もう一人の景行天皇

 

 


 

 

岐阜県出土のキ鳳鏡

 

 一九九七年八月二八日、岐阜県の養老町教育委員会は、同町の前方後方墳「象鼻山1号 墳」の棺部分から、青銅製のキ鳳鏡が出土したと発表した。キ鳳鏡の大きさは直径十一・ 五センチで、「君宜高官」の銘文があり、日本列島での他の出土例(約十件)と比べてか なり精巧な出来だという。象鼻山1号墳の推定年代は三世紀後半で奈良県桜井市の箸墓古 墳と同時期とみられ、調査にあたった宇野隆夫富山大教授は「邪馬台国は近畿地方にあっ た考え方が有力」とした上で「邪馬台国から独立した別勢力の古墳であることが裏付けら れた」と説明、この古墳が狗奴国の王墓である可能性は高まったとの見解を示した(中国 新聞・一九九七年八月二九日付)。
 この記事の見出しは「鳳を描いた鏡出土・邪馬台国の対立勢力狗奴国王墓か」とある。 岐阜県方面に狗奴国を求める説がすでにマスコミ・学界で広く受け入れられていることを 示すものといえよう。また、象鼻山1号墳はもちろん、箸墓を三世紀後半とする古墳年代 編年についても疑問はあるが、それは今は問うまい。
 邪馬台国畿内説は『三国志』魏志倭人伝の行程記事に示された「南」を「東」の誤りと することによってはじめて成立する説であり、その立場を徹底すれば倭人伝に「其南有狗 奴国」として示された狗奴国も女王国の東方にあることになる。また、『後漢書』倭伝に は「女王国より東、海を度ること千余里、拘奴国に至る」とあるが、邪馬台国を畿内、狗 奴国を東海とすれば、この記述ともつじつまがあうことになる。
 研究史上、最初に狗奴国を東海地方に求めたのは、おそらく田辺昭三氏であろう(注1 )。次いで大山峻峰氏も『先代旧事本紀』国造本紀に登場する久努国造と狗奴国の関係を 論じ、『和名抄』の遠江国山名郡久努郷(現静岡県周智郡久努西村)や駿河国安倍郡久努 (現静岡市久能)と関連付けた。大山氏によると大和の邪馬台国と東海の狗奴国は琵琶湖 南岸で対峙していたのだという(注2)。
 さらに山尾幸久氏も国造本紀の久努国造に注目、「おそらく古代の磐田・山名・周智・ 佐野などの諸郡(磐田・袋井・掛川地方)が久努と呼ばれていたのであろう。天竜川の東 の勢力を中心とし、西の引佐・浜名・敷智郡地方の勢力との連合体制が、狗奴国の実体で はなかろうか。その政治的・宗教的影響力は駿河西部だけではなく、三河東部におよんで いたことも十分考えられる」と述べている(注3)。
 ちなみに管見に入る限りで久努国造を狗奴国と結びつけたのは、明治の哲学者・木村鷹 太郎が最初である。木村は白鳥庫吉の邪馬台国九州説、内藤湖南の邪馬台国畿内説を共に 批判する論文の中で「内藤氏及び白鳥氏は国造本紀なる書物を読まれしや否やを知らずと 雖、其内、久努の国造なるものあり(中略)かの倭人伝中の狗奴国は国造本紀の久努国に して、其の所在地の埃及なり」と述べている。ただし、木村は邪馬台国エジプト説という 破天荒な立場をとっており、狗奴国=久努国も東海地方ではなく、南エジプトに求めよう としたため、学界からは黙殺されることになった(注4)。
 一方、一九八〇〜九〇年代にかけて、考古学者の間からも狗奴国東海地方説を支持する 声が次第に高まってきた(注5)。
