九)、中山平次郎(一八七一〜一九五六)は、『歴史と地理』第二三
巻第六号に考古学界を驚嘆させるような論文を発表した。それが「有銘の銅鐸」である。
中山は同年中に「九州の二銅鐸」(『三宅博士古稀祝賀記念論文集』)「九州に於ける銅
鐸」(『史淵』第一号)とたて続けに、有銘銅鐸に関する論文を発表している。さて、こ
の銅鐸について語る前に一応、中山のそれまでのプロフィルを概観しておきたい。

 中山平次郎は京都で生を享けた。彼は東京帝国大学医科大学を卒業した後、ドイツとオ
ーストリアに留学、帰国後は京都帝国大学福岡医科大学の初代病理学教授に就任する。

 中山を迎えた福岡の地は、「漢委奴国王」の金印をはじめとして、古代の遺跡・遺物に
恵まれた処であった。東京帝大時代、日本考古学の祖の一人、坪井正五郎から薫陶を受け
ていた中山は、明治三九年(一九〇六)の教授就任直後から、現地の遺跡を調べはじめた
。その中でも、特に彼の目を引いたのは、福岡県筑紫郡春日村(現春日市)の須玖岡本遺
跡である。話は明治三二年まで遡る。須玖村字岡本の住人・吉村源次郎は家屋新築のため
、親戚の若者三人に頼んで、敷地内の大石を動かした。春日村といえば、江戸時代から地
中の青銅器出土で知られたところである。また、その大石は古くから村の人々に神聖視さ
れていた。ひょっとすると石の下に何か埋まっているかも知れない。好奇心にかられた若
者たちは石の下の土にスコップを入れ、掘り始めた。そして、底に朱の溜まった、素焼き
の大きな甕を見つけたのである。甕の中からは青銅製の何かが大量に出てきたが、それは
正体を確かめるいとまもなく、発掘の衝撃でバラバラと崩れてしまった。若者たちは始末
に困り、それを埋め戻した上で、近所の僧侶に供養してもらった。この甕が、実は北部九
州の弥生文化を特徴付ける甕棺だったことは言うまでもない。

 その遺跡を一般に紹介したのは、八木奘三郎(一八六六〜一九四二)の『考古便覧』(
明治三五年)であった。しかし、その反響は、考古学界よりもまず、好事家やその受容に
応える骨董屋の間に現れた。彼らは遺跡を訪ねて、めぼしいものを浚い、鏡片などを近所
のゴミ捨て場などに散乱していったのである。この状況に驚いた中山は、遺跡の盛り土や
ゴミ捨て場を丁寧に探し、あるいは持ち去られた遺物を追跡し始めた。さらに大正十一年
(一九二二)には、最初に遺跡を発掘した若者(もはや中年に差し掛かっていたが)三人
と出会い、くわしい出土状況を聞くことも出来た。中山が復元した須玖岡本遺跡出土の銅
鏡は三三もしくは三五面にものぼった(「須玖岡本出土の鏡片研究」『考古学雑誌』十八
巻十号、十一号、十九巻二号、昭和三〜四年)。

 また、大正時代の考古学界では、先史時代を石器時代と古墳時代とに二大別する考え方
が主流であった。ところが大正六年から七年にかけて、中山は論文「九州北部に於ける先
史原史両時代中間期間の遺物に就て」(『考古学雑誌』七巻十号〜八巻三号)を発表し、
古墳時代より前、石器と金属器を併用する時代があったという説を唱えた。また、中山は
さらに大正八年、糸島郡の御床松原時代で、中国は新代(八〜二三、貨銭鋳造の開始は十
四年)の貨銭を発見し、この中間時代が西暦一世紀頃を含むことを示した。

 中山のいう中間時代は京都帝大教授の浜田耕作(一八八一〜一九三八)によって「金石
併用時代」と命名され、さらに昭和八年(一九三三)には、森本六爾(一九〇三〜一九三
六)の『日本原始農業』によって、金石併用時代は我が国農耕文化の幕開けであり、弥生
式土器こそこの時代の土器であるという理解が定着する。かくして、かつて石器時代と一
括されていた時代は、土器の様式から縄文時代と弥生時代に大別されることになるのであ
る(ちなみに日本列島での旧石器時代が学界で認められたのは昭和二十年代以降である)
。そして、須玖岡本遺跡は弥生時代(金石併用時代)の代表的な指標遺跡となった。

 こうしてアマチュアながらも考古学者として、すでに大きな業績を挙げていた中山の元
に、福岡市在住の新保喜三から、「珍しい銅鐸を見つけた」という知らせが届いたのは昭
和四年の四月のことであった。新保は自らもかつて骨董商を営んでおり、古い物の目利き
で知られる人だった。彼は佐賀の骨董屋から買った一口の銅鐸に銘文らしきものがあるこ
とに気付き、中山の鑑定を求めることにしたのである。

 その銅鐸を見た中山は、それが二つの点で特異なものであることを知り、狂喜した。そ
の一つはその銅鐸が発見されたという場所である。新保が骨董屋から聞いた話では、その
銅鐸は平戸方面から出て、長崎へ行ったものだという。しかし、当時、銅鐸が九州から出
土したという事例は一つも知られていなかった。
「学界周知の如く、銅鐸は安芸及び石見以西から未だ一口も出ぬといはれて居る遺物であ
るから、或は昔日平戸方面の人に買取られて居た品であるやも知れぬが、案外これが平戸
方面の出土であるやも保し難いのである」

 中山はこの直後、福岡市の崇福寺で安政四年(一八五七)、博多から寄進されたという
袈裟襷流水紋の銅鐸を見出し、銅鐸文化が九州にも及んでいたという確信を深めていく。
しかし、中山にとって、この発見場所以上に重要と思われたのが次の問題である。その銅
鐸の内側には七・五センチにわたって、縦書きに文字が書かれていたのである。その銘文
は「子子孫孫□」の五文字。中山は五字目を「寶」と推定した。その文字は銅鐸表面の流
水紋と同様、鐸身から盛り上がっており、後に刻み込んだ物ではありえなかった。

 中山はこの有銘銅鐸の発見から、銅鐸製作者は漢字使用者でもあったと唱え、喜田貞吉
(一八七一〜一九三九)の秦人説に賛意を評したのである。

 

 

喜田貞吉の秦人説

 

