二つの御落胤伝説
−出口王仁三郎と藤原不比等−

 

 


 

 

第一回公判にて

 

 昭和十一年(千九百三十六)、ある裁判が開廷された。それは当時、緊迫していた大陸 情勢以上に、日本国民の耳目を集めたさる事件に関するものだった。ところがその第一回 公判、裁判官と被告の間では、次のような珍妙なやりとりが行われていたのである。
裁判官「自分は有栖川宮の落胤だというたとのことなるが、それは何時ごろからか」
被告人「私はよく知りませんが、私の祖母がよく母に対して勝手なことをするというて始 終いじめておりましたが、母が死ぬ一寸前に母が私に話してくれましたが、母の母親の弟 にあたる人が伏見で侠客の大将をしておりましたが、有栖川宮さまがまだ寺におられた頃 そこに出入りをしており、また料理屋をもしていたので、伏見にお成りのさいにはよく寄 られたとのことでありましたが、また祖母らの話によりますと、母は若い頃は発展家であ り、そのため祖父母が母をその叔父の所へ預けたとのことで、そのさいにはお給仕に出た り何かして、それから私ができたというのが母の話であります。母は私にこんなことはお それ多いからいうなというて隠しておりましたが、母が死ぬころ二、三人にしゃべったら しく、それで広まりました」
裁判官「被告人も人に話したのではないか」
被告人「私は話しませんが、心覚えのために歌で一寸出しておきました」
 この被告の名は出口王仁三郎(一八七一〜一九四八)、当時話題の新興宗教・大本の聖 師である。この問答は昭和十年に始まる第二次大本弾圧(不敬罪・治安維持法違反容疑) の裁判における一幕である。王仁三郎が有栖川熾仁親王(一八三五〜一八九五)のご落胤 だという話は大本の信者の間ではかなり広く噂されていたらしい。王仁三郎自身も多くの 歌の中で自らの出生の秘密を暗示しようとしている。たとえば「父君と名乗りもそならぬ 運命の綱に曳かれる身こそ悲しき」「惟神奇しき運命たどりつつ世に生まれたる人ぞ地に あり」「ありありとすみきる和知の川水は汚れはてたるひとの世洗う」などである。
 ちなみに王仁三郎によると、ヨネは有栖川宮から贈られた菊紋の短刀、短冊、小袖を持 っていたが、そのすべては火災で失われてしまったのだという。つまり証拠の品の提出を 求められても応じることはできないというわけである。
 王仁三郎は公判の場においては、自分から御落胤だと名乗ったことはない、人が勝手に 噂するだけで、歌を詠むのも「心覚え」に過ぎないと言い抜け続けた。この人を食ったと ころが、いかにも王仁三郎らしいとも言えるかも知れない。ちなみにこの第二次弾圧で大 本は教団内から発狂者や殉教者さえ出すに至ったが、王仁三郎自身は昭和十七年、不敬罪 違反で五年(治安維持法違反は成立せず)の判決を得て、閉廷直後に保釈されている。

 

 

上田家の謎

 

