『先代旧事本紀』と『大成経』

 

 


 

 

 一般に『先代旧事本紀』(略して『旧事紀』ともいう)と呼ばれているのは聖徳太子撰 と伝えられる十巻の史書であり、その存在はすでに平安時代から知られていた。

 その成立時期を推定するにあたっては、次のような手掛かりがある。
1,『先代旧事本紀』巻十、国造本紀に、弘仁十四年(八二三)、越前国から加賀国を分け たという記述があり、『先代旧事本紀』全体の成立はそれ以後と思われる(ただし後世の 追記という可能性もある)。
2,『先代旧事本紀』には、忌部広成の『古語拾遺』からの引用とみられる個所があり、し たがってその成立は『古語拾遺』が編纂された大同二年(八〇七)以降であることは間違 いない。
3,承平の日本紀講筵私紀に、藤原春海による『先代旧事本紀』の論が引かれており、そこ から春海による延喜の『日本書紀』講書の際(九〇四〜九〇六)には、すでに『先代旧事 本紀』が流布していたことがうかがえる。
4,貞観年間(八五九〜八七六)編纂の『令集解』巻二に、物部氏の祖ニギハヤヒの十種神 宝に関する記述があるが、これを『先代旧事本紀』からの引用と見れば、すでにこの頃、 その書物も存在したということになる。

 三上喜孝氏は以上の論拠を検討し、次のようにまとめておられる。
「『旧事紀』の成立時期は、早く見積ったとして八〇七年〜八五九年、遅く見積ったとし て八二三年〜九〇六年になる。いずれにせよ九世紀初頭から十世紀初頭までの百年のあい だに成立したことは、まず動かないであろう」(三上「『先代旧事本紀』はどのように読 まれてきたか」『季刊邪馬台国』第四〇号)
『先代旧事本紀』の成立を九世紀とみれば、八世紀の『古事記』『日本書紀』よりは遅れ るとしても、上代の史書としては早い時期に属するものであることは間違いない。その内 容について、天御中主尊、国常立尊に先行する始源神・天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊 の名を伝えるなど、記紀にない神話・伝承を多く含み、しかも、その序文においては、聖 徳太子撰録と明記されたこともあって、近世初頭まで『先代旧事本紀』は記紀よりも古い 史書・神書として珍重されることになった。

 室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶は、自らの神道教学の祖を聖徳 太子に求め、『先代旧事本紀』を、記紀と共に三部の本書(神書)に数えている。

 だが、先述した如く、その叙述には聖徳太子以降の時代について言及する個所があるの みならず、聖徳太子と敵対したはずの物部氏の始祖伝承(ニギハヤヒ降臨)が重視されて おり、太子撰というのは信じ難い。おそらく何人かが律令国家確立の過程で没落した諸氏 族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広まったものであろう。『日本書紀』には、 推古天皇二八年、聖徳太子が島大臣(蘇我馬子)と共に「天皇記及び国記、臣連伴造国造 百八十部併て公民等の本記」を撰録したとある。太子は日本最古の史書の撰者として、ま さにふさわしい人物だったのである。
『先代旧事本紀』はまた、太子信仰と結びついたこともあって、近世までに数多くの異本 を派生している。『太平記』巻六は、楠木正成が、四天王寺の宿老の寺僧から聞いた話と して、卜部家に「前代旧事本記」という三十巻の本が伝わっていたとする(ただし、この 話は『先代旧事本紀』と『日本書紀』の混同から生じたものかも知れない)。
『先代旧事本紀』異本の内、現存するものはササキ伝三一巻本・七二巻本・伯家伝三十巻本 (『旧事紀訓解』)の三種、いずれも刊本として残されている。

 そして、その中でも、公開時、特に物議をかもしたのが『先代旧事本紀』七二巻本(附 二冊)こと延宝版『大成経』である。

 

 

磯宮の謎

 

 話は垂仁朝、伊勢神宮創建まで遡る。『日本書紀』によると、垂仁天皇の二五年三月、 、崇神天皇の皇女・倭姫命は、倭の笠縫邑(奈良県桜井市大神神社境内の檜原か)に祀ら れていた皇祖神・アマテラスの御神鏡を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探す旅に出た。こ の神の神威が強すぎて、大和の国内で祀ることができなくなったためである。倭姫命は近 江、美濃をめぐって伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに斎宮を建て、ようやくそこに 皇祖神を鎮めることができた。この宮を磯宮という。それは伊勢内宮の起源でもある。

 また、『止由気宮儀式帳』などによると、外宮は、雄略朝、内宮の皇祖神が倭姫命の夢 に現れ、食物を得ることができないと訴えたために、二度と飢えることのなきよう、丹波 国の与謝郡から伊勢の地に食物を司る神・豊受大神を勧請したものと伝えられている。

 伊勢神宮は朝廷の宗廟として、その創建以来、私幣禁止を原則としており、律令では皇 后や皇太子といえども天皇の勅許なしでは幣帛を供えることができないとされていた。今 でも伊勢神宮に賽銭箱がないのはこのためである。平安末期以降、御師といわれる下級神 職を通して民間からの寄進を受け入れるルートも開いてはいたが、神宮全体の財政を考え た場合、国家による保護は、その死命を決することになる。だが、国家はどうしても内宮 の方を重視する傾向がある。