 喜田貞吉は元京都帝国大学教授、有銘銅鐸発見当時には東北帝国大学教授兼京都帝大講
師として忙しい毎日を送っている。当時、銅鐸製作の時期やその主体となった民族につい
ては諸説が乱立しており、未だ決着がついていなかった。鳥居龍蔵のインドシナ民族説、
高橋健児の南鮮経由渡来説などの外来説も有力視されていたのである。その中で喜田は大
正二年の「本邦に於ける一種の古代文明」(『郷土研究』二号)以来、一貫して、秦人説
を唱えていた。喜田は、梅原末治(一八九三〜一九八三)の著書『銅鐸の研究』(昭和二
年)に序文を寄せ、秦人説を次のように概略している。
「所謂秦人は、太古朝鮮半島から我島国に大挙移民した秦韓人の末で、日槍伝説はたまた
ま其の片鱗を古代説話の上に止めたものであり、銅鐸は彼等が遺した唯一の記念品である
と信ずるものである」

 喜田によると、銅鐸が地中に埋納された理由は、秦人が後の日本民族との闘争に敗れ、
奴隷の境遇に落伍したためであるという。喜田は昭和十二年においても、『考古学雑誌』
に「銅鐸民族研究の一断片」と題して、同様の主張をくりかえしており、彼の説が生涯変
わらなかったことがうかがえる。もっとも、梅原は、『銅鐸の研究』緒論において、先学
の「遺物それ自体の基本調査及び考究」よりも「歴史的若しくは人類学的」に傾いた研究
態度を批判したのみならず、むしろ、銅鐸を「金石併用期の文化状態」における「後の大
和民族の大本を形成する民衆の所産」(『考古学雑誌』第十四巻一号)とみなしていたの
だから、喜田の『銅鐸の研究』序文はいささか皮肉な内容となってしまっている。

 さて、銅鐸が秦人すなわち秦の流民の作だとすれば、そこには中国文化の影が色濃く現
れているはずである。となると、そこに漢字の片鱗も見えないのは不可解ということにな
る。喜田の秦人説にとって、その点は重大なネックとなっていた。中山の私信による有銘
銅鐸発見の知らせは喜田をも大いに喜ばせることになった。

 中山から喜田に送られた銘文(写真)の書体は、中国の金石文とは異なっていたが、そ
れも喜田にいわせれば「それが先秦代においてシナ人の手になったものではなく、後にわ
が邦における秦人の手になったという自分の持説からこれを見ると、かえって都合がよい
のである」ということになってしまった(『喜田貞吉著作集』第十四巻、平凡社)。

 喜田はさっそく五月二六日の第三四回考古学会総会で「其の後の銅鐸に関する新発見に
就いて」と題する講演を行い、中山の新発見を報じた。

 そのため、その年の六月、『歴史と地理』に、中山自身による正式な報告が掲載される
や、『大阪毎日新聞』などのジャーナリズムもこの発見を大きく取り上げ、ついに有銘銅
鐸は一大センセーションを引き起こすにいたったのである。

 

 

森本六爾の解明

 

 だが、学界には、この騒ぎを冷静に見据える人々もいた。当時、東京帝大助教授だった
原田淑人は、古びた漆の字はちょっと目には陽鋳されたものと見分けがつきにくい、と喜
田に指摘したが、喜田は中山の鑑定眼を信じ、この忠告に耳を貸そうとはしなかった。

 当然、中山の耳にも、有銘銅鐸へのさまざまな疑問の声は届いてはいたが、「学者中に
はこれに対して疑を抱いて居らるる方もあるやに承るが、それは実物を御覧にならぬから
であらう」(「九州の二銅鐸」)と意に介さなかった。

 しかし、この事件は結局、昭和四年の内に落着した。ここに登場するのが、当時二六才
の俊英・森本六爾である。当時、三宅米吉博士の下、東京高等師範学校に副手として務め
ていた森本は、この有銘銅鐸に疑問を持った。そこで九州に出張し、現物を調査すること
にした。森本が中山と初めて会い、その足で有銘銅鐸の下に案内されたのは、八月十四日
の午後のことだった。白崎昭一郎氏による評伝小説『埋もれた王国』(一九七七年、大和
書房)が有銘銅鐸の正体が暴露された瞬間を生き生きと描いているので、少し長くなるが
、引用したい。
「初対面の挨拶がすむと、中山は直ぐ森本を促して、かの銅鐸を所有している真保家(原
田註−新保家のこと、ただしこの時期、実際には有銘銅鐸は新保家から深見平次郎宅に譲
られていた)に案内した。来訪の目的はすでに書面で知らせてあった。

 森本は銅鐸を眼の前にして、ふっと息を吸い込んだ。普通の流水文で、鋳造はきわめて
精巧に出来た逸品である。銅鐸自体には怪しむべき点は少しもない。

 問題の銘は、その内面、正中線に近く、下縁から約十七糎の所から始っている。森本は
指でその銘文の上を丁寧に撫でてみた。宛かも盲人が点字をまさぐって判読する時のよう
に、森本は全神経を指頭に集中して、浮彫になった五文字を何回もさすっていた。
(たしかに違う)と森本は心に思った。銅鐸の地金である青銅の硬く冷い感触とは違った
ものが、その銘文の部分から感じられたのである。

『拓本を取らせて頂いてよいでしょうか』

 森本は所有者の真保と、中山の両方に訊ねた。

『いいでしょう』

 森本は拓本をとる時、わざとたっぷり水を含ませ、ゆっくりと時間を掛けて作業を行っ
た。手拓が済んでから、指で軽くこすると、一部が微かに崩れてくるようであった。森本
はその部分を中山にも触ってもらった。

『これはおかしい』

 中山の面上に動揺の色が走った。

『これは、字の端の方をやすりで擦ってみた方がよいようですな』

 森本が所有者の真保に、それとなく悟らすような提案をすると、幾分顔色の蒼ざめた中
山が同意するように肯いた」

 銅鐸の銘文は、やはり出土後、何者かが漆で書き加えたものだったのである。森本によ
り、中山の鑑定は誤りであったことが明らかになった。しかし、中山の研究者としての真
骨頂はここから現れる。中山は年少の森本に対して、圧力をかけることも、反論や弁解を
することもなく、真実を公表するにまかせたのである。

 九州から帰った直後、恩師にして庇護者であった三宅博士の死により、森本はその職を
失う。だが、彼は貧しさと戦いつつ、翌年一月に雑誌『考古学』を創刊。その第一号に発
表した「所謂『有銘銅鐸』の調査其他」で、有銘銅鐸事件は「骨董商の単なる奸計に過ぎ
なかつた」との見解を明らかにした。

 有銘銅鐸はその後、紆余曲折を経た末、兵庫県西宮市の辰馬考古資料館に収められ、昭
和六十年には、保存状態の良好さから重要文化財の指定を受けた。森本は銘文を書き込ん
だ人物を「骨董商」としたが、実際には原田淑人が推定したように、最初の発掘者が記念
して書き入れたのかも知れない。いずれにしろ真相は今では藪の中である。