 一九九六年九月八日、奈良県の桜井市民会館で開催されたシンポジウム「マキムクは邪 馬台国か」でも、その問題が大きく取り上げられている。清水真一氏がそこで行われた、 赤塚次郎、石野博信、和田萃、中島郁夫、植田文雄、常松幹雄各氏らのやりとりを要約し 、コメントを付しているので引用したい。
「シンポでは、赤塚氏が提議した東海地方=狗奴国を前提とした狗奴国と邪馬台国の戦争 の結果、邪馬台国女王卑弥呼は交戦のさなか死亡したことが話題となり、赤塚氏は、敵の 大将が死んだのだからこの戦争は狗奴国が勝利した、と主張した。その結果、東海地方の 勢力が大和を征服し、大和朝廷とよばれる古代国家が成立したという。
 これに対し、石野氏は、たとえ卑弥呼が戦闘中に死んだとしても、次に壱与が断ち邪馬 台国は大和から日本を支配する古代国家に成長した(女王ヒミコは戦死したが倭国連合は かろうじて勝利した)と反論し、和田氏もその論に賛成した。
 一方では、狗奴国は東海ではなく静岡だ(中島説)、いや近江北半分がそれだ(植田説 )との発言が飛び出し、狗奴国を定義付けるために、纏向遺跡から出土しているS字甕・ 近江甕をどう位置付けるかが問題となってきた。
 S字甕の出土状況は、A類甕(三世紀前半)が東海から東日本に拡散するのに対し、C 類甕(四世紀前半)は西日本に主に拡散するという特徴を持ち、その拡散が赤塚氏のいう 大和征服なのか、石野氏のいう後の采女貢進にあたるのかは、現状では断定がむつかしい 。大和の土器は北九州に入るのに、北九州の土器は大和では少なく(常松説)、東海の土 器は大和に多く入るのに大和の土器は東海では少ない(赤塚説)こととあわせて考えなけ ればならない点だろう」(注6)
 纏向遺跡出土土器が近畿独自のものばかりではなく、外部からの搬入土器の比率が異常 に高いこと、その中でも東海系の土器が特に多いことはすでによく知られている。だが、 その外部搬入率の高さにも関わらず、九州の土器は纏向から出てこない(注7)。
 また、畿内から九州に入った土器文化として代表的なものに櫛目波状文土器が挙げられ る。それは、弥生中期に畿内に発生した櫛描文土器文化が瀬戸内海を経て九州に入り、弥 生後期〜終末期における九州東部(大分県・宮崎県)で顕著な発展をとげたものである( 注8)。
 森岡秀人氏は三世紀前半の北部九州には畿内・吉備・山陰など他地域の土器の一方的流 入が目立つとして「土器の流通に主導性の感じられない九州地方に邪馬台国を想定するこ とは難しい相談と言わねばならない」という。また、森岡氏は、一方で東海地方について 「他地域に比べ搬入される土器自体が少ない傾向を持つ」として、狗奴国=東海地方説に 賛意を評している(注9)。
 しかし、半沢英一氏は佐賀県諸富町を始めとして、弥生後期から古墳時代初めの筑後川 流域(福岡県・佐賀県)の遺跡から東海系、山陰系、吉備系、河内系など多くの搬入土器 が出ていることをもって、邪馬壹国筑後川流域説の根拠としている(注10) 。土器の流入 という事実はさまざまな解釈を許すのである。
 さらに言おう。北部九州への土器流入によって、邪馬台国九州説を否定するとすれば、 纏向の土器搬入率の高さもまた問題とされなければなるまい。
 森岡氏の論法を用いれば、東海地方こそ畿内の土器文化に対して主導性を持っていたと いう立論も可能なはずである。
 ここで赤塚氏の提示した、東海勢力による畿内征服の可能性があらためて問題にされな ければならない。