 一方、伊勢神宮では、古来、外宮が内宮に優先して供進の品を受け取る慣習があり、そ こから鎌倉時代までには参詣者が外宮に参拝してから内宮に行くことが通例となっていた 。これは豊受大神が天照大神のいわば台所を預かる神であることを思えば、自然なことで あり、神嘗祀り・月次祭・祈年祭など神宮の重要な祭礼でも内宮より外宮に先に奉仕する 定めとなっている。

 しかし、外宮先拝の礼がいったん定着してしまうと、今度は外宮の神官の間に、実は外 宮の神は内宮の神よりも上位の神格なのではないかという発想が生じても仕方あるまい。 そこで、外宮では鎌倉時代、いわゆる神道五部書を広め、豊受大神は単に食物を生産する だけの神ではなく、天御中主尊、国常立尊と同体で世界万物の始源神であるという宣伝を 行うようになった。この外宮の主張に基づく神学こそ、いわゆる伊勢神道である。

 神道五部書とは『倭姫命世記』『造伊勢二所太神宮宝宮本記』『天照坐伊勢二所皇太神 宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本紀』の五書をいう 。これらが五部書と総称されるようになったのは、近世、これらの書が垂加神道の教典と されてからである。それらはいずれも古人に仮託されてはいる。しかし、実際には鎌倉時 代中頃、外宮の神官が古伝に基づきつつ、造作したものと思われ、すでに吉見幸和(一六 七三〜一七六一)の『五部書説弁』において、偽書と断ぜられている。

 さて、内宮側の史料『皇大神宮儀式帳』には伊勢内宮は礒宮(磯宮)から現在の位置に 移ったとある。これによれば、現在の伊勢内宮と別に、それよりも古い礒宮があったこと になる。一方、神道五部書の一つ『倭姫命世記』によると、アマテラスの御神鏡は丹波・ 大和・紀伊・吉備・伊賀・近江・美濃・尾張・伊勢・鈴鹿の諸国を廻ったあげく現在の内 宮の地に納まったが、その道程では伊勢国の伊蘇宮に一年間止まったことがあるという。 『倭姫命世記』では、この礒宮は斎宮の礒宮とは別の宮とされているが、両者の間に混同 が生じることは避けられなかった(伊蘇宮は『延喜式』式内社の礒神社のことと思われる)。

 また、同じく五部書の一つ、『造伊勢二所太神宮宝基本紀』にやっかいな記述がある。 それによると、往古、朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を納める際、内宮・外宮・別宮と別 に「斎宮親王の坐す礒宮」にも八十口を進めたという。この記述が古伝に基づくものとす れば、斎宮の礒宮は内宮や外宮と同格の社だったということになる。

 さらに伊勢別宮の一つに伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)という神社がある。この社は 『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』でアマテラスの遥宮とされ、祭神はアマテラスの御魂と される。しかし、『倭姫命世記』ではこの宮の祭神を天日別命(伊勢国を開いた神)の子 ・玉柱屋姫命としており、さらに最近では天武天皇を祭神とするという説(石原知津『伊 勢神宮はなぜここに在るか』績文堂、一九九二年)も出されるなど、疑問の多い神社であ る。さて、この伊雑宮という名は礒宮ともまぎらわしい。ここから後世、大問題が生じる ことになるのである。

 源平合戦の頃から戦国時代にかけて、伊勢とその周辺の地はしばしば戦乱に巻き込まれ た。特に伊雑宮は志摩の九鬼水軍から大規模な略奪を受け、再建もままならなかった(こ の時、伊雑宮から奪われた文書がいわゆる「古史古伝」の一つ『九鬼文献』のタネ本にな ったとする研究者もある)。江戸時代、伊雑宮はたびたび幕府や朝廷に伝来の文書を提出 し、再建の願いを出したが、なかなか容れられることはなかった。その上、万治元年(一 六五八)、伊勢内宮より、伊雑宮が幕府に提出した文書の中に、偽作の神書があるという クレームがついた。

 すなわち、伊雑宮提出の『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、伊雑 宮こそ本来の礒宮にしてアマテラスを祀る真の日神の宮であり、外宮はツキヨミを祀る月 神の宮、内宮にいたっては天孫・ニニギを祀る星神の宮に過ぎないというのである。

 このような主張を内宮が受け入れるはずはない。伊勢神道を奉ずる外宮にしても同様で ある(もっとも外宮はすでに神道五部書を偽作した前歴があるのだが、当時の神官は、そ の事実をもはや知らなかっただろう)。幕府はこの問題の処置に頭を痛めた。

 寛文二年(一六六二)、幕府は伊雑宮再建のためにようやく重い腰を上げた。しかし、 それはあくまで内宮別宮の一つとしての扱いであった。さらにその翌年には、偽書を幕府 に提出した門により、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その主張が全面的に認め られなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。

 

 

『大成経』出現

 

 延宝七年(一六七九)、当時、江戸の出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店か ら、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神 書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。

 序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、推古天皇が四天 王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものである。さらにその原史料とな った文書は、小野妹子と秦河勝が、それぞれ平岡宮(河内の枚丘神社?)と泡輪宮(?) で、神から授けられた土簡(タブレット)に刻まれていたという。