 王仁三郎は明治四年八月二二日、京都府亀岡の一角、穴太村の農民の娘、上田ヨネの長 男として生を享けた。父は近所の地主の奉公人から、上田家の婿に迎えられた吉松とされ る。伏見の料理屋に奉公していたというのは、このヨネの若き日の話である。
 両親は彼を喜三郎と名付けた。王仁三郎の語録の一つ、『玉鏡』によると、そもそも上 田家の発祥は大和の藤原氏。信州上田の地に居を構え、上田の姓を称したが、戦乱の内に 領地を失い、ついに亀岡まで追われてきたのだという。また、上田家には七代ごとに名を 天下にあらわすというジンクスがあり、喜三郎は祖先の一人、上田主水こと円山応挙(江 戸時代の画家、一七三三〜一七九五)から数えて七代目だということで、彼の祖父などは 大いに期待をかけていたともいう。ちなみに彼の祖母ウノは、国学者・中村孝道の妹で、 喜三郎は幼い頃より、祖母から言霊学の手ほどきを受けたという話もある。
 自らの出自について、王仁三郎はまた奇妙な暗示をも与えている。
「蒙古とは古の高麗の国のことである。百済の国というのは今の満州で、新羅、任那の両 国を合したものが今の朝鮮の地である。これを三韓というたので、今の朝鮮を三韓だと思 うのはまちがいである。玄界灘には散島があって、それをたどりつつ小さな船で日本から 渡ったものである。義経はこの道をとらないで北海道から渡ったのであるが、蒙古では成 吉斯汗と名乗って皇帝の位についた。(中略)また成吉斯汗の子孫母につれられて日本に 渡り、五十四歳のとき蒙古に帰りきたって滅びゆかんとする故国を救う、という予言もあ る。わたしの入蒙はちょうどその年すなわち五十四歳にあたり、また成吉斯汗起兵後六百 六十六年目に当たっているのである。かるがゆえに蒙古人は私を成吉斯汗すなわち義経の 再来だと信じきったのである」(『月鏡』)
 すなわちモンゴル人から見た王仁三郎は、亀岡の農民の子でも、有栖川宮の御落胤でも なく、故あって日本で育てられた義経=チンギス・ハンの子孫(と目される人物)だった ということになる。王仁三郎はその予言の正否については言葉を濁しているが、彼が大正 十三年(一九二四)のモンゴル行において、源日出雄、素尊汗などの変名を使ったところ を見ると、けっこう本人もその気になっていたのかも知れない。この変名の「源」姓は源 義経に由来し、「汗」の称号はモンゴルの王号でチンギス・ハンの「ハン」にあたるのだ (王仁三郎モンゴル行の顛末については拙著『幻想の超古代史』批評社、参照)。
 閑話休題、喜三郎は弟妹に似ぬ福々しい顔立ちをしており、また小学校入学以前から読 み書きができ、十三歳にして小学校代用教員を務めるなど、幼少時から神童ぶりを示すエ ピソードにも事欠かかない。これが後年、御落胤説にリアリティを与えることになる。
 しかし、喜三郎が生まれた頃、かつては豪農だったという上田家はすっかり零落してい た。喜三郎は家の貧しさと生来の反骨の気性から、無頼、侠客の世界に身を投じ、明治三 一年には対立するヤクザの一団に袋叩きに合う。ところが喜三郎はその朦朧とした意識の 中で神秘体験を得て、宗教家としての道を歩み出すのだ。
 同じ年に喜三郎は、「艮ノ金神」なる神がかかったという京都府綾部の老女・出口ナオ (一八三六〜一九一八)と会い、明治三三年元旦にはナオの五女・出口スミの婿として出 口家に入る。また、ナオのお筆先には喜三郎のことが「鬼さぶろう」と現れていたことか ら、この結婚直後、彼は「鬼」を「王仁」と改めて、出口王仁三郎と名乗ることになる。
彼にとって「上田喜三郎」の名は執着の対象とはならなかったのだろうか。

 

 

落胤説は成り立つか

 