 玉利勲氏はこの顛末について次のように述べている。
「結局、一九二九年の考古学界に一時期大きな波紋を投じた有銘銅鐸事件は、当時、わが
国の銅鐸研究がなお初期の段階にあったがゆえに、はじめて起こり得た出来事であり、も
はや学史のささやかな断片にしか過ぎない、ともいえるであろう。だが、事件の経緯を細
かく追い求めているうちに、これは考古学という舞台の上で中山平次郎・喜田貞吉・森本
六爾など当時の名だたる人物が登場して演じられた一編のドラマとも思われてきた」(玉
利『墓盗人と贋物づくり』平凡社)。

 それから、中山は有銘銅鐸事件の打撃にめげることなく、北部九州の考古学的調査を続
け、原田大六という良き後継者を得ることもできた。喜田貞吉も有銘銅鐸の顛末には拍子
抜けしたものの終生、秦人説を捨てることはなかった。森本は、その有り余る才能で考古
学に一時代を画するほど業績を上げながら、経済的苦境と生来の狷介な性格のため、学界
に所を得ず、三二才にして急逝する(その生涯は松本清張の小説『断碑』のモデルとなっ
た)。そして、彼らの内、中山は次に演じられたドラマでも重要な役を務めるのだ。その
主役となったのは、有銘銅鐸事件で脇役の一人となった梅原末治である。

 

 

謎のキ鳳鏡

 

 昭和三四年、梅原末治は自ら主宰する古代学協会の機関誌『古代学』八月増刊号にある
論文を発表した。それが「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古田武彦編『古代史徹
底論争』駸々堂、平成五年、再録)である。

 梅原は、この論文においてまず、須玖岡本遺跡の鏡が、「それ等を副葬していた甕棺墓
の年代を推す拠点となる点」で重要であることを述べ、鏡片を収集・復元した中山平次郎
の功績を讃える。そして、その上で、次のような疑義を述べるのである。
「かくて前漢代の鏡式たることの明確になつた多数の須玖出土鏡のうちにあつて、早くか
ら知られていた1面のキ鳳鏡のみは、可なり他と異なる鏡式で寧ろ後漢のものとも見える
ふしがあつた。然るにこれが其後に於ける関係資料の検出と、中国古鏡鑑研究の進歩に依
つて、新たに後漢の後半の遺品であることが確かめられるようになつた。多数の須玖の出
土鏡の中に時代の下る後漢後半の鏡を含むと云うこの事は、一方の三雲の出土鏡のうちに
、時代の遡る戦国の鏡式の存する点をはじめ、三国時代の三角縁神獣鏡を主とする近畿を
中心とした古式古墳の出土鏡に、四神鏡・内行花文鏡等が並び副葬されている場合の少く
ないことなどからあえて異とするに足りない。併しこれを蔵した遺跡の実年代の点からは
それに依つて上限が後漢中葉以前に遡り得ないことになる。概往の所謂『弥生式文化』の
年代観が三雲・須玖出土鏡が前漢の鏡式とするところに一つの大きな拠所がある実情から
すると、此のキ鳳鏡の年代観は重要な意味を持つわけである」

 キ鳳鏡とは鳥文を特徴とする様式の鏡であり、中国の漢・三国時代の産物とされる。梅
原は、須玖出土とされるキ鳳鏡について、それが後漢後葉以降の物だとする。この認定が
正しければ、それまで伴出鏡から前漢代もしくはその直後とされていた須玖式甕棺(森本
六爾の命名による)の年代が後漢後半以降に下ることになる。そして、それは弥生時代の
編年全体を下らせることにつながるのである。

 梅原は、その鏡が世に出た経過を次のようにまとめる。
「さてこの鏡は須玖出土の鏡として最も早く紹介されたものの一つである。元来須玖大石
下の遺構とその出土品に最初注意を向けたのは、遺跡が発見されて後間もない明治35、36
年の頃にその地を訪れた故八木奘三郎氏であつた。そして出土の古鏡についても氏の『考
古精説』の鏡の条に百乳星雲鏡のやや大きな破片(原物いま所在不明)を掲げている。と
ころでこのキ鳳鏡は明治の末年に故白鳥庫吉博士の慫慂で、つづいて遺跡を調査した古谷
清氏が、その後『鹿部と須玖』なる論文を書いた際、はじめて挙げたものである。古谷氏
は同遺跡を訪れた際、手に入れた若干の鏡の破片−これは同時に得た玻璃璧の破片等と共
に其後東京大学文学部の考古学標本室に保存されたが、大正12年9月の大震災で失われた
−と共に、当時二条公爵家の経営していた銅駝坊陳列館に収蔵されていたこのキ鳳鏡片が
同じく須玖の出土品たることを知つて著録したのであつた。但し、古谷氏がこの鏡を載せ
ながら、氏の蒐集品たる東京大学に蔵されていないことは、以前に二条家の有に帰してい
たことを示すものであり、その来歴としては最初に遺跡を訪れた八木氏が上記の百乳星雲
鏡片と共に齎し帰つたものを昵懇の間柄だつた野本完一氏の手を経て、同館の有に帰し、
その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が須玖
出土品であることには、殆んど疑をのこさない」(『考古精説』は『考古便覧』の再刊版
、また「鹿部と須玖」は『考古学雑誌』第二巻三号、明治四四年、所収)

 梅原はさらに、鏡片の銅や銹(緑青)の色、あるいは補修前に水銀朱が付着していたと
いうことからいって、キ鳳鏡が須玖大石の下(現在では須玖岡本D号遺跡と呼称される)
から、他の三十余面の鏡片と共に出たことは間違いないとする。

 かくて彼はその鏡片の出土場所を断定した上で問題のキ鳳鏡そのものの鑑定にとりかか
る。梅原はかつて須玖出土諸鏡の総括的記述(「須玖岡本発見の古鏡に就いて」島田貞彦
・梅原末治『筑前須玖史前遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告、昭和五年、
所収)において、キ鳳鏡の年代を漢代とし、強いて他の鏡の年代より下らせるには及ばな
いとしたが、その後、二点ながら紀年のあるキ鳳鏡の出土が報告された。その年代はそれ
ぞれ永嘉元年(一四五)と元興元年(一〇五)でいずれも後漢代である。

 構図などにキ鳳鏡と共通点のある獣首鏡には紀年鏡の現存品が多い。その年代は永寿二
年(一五六)から後漢後半の各年号を含み、三国・魏の甘露四、五年、すなわち三世紀の
後半にまで及んでいる(甘露四年は二五九年)。