 

 

纏向建設は東海地方の主導

 

 纏向遺跡の搬入土器に九州のものがほとんど含まれないという問題について、大和岩雄 氏は、搬入土器は宮都建設に動員された人々が用いた土器であり、九州の邪馬台国からは 「巫女王台与と巫女王に仕える祭政機構の要員のみが、東遷した」とすれば、纏向から北 部九州の土器が見つからなくても邪馬台国東遷説はなりたつとする(注11) 。
 しかし、この大和氏の説では搬入土器における東海系土器の頻度の高さは説明できない 。纏向建設が北部九州の主導で行われたとすれば、九州からわざわざ人員を連れていかな いにしても、動員が容易な西日本の人々を使おうとするのではないか。
 甲斐道之氏は、女王国(甲斐氏は福岡県西北部から大分県一帯にかけてとみなす)ばか りでなく、狗奴国も東遷したとすることで搬入土器の問題を説明しようとした。甲斐氏に よると、狗奴国は卑弥呼の時代には、大和の唐古・鍵遺跡の地に都していたが、三世紀半 ば、壹与の時代に女王国を中心とする九州・瀬戸内連合が大和を征服して纏向を興したた め、東海地方に移動した。後期銅鐸の分布から、再興した狗奴国の中心地域は浜名湖周辺 、拠点的集落は伊場遺跡と推定できるという。しかし、再興したとはいえ、狗奴国の衰退 は防ぎようがなく、大和に帰る人々が続いた。その人々が残したのが纏向遺跡の東海系土 器だというわけである(注12) 。
 だが、弥生後期頃から古墳前期にかけて、東海地方の土器はむしろ畿内から離反するよ うな独自性を示し続けており、畿内の人々の大量移住を示すような徴候はない。西博孝氏 は赤塚次郎氏から聞いた話として次のように述べる。
「尾張の遺跡の中で弥生時代から古墳時代の初頭にかけて、戦乱の跡はあったか、あるい は母集落が解体した状況はあるのですか、と伺いますと、ないらしいです」(注13) 。
そうとなれば甲斐氏のUターン説も成り立たないことになる。
纏向の搬入土器、特に東海系土器は、やはり纏向が邪馬台国東遷によって興されたとい う説への反証なのである。
 しかし、最近、マスコミで「定説」化しつつある、纏向を邪馬台国の首都、狗奴国を東 海地方とする説に立っても、東海系土器の問題は解決できない。それでは、邪馬台国の首 都は敵地の人々によって建設されたことになってしまうからだ。
 ここで発想を変えて、纏向そのものが東海地方の勢力の主導によって作られたとみるこ とはできないだろうか。
 纏向ばかりではない。清水賢一氏によると、最近の発掘成果では同時代の畿内の遺跡か ら程度の大小こそあれどこでも搬入土器が得られるという(注14)。現に森岡秀人氏によ ると、庄内式期、「中河内には、東は東海、西は九州東部からの広範囲な外来式土器が姿 をみせ、加美遺跡には朝鮮半島からの流入とみられる陶質土器さえ出現する」という(注 15) 。
 そうなると赤塚氏が狗奴国の畿内征服という仮説で説明したS字甕C類の西日本拡散も 、東海勢力による畿内支配の完成を示すものとして改めて注目されよう。

 

 

東海勢力の畿内征服説

 

 アマチュアの古代史研究者で、東海地方の勢力、もしくは東海経由による関東地方の勢 力が西征して大和朝廷を開いた、とする論者は意外と多い。