 さて、出口王仁三郎の有栖川宮落胤説について、これを事実とする論者もある。たとえ ば作家・宗教家の十和田龍氏(本名・出口和明)である。
 十和田氏によると、皇族である王仁三郎だからこそ、絶対天皇制国家の効果的なパロデ ィを演じることができた。また、彼が皇族だからこそ、国家権力は大本を恐怖し、徹底的 な弾圧を加えようとしたというのである。しかし、その論拠はといえば、十和田氏御自身 の出自に関連した信仰の域を出ていない(十和田『出口王仁三郎の神の活哲学』お茶の水 書房、一九八六、『オニサブロー』新評論、一九八七、他)。
 実際には、落胤説はチンギス・ハンの子孫というのと同じくらいに眉つばな話といって 良い。ここで有栖川宮こと熾仁親王の事蹟をふりかえってみよう。
 熾仁親王は有栖川宮家第九世。幕末には国事御用掛として幕府と対立、攘夷論者を尊王 倒幕に走らせる旗手の一人となる。文久三年(一八六三)の禁門の変では謹慎処分を受け 、うつうつとした日々を過ごす。伏見の料理屋に通いつめることがあったとすれば、この 頃だろう。だが、明治元年(一八六八)の王政復古では新政府の総裁に就任。戊辰戦争で は東征大総督として倒幕軍の最高指揮官を務め、江戸入城の大功を建てる。さらに会津戦 争では会津征討大総督をも兼任した。明治三年には兵部卿に就任、福岡藩知事、元老員議 官、同員議長を経て明治十年の西南戦争では征討総督として陸海両軍を指揮し、戦後は陸 軍大将に補せられる。明治十八年からは参謀本部長、近衛都督を兼任。明治二二年からは 参謀総長に就任。彼は皇族将校として軍事統帥権を掌握し続けることにより、陸海軍の統 帥者たる明治天皇の代理をも務めたことになる。
 しかし、ここでは単に時期の問題のみについて考えることにしたい。明治元年、政治の 世界にふたたび身を投じて以降、数年間、彼は主に東京で、席が暖まる暇もないほどの激 務に追われていた。そして、王仁三郎が母の胎内に宿ったはずの時期(明治三年頃)は、 この熾仁親王の生涯で最も忙しかったであろう頃にあたっているのだ。これでは伏見の料 理屋に通えるはずもない。つまり明治四年八月生まれという王仁三郎の生年からいって、 彼が説明するような状況での落胤説は成り立ちようがないのだ。
 落胤説はやはり王仁三郎得意のホラ話と見た方がよかろう。十八世紀ドイツの古典『ほ ら男爵の冒険』によると、語り手ミュンヒハウゼン男爵は、牡蠣が好物だった法皇クレメ ンス十四世が牡蠣屋の女主人に手をつけて生まれたのだという(岩波文庫版)。洋の東西 を問わず、一流のホラ吹きの発想というものは似通っているらしい。

 

 

有栖川宮伝説

 

 しかし、なぜ王仁三郎は自らの落胤伝説を編み出すに当たって、その幻の父に他でもな い有栖川熾仁親王を選んだのだろうか。熾仁親王は単に尚武一辺倒の人だったわけではな い。彼はまた悲恋の物語の主人公でもある。彼は孝明天皇の皇妹・和宮(親子内親王)の 婚約者だったが、周知の如く和宮は幕府老中・安藤信正らや下級公家出身の岩倉具視の画 策によって将軍家茂に降嫁したため、この婚約は自然解消となる。
 ことあるごとに徳川幕府と対立し、ついに自らの手でそれを滅ぼした熾仁親王の活躍ぶ りに、民衆は、彼と和宮との仲を裂いた幕府への怒りを読み取った。
 しかも、有栖川宮家そのものも、熾仁親王の後、第十世の威仁親王が大正二年、継嗣を 残さずに世を去ったためにそのまま絶えてしまうのだ(その家督を相続させるべく、大正 天皇が新たに興したのが現在の高松宮家である)。こうした悲劇性ゆえに有栖川宮家はい くつものロマンチックな伝説を残すことになる。そして、御落胤伝説というのも当事者た ちにとってはきわめてロマンチックな話に違いないのである。
 松本健一氏は出口王仁三郎の有栖川宮落胤説について、次のように述べる。
「こういう伝説を身にまといつかせることによって、かれは天皇制絶対主義下での宗教的 カリスマ性を獲得するのだ。そのさい、その落胤伝説の源は、近衛でも西園寺でも三条で も岩倉でもなく、皇女和の宮の悲恋伝説をもつ有栖川熾仁が最適任だったにちがいない。 なるほど和の宮との仲を幕府によって引き裂かれた有栖川宮なら、その恋の傷手をいやす べく料理屋の奉公女に手をつけるぐらいのことはあったかもしれないという想像が伝説の 受け手の側に働き、それによってその受け手も伝説の作り手に加わることになるのだ」( 松本『三島由紀夫亡命伝説』河出書房新社、一九八七年)
 ちなみに松本氏によると、三島由紀夫の父親に関しても、有栖川宮家最後の当主、威仁 親王の御落胤とする説があるという。三島の本名は平岡公威である。