 また、朝鮮半島では、後漢末の帯方郡郡治と思われる黄海道鳳山近くの古墓からキ鳳鏡
の破片が出土しており、さらに日本列島での出土例では「単独出土の場合をのぞくとすべ
て今では鋳造年代が三国を中心とした時期にあることの確かな三角縁神獣鏡類と一所に副
葬されている」とする(当時、三角縁神獣鏡は魏鏡として疑われていなかった)。

 梅原はさらにキ鳳鏡の年代を特定できる「直接的な新知見」として、「印度支那のゴ・
オケオ遺跡出土品」を挙げる。オケオは、ベトナムのサイゴンに近い海港跡であり、一〜
六世紀頃、メコン川流域に栄えた扶南国の貿易拠点だったと思われる。

 梅原によれば、そこから出土したキ鳳鏡片は、伴出したローマ貨幣から二世紀中葉のも
のと特定できるというわけである。梅原はこの論文を書く数年前、パリのギメー博物館を
訪れ、その出土品を実見したという。

 この時代、日本人の外遊は未だ困難であった。また、当時、梅原が七〇歳の坂へと差し
掛かろうとしていたことを思えば、その学問への情熱には敬服せざるを得ない。

 梅原はこの論文を書くまでに百面近くものキ鳳鏡を見た。それらについて、古鏡一般の
鏡体(特に鈕、縁)の変化に照らしあわせて編年すると、その中には前漢以前に遡る作例
は一つも見出せなかった。
「それ等の大半は上記後漢の中葉に当る整つた式であり、うちに鈕の完好な円形のものと
、その上に獣形などの鋳出されたものとある。・・・西紀前後の鏡は平縁で、鈕は完好な
半球形に近く面の反りがさほど目立たないものであるのに対して、後漢の中葉以降になる
と、ここに問題としているようなものと、外縁が複雑化したものとが並び見られる。それ
等がまた面の反りを加えると共に、うちに鈕上に獣形其他の図様を鋳出した例が少なくな
い。そして漢末から三国を中心として一部両晋に及ぶ時代の鏡例では、面の反りが大きく
、また鈕が扁平の大形なものが多い。さればこの面からもキ鳳鏡が後漢の鏡式の一であつ
て、西紀2世紀の初に既に整形のものが存し、それから2、3世紀に亙つて、上に挙げた
ように鈕形や文様が便化して行つた」

 梅原は以上のようにキ鳳鏡編年の方針を定め、さらに、そこから伝須玖出土のキ鳳鏡を
検討して「鋳造の実年代は当然後漢の後半、如何に古くとも2世紀の後半を遡り得ない」
とみなす。そして「須玖遺跡の実年代は如何に早くとも本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡
り得ず、寧ろ3世紀の前半に上限を置く可き」と結論付けるのである。

 梅原はこの論文を著す七、八年前、すでに以上のような結論を得て、日本考古学会の総
会で講述したという。その際、「問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑ひ、更に古代
日本での鏡の伝世に就いてさへそれを問題とする人士」さえあった。

 しかし「終戦後に於ける各地での活発な学術調査の実施に伴うて、日本各地の古墓での
副葬鏡に就いても多くの新事実が確かめられ」それを踏まえた上でこの論文を著したとい
うわけである。

 

 

中山平次郎の疑問

 

「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(以下、「キ鳳鏡」論文)は異様な迫力を持った
論文である。その筆致からは梅原がこの論文に注いだ熱意が直に伝わってくる。だが、こ
の論文の結論は結局、学界の趨勢に影響を及ぼすことはなかった。

 そして、これへの反論が世に出るのはようやく十年後、しかもそれはアカデミックの立
場からではなく、在野の研究者・原田大六によってなされたものだった(『邪馬台国論争
』三一書房、昭和四四年)。

 原田大六は「キ鳳鏡」論文に対して、次の三つの疑問を提示する。
1,そのK鏡(キ鳳鏡)が須玖岡本の王墓出土というのは間違いはないか。
2,他の鏡を副葬していた弥生墳墓でも梅原発言が証明されるか。
3,弥生墳墓出土の鏡の編年に混乱が見受けられるか。

 そして、そのそれぞれについて次のような回答を準備したのである。
1への回答「須玖岡本の王墓出土の鏡復原に心血を注いだ中山平次郎の談話によると、そ
のK鏡が須玖岡本の王墓出土品ということには、はじめから疑問があったという。須玖の
名前が有名になると同時に、骨董屋などが介入して、他の遺跡出土品をあたかも須玖から
出土したように見せかけ、言葉巧みに二条家に売りこんだものらしい」

2への回答「現在まで北部九州の甕棺に鏡を副葬していたのは十八例知られているかこれ
らのものは、前漢に属する鏡は中期(須玖式)の甕棺に、漢中期の鏡は後期前半(神在式
)の甕棺に納まっていて、梅原発言のような混線は見受けない」

3への回答「洛陽焼溝で判明した鏡の編年と、北部九州の弥生墳墓副葬送の鏡の編年はほ
ぼ一致していて、いずれも秩序が保たれている。須玖岡本の王墓の、ただ一枚のK鏡だけ
が混入物であることはこのことでも証明される」

 この内、実は2と3の論点は梅原にとって重要なものではない。2についていえば、梅
原は須玖式甕棺の年代を繰り下げ、ひいては弥生文化の編年自体を変えようとしているの
だから、通説と食い違うのは当然である。また、3についても、梅原はキ鳳鏡以外の鏡を
すべて伝世と考えていたのだから、中国での出土より年代が下るのは当たり前である。

 もっとも、梅原がどう考えていたにしろ、原田大六の論点が鏡の研究者の間で、今なお
有効と見なされていることは、高倉洋彰氏の次のような記述からも察することができる。
「(中山、梅原の須玖出土鏡復元に関する概説を受けて)なお、両氏の復元面数にはキ鳳
鏡一面が含まれているが、中国日本両国における同鏡の出土時期からみてこれが伴出する
可能性はない」(「福岡県 須玖・岡本遺跡」佐原真・工楽善通編『探訪弥生の遺跡 西
日本編』有斐閣、昭和六二年)

 さて、問題は1の論点である。そもそも中山平次郎が自ら現地で蒐集した須玖出土の鏡
片の中には、問題のものと同様のキ鳳鏡は含まれていない。しかも、出土鏡のすべては様
式的に前漢代の鏡と目されるものであり、梅原が考証したようにキ鳳鏡が後漢代以降の様
式となれば、それが一面だけ混入するのはかえって不自然である。

 須玖岡本遺跡について、もっともよく知っている人物の一人であった中山が、キ鳳鏡の
存在を疑っていたという証言は重要だろう。そして、その証言者は中山の後継者として自
他ともに許す所の原田大六なのだ。あるいは「骨董屋」云々と語った時、中山の脳裏をよ
ぎったのは、有銘銅鐸事件の苦い回想だったのかも知れない。