 小島信一氏は、邪馬台国近江説に立ち、尾張の熱田宮こそ邪馬台国の後継としての四世 紀日本の首都で、大和が実権を得るのは雄略以降だとする(注16)
 加茂喜三氏は、富士山麓に古代日本の都があり、畿内に首都が移った後も富士の勢力が 朝廷に干渉を続けたとして、一連の「富士王朝シリーズ」を著している(注17)。
 鈴木正和氏は、高天原=邪馬台国を房総半島に求め、天孫降臨の舞台は伊勢で、そこか らの神武西征により、大和朝廷が開かれたとする(注18)。
 大川誠市氏は、出雲の邪馬壹国が衰えた後、伊豆半島・関東地方の勢力が女王・壹与を 奉じて西征し、吉備の狗奴国を倒して大和朝廷を開いたとする(注19)。
 肥田和彦氏は邪馬壹国を伊豆半島に求め、女王・壹与の時代に西征して大和朝廷を開い たとする(注20)。
 河村望氏は、天武天皇もしくは持統天皇の時代までは、関東から富士山周辺にかけて日 本の政治的・宗教的中心があり、それが後に畿内に移されたと唱えた。河村氏によれば、 記紀に登場する倭の三輪山とは、富士山のことに他ならない(注21)。
 前田豊氏は、邪馬台国を三河地方に求め、それが台与の時代に西遷して大和朝廷となっ たが、その後も七世紀まで三河に後継王朝があったとする(注22)。
 この七氏の説はいずれも記紀の矛盾を解消しようとして、出されたものである。たとえ ば、記紀は大和から見て西の九州に、大和朝廷の起源があると主張するが、実際には逆に 大和から見て東にある伊勢神宮が皇室の宗廟とされていること(宇佐八幡宮が応神天皇に 付会され、伊勢とともに二大宗廟とよばれるようになるのは平安時代以降)、日本を代表 する名山として『万葉集』にも讃えられた富士山が、万葉とほぼ同時代成立の記紀ではま ったくその姿を見せないこと(ヤマトタケルが駿河、相模、甲斐を訪ねたというくだりに も富士山のことは触れられていない)、などである。
 そこで大和朝廷の真の発祥地は大和より東にあるのではないか、富士山は別名で記紀に 登場しているのではないか、あるいは記紀の編纂者には富士山についての記述を避けるべ き理由があったのではないか、といった発想が生まれてくる。
 また、前田氏の場合は、纏向遺跡における東海系土器の流入にも注目している(注23) 。そこに最近の赤塚次郎氏の成果が取り入れられていないのが惜しまれるほどだ。
 とはいえ、七氏とも、立論においてはいずれも論旨の飛躍が目立ち、むしろ奇想の範疇 に入るものばかりだというのもまた確かである。
 なにより問題なのは、記紀の文面を追うかぎり、九州方面から大和に侵攻した話はあっ ても(神武東征記事、神功東征記事)、東方から入った勢力が大和を征服したという記事 はないことだ。つまり、これらの説は記紀の小さな矛盾を解消しようとするあまり、記紀 の全体と大きく齟齬をきたすことになってしまったわけだ。
 このことは赤塚次郎氏の狗奴国畿内征服説についても言える。畿内征服のような大きな 事件について、いかに遺跡の分布や出土品から一応のストーリーを構築できても、文献上 の裏付けを欠いては説得力はないだろう。そして、先に私が提示した、東海勢力の主導に よる纏向が建設されたという仮説にも、この批判は通用する。
 だが、記紀の中に古墳時代初頭、東海地方の勢力が畿内に大がかりな影響を与えたこと を示すような記述は本当に見出せないものだろうか。