 その内容は次の通りである。
 首一・神代皇代大成経序、首二・先代旧事紀目録、巻一・神代本紀(天地開闢と祭祀の 発祥)、巻二・先天本紀(偶生神七代の系譜)、巻三・陰陽本紀(国産み・神産み神話) 、巻四・黄泉本紀(黄泉国神話)、巻五〜六・神祇本紀(三貴子の出生)、巻八〜九・神 事本紀(天岩戸神話)、巻九〜十・天神本紀(ニギハヤヒの事蹟)、巻十一〜十二・地祇 本紀(出雲神話)、巻十三〜十四・皇孫本紀(ニギハヤヒの子孫の事蹟)、巻十五〜十六 ・天孫本紀(日向神話)、巻十七〜二二・神皇本紀(神武〜神功)、巻二三〜二八・天皇 本紀(応神〜武烈)、巻二九〜三四・帝皇本紀(継体〜推古)、巻三五〜三八・聖皇本紀 (聖徳太子伝)、巻三九〜四四・経教本紀(神道教理)、巻四五・祝言本紀、巻四六・天 政本紀、巻四七〜四八・太占本紀、巻四九〜五二・暦道本紀、巻五三〜五六・医綱本紀、 巻五七〜六〇・礼綱本紀、巻六一〜六二・詠歌本紀、巻六三〜六六・御語本紀、巻六七〜 六八・軍旅本紀、巻六九・未然本紀、巻七十・憲法本紀、巻七一・神社本紀、巻七二・国 造本紀、以上、全七二巻・付録二冊。

 なお、『大成経』の本格的刊行が始まる前に、延宝三年、経教本紀の中の「宗徳経」、 翌四年には同本紀の中の「神教経」が刊行されている。また、延宝三年には、憲法本紀と 同じ内容の本が『聖徳太子五憲法』と題して刊行された。版元はいずれも戸嶋惣兵衛であ る。『聖徳太子五憲法』とは、一般に聖徳太子の十七条憲法として知られているものが、 実は五憲法の一つ「通蒙憲法」に過ぎず、太子は他に「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲 法」「神職憲法」各十七条をも発布していたとする文献である。また、「通蒙憲法」にし ても、その内容は『日本書紀』所載のものとやや異なり、『日本書紀』で第二条とされて いる「篤く三宝を敬へ」が『大成経』では第十七条とされている上、三宝の内容も「仏法 僧」から「儒仏神」に変えられている。

 五憲法はいずれも儒仏神三教調和の思想を基調としている。それはまた『聖徳太子五憲 法』に限らず、その後に刊行された『大成経』各巻でも繰り返される主張である(五憲法 の内容については野澤政直『禁書聖徳太子五憲法』新人物往来社、一九九〇、参照)。

 さて、『大成経』は世に出るや、たちまち江湖の話題を呼び、学者や神官、僧侶の間で 広く読まれるようになった。

 

 

外宮の祭神はツキヨミか

 

 ところが『大成経』が広まるにつれ、伊勢両宮の神官たちは、この奇書が秘めている危 険性に気付いた。すなわち、『大成経』は、伊雑宮を日神の社とし、外宮・内宮をそれぞ れ月神・星神の宮とする伊雑宮の主張を裏付け、さらに強調するような内容になっていた のである。ここにそのいくつかの例を挙げてみよう。
『日本書紀』には一書として五穀の起源に関する有名な神話がある。日神アマテラスが弟 の月神ツキヨミを保食神の処に使者として送ったところ、保食神が食物を口から出すのを 見たツキヨミがこれを不潔だと怒り、殺してしまった。そしてその保食神の死体から牛馬 と五穀が生じ、天熊人の手を経てアマテラスの下にもたらされたというものである。

 しかし『大成経』の神話では、保食神の殺害者はツキヨミではなく、天熊人だとされて いる。そして、ツキヨミは保食神の体から生じた五穀を集め、これをアマテラスに献上し たという。したがってツキヨミは五穀をもたらした功労者ということになる。

 しかも、その後、ツキヨミは「丹波の与謝の真奈井の豊受神宮」に祭られたという。こ の神社は伊勢外宮の元宮だから、『大成経』に従えば、外宮の祭神はツキヨミということ になってしまうのである(ただし、月神=農耕神とする民俗信仰の存在などから、『大成 経』の五穀起源神話の方が『日本書紀』のそれよりも古形ではないかとする論者もある。 松下松平「『旧事紀』訓解出版の思い出」『歴史と現代』二−二所収、歴史と現代社、一 九八一、田中勝也『異端日本古代史書の謎』大和書房、一九八六、等)。

 また、『大成経』「神皇本紀」中、垂仁天皇二五年の条では、日本媛命(倭姫命)によ る伊勢神宮創建を語っているが、その中では日本媛命が猿田彦大神の神示に従い、天照大 神の神霊を飯井大神宮(伊雑宮)に遷したとされている。すなわち、これによると皇祖神 たる日神アマテラスを祭るのは、伊勢内宮ではなく、伊雑宮だということになる。

 さらに刊行当初の『大成経』には伊雑宮の社格が内宮・外宮よりも上位にあることを示 す「二社三宮図」までが付されていた。
『大成経』のベストセラーは伊雑宮によって仕組まれたものではないか。伊勢両宮の神職 たちはそのような疑いを抱き、幕府に詮議を求めたのである。