 梅原もキ鳳鏡には混入の疑いがあるという声があることは知っていた。しかし、彼は決
してそれを認めようとしなかった。梅原が「問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑ひ
」云々と書く時、その念頭にはあるいは中山の存在があったのだろうか。
「キ鳳鏡」論文が掲載された『古代学』増刊、それは昭和三一年に世を去った中山への追
悼号だったのである。

 

 

黙殺も一つの対応

 

 「キ鳳鏡」論文の理路は次のような三段論法に整理できる。
大前提,問題のキ鳳鏡は須玖岡本D号遺跡からの出土品である。
小前提,キ鳳鏡は後漢以降の様式であり、特に伝須玖出土のものは二世紀後半以降のもの
    とみなされるべきである。
結論,したがって、須玖岡本D号遺跡の年代は二世紀後半以降である。
 この内、小前提については、『銅鐸の研究』に見られる如く、「物それ自体」にこだわ
ってきた梅原の本領が大いに発揮されている。それまで漠然と漢〜六朝時代の鏡式とされ
てきたキ鳳鏡を、後漢〜魏晋代に位置付けたのは、梅原論文の重要な成果であり、その意
義は今も失われてはいない。

 しかし、ひるがえって大前提を検討する時、私はその意外な脆弱さに驚かざるを得ない
のである。

 たしかに「キ鳳鏡」論文には、キ鳳鏡が二条家の有に帰するまでに関与した(あるいは
関与したとされる)人名が挙げられている。ところがその中で、証人として最重要の位置
にある人物、すなわち発見者と目される八木奘三郎は、論文執筆の時点ですでに故人なの
である。『考古便覧』に問題のキ鳳鏡に関する記載がない以上、それが本当に八木の発見
によるものか、確認のしようがない。古谷清にしても、その鏡を須玖出土とみなした根拠
は伝聞によるものであった(古谷「鹿部と須玖」、なお、この点については白崎昭一郎氏
も指摘している。白崎「平原遺跡と三角縁神獣鏡」『古代史徹底論争』所収)。

 しかも、八木よりも綿密に遺跡を調査した中山も最早この世にはいない。意地の悪い言
い方をすれば、梅原論文は、まさに「死人に口なし」状態の下で書かれていた。

 結局、キ鳳鏡を須玖出土と認める最終的な根拠は銹の色合いなどという梅原の主観的判
断に求められているのだ。大前提がこうもあやふやでは、そこから結論を導くのは無理だ
ろう。弥生時代編年の定説をくつがえさんとする梅原の意気込みもむなしく、学界は当初
、黙殺を以て梅原論文に応えた。この場合、黙殺もまた一つの対応なのである。

 さて、梅原論文が書かれた当時、北部九州での鏡の大量出土といえば、須玖岡本遺跡の
他には福岡県糸島郡の三雲井原遺跡くらいしか例がなかった(糸島郡・平原遺跡の発見は
昭和四一年)。しかも、三雲井原遺跡の発掘は江戸時代であり、近代考古学の移入以前の
話である。須玖岡本遺跡も前述した如く、もともとは考古学の素養がない人物が偶然見つ
けたもので、正規の発掘による発見ではなかった。

 ところが昭和三八年から四〇年にかけて、福岡県飯塚市の立岩遺跡で行われた発掘調査
では、須玖式を含む甕棺群から前漢鏡が合計十面も発見されたのである。その発掘調査の
報告書には次のように記されている。
「(伝須玖出土キ鳳鏡について)K鏡は後漢末期に盛行したものであり、この鏡だけ、他
の鏡とは異質である。二条家に入る時に須玖岡本出土の所伝があり、これに加えられたの
であろう。須玖岡本は弥生時代各時期の墓葬があり、かりに須玖岡本出土としても、地点
を異にしているものだと思う」
「(須玖岡本D号遺跡出土の前漢鏡について)これらは立岩の出土品と共通している。い
ずれも洛陽焼溝漢墓第二期のものであり、埋葬の年代は立岩とさほどかわるところがない
と考える外はない」(岡崎敬「鏡とその年代」福岡県飯塚市立岩遺跡調査委員会編『立岩
遺跡』所収、河出書房新社、昭和五二年)。

 立岩遺跡の重要な意義、それは明確な出土状況の下、須玖式甕棺およびその直後と思わ
れる時期の甕棺(立岩式)と前漢鏡の伴出が確認されたことである。これは図らずも「キ
鳳鏡」論文に対する反証となった。

 かくして、キ鳳鏡の亡霊は須玖岡本D号遺跡から追い立てられていったのである(半沢
英一氏は梅原の説が昭和三四年以降、北部九州での度重なる発掘という「追試」によって
否定されたことを指摘する。「邪馬壹国は結局どこにあったのか」『市民の古代』第十六
集、平成六年)。

 なお、近年、すでに眠りについていたはずの伝須玖出土キ鳳鏡の亡霊をよみがえらせよ
うとする動きがある。

 元昭和薬科大学教授の古田武彦氏はその著書『よみがえる九州王朝』(角川書店、一九
八三年)において、梅原の「キ鳳鏡」論文を根拠に、須玖遺跡は三世紀のものだと主張し
た。古田氏は邪馬壹国(邪馬台国)博多湾岸説をとっているが、邪馬壹国が存在したはず
の三世紀(弥生後期〜古墳草創期)について、八十年代初頭の時点、博多湾周辺では、ま
だめぼしい遺跡が見つかっていなかった。そこで、古田氏は梅原の権威を利用して、須玖
遺跡を邪馬台国時代のものだと強弁しようとしたのだ。

 しかし、古田氏がいかに無理を通そうとしても、議論の趨勢はかえって伝須玖出土キ鳳
鏡が須玖岡本D号遺跡からの出土物ではありえないという結論を強化する方向で展開しつ
つある。その問題については改めて後述したい。

 

 

「キ鳳鏡」論文の論理性

 

 さて、古田氏は「キ鳳鏡」論文について、梅原が北部九州の王墓(三雲井原、須玖岡本
など)の年代を三世紀頃としながら、邪馬台国畿内説を唱えたのは矛盾していると批判し
た。つまり、三世紀の北部九州に王墓の存在を認める以上、邪馬台国も九州に求めるべき
だったというわけである(『よみがえる九州王朝』)。