 

 

景行天皇は二人いた

 

 記紀で纏向に置かれた都といえば垂仁の「纏向の珠城宮」(ただし垂仁記では「師木の 玉垣宮」)と景行の「纏向の日代宮」だ。『日本書紀』では両者とも「更都於纏向」と記 されており、木村鷹太郎はこの「更に」という表現から、垂仁は纏向の珠城宮の前に別の 宮を造っていたのではないかと述べている(注24)。ここでは景行の方に注目しよう。
景行(オオタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒ コ)、神功(オキナガタラシヒメ)はいずれも諡号に「タラシ」という語を含んでいる。 神功は記紀では仲哀の皇后、応神の摂政として歴代天皇に数えられていないが、『釈日本 紀』巻六所引および『万葉集註釈』巻三所引『摂津国風土記』逸文や、『新唐書』日本伝 、『宋史』日本伝は「天皇」と明記しており、また、『日本書紀』は彼女のために巻九の まるまる一巻分の紀を立て、さらにその神功紀では言葉に「勅」、自称に「朕」、最期に 「崩」の字を用いるなど天皇と同格の扱いをした上、中国史書の「倭女王」とも同一視し ているので、やはり天皇の一人と認めることができる。
 景行の皇子のヤマトタケルも『常陸国風土記』『住吉神社神代記』『万葉集注釈』巻七 所引『阿波国風土記』逸文などで「天皇」とされ、また『古事記』ではその言葉に「詔」 、その最期に「崩」の字を用い、さらにその御葬で「天皇之大御葬」の歌が歌われたとあ るなど天皇と同格の扱いをされている。そこで景行・ヤマトタケル・成務・仲哀・神功を 一つの皇統、タラシ系王朝としてまとめることが可能である。
坂田隆氏は景行・ヤマトタケル・仲哀・神功、そして仲哀と神功の子・応神がいずれも 九州と関係が深いことから、タラシ系王朝は九州にいたと説いた(注25)。
 しかし、一方で景行と成務については近江の志賀の高穴穂宮にいたという伝承がある( 景行紀・成務記)。またヤマトタケルは東国で活躍した後、近江に近い鈴鹿の能煩野に崩 じており、その子孫から近江の豪族・犬上君が出ている。仲哀の子とされる忍熊王は神功 と武内宿禰らに追い詰められて琵琶湖に身を投じた。そして神功皇后を出した息長氏も近 江を本拠地とする氏族である。
 したがって、彼らはいずれも近江と関係が深いとみなすことも可能である。そのため、 林屋辰三郎氏はタラシ系王朝のことを「近江王朝」と呼んでいる(注26)。
 タラシ系王朝がいたのは九州なのか、近江なのか。中山千夏氏は同時期に九州の景行− 仲哀ラインの王統と成務の王統が並列していたとし、記紀で仲哀の子とされる香坂王・忍 熊王兄弟は、実は成務の王統から出たとする。
 中山氏は、景行記の系譜記事でオオナカツヒメについて「此の大中比売命は香坂王、忍 熊王の御祖なり」と記しながら夫の名を伏せていることから、仲哀記・仲哀紀がオオナカ ツヒメの夫を仲哀とするのは疑わしいと述べている(注27)。その指摘はするどい。
ただし、中山は、景行紀の九州平定記事は九州にあった別の王朝の伝承を盗んだものだ としているが、景行が九州の王だとすればわざわざ他の王朝から九州関係の伝承を盗む必 要はないだろう。
 私もまた景行天皇は本来、九州の王であった可能性が高いことをすでに指摘した(注28 )。とすると、九州以外の地における景行の事績はどのように解釈されるべきか。
 景行記の説話的記述はヤマトタケル(倭建命)の冒険に終始しており、ヤマトタケルの 最期とその子孫について語るとともに景行記そのものが終わる。
 一方、景行紀では、まず、景行は即位三年にして紀伊国に行幸して神祇を祭ろうとした が結局取り止めている。
 四年には美濃の泳宮に遊んで八坂入媛を妃に迎え、その年の内に「更に纏向に都をつく る」、これが纏向の日代宮である(紀伊行幸以前の宮について景行紀には特に記されてい ない)。
 十二年に九州遠征、十九年に九州から帰る。二十年に天照大神を祭らせるために五百野 皇女を派遣する(どこに派遣されたかは明記されていない)。
 二五年に武内宿禰を北陸・東国に派遣。二七年に視察を終えた武内宿禰の復命。その同 じ年からヤマトタケル(日本武尊)の冒険が始まる。四三年、ヤマトタケル崩ず。
 五一年に稚足彦尊立太子(後の成務天皇)、五二年に皇后の播磨稲日大郎姫が薨り、八 坂入媛を皇后に立てる。五三年から東国巡行、何の戦闘もなく伊勢から上総国を通り、淡 水門(房総半島南端)で現地の豪族の饗応を受ける(そのことは『高橋氏文』にも記され ている)。その後、東国からまた伊勢を経て、五四年に纏向宮に帰る。
 五五年に彦狭島王を東国に派遣するが途上で薨り、五六年にその子の御諸別王を改めて 派遣する。五八年に近江行幸、志賀の高穴穂宮に入り、六〇年、高穴穂宮に崩ず。
ここで景行紀の説話的記述から、本来の景行の事績と思われる九州巡行記事と、景行記と 食い違う所も多いが、ほぼ重なるといってよいヤマトタケルの冒険譚を除いてみよう。
 すると、そこに現れるのは、即位直後に美濃で過ごし、大和纏向に都を造り、東方経営 に力を入れ、東国を我が庭のように歩んで近江の地に崩じた王の生涯である。これこそ九 州にいた本来の景行と同時代、近畿とその東方を治めたもう一人の王の事績ではあるまい か。仮に本来の景行天皇を景行α、近畿とその東方の王を景行βとしよう。
 景行αは九州で自らの王朝を創業し、播磨稲日大郎姫を皇后とした(播磨は九州の王の 通婚圏としておかしくはない)。それに対して、景行βは独自の王朝創業記事をもたず( あるいはそれが伝わらず)、大和に入る前に美濃の泳宮を本拠とし、美濃出身の八坂入媛 を皇后とした。そこから景行βは美濃と関係の深い王であることが推定できる。
 さらに言うと、大和に入る前に美濃を経ている以上、この王の出身地は美濃よりもさら に東方の東海地方の何処かである可能性も考慮すべきだろう。
 伊勢神宮は東海系王朝もしくはその前身の勢力によって創建され、応神朝以降の大和朝 廷にその祭祀が受け継がれたものである、また、富士は東海系王朝の聖域であったため、 記紀は富士についての記述を意図的に避けることになった、とこのように考えれば、大和 より東方の伊勢が大和朝廷の宗廟とされた謎や、記紀に富士山が現れないという謎も一応 は解ける。

 

 

東海系王朝の軌跡

 