 

 

荒ぶる神スサノオ

 

 しかし、熾仁親王が王仁三郎の幻の父に選ばれた理由は単に悲恋伝説ばかりでもなさそ うである。王仁三郎は自らをスサノオの神統と見なしていた。
「一体素盞嗚尊は大国主命に日本をまかされて、御自分は朝鮮(ソシモリ)の国に天降り 給ひ、或ひはコーカス山に降り給ひて亜細亜を平定され治められてゐた。(中略)ゆゑに 素盞嗚尊の神業は大亜細亜に在ることを思はねばならぬ。王仁が先年蒙古入りを為したの も、太古の因縁に依るもので、今問題になりつつある亜細亜問題といふものは、自ら天運 循環し来る神業の現はれであるといっても良い」(『玉鏡』)
 姉アマテラスを悩ませ、天岩屋戸隠れを招いた罪を背負って高天原を逐われたスサノオ の神話は貴種流離譚の原形でもある。そして、禁門の変直後、伏見の料理屋に入りびたる 熾仁親王の姿には、なにやら神逐らいにあったスサノオを思わせるものもある。そして、 その親王の子が認知されることなく、辺地の貧農の子として育ったとあれば、この話はま ごうことなき貴種流離譚ではないか。
 また、近世の民衆にスサノオのイメージを定着させた作品といえば近松門左衛門作の浄 瑠璃『日本振袖初』(享保三年=一七一八初演)だが、その中に現れるスサノオは、ニニ ギとの恋争いに敗れ、反逆へと追い詰められたとされている。
 恋の怨みから荒ぶる神となったスサノオのイメージは和宮を奪われた怒りから幕府を倒 した(かのように見える)熾仁親王に容易に重なってしまう。スサノオ=出口王仁三郎と すれば、熾仁親王もまたもう一人の王仁三郎なのだ。
 有栖川宮家は国史・国文関係の写本の収集でも知られ、宮家創設以来約三万冊もの蔵書 は現在、有栖川宮文庫として高松宮家で管理されている。熾仁親王自身も書家として名を 成した人物であった。この有栖川宮家の家風には、学問(正統的なものではなかったが) と芸術を愛し、晩年はひたすら茶器を焼き続けた王仁三郎の一面と通じるものがある。
 また、戦後は平和主義者のイメージが強調されがちな王仁三郎だが、彼はまた兵隊ゴッ コの好きな軍事オタクとしての一面をも持っていた。二度にわたる大弾圧も、王仁三郎の 軍事がらみの発言や活動を真に受けた権力側の防衛反応といって過言ではない。ちなみに 大正十年の第一次弾圧ではその検挙理由が不敬罪・新聞紙方違反容疑に過ぎないにも関わ らず、当時の新聞報道は「内乱予備の陰謀として告発」「軍人に深い根を下した大本教」 「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかる」などと、昨今のオウム関連報道 顔負けの毒々しさである。権力側の疑心暗鬼を招くほどの軍隊好きだった王仁三郎が、日 本陸軍の創設者であり、明治天皇の軍事上の代理人だった熾仁親王に憧憬を抱かないはず はない。すなわち王仁三郎の多面的なキャラクターのどの方面からいっても、その幻の父 にふさわしい人物としてはまさに有栖川熾仁親王しかいなかったというわけだ。
 御落胤などというホラ話の好きな教祖とその虚像におびえる国家権力、大本弾圧事件は 権力というものの滑稽さを表す戯画である。しかし、弾圧の中で死や精神障害にまで追い 込まれた人々にとって、それはあまりにも過酷な戯画であった。