 伊勢神宮が国家の宗廟であり、幕府もタテマエ上は朝廷の権威に支えられている以上、 その秩序を乱すような異説は厳しく取り締まられなければならない。内外両宮からの度重 なる訴えにより、幕府は『大成経』刊行の背後関係を調査し始めた。

 

 

『大成経』弾圧事件

 

 天和元年(一六八一)、幕府はついに『大成経』を偽作と断じ、禁書として、その版本 を回収した。また、戸嶋惣兵衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女と僧 ・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も定まり 、『大成経』事件は一応の終結を迎えた。

 ただし、潮音は時の将軍・綱吉の生母、桂昌院の帰依も厚い高僧であった。そのため、 彼は特に罪を減じられ、謹慎五十日の上、上州館林の黒滝山不動寺(群馬県北甘楽郡磐戸 村)に身柄を移されるに止まっている。

 伊勢内宮・外宮の追求と幕府の処分はその後もさらに進み、天和三年九月には、ついに 『大成経』の版木までが焼かれてしまった。しかし、潮音はその天和三年、『大成経破文 答釈』(無窮会神習文庫蔵)を著し、なおも自らが偽作者に非ざること、『大成経』が真 正の古典であることを弁じ続けていた。

 さて、天和二年五月、幕府は将軍・綱吉が打ち出した政策方針(忠孝奨励、奢侈禁止な ど)を徹底させるため、諸国に命じて五枚の高礼を立てさせた。そして、その内の一枚に は、毒薬、偽薬、偽金の禁と並べて、次の項目が掲げられていたのである。
「新作之慥ナラザル書物、商売スベカラザル事」(『正宝事録』)

 すなわち新作で、その由緒の明らかでない書物を売買してはならないということである 。これは徳川幕府によって成文化された最初の出版統制令といわれる。その公布に際し、 『大成経』弾圧事件が影響を与えたことは想像に難くない。

 明和八年(一七七一)、京都本屋仲間は、幕府の出版界への介入を防ぐため、『禁書目 録』という自主規制リストを作った。弾圧に対し抵抗ではなく、自主規制を以て応じると いうのは今も昔も変わらぬ日本出版界の体質のようだが、それはさておき、『禁書目録』 の売買禁止目録、絶板(絶版)目録のそれぞれ筆頭には、「先代旧事本紀」の名が掲げら れている。これが『大成経』のことを指すことは言うまでもない。

 しかも、絶板目録では「先代旧事本紀」の植字板・版本を挙げた後、御丁寧にも「礼綱 本紀」「聖徳太子五憲法」「同頭書」「聖皇本紀」など『大成経』の一部の巻名を記して 、そのバラ売りまで禁じているのである。

 また、天明の頃、水戸彰考館の館員だった小宮山楓軒は、師の立原翠軒から伝授された という偽撰書目録(伊勢貞丈選)を伝えているが、その筆頭にも「大成経」の名が挙げら れているのである(今田洋三『江戸の禁書』吉川弘文館、一九八一)。

 ちなみに、『大成経』弾圧事件の経緯等に関しては、すでに次の書籍や論文などで論じ られているので、くわしくはそれらを参照されたい。

宮武外骨『筆禍史』(一九一一)
河野省三『旧事大成経に関する研究』(国学院大学宗教研究所、一九五二)
鎌田純一『先代旧事本紀の研究』(校本の部・研究の部、吉川弘文館、一九六二)
今田洋三『江戸の禁書』(前掲)
岩田貞雄「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」(『国学院大学日本文化研究者紀要』第 三三輯、一九七四)
小笠原春男「偽書『大成経』出版の波紋」(ジャパンミックス編・刊『歴史を変えた偽書 』一九九六年)

 これらの諸論考では、いずれも伊雑宮を『大成経』偽作のいわば黒幕的存在とみなして いる。しかし、私はその主犯が別におり、伊雑宮がなんらかの形で『大成経』偽作に関わ っていたとしても、それは偽作者にかつぎあげられただけではないかと考えている。その 偽作者の正体については改めて後述することにしたい。

 なお、「大成経」という呼称は延宝版『大成経』ばかりではなく、『先代旧事本紀』サ サキ伝三一巻本に対しても用いられる。こちらは寛文十年(一六七〇)、京極内蔵助を版 元として、源能門なる人物の跋文付きで刊行されたものであり、内容は延宝版『大成経』 の序から巻三四までと対応している。その跋文によると、ササキ伝『先代旧事本紀』には 刊行された三一巻の他に、所蔵者が秘伝とする雑部数十巻があったという。

 これは延宝版『大成経』のタネ本、もしくは『大成経』偽作者による試作品に当たるも のだろう。最近、先代旧事本紀刊行会から『先代旧事本紀大成経』(宮東斎臣註解)とし て刊行されているのは、このササキ伝三一巻本の方である。

 

 

長谷川修の潮音観

 

『大成経』偽作者の一人と目された潮音について、『総合仏教大辞典』(法蔵館)は次の ように述べる。

 

  ちょうおん 潮音(寛永五 1628−元禄八 1695)黄檗宗の僧。肥前小城郡
  の人。号は道海また南牧樵夫。承応三年(一六五四)長崎で隠元に会い、寛文元年(
  一六六一)黄檗山にいたり、隠元・木庵に師事した。上野館林の藩主の帰依を受け、
  万徳山広済寺を開いて第二世となる。儒典を究め神道を学び、開山となること二十余
  カ寺、受戒者一〇万人余と伝える。著書、指月夜話七巻、霧海南針一巻など。〔参考
  〕潮音禅師年譜、続日本高僧伝五