 近江は東海地方と大和を結ぶ重要なルートである。となると景行βが晩年を近江で過ご したとされるのは、纏向の日代宮から東海地方へのルートを確保するためであったと考え られる。成務が近江に都したとされるのは晩年の景行βの志を継ぐものであろう。成務の 母は八坂入媛であり、明らかに景行βの子、すなわち東海系王朝に属する王である。また 、母親が美濃出身であることから彼自身、美濃との縁が深いことがうかがえる。
「ワカタラシ」というのは実名ではなく、彼に「タラシ」の名を与え、九州系景行王朝に 組み込むために後に作られた諡号であろう。
 なお、成務紀は成務の皇后や皇子・皇女の名、宮の所在とその名などの情報をことごと く欠いており、成務記は和訶奴気王という皇子があったことを伝えるが、その子孫に関す る記述はない。記紀とも、その事績は武内宿禰を大臣としての行政関係記事に限られてい る。そのため、成務は武内宿禰と同一人物だなどという説まで唱えられたことがある(注 29)。しかし、武内宿禰は九州で仲哀、神功と行動を共にしており、東海系王朝側の人物 ではありえない。記紀が武内宿禰を成務の大臣とするのは、九州系景行王朝側の人物とし て有名な武内宿禰を持ち出すことで、成務の功績をも九州系景行王朝のものだと主張する ための小細工であろう。
 天皇家は東海系王朝を滅ぼした九州系景行王朝の子孫だから、東海系王朝の王である成 務の子孫についての記録を後世に残そうとしなかったのは、当然なのである。
 景行記は景行に三人の太子がいたと伝える。後の成務とヤマトタケル、そしてイホキノ イリヒコ(記・五百木之入日子命、紀・五百城入彦皇子)である。
 この内、後の成務が景行βの太子、ヤマトタケルが景行αの太子とすれば、イホキノイ リヒコは景行β、成務らが近江に去った後の大和の留守居役か。
 東海系王朝が倒れた後、イホキイリヒコの孫のナカツヒメが応神の皇后となり、東海系 王朝の血筋を九州系景行王朝につなぎ、武烈の代までかろうじて伝える役割を果たす。
 ただし、記紀が語るヤマトタケルの業績の内、東国平定記事は東海系王朝の事績を取り 込んだものと思われる。
 坂田隆・関口昌春両氏は、東国平定記事は本来のヤマトタケルのものではなく、崇神朝 の将軍・タケヌナカワワケの事績であろうとする(注30)。
しかし、『常陸国風土記』が「倭武天皇」としている以上、東国を平定したヤマトタケ ルは天皇級の人物であり、一応は皇族といえども、タケヌナカワワケのことなどではあり えない。
渡辺一衛氏はヤマトタケルの九州、出雲での事績は疑わしいとして、「ヤマトタケルは 、もともとは邪馬台国から大和朝廷に移る過渡期の時代に、東海地方に覇をなした王」と みなす。
渡辺氏は邪馬台国=大和、狗奴国=東海地方説に立ち、「かつて邪馬台国に対抗し、の ちに邪馬台国の勢力圏に入った狗奴国の後を継いで東海地方の王として知られた人物が、 四世紀代に倭国の大王となった大和朝廷に対立して邪馬台国の再興を期待され、ヤマトタ ケルの名で呼ばれるようになった」が、「彼の実力と高い人気は、大和勢力に危険を感じ させた」ため、近江と美濃の国境の伊吹山で暗殺されたというのである(注31)。
私は、九州にも九州系景行王朝の太子としてのヤマトタケルがおり、後にその遺児が仲 哀になったと考える者だが、、九州のヤマトタケルと同時期の東海地方にもう一人のヤマ トタケルともいうべき人物がいたというのなら納得できる。
 西博孝氏も、赤塚次郎氏の指摘した東海系土器拡散の事実に基づき、「倭建」の「倭」 が東海地方のことであり、ヤマトタケル説話が東海勢力の移動を示している可能性を指摘 する(注32)。
前田豊氏は、景行記に鈴鹿の能煩野で息を引き取ったヤマトタケルが白鳥となり、「浜 に向きて」飛び立ったとあることと、景行紀にヤマトタケルの化した白鳥が「倭を指して 」飛び去ったとあることから、ヤマトタケルの目指した「倭」は鈴鹿から見て海岸方向、 すなわち東方にあったはずだとしている(注33)。
 また、ヤマトタケルの自称について景行記は「倭男具那王」とし、景行紀は「日本童男 」として童男を「烏具奈」と訓じているが、宮崎康平氏はこの名に含まれる「クナ」は狗 奴国と同語源で河口の水田を意味するという(注34) 。
 私は狗奴国東海地方説にも、宮崎氏の狗奴国南九州説にも与するものではないが、ある いはヤマトヲグナの名と先述の東海地方の久努国との間には何らかの関係があるのかも知 れない。久努国は天竜川東岸であり、まさに河口の水田の国というにふさわしい。
 これらのことはヤマトタケルと東海地方の関連を示す傍証といえよう。つまり記紀の伝 えるヤマトタケルは、景行紀の景行と同様、九州系景行王朝に属する人物と東海系王朝の 王との合成人格と思われるのである。
 次に系譜上、ヤマトタケルの子とされる仲哀。仲哀紀は仲哀が即位二年、越前の角鹿( 現福井県敦賀市)と紀伊の徳勒津宮(現和歌山市新在家)に行幸したと伝えるが、仲哀記 にはそのことは記されておらず、穴戸の豊浦宮(現下関市豊浦村)と築紫の訶志比宮(現 福岡市香椎)に座したことのみを伝える。越前・紀伊行幸はもともと東海系王朝の王の事 績だったものを仲哀のものとして取り込んだのかも知れない。