 

 

「くらもちの御子」の謎

 

 『源氏物語』に「物語の出で来始めの祖」と評された『竹取物語』(十世紀頃成立)に は、持統〜文武朝の政界をモデルとした個所がある・・・これはすでに江戸時代の国学者 たちによって指摘されてきた事実である(田中大秀『竹取物語解』、加納諸平『竹取物語 考』等)。
 竹取の翁の下で美しく成長したかぐや姫の下には次々と求婚者がやってくる。そこで、 かぐや姫はその内の五人、石つくりの御子、くらもちの御子、右大臣あべのみむらじ、大 納言大伴のみゆき、中納言石上のまろたり、という面々にそれぞれ得難い宝物の名を示し 、それを持ってくるように願う。かくして、この五人の滑稽な、あるいはスリリングな失 敗ぶりが物語前半の見せ場となっているのである。
 さて、持統〜文武〜元明三代の都となった藤原京(六九四〜七一〇)の政界には、五人 の執政がいた。すなわち丹比真人島、阿部朝臣御主人、大伴宿禰御行、石上朝臣麿、藤原 朝臣不比等である。この内、阿部朝臣御主人と右大臣あべのみむらじ、大伴宿禰御行と大 納言大伴のみゆき、石上朝臣麿と中納言石上のまろたり、がそれぞれ対応することは、姓 名の一致から容易に推測できる。
 それでは、あとの二人はどうか。彼らの正体について、最初に精緻な考証を加えたのは 加納諸平である。まず、丹比真人氏はもと宣化天皇から出た皇族で臣籍に下ったのは天武 朝のことだから、島がかつて御子(皇子)と呼ばれていてもおかしくはない。
 また、『文徳実録』によると、古制では皇子はその乳母の姓を名乗ったという。そうす ると島の父、丹比王は丹比氏出身の乳母に育てられたと思われる。そして、その丹比氏は 『新撰姓氏録』によれば、天火明命を祖と仰いでおり、石作氏と同祖同族なのである。
 こうなると、くらもちの御子に対応する人物は残り一人、藤原不比等(淡海公 六五九 〜七二〇)その人ということになってくる。不比等といえば、中臣鎌足(藤原鎌足 六一 四〜六六九)の子であり、後の藤原氏の栄華の基礎を築いた人物である。
『公卿補任』や『尊卑文脈』によると、不比等の母は車持国子君の女、与志古娘となって いるから、「くらもち」の名乗りは母方の姓だということになる。ところが、ここで改め て問題となるのが「御子」の方である。不比等は皇子なのだろうか?
 実は『竹取物語』の成立時期からさらに下った時代の文献に、その疑問を解消するよう な伝承を見ることができる。それが藤原不比等=天智天皇皇胤説だ。

 

 

藤原不比等出生の謎

 