 

 この辞典の記述には、『大成経』との関連はまったく言及されていない。同辞典の編纂 委員は、高僧の履歴に、スキャンダラスな偽書・禁書との関係を記すことを忌避したので あろうか。潮音が宗派興隆のためにも尽くし、今なお、黄檗宗黒滝派の祖として、同宗派 内での尊敬を集めていることは間違いない。しかし、宗門の外を一歩出れば、潮音の名は むしろ『大成経』との関わりにおいて知られているのである。神宮皇学館大学学長を務め 、最後の国学者といわれた山田孝雄などは、潮音のことを「妖僧」と断じている(「所謂 神代文字の論」『芸林』第四巻一〜三号、一九五三)。

 潮音は仏教界では尊敬すべき高僧として、国学界では憎むべき文献偽作者として、百八 十度異なる人物評価がなされていることになる。

 また、潮音について、従来の毀誉褒貶とは異なる視点から、その人物像を描こうとした 論者もある。たとえば、「古代史推理」三部作(『古代史推理』新潮社、一九七四、『幻 の草薙剣と楊貴妃伝説』六興出版、一九七七、『近江志賀京』同、一九七八)を著した作 家・長谷川修(一九二六〜一九七九)である。彼は、『大成経』の著者を潮音と断定し、 さらに彼を「古代史研究の先達」と賞賛した上で次のように述べている。
「延宝・天和の頃といえば、俳諧の芭蕉、『万葉代匠記』を書いた契沖、小説の西鶴、数 学の関孝和、その他、新井白石(ただし彼はまだ二十代であった)、山崎闇斎、木下順庵 、山鹿素行・・・など、ここに一々挙げきれないくらい多数の学者や能才たちのひしめい ていた時代である。これらの人たちはみんな、後世に多大な影響を与え得た非凡な連中で あり、彼等の中に混って、しかも将軍綱吉の師匠格に当る潮音が自信を持って世に問うた 大著『先代旧事大成経』が、そんなに凡庸なものであったとは到底思えない。もともと聖 徳太子撰録の『旧事紀』も焚書になっているのだから、その点でも焚書の価値すらもなか った平安初期の『先代旧事本紀』に較べて、この潮音の『大成経』の方は、まず焚書にさ れるだけの価値を具えていたに違いない、と大いに興味をそそられるのである」(『古代 史推理』一六六〜一六七頁)
「契沖の学風は、精密で創見に富む考証を積み重ねるやり方で、これは宣長に受け継がれ て、宣長の『古事記伝』は『古事記』の一語一句について綿密な考証を積み重ねている。 これに対して潮音の方は、別に大して資料を用いず、すべて彼の直観によって、大著『大 成経』を仕上げたのではないかと推測される。たぶん彼の伊勢神宮論も、別に志摩国伊雑 宮の資料を引いたものではなく、彼独自の直観から生み出されたものだっただろう。する と彼はどういう風にして、そんな古代史論を組み上げることが出来たのだろうか」(同書 一六八頁)
「『記紀』は聖徳太子撰録の『旧事紀』を原本に用いている。すると『記紀』を読んで、 その底にある『旧事紀』の原形を洞察すること−これが古代史をさぐる一つの有力な方法 になる。従来高僧と云われる人には、独特の直観力と深い洞察力を持つ人が多いが、江戸 時代の潮音もこの種の能力に優れた人で、彼は『記紀』の語る虚構古代史から、立ちどこ ろにその背後にある『旧事紀』の原形が見通せたのであろう。従って彼の『先代旧事大成 経』は、彼が『記紀』の背後にみた『旧事紀』の原形の姿を、そのままとらえたものだっ ただろうと想像される。ともかく『記紀』を読んで、そこからわが国古代史の真相を直ち に読み取る人がいても不思議はないし、またそういう人が当然いた筈なのだ」(同書一六 九頁)
「さきに『先代旧事本紀』と呼ばれる二つの偽書について述べたが、一方が平安初期のた ぶん神道系の人によって書かれたものに対し、他方は江戸時代の仏門の僧によって書かれ たものであった。だが両書の古代史に関する洞察の深さという点では、まず雲泥の差があ った筈である。わが国の古代史は謎に包まれているというが、奈良・平安時代以後、仏門 系の人たちには恐るべき直観力を具えた人が多く、そして彼等の中には日本の古代史につ いて、実に透徹した目と深い洞察を持っていた人たちが、かなりの数いたことだけは確か なのだ。ただ不幸にして、その人たちの書き残したものは、非凡な著作の常套的に蒙る運 命として、何時の時代にも抹殺されてしまっているのである」(同書二一〇頁)

 長谷川は「古代史推理」三部作で歴史研究における作家的想像力の必要性をくりかえし 説いている。彼によれば、「古代史が明確にできないというのも、それは何も学者たちの 怠慢ではなく、怠慢を責められるのはむしろ作家の方」(『近江志賀京』まえがき)だと いうのである。彼の潮音観には、作家としての経験と想像力を駆使して、古代史の謎に挑 んだ長谷川自身の姿が投影されているように思われる。なお、長谷川のユニークな記紀成 立論やその他の業績には、今後、大いに顕彰されるべき点があると思うのだが、なぜか、 彼の著書の多くは、小説も含め、現在、次第に入手が困難になりつつある。これも「非凡 な著作の常套的に蒙る運命」によるものなのであろうか。