 

 

東海系王朝の滅亡と隠蔽

 

 東海系王朝は九州から攻めのぼった神功皇后、武内宿禰の軍勢に攻め滅ぼされ、その本 当の王名や系譜は闇に葬られた。香坂王・忍熊王は中山千夏氏が疑義を呈したように仲哀 の皇子ではなく、東海系王朝の最後の王たちだろう。記紀は、二人の王が神功を迎え撃つ べく播磨に出ていった時、香坂王が猪に食われて死んだと伝える。
 九州にいた本来の景行の皇后が播磨から出ており、また、『播磨国風土記』が神功の播 磨における活躍ぶりを記しているだけに、香坂王の奇妙な最期は謀殺とも疑える。
 また、忍熊王は仲哀記では難波根子建振熊命により、神功紀では武内宿禰により、琵琶 湖に追いつめられて入水したとされるが、これらの記事についても、忍熊王がその真の本 拠地、東海地方に逃れようとする途中で敵に追いつかれたという解釈が可能である。
 しかし大和中心に行政機構を整えた東海系王朝の事績は、九州から関東までの新たなの 支配者となった九州系景行王朝にとって、無視できるものではなかった。
『先代旧事本紀』国造本紀は、日本各地の国造の半数近くが「志賀の高穴穂朝の御世」に 任命されたという伝承を持っていたと伝える(全一三四国の内六四例)。
 国造本紀の個々の事例については、さらに細かい批判が要求されるだろうが、それでも 約四八パーセントという高い比率には何らかの意味があると考えなければならない。
 また、「纏向の日代の宮」に大和の勢力が大きく東方に進展したという伝承は歌謡とし て後世に残り、雄略朝においても歌われていた(注35)。
 東海系王朝の栄光はとても抹殺しきれるようなものではなかったのである。そこで九州 系景行王朝の子孫は東海系王朝の事績を自らの父祖のものとすることを思い立った。かく して、東海系王朝の事績は、一部が景行らの事績にすりかえられ、あるいは成務が九州系 景行王朝の系譜の中に取りこまれることによって、記紀の文面を飾ることになった。
 以上、東海系王朝の存在は記紀の分析によって、ある程度は考証できるように思われる 。そして、纏向がこの東海系王朝の畿内における拠点だとすれば、東海系土器の大量搬入 の問題も解決され、また、赤塚氏の指摘する古墳時代前期の東海系文化の拡散も説明でき るのではないか。
 東海系王朝の実在、この仮説は今後、十分な検証を必要とするであろう。さらに、垂仁 の都した纏向の珠城宮がこの仮説でいかなる位置を示すか、東海系王朝とその前に大和に あった神武〜垂仁の王朝、そして九州系景行王朝のそれぞれが本来の系譜上、どのような 関係にあったのか、など検討しなければならない問題も多い。それでも、この仮説を導入 することにより、現在までで私たちが得たところの考古学的知見と、記紀などの文献との 対応がよりいっそう明確になるものと、愚行する次第である。

 

 

 