 十二世紀成立の歴史物語『大鏡』には、不比等出生の秘密を語る話が記されている。す なわち、天智天皇の信任厚い鎌足は、ある時、すでに懐妊している女御を天皇より賜った 。その時、天皇は、「生まれてくる子が男子なら、汝の子となすように。女子なれば我が 子となすように」と約束した。かくして生を享けたのが不比等だというのである。
 鎌倉時代成立の『帝王編年記』にも、斉明天皇五年(六五九)、皇太子(中大兄皇子、 後の天智天皇)が、すでに懐妊している寵妃・御息所車持公の女を鎌足に賜ったという記 事が見える。また、『公卿補任』傍注も不比等を「実天智天皇之子云々」とする。
 中大兄皇子と中臣鎌足といえば、学問僧・南淵請安の下に通って儒学を学ぶ帰り道で蘇 我氏打倒クーデター(乙巳の変)の計画を語り合い、蘇我入鹿暗殺に際しても現場で行動 を共にしたという仲である。天智天皇はその終生変わらぬ忠誠を愛し、鎌足の死(六六九 )の直前、東宮皇太弟(大海人皇子、後の天武天皇)をつかわして、大織冠と大臣の位、 そして藤原氏の姓を授けたという(『日本書紀』天智天皇八年)。
 この二人の関係からいえば、天智から鎌足に寵妃が下賜されるということも、ありえな いことではない。
 また、実際に天智天皇より、宮廷の女性が下賜されたことを示す傍証もある。藤原鎌足 は『万葉集』に二首しか歌を残していないが、その内の一つは次のようなものである。
「吾はもや 安見児得たり 皆人の得がてにすといふ 安見児得たり」(巻二、九五)
 これは鎌足が采女の安見児を娶ることができたと喜んでいる歌である。采女は古代宮廷 で天皇に近侍した女官であり、地方豪族の娘が貢進されてくるしきたりとなっていた。彼 女たちは政治的には地方の中央に対する服属を示す人質だが、神事的には国魂を負うた巫 女として、天皇をことほぐ存在でもある。
 折口信夫はこの歌について「如何に内大臣鎌足でも、采女を犯すことは、神事上の罪と して厳罰を蒙らねばならぬ」以上は理解しがたいとし、この歌が「宮廷の采女を下された 時の謝恩しの物」である可能性を示唆して、そこから「藤原不比等落胤説も、此安見児説 話を中に置いて、考へるとまんざら価値のないことでもない」としている(「宮廷儀礼の 民俗学的考察−采女を中心として−」『折口信夫全集』第十六巻、所収)。
 もっとも現在の歴史学者の間では、藤原不比等皇胤説はまったく相手にされていない。 それは結局、摂関政治の時代に、藤原氏の血統を権威付け、その栄華の所以を合理的に説 明するためにでっちあげられた話にすぎないというわけだ。その上、鎌足の周辺には、よ り信憑性の高いもう一つの皇胤伝説もあるのだ。

 

 

もう一つの皇胤伝説

 