 それはさておき、長谷川は、潮音が無から有を作り出すようにして『大成経』を世に出 したと考えていたようだが、それは疑わしい。むしろ、潮音は『大成経』が世に出るにあ たって、その学識と令名を利用されたとみなすべきである。
『大成経』偽作の真の主犯、それは潮音と共に処罰の対象となった長野采女(永野采女、 一六一六〜一六八七)と思われる。長谷川の賛辞は潮音よりもむしろ采女にこそ捧げられ るべきであった。

 しかし、『大成経』弾圧事件以降、采女の存在は潮音の華々しい業績の影に隠れてしま った。そのため、後世、潮音を偽作の主犯とする誤解が広まったのである。

 

 

怪人物・長野采女

 

 長野采女に関する逸話は江戸時代の書物にしばしば出てくるが、その多くは風聞・推測 の域を出ない。史学界では、采女は長らく謎の人物とされてきたわけだが、河野省三氏は 采女の門人・仙嶺が著した長野采女伝を発見し、それを著書『旧事大成経に関する研究』 に収録した。かくして長野采女なる人物について、研究者はようやくイメージを結べるよ うになったのである。

 長野采女は元和二年、上州沼田の生まれ。本姓は在原、号は左右軒であった。祖先は上 州蓑輪の城主だったと称していたが、たとえそれが本当だったとしても采女の誕生時には その家はすでに没落していたことになる。

 彼は幼少の頃から神童の誉れ高く、その前半生はさまざまな奇蹟に満ちていたという。 たとえば、彼が船中にある時、にわかに強風が起こって船がくつがえろうとした。その時 、采女は家伝の仏舎利を懐中にしていたが、船頭の話では、舎利を海中に投ずれば、龍神 は鎮まるという。そこで采女は舎利を差し出す代わりに、舳先に立ち「鱗虫の身を以て浄 宝を奪わんとは何事」と恫喝すると、たちまち風は鎮まったという。また、彼は夢の中で 龍樹菩薩の教えを受けたこともある。

 采女の家には、代々、物部之家伝という神道奥義が伝わっており、それを記した家伝の 書物七十余巻もあったという。その巻名は詠歌伝・軍旅伝・未然伝・医綱伝・太占伝・天 政伝・暦道伝などであったとされ、『大成経』の本紀名と共通している。

 また、彼は慈眼大師こと天海僧正(一五三六?〜一六四三)に神儒仏三教一致の教えを 学び、さらに天文地理、算書医卜に至るまでの諸学を修めた。

 貞享四年、彼は伊勢の人に誘われ、神宮に参ろうとして旅立つが、三河の地で病を得、 そのまま世を去ったという。享年七二才。

 ちなみに采女と交渉のあった同時代の著名人は天海僧正や潮音ばかりではない。長野采 女伝には、彼と会った名士として、雲居僧正、心月観公禅師匠、一条関白などの名を見る ことができる。忍澂(一六四五〜一七一一)は当時、流布していた仏教経典(大蔵経)の 校訂を志し、『大蔵対校録』編纂(一七九一年完成)を開始した浄土宗の高僧だが、彼は 長野采女の門下に入って、その神道奥義を伝授されており、そのことは忍澂の伝記(浄土 宗全書所収)にも明記されている。

 江戸時代の初めに、一介の浪人だった男が、これほどの名士たちと会えるとはただごと ではあるまい。長野采女がそれなりに奇妙な魅力を持った人物だったことは間違いない。 そして、彼はその名士たちとの交友を最大限に利用していたようである。なかなかの怪人 物といえよう。

 仙嶺の長野采女伝は、采女が、久しく神庫に秘匿されていた神史経教を世に広めたとし て讃える。今田洋三氏は、仙嶺のいう「神庫秘匿の古典」とは、伊雑宮に蔵された旧記類 であり、暗に『大成経』を意味するものではなかったかとする(『江戸の禁書』。むろん 、長野采女伝では『大成経』そのものの名を直接、出すことは避けられている)。

 しかし、『大成経』が伊雑宮に蔵されていたとすると、『大成経』原本らしきものが采 女の家に伝わっていたという長野采女伝の記述とは矛盾することになる。

 そこで注目されるのは、采女が夢に龍樹菩薩の教えを受けたということである。龍樹( ナーガールジュナ。龍猛、龍勝とも訳す)は二〜三世紀頃の南インドの人。大乗仏教の空 思想を体系化した思想家で、日本では八宗(南都六宗・天台・真言)の祖として崇められ 、また真言宗八祖・浄土真宗七祖の一人にも数えられている。

 龍樹の伝記には一見、荒唐無稽な記述が多く、南海の龍宮に入って秘蔵の大乗経典を得 たなどという話もある。また、真言宗や天台宗では、龍猛菩薩が南インドに建てられた鉄 塔の門を破り、その中に秘められた密教経典を得たという「南天の鉄塔」の話を伝えてい る。采女は自らを当代の龍樹に擬し、秘蔵の神書を世に出そうとしたのではないか。そう すると仙嶺のいう「神庫」について、伊雑宮との関係にこだわることはない。