 しかし、梅原の業績を概観してみる時、その批判は的外れだという印象を受けざるを得
ない。

 そもそも糸島半島や福岡平野に三世紀の王墓を認めたとしても、梅原には畿内説を改め
る必要はなかった。それらの地には魏志倭人伝に一大率の拠点と記された伊都国や、戸数
二万の大国と記された奴国があったはずである。また、この当時、邪馬台国九州説の論者
から有力視されていたのは筑後国山門郡と肥後国山門郷であり、糸島平野や福岡平野に邪
馬台国を求める論者は未だなかったのである。

 伝世鏡といえば、現代の私たちはまず小林行雄(一九一一〜一九八八)の有名な同笵鏡
論を思い出す(『古墳時代の研究』青木書店、昭和三六年、『古鏡』学生社、昭和四〇年
)。しかし、鏡の伝世というアイデアを最初に提出したのは、京大考古学教室における小
林の先輩であり、上司でもあった梅原その人である。

 昭和初期まで、古墳に埋納された鏡の年代は、即、その古墳が作られた年代を示すとい
う理解が普通であった。そのため、後漢代の鏡が出土した古墳を一、二世紀の築造とみな
すということもしばしば行われていたのである。

 ところが梅原は『讃岐高松石清尾山石塚の研究』(京都帝国大学文学部考古学研究報告
、昭和八年)で、古墳にはその築造年代よりも古い鏡が埋納される可能性があることを指
摘した。そして、論文「上代古墳出土の古鏡に就いて」(『日本考古学論攷』所収、昭和
十五年)で、古墳から漢鏡が出る場合、そのほとんどすべてが三角縁神獣鏡と伴出するこ
とから、魏晋代、鏡の輸入が本格化して以来、それまで伝世していた鏡を副葬品とする習
慣が生まれたと論じたのである。

 また、古墳築造そのものも鏡の副葬と同時期に始まったとみられることから、古墳時代
の開始も魏晋代、三世紀のこととみなされるようになった。当初、梅原の伝世鏡説は後藤
守一らの批判を被ったが、間もなく通説化するに至る。時に梅原は四六歳、前年昭和十四
年七月に京都帝国大学教授に昇任したばかりであった。

 しかし、鏡の副葬開始を魏晋代に設定してしまうと、目障りになるのは、北部九州の弥
生遺跡、特に須玖岡本と三雲井原である。これらの遺跡をも魏晋代のものとすると、先学
たちと共にそれまで営々と築いてきた弥生時代の枠組みを崩さなければならない。自らの
伝世鏡の論理を一貫させるべきか、弥生時代の枠組みを守るべきか、梅原は昭和三四年に
至り、ついに前者の道を選ぶことにした。彼の決断をうながしたもの、それが何だったの
かについては後に考察することにしたい。

 昭和三八年、梅原は「銅鐸攷」(『考古学雑誌』第四八巻三号)で、弥生文化の後半と
古墳文化の前半は年代的に重なるとし、銅鐸の一部は古墳時代の所産であると説いた。

 穴沢★光氏はこれを「大正時代のままの大時代的な学説」と評する(「小林行雄博士の
軌跡」角田文衛編『考古学京都学派』雄山閣出版、平成六年、所収)。しかし、この説は
実は畿内の初期古墳と九州の須玖式甕棺を共に魏晋代の遺跡とするところから、論理的に
導かれる結論でもあった。

 以上、見てきたように「キ鳳鏡」論文は梅原の業績において、しかるべき位置を占める
ものであり、決して他との論理的整合性を欠いているわけではない。梅原の年代観では、
魏晋代、北部九州で漢代から大事に伝世してきた鏡ばかりを副葬しているのに対して、畿
内では新来の魏晋代の鏡を惜しげもなく埋めていることになる。したがって、「キ鳳鏡」
論文の論旨は、むしろ邪馬台国畿内説を補強するものなのである。

 

 

小林行雄との葛藤

 

 昭和十二年、濱田耕作は京都帝大総長に選ばれ、考古学教室を離れた。濱田は考古学高
座の後任として、西域史の羽田亨に兼任を依頼した。しかし、業績と能力からいって、や
がては梅原が後継者となるであろうことは衆目の一致するところであった。

 だが、濱田は、人の和をかえりみない梅原と他の研究員との軋轢を恐れていたという(
穴沢★光「梅原末治伝」『考古学京都学派』所収)。昭和十四年、濱田が世を去り、梅原
が教授に昇任して後、濱田の不安は現実のものとなる。梅原は、末永雅雄、三森定男、角
田文衛ら多くの研究員たちと葛藤を引き起こしてしまったという。彼らの多くは昭和二十
年頃までに京大を去り、それぞれ独自の地歩を築くことになる。いきおい、梅原はあえて
京大に止まった研究員・小林行雄を酷使することになり、小林の方でも、ただでさえ人付
き合いの下手な梅原への不満をつのらせていった。

 昭和二十年という年は梅原の研究にとって一大転機となった。戦時中、梅原は日本の大
陸侵攻にそって朝鮮、中国、ベトナムと発掘のテリトリーを広げていった。ところが敗戦
により、彼は大陸での発掘の新たな機会を失ってしまったのである。

 さらに昭和二三年、生来、体の弱かった梅原は肺結核に倒れ、一年あまりの療養を強い
られた末、回復後も発掘現場から遠ざからざるをえなくなった。大陸ばかりか、国内での
発掘の機会をも失った彼の学風に大きな歪みが生じる。

 もともと、梅原の学風は出土品の「物それ自体」を重視するものであり、出土状況など
を軽視するきらいがあった。敗戦と病弊で、その傾向にいっそう拍車がかかり、梅原はひ
たすら遺物の収集・整理・記録に血道を挙げるようになる。そのため、骨董屋への依存も
次第に高まることになった。

 一方、小林は考古学の立場から社会構造の変遷を明らかにするという意欲的な研究を重
ねていた。それは後年、『古墳時代の研究』をはじめとする一連の業績に結実することに
なる。このような梅原、小林、両者の学風の違いは、やがて両者の人間関係にまで反映し
ていく。

 ついに昭和三九年、梅原が、小林が中心となって発掘調査した椿井大塚山古墳(京都府
相楽郡山城町、昭和二八年発見)の報告書を、自らの名で発表するに及んで、事は公にな
るに至った。当時、梅原は京大を退官して久しかったが、小林が『群像』昭和四〇年二月
号で、報告書刊行までのいきさつを暴露したため、長年の両者の対立までが明るみに出る
形になったのである。この事件のあおりで、椿井大塚山古墳の遺物公開は平成元年(一九
八九)まで遅れることになる。