 一九八七年十一月、京都大学文学部博物館旧館で行われた合同記者会見は全国の古代史 ファンの間で大きな話題を呼んだ。同大考古学教室の小野山節教授を中心とするチームの 調査で、大阪府の高槻市、茨木市にまたがる阿部山古墳こそ、藤原鎌足の墓であることが ほぼ確定したというのである。同古墳は一九三四年四月、すでに京都大学によって、いっ たん発掘されたが、学内の事情から四カ月後に遺体ごと埋め戻されていた。小野山教授ら は五十余年前に収集された資料の再調査から、その結論を得たのだった。
 さて、ここで新たにその史料価値を見直されることになった史料に『多武峰縁起』があ る。これは藤原鎌足を祭る談山神社(多武峰)の縁起書であり、平安時代初頭の成立とさ れる。その中にははっきり、「鎌足を摂津の阿威山に葬る」と書かれていたのだ。阿部山 古墳の周辺の一帯は古くから「阿威」と呼ばれていた。そのため、発掘当初から、この古 墳を鎌足の墓とする説は有力だった。ところが京大考古学教室の梅原末治助教授が報告書 の中で、『藤氏家伝』に基づき、鎌足は山科に葬られたはずだと強行に主張したため、鎌 足の墓という説は次第にさたやみになってしまったのである。八七年以前では、わずかに 梅原猛氏が阿武山古墳をふたたび鎌足の墓として見直すべきだと主張するに止まっていた (梅原「大織冠の謎」『歴史読本』一九七一年八月号)。
 こうして見直された『多武峰縁起』だが、それはまた鎌足の長子・定恵(六四三〜六六 五)の出生について、次のように述べているのである。
「定恵和尚は中臣連一男、実は天万豊日天皇(孝徳天皇)の皇子なり」
『多武峰略記』にいたっては、孝徳天皇は車持国子の女、車持夫人を寵愛していたが、信 任の厚さを示すため、懐妊中の車持夫人をあえて鎌足に賜ったという。そして、その際に 、男子ならば鎌足の子、女子ならば皇女と約したと、『大鏡』の不比等出生譚とそっくり な話の展開がなされている。
 定恵孝徳皇胤説の方は、不比等皇胤説とちがって、歴史学者にも関心を寄せる人がいる 。なぜなら正史たる『日本書紀』に、鎌足と孝徳の妃に関係があったことを示すような記 述があるからである。
 鎌足は、以前から好意を持っていた軽皇子(後の孝徳天皇)の宮を訪れた。軽皇子は鎌 足の志の高さを知り、自らの寵妃・阿部氏に鎌足の身の回りの世話をさせ、すっかり満足 せしめた。鎌足は舎人を通じて、軽皇子に「誰か能く天下に王とましまさしめざらむや」 と伝え、喜ばせたという。つまり暗に「貴方を皇位につけてさしあげましょう」といった わけである。この記事は皇極天皇三年(六四四)の個所にあるが、実際にはそれより前の 事件らしい。同様の話は『藤氏家伝』の「大織冠伝」にもある。そして、実際、乙巳の変 のクーデターで発足した大化新政権で皇位についたのは軽皇子だった。
 定恵はわずか十一歳にして出家し、さらに遣唐使として異国の空の下に追いやられる。 時に白雉四年(六五三)、この年は孝徳天皇と中大兄皇子との対立がはっきりと表面化し た年である。中大兄皇子はついに天皇一人を難波京に残し、首都機能を旧都飛鳥に戻して しまった。こうなると、孝徳天皇と鎌足の交友の証である定恵がかえって危険な存在にな ったということも十分にありうる。
 定恵は白村江で唐・新羅連合軍が日本軍を徹底的に破った二年後の天智天皇四年(六六 五)に唐から送還され、その直後に死ぬ。若干二十三歳の早逝だった。『藤氏家伝』「定 慧伝」は彼が百済人に毒殺されたとしており、なにやら変死を匂わせている。ここから梅 原猛氏のように、定恵は父・鎌足によって殺されたとする論者さえある(十年ほど前には 鎌足の刺客が定恵を惨殺する場面を出した万葉ものの大河テレビドラマもあった)。
 鎌足には男子は二人しかいなかった。定恵と不比等である。それがどちらも皇胤であり 、しかもその一方の父が孝徳天皇、一方の父が天智天皇だったとなれば、藤原鎌足こそ、 この二人の提携によってなされた大化改新を象徴する人物だったとでもいえようか。
 とはいえ、鎌足自身の男子が一人もなかったというのは不自然である。しかも不比等と 定恵の母はどちらも車持国子の女と伝承されている。このことから、定恵の出生譚が摂関 家の発祥を説明するために脚色され、不比等の伝承になったとする説もある(たとえば笹 山晴生『奈良の都』吉川弘文館、一九九二)。しかし、不比等皇胤説の方がまるっきりの 眉つばかというと、必ずしもそうとは言い切れないのである。

 

 

不比等の権勢

 