 さらにそう思ってみると、『大成経』の由来譚、小野妹子と秦河勝が土簡を得たという 話が、実は龍樹菩薩の龍宮探検や「南天の鉄塔」の焼き直しであることに気付くのである (なお、津村正恭の『譚海』にも、『大成経』由来譚と「南天の鉄塔」との類似は指摘さ れているというが、未読である)。

 以上から、『大成経』原本は長野采女の家に伝わっていた(と采女が主張していた)こ とが推定できる。『大成経』に伊雑宮に有利な記述が多いことは確かだが、だからといっ て『大成経』そのものを伊雑宮の陰謀の産物とみなすことも妥当ではあるまい。

 『先代旧事本紀』を媒介として、伊雑宮の主張を聖徳太子信仰に結びつけるのは、一見 、その主張の権威付けに有効なようだが、一つ間違えば内外両宮ばかりか仏教界にまで敵 を作ることになる。すなわち、伊雑宮が主体となって仕掛けるには、この賭けは余りにも リスクが大きすぎるのである。

 長野采女伝によると、采女は天海に師事したというが、その天海の奉じた山王一実神道 (天台宗の教義に基づく神道教学)では、三を聖数として重視している。

 また、采女自身も儒仏神三教などという形で三という数字にこだわっていたらしい。そ のため、彼には、伊勢神宮を内外両宮のみではなく、伊雑宮をも含めて三宮と数えるべき だという伊雑宮側の主張に、大いに共鳴するところがあったのであろう。

 さて、江戸時代の学者の記事に、『大成経』偽作が発覚した際、幕府の追求を恐れた神 官・永野采女が江戸を大急ぎで離れる道中、落馬して死んだとするものがある。

 そのため、私は以前、著書において、永野采女と長野采女を別人物として扱ったことが ある(『日本王権と穆王伝承』批評社、一七一頁)。

 しかし、その後、史料を検討し直した結果、永野采女は長野采女と同一人物であり、落 馬死亡説は単なる風説に過ぎないことが判明した。

 そこでこの場を借りて、その著書の誤りを訂正し、さらに私の史料誤読を指摘された松 下松平氏に謹んで感謝の意を評したい。

 なお、延宝版『大成経』に先立つササキ伝三一巻本については、『大系図』『江源武鑑』 『和論語』『金史別伝』逸文などの偽作で知られる近江の奇人・佐々木氏郷こと沢田源内 (一六一九〜一六八八)が作成に関与した可能性がある。岩田貞雄氏によると、永野采女 は、一時期、源内の住所に近い近江八幡に住んだことがあるという。

 

 

潮音はなぜ信じたのか

 

 さて、『大成経』の由来譚で、長野采女が小野妹子・秦河勝になぞらえられていたとす れば、潮音の役割は、聖徳太子・蘇我馬子に当たるということになるだろう。采女が所持 していた本をはじめとして、『大成経』の諸本を校合し、定本刊行へとこぎつけたのは、 まさしく潮音の業績である。

 潮音が生を享けた肥前の地は、弥生時代の菜畑遺跡、宇木汲田遺跡(以上唐津市内)、 二塚山遺跡、三津永田遺跡、横田遺跡、吉野ケ里遺跡(以上神崎郡内)や、金立神社(佐 賀市金立町)の徐福渡来伝説、『三国志』倭人伝の末盧国(松浦)などからもうかがえる ように、日本列島と大陸との交流において古くから門戸となってきた処である。

 中世にはこの地を拠点とする松浦党が、中国や朝鮮との交易あるいは略奪(倭寇)によ って栄えていた。

 江戸時代の鎖国下にあっても、そうした気風はまったく失われたわけではなかった。だ からこそ、潮音も当時、日本に伝来したばかりの黄檗禅を学ぶことになったのである。

 潮音が、日本に黄檗禅を伝えた隠元禅師(一五九二〜一六七三)と初めて会ったのは、 承応三年(一六五二)のことである。それから九年後の寛文元年(一六六一)、潮音は隠 元開創になる黄檗山万福寺に入る。

 江戸時代の川柳に「山門を出れば日本ぞ茶摘歌」という句がある。黄檗山万福寺は京都 の宇治にあって、日本の中の異国とも言うべき不思議な空間であった。そこでは隠元以来 、歴代の住持を中国から招く慣習があった。日本人が住持に就任したのは、ようやく元文 五年(一七〇四)、第十四世竜統元棟の代になってからである。

 そのため、万福寺では、法式儀礼をすべて中国式によって行い、言葉も寺内では中国語 を用いるしきたりがあった。先の川柳はその万福寺の異国性を、有名な茶処である宇治の 風景と共に詠みこんだものである。

 今もなお、万福寺を総本山とする黄檗宗は、禅と念仏を合わせ修するという明末中国仏 教の行法を今に伝えている。

 もしも当時、日本人の海外渡航が許されていれば、また、中国が明末清初の動乱期でな かったら、潮音は、京都宇治ではなく、中国は福州の黄檗山へと向かっていたかも知れな い(李自成の反乱軍が明朝を倒したのは一六四四年、南明滅亡が一六六二年、清朝の聖祖 康煕帝が台湾に拠る明朝最後の遺臣・鄭氏を掃討したのは一六八三年のことである)。