 ちなみに、本稿執筆でもしばしば参考にさせていただいた『考古学京都学派』では、諸
家の評伝はほとんどが直接、薫陶を受けた研究者によって書かれている。ところが、梅原
末治、小林行雄の両者のみ、京大出身でも考古学専攻者でもなく、本人らと殆ど面識もな
かったという穴沢氏(医学博士)にまかされている。研究者としての梅原、小林を公平に
描くには、その対立関係をも避けては通れないという配慮の結果であろうか。

 さて、「キ鳳鏡」論文が発表された昭和三四年、すでに小林の同笵鏡論は、すでに考古
学界の話題となっていた。椿井大塚山古墳を中心とする三角縁神獣鏡の分布、それは畿内
政権(邪馬台国)による魏鏡の配布を示しており、その権力構造は同笵鏡の流れから解明
できるという同笵鏡論は、それまで歴史学の補助程度の扱いを受けていた考古学を、社会
科学の一分野として独立させうるものとして歓迎されたのである。

 小林はすでに昭和三三年、講師に就任しており、実質上、梅原の後継として京大考古学
教室を代表する存在になっていた。

 同笵鏡論の萌芽は、小林の昭和二七年の論文「同笵鏡による古墳の年代の研究」(『考
古学雑誌』第三八巻三号)にすでに現れている。その中では、三角縁神獣鏡は配布後、一
、二世代ほど伝世したものとみなされ、古墳時代の開始は三世紀後半以降に求められた(
後の小林の論考では小林は古墳時代の開始を四世紀に設定している)。「キ鳳鏡」論文に
よれば、梅原が伝須玖出土のキ鳳鏡を重視し始めたのもこの昭和二七年前後である。

 梅原が「キ鳳鏡」論文を発表し、その弥生−古墳年代観の体系化を急いだ理由、その一
つには、この師弟関係円満とはいえない弟子(一時期、両者は同じ考古学教室の教授と助
手だったのだ)の台頭への恐れがあったのではないだろうか。

 

 

梅原・小林の弥生−古墳年代観

 

 ここで梅原と小林の弥生−古墳年代観を比較してみよう。小林は弥生時代、北部九州の
甕棺墓については、出土した鏡の年代によって遺跡の年代を判定している。ところが古墳
については、出土した漢鏡も魏晋鏡(三角縁神獣鏡を含む)も伝世したものとして、その
年代を四世紀以降に下らせる。この場合、鏡は古墳の年代判定規準には使えない。

 小林によると、古墳への鏡の副葬は、日本列島内部での社会構造の変化によって生ずる
という。すなわち、首長の世襲制が確立すると共に、それまで権力のシンボルであった鏡
を所持し続ける必要がなくなり、副葬に多用できるようになったというわけである。

 しかし、この場合、弥生時代と古墳時代とで、年代判定の規準としての鏡の扱いがチグ
ハグになっているという印象は否めない。

 それに対して、梅原の場合は、弥生時代も古墳時代も年代の判定は出土する中で最も新
しい鏡を規準として判定されるべきだとする。そして、梅原はその論拠に基づき、須玖式
甕棺と初期古墳は同じ魏晋代の産物として同時代に位置付けている。

 つまり、年代判定規準としての鏡に着目する場合、梅原の方法は一貫しているのである
。しかし、彼が須玖式甕棺の年代判定規準として持ち出したものは、出土状況も定かなら
ぬキ鳳鏡の鏡片だったのだ。

 また、小林が古墳時代における鏡の副葬開始について、社会構造の変化という日本列島
内部の要因を重視したのに対し、梅原が中国からの鏡の大量輸入という外的要因を重んじ
たあたりも、両者の発想の違いを示していて興味深い。

 梅原は昭和三一年、京都大学を定年退官、名誉教授の称号を受けた。その退官は全学公
開最終講義を以て見送られる。これは京大始まって以来の快挙であった。しかし、通常、
大きな業績を挙げた大学教授に対しては弟子たちが集まり、還暦・退官・古稀などの慶祝
論文集を献呈するものだが、梅原に限ってそのような催しはなかった(角田文衛「梅原末
治先生」『考古学京都学派』所収)。昭和三八年には文化功労者として顕彰、昭和四〇年
には勲二等瑞宝賞と、社会的には栄光に満ちた日々を送りながら、彼の存在は次第に学界
の主流から取り残されていく。

 その理由の一つには、考古学の研究対象が遺物の分布や出土状況にまで広がったため、
「物それ自体」にこだわる梅原の方法はもはや時代遅れになろうとしていたことが挙げら
れる。

 穴沢氏は石野博信氏の談話として、次のようなエピソードを伝えている。昭和三九年、
神戸市桜ケ丘で有名な銅鐸銅戈群が出土した時、発掘現場を訪れた梅原は、まだ砂や銹に
まみれたままの銅鐸をいきなりゴシゴシとこすり、その紋様を見ようとした。たまりかね
た発掘担当者の一人、石野氏が止めようとすると、梅原は憤然として応えた。「なにをい
うか!わしはモノを調べるためにここにきたのだ。ワシがモノを見るのが何が悪い!」

 遺物収集のために遺跡を破壊することも辞さないインディ=ジョーンズはすでに過去の
存在となっていた。しかし、梅原はそれに気付くことがなかったのである。

 また、梅原が生涯にわたって主要な関心対象から外してきた土器は、敗戦以降、考古学
の主役に急速に躍り出てきていた。小林も元はといえば、弥生土器の研究から考古学の道
に入ったのである。梅原はこの点でも時代の趨勢から取り残されようとしていた。
「キ鳳鏡」論文はたしかに迫力に満ちた論文である。しかし、その迫力は真実によって裏
打ちされたものではなかった。その異様なまでの気迫を生み出したもの、それは過去の栄
光に囚われつつも、学界の主流についていけなくなった老碩学の、現状をくつがえそうと
する執念だったのである。梅原はたしかに巨人であった。しかし、巨人の心がいったん闇
に閉ざされたならば、その闇は常人の計り知れぬほど暗く深いものとなるのだ。

 

 

晩年の梅原

 

 現在では、「キ鳳鏡」論文は、キ鳳鏡という鏡式の年代判定はともかくとして、須玖岡
本D号遺跡(ひいては須玖式甕棺)の年代判定にはまったく用いることができない論文で
あることが論証されている。それは主に、皮肉にも梅原が強い関心を持てなかった土器の
編年を通してなされたのである。