 不比等は自らの女・宮子を文武天皇の夫人となし、さらにその宮子夫人の子を皇位につ けて聖武天皇としている。しかも、その聖武天皇はやはり不比等の女である安宿媛(光明 子)を皇后としているのである。当時の慣習では、皇族以外から皇后が出ることはありえ なかったはずだから、不比等の権勢がいかに大きなものであったかがうかがえる。
 また、『東大寺献物帳』には、聖武天皇の遺品にあったという「黒作懸佩刀一口」なる ものの説明が記されている。それによると、この刀は元は草壁皇子から不比等に賜られた もので、文武天皇が即位する時に不比等から献じられた。そして、文武天皇が崩じた時に ふたたび不比等に返され、不比等の没後は聖武天皇(当時は皇太子)にふたたび献じられ たというのである。つまり、この刀は天武直系の男子の皇位継承者と不比等との間をキャ ッチボールのように往復しており、女帝が立つ時には常に不比等の手中にあったというわ けである。このことは不比等がこの時代の女帝(持統・元明・元正)の補佐、あるいは後 見人的役割を果たしていたことを暗示している。
 不比等には四人の男子があり、その子孫は南家・北家・式家・京家の藤原四家となり、 その内、京家を除く三家がそれぞれに権勢を振るうことになる。特に同族間の争いをも最 後まで勝ち抜いた北家は後に摂関家となり、その威勢の名残は現在まで続いている。
 不比等自身の事蹟としては、『続日本紀』大宝元年(七〇一)の記事には、不比等が刑 部親王の下で大宝律令の編纂に携わったことが記されている。また養老二年(七一八)撰 の養老律令の実質的撰者が不比等であったことも、『類聚三代格』巻一に収められた「弘 仁格式序」や、『政事要略』巻二九にある藤原道長の願文からうかがうことができる。
 不比等再評価の気運は一九七〇年代に起こった。哲学者の梅原猛氏と上山春平氏が不比 等こそ、律令国家全体のプランナーであり、律令のみならず藤原京と平城京の二度の遷都 や、記紀の編纂といった当時の国家的大事業はすべて不比等を中心に行われていたと主張 し始めたのである(梅原『水底の歌』集英社、上山『神々の体系』中央公論社、他)。
 この梅原・上山両氏の提言は歴史学者、国文学者によっても問題とされ、現在では不比 等抜きで七世紀末〜八世紀前半の日本史は語れないという理解が定着しつつある。

 

 

不比等とは何者か

 

 だが、実際には律令の撰定以外に、不比等がいかなる事業を行い、いかにしてその権勢 を得たのか、ストレートに語る史料はほとんどない。それどころか藤原氏草創期の歴史を 語る一級史料ともいうべき『藤氏家伝』にも、肝心の不比等の伝記が収録されていないと いう有り様である。そのため、不比等は藤原四家の系図をつなぐための架空の人物だと言 い張る論者さえあるほどだ(鹿島f『日本王朝興亡史』新国民社、一九八九年)。
 つまり彼の絶大な権勢がどのようにして得られたのか、具体的には判らないということ である。実際、不比等ほど日本史の中でも謎に包まれた人物はそうはいない。
 藤原氏は中臣氏から出ているわけだが、不比等自身としては自らを中臣氏の一員と考え ていなかったふしがある。文武二年(六九八)に発せられた詔勅では、藤原の姓を用いる 者は不比等の直系に限り、他の者は旧姓(中臣)に復するよう定められた。そのため中臣 氏の人々は政界への進出を阻まれ、本来の職掌である神事に専念せざるを得なくなる。
 また、記紀編纂に不比等の意思が反映しているとすれば、その神話伝説の中で不比等が 自らに擬した神格・人物は高木神と武内宿禰であろう。前者は天孫降臨の際のアマテラス の補佐にして幼少のニニギの後見人役、後者は神功皇后の補佐にして幼少の応神天皇の後 見人役と、その立場は不比等が女帝や皇太子たちに果たした役割とそっくりである。
 しかし、この両者はどちらも中臣氏の祖ではない。記紀の神話・伝説に現れる中臣氏の 職掌はあくまで祭祀に限定されているのである。つまり記紀の内容は不比等個人には有利 であっても、中臣氏全体の利益となるものではないのだ。
 あるいは不比等皇胤説は不比等の存命中からすでにささやかれていたのかも知れない。 そう考えると、不比等の出世の理由、安宿媛が皇后になれた理由(不比等が皇胤ならその 女も「皇族」ということになる)などが説明できる。そして、その異説が『竹取物語』な どに跡を留め、後世の私たちをも悩ますことになったのだろうか。真相は藪の中である。  

 

 

                       2000  原田 実