 国内にあって海外の先端の思想(少なくとも日本ではそう信じられていた)に触れた潮 音が、正史に現れる日本最初のコスモポリタン聖徳太子に敬慕を抱くのは自然なことだっ た。潮音は延宝七年、『大成経』の内、聖皇本紀を特に講じたことがあるという。聖皇本 紀とは欽明から推古の時代を対象とするものだが、その内容は実質上、聖徳太子の伝記と なっている。また、延宝八年、潮音は伊勢参りの折、千田寺の聖徳太子像の朽壊ぶりを見 て、自ら出資し、これを修繕している(野澤政直『聖徳太子五憲法』参照)。

 この太子信仰の念ゆえに、長野采女がもたらした『大成経』には、潮音の心の琴線に触 れるものがあったのであろう。

 信仰を通して培われた信念は、簡単には崩れることがない。宗教的な情動はその人の全 人格に関わるものだからである。潮音が実証的・学問的な立場から『大成経』にアプロー チしたのならば、その『大成経』が禁書となり、自らも偽作者の汚名を着せられた時点で 熱がさめていたことだろう。しかし、彼は信仰の対象として『大成経』に接していた。そ のため、彼は幕府の弾圧にも本心から屈することはなかったのだ。

 

 

「古史古伝」の元祖

 

 幕府による弾圧の後、多くの学者たちが『大成経』の偽書たることを論じ続けてきた。 徳川光国をはじめとして、吉見幸和、多田南嶺、伊勢貞丈、本居宣長、平田篤胤、橘守部 ・・・だが、こうして学者たちが繰り返し、偽書たることを強調したというところに、か えって『大成経』の反響の大きさをうかがうことができよう。

 潮音や長野采女と同時代の学者の中には古学の祖・山鹿素行(一六二二〜一六八五)の ように進んで『大成経』の神道を研究した者もあるし、山崎垂加(一六一八〜一六八二) のように、『大成経』が真正の古典たることを信じ、自説の例証に引用する者さえあった 。また、各地の神社の由緒書にも、しばしば『大成経』の影響を見ることができる。

 そして、その影響力ゆえに、『大成経』刊本は、幕府による徹底した焚書の網をかいく ぐり、現在まで残されてきたのである(私は学生時代、母校・龍谷大学の図書館に所蔵さ れた『大成経』全巻を見たことがある)。

 いわゆる「古史古伝」の世界にも『大成経』が与えた影響は大きい。特に『秀真伝』お よびその同系の文献である『三笠文』『神勅基兆伝太占書紀』は、『大成経』を事実上の 下敷きとして書かれたと思われる。
『秀真伝』研究家の松本善之助氏は、『大成経』詠歌本紀にある第七代孝霊天皇の御製が 『秀真伝』にも見られることを指摘している(『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』毎 日新聞社、一九八〇。孝霊は記紀ではいわゆる欠史時代に属する天皇である)。

 また、「古史古伝」では、しばしばニニギの兄・天火明命とニギハヤヒを同一の神格と する記述がある(『上記』『竹内文献』等)。この両者の混同はすでに『先代旧事本紀』 十巻本から始まっており、必ずしも『大成経』独自の伝承とはいえないが、『大成経』が 直接の典拠となった可能性は高い。

 さらに山田孝雄によると、しばしば神代文字の配列に用いられる呪言「ヒフミ歌」も、 『大成経』を初出とするという(「所謂神代文字の論」)。
 詩人として有名な豊後日田の漢学者・広瀬旭荘(一八〇七〜一八六三)は、『大成経』 を偽書と断じながらも、その偽作者の力量に感嘆して、次のように述べている。
「作者、豪才強魄畏ルベシ。是ノ骨折ヲ移シテ、真正ノ歴史ヲ修メバ、其功赫然タランニ 。惜哉」(『九桂草堂随筆』)

 推理作家・森村誠一氏は「和田家史料」の偽作者・和田喜八郎氏を評して「これだけの 才能と情熱に恵まれていれば贋作ではなくオリジナルな作品を創造できるのではないか」 と述べている(「編集部・編集者への便り」『季刊邪馬台国』五五号、掲載)。

 旭荘の『大成経』作者評は、この森村氏のコメントを百数十年ほど遡らせた趣がある。

 公開時、ただちに時の権力から弾圧を受けたということからいっても、後世への影響か らいっても、『大成経』こそ、まさに「古史古伝」の元祖と呼ぶにふさわしいだろう。

 なお、最近、おりからの予言ブームで、『大成経』の「未然本紀」を聖徳太子の未来記 と同一のものとする説が現れている。「未来記」とは、聖徳太子が記し、四天王寺で伝え ていたという伝説上の予言書であり、藤原定家の『明月記』や『太平記』巻六などにその 名が見える。たしかに「未然本紀」は聖徳太子が自らの没後に起きることを、あらかじめ 記し残したという体裁にはなっている。しかし、これはいわゆる未来記とはあくまで別物 であり、混同してはならない。

 潮音は晩年、京都鹿ケ谷の法然院万寿寺に参っている。万寿寺は長野采女の門人・忍澂 の創建であり、その寺内には采女の墓があった。潮音の万寿寺参詣の目的が采女の墓参り にあったことは間違いない。偽書・禁書のスキャンダルに巻き込まれても、潮音は生涯、 采女への信頼を失うことはなかったのである。
               (初出−『季刊邪馬台国』五八号、一九九六年二月)  

 

 

                       1998,5  原田 実