 下條信行氏は一九九一年八月、昭和薬科大学諏訪校舎で開かれたシンポジウムにおいて
次のように述べた。
「今、出土しているキ鳳鏡というのは、北部九州あたりでは、古墳時代のものは別にして
ほとんど破鏡です。私は分割鏡という名前をつけていますが、分割鏡として出土してます
。この分割鏡で出土してくる場合は、弥生後期の後半、中頃以降と言った方が良いかもし
れません、中頃から後半以降の土器を伴うことがほとんどです。ですから、土器を媒介に
して考えれば、必ず前漢鏡とキ鳳鏡の間には時間の開きがあります。また、須玖遺跡の甕
棺だというものが東京国立博物館にあります。これも中期の甕棺の破片になっております
。そうすると、中期の後半におくと、中細銅矛の形式と、他に銅戈・銅剣も出ていますが
、そういう形式とうまいぐあいに符号します。ですから、私はこのキ鳳鏡をもってして、
今作られている考古学上の編年が動くということはあり得ないと思います」(東方史学会
編『古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争』第二巻、新泉社、平成四年)。

 これは古田武彦氏による「キ鳳鏡」論文見直し論をくつがえす発言である。このシンポ
ジウムは事実上の主催者が古田氏であったにも関わらず、結果として古田氏の邪馬壹国博
多湾岸説が成り立ちえないことを証明する内容となった。シンポジウム事務局長を務めた
私にとっても学問上の転機となった忘れ難い学会である(邪馬台国問題に関する私の見解
は拙著『優曇華花咲く邪馬台国』批評社、一九九三年、参照)。

 それはさておき、最近では、弥生後期と古墳時代初頭をつなぐ土器として、庄内式土器
や西新式土器の存在がクローズアップされ、弥生時代から古墳時代への推移が土器の変遷
からも明らかにされようとしている。もはやそこには特定の様式の土器の年代を、二世紀
以上も動かせるような余地はない。

 また、北部九州における葬制の変遷からいっても、弥生中期(前一〜一世紀頃)の須玖
式甕棺を三世紀に下らせるならば、編年表上に、須玖式以降の甕棺(立岩式、桜馬場式、
三津式、神在式)や、甕棺と古墳をつなぐはずの箱式石棺などが収まるべき場所はなくな
ってしまうのである。

 鏡の扱いに関する限り一貫性のある梅原の年代観よりも、一見チグハグな小林の年代観
の方が、土器等の示す実際の遺跡の状況をよく説明できるのだ。

 しかし、たとえ梅原が今なお存命だったとしても、彼は決してその事実をみとめようと
はしないであろう気がする。梅原がつちかってきた実績と自信は、晩年にはかえって傲慢
と頑迷の源にしかならなかったように思われるからだ。それが最も悪い形で現れたのが古
代ガラス事件であった。

 晩年の梅原は前にもまして、骨董屋への依存を深めていた。特に奈良のある骨董屋が持
ち込んだ数多くのガラス類に梅原は目を奪われた。ガラスの巨大勾玉や釧、動物を模した
ガラス製品・・・売り手はそれらについて、大和の旧家から出た、あるいは工事現場から
出土したなどと、その由来を説明した。

 いずれにしろ、梅原はそれらが真正の古代のガラス製品であることを信じて疑わなかっ
た。それらの中には、中国漢代の出土品とそっくりなものがあり、中国の文物を見慣れた
梅原の目には、これこそ漢代から中国の文化が畿内にまで及んでいた証拠と見えたのであ
る。

 そのガラス製品の素性に疑いを抱いた研究者が梅原に忠告しても、彼は「あんたはモノ
を知らん!」と怒り出すだけだったという。

 昭和四三年、東洋文庫主催による梅原の講演会「東洋の古代ガラス」で、彼はそのガラ
ス製品を公開した。ところが居並ぶガラス研究者たちはいっせいに、それが古代のもので
はないと指摘し、講演会は混乱の内に幕を閉じた。

 しかし、梅原はその批判をものともせず、このガラス製品コレクションに関する論文集
『日本古玉器雑考』(昭和四七年)を世に問うた。

 かくして、梅原はガラス工芸の専門家・由水常雄氏から徹底的な批判を浴びることにな
る。由水氏によると、そのガラス製品はいずれも幼稚な贋作であり、巨大勾玉はビール瓶
を溶かして作ったもの、釧にいたっては、ガラス製の蚊帳の吊り輪にすぎないものであっ
た(「古代ガラスの怪」『芸術新潮』昭和四七年一月号、後に由水氏の著書『火の贈り物
』に収録)。

 造形などの問題を離れ、ガラスの材質だけに着目した由水氏には、それが現代の製品で
あることを見破るのは容易であった。しかし、梅原は週刊誌の取材に応じ、由水氏の批判
に対するコメントとして、「ガラスのいい悪いを決めるのは私です。私がよいと感じたん
ですわ」と述べたという(「古代ガラス・勾玉ブームでニセモノを推奨した考古学の権威
」『週刊新潮』昭和四七年一月二二日号)。

 そこには、キ鳳鏡の銹の色合いを以て、須玖岡本D号遺跡からの出土と断定した、あり
し日の梅原の姿がオーバー・ラップする。この事件で、ただでさえ学界の主流から敬遠さ
れていた晩年の梅原に、よりいっそうの孤独と寂寥の影がつきまとうようになる。

 梅原はついに中山の有銘銅鐸事件の教訓を自らのものにできなかった。「キ鳳鏡」論文
ですでに現れていた骨董屋への批判的視線の欠如、それが結局は、晩年の梅原の下に一大
スキャンダルを招きよせることになったのだ。

 秦政明氏は次のように述べる。
「研究者として優れた業績を残した梅原氏の悲劇的な末路は、自らの学問の方法の誤りに
気づかず、それに固執した末に詐欺師から幼稚な偽物を掴まされても、周囲の忠告や科学
的検査を一切拒絶し、思い込みに過ぎない本人の信念のみで偽作物をあくまでも真作と言
い張っている学者の行く末を暗示している」(「書評・角田文衛編『考古学京都学派』を
読んで」『市民の古代研究』第六五号、平成六年十月)。

 中山平次郎、喜田貞吉、森本六爾、梅原末治、そして若き日の原田大六、小林行雄、彼
らが活躍した時代はまさに日本考古学の英雄時代だった。それは言い換えると、インディ
=ジョーンズ的なものが考古学界に色濃く残っている時代でもあった。

 梅原は、「キ鳳鏡」論文を著し、また古代ガラス事件を引きおこすことで、インディ=
ジョーンズの時代を象徴する最後の一人となったのである。

 なお、本論考では、梅原・小林両先学の業績について論じるため、三角縁神獣鏡を一応
、魏鏡として扱ったが、私自身としては国産の可能性が高いと見ていることを一言申しそ
えておきたい。三角縁神獣鏡が古墳時代の日本の所産だとすれば、小林の年代観における
見掛け上のチグハグさも解消されるように思われるからである。
               (初出−『季刊邪馬台国』五六号、一九九五年四月)

 

 

 

                       1998,5  原田 実