1,田辺昭三『謎の女王卑弥呼』徳間書店、一九六八年。
2,大山峻峰『邪馬台国を探る』三一書房、一九七〇年。
3,山尾幸久『新版・魏志倭人伝』講談社、一九八六年。
4,木村鷹太郎「東西両大学及び修史局の考証を駁す−倭女王卑弥呼地理に就て−」読売 新聞・明治四三年(一九一九)七月二・三・五・六・七日付。後に『日本太古小史』 (一九一三年初刊、復刻版『海洋渡来日本史』日本シェル出版、一九八一年)に転載 。なお、木村の邪馬台国エジプト説については、原田実「木村鷹太郎の邪馬台国論を めぐって」(『古代史徹底論争』駸々堂、一九九三年、所収)を参照されたい。
5,代表的なものに次の著書・論考があげられる。
  前澤輝政『日本古代国家成立の研究』図書刊行会、一九九四年。
  赤塚次郎「東海系のトレース」『古代文化』vol.44、一九九二年、所収。
  赤塚次郎「狗奴国は濃尾平野だ」『歴史と旅』、一九九六年十二月号、所収。
6,清水真一「『マキムクは邪馬台国か』を聞いて」『歴史と旅』一九九六年十二月号、 所収。
7,石野博信・関川尚功『纏向』奈良県桜井市教育委員会、一九七六年。
  寺沢薫「纏向遺跡と初期ヤマト政権」『橿原考古学研究所論集・第6』吉川弘文館、   一九八四年、所収。
8,賀川光夫『大分県の考古学』吉川弘文館、一九七一年。
  日高正晴『古代日向の国』日本放送協会、一九九三年。
9,森岡秀人「邪馬台国の土器」『歴史と旅』一九九六年十二月号、所収。ちなみに森岡 氏は三世紀前半の近畿の土器文化はV期(弥生後期)最終末からVI期(庄内式時代) にあたるとしており、土器編年による纏向遺跡の相対年代とほぼ一致することになる が、絶対年代の特定については疑問がある。
10,半沢英一「邪馬壹国は結局どこにあったのか」『市民の古代』第十六集、ビレッジプ レス、一九九四年十一月、所収。
11,大和岩雄『邪馬台国は二ケ所あった』大和書房、一九九〇年。
12,甲斐道之『壱与女王の東遷』新人物往来社、一九九三年。
13, 西博孝「東海系土器の移動と倭建説話」『市民の古代』第十六集、所収
14,前掲「『マキムクは邪馬台国か』を聞いて」
15,前掲「邪馬台国の土器」
16,小島信一『女王国家』新人物往来社、一九七一年。
17,加茂喜三『古代日本の王都が富士山麓にあった』一九七八年、『富士王朝の滅亡』七 九年、『隠れ南朝史』七九年、『愛鷹の巨石文化・前巻』八二年、『木花咲耶姫の復 活』八二年、『愛鷹の巨石文化・後巻』八三年、『ヒミコの故郷』八五年、『富士“ 隠れ南朝”史』八七年、『富士の古代文字』九三年、『日本の神朝時代』九四年、い ずれも富士地方史料調査会刊。
18,鈴木正知『邪馬台国に謎はない』新人物往来社、一九八一年。
19,大川誠市『天球の邪馬台国』六興出版、一九九一年。
20,肥田和彦遺稿「邪馬臺(壹)国は、静岡県賀茂郡南伊豆町南部」『古代史徹底論争』 駸々堂、一九九三年、所収。
21,河村望『上総の飛鳥』人間の科学社、一九九四年。
22,前田豊『古代神都東三河』一九九六年、『倭国の真相』九七年、いずれも彩流社刊。
23,前掲『古代神都東三河』、なお肥田和彦氏も纏向遺跡の東海系土器には注目されてい たと聞くが、前掲遺稿にはその旨の記述はない。
24,木村鷹太郎『世界的研究に基づける日本太古史・下巻』一九一二年。
25,坂田隆『分割された古代天皇系図』青弓社、一九八六年。 同『巨大古墳の被葬者』新泉社、一九九五年。他
26,林屋辰三郎「ヤマタイ国以後」「近江王朝」『日本史探訪2』角川書店、一九八三年 、所収。
27,中山千夏『新・古事記伝2 人代の巻〔上〕』築地書館、一九九〇年。
28,原田実「二つの日向国」『季刊・古代史の海』第十号、一九九七年十二月、所収。
29,澤田洋太郎『天皇家と卑弥呼の系図』六興出版、一九八九年。
  小林恵子『解読「謎の四世紀」』文藝春秋社、一九九五年。
30,坂田隆『卑弥呼と倭姫命』青弓社、一九八八年。
  前掲『巨大古墳の被葬者』。
  関口昌春『邪馬台国のゆくえ』白順社、一九九四年。
31,渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち』学陽書房、一九九七年。
32,前掲『倭国の真相』。
33,前掲「東海系土器の移動と倭建説話」
34,宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』講談社、一九六七年。この書籍で宮崎氏は狗奴国を 熊本県球磨川河口に求めたが、後の『新版 まぼろしの邪馬台国』(講談社、一九八 〇年)で鹿児島県出水平野説に改める。
35,原田実「記紀歌謡の伝承に関する一考察」『国文学攷』第一二七号、広島大学国語国 文学会、一九九〇年九月。  

 

 

                       1998  原田 実