「富士古文献」が語る神々の大陸統治

 

 


 

 

『富士古文献』とは

 

 富士山の伏流があふれ、豊富な湧き水に恵まれた郡内地方、『富士古文献』はその地の 旧家・宮下家に伝わったとされる古文書、年代記などの総称である。宮下家は記紀で仁徳 天皇に反旗を翻し、滅ぼされたとある大山守皇子の子孫であり、現富士吉田市明日見村に かつて栄えていたという神代パンテオン・阿祖山大神宮の宮司家でもある。
 大山守皇子と弟の隼別皇子は、父・応神天皇の命を受けて、東国に下り、阿祖山大神宮 のそれぞれ宮守司長と副司長となった。阿祖山大神宮はもともと神々が都を置いた高天原 の遺跡であり、そこには神代以来の古記録が大量に残されていた。その中には、秦始皇帝 の命で不老不死の霊薬を求めて日本を訪れ、そのまま帰化してしまった方士・徐福が神代 文字から翻訳した史書まで含まれていたとされる。
 だが、延暦十九年(八〇〇)、富士山の大噴火により、阿祖山大神宮は溶岩に埋まり、 史書の原本は永久に失われた。当時の大宮司・宮下源太夫元秀は、天智天皇の御代、中臣 藤原物部麿なる人物が書写させたという史書の副書を携え、相模国高座郡に難を逃れた。 その地には寒川神社が勧請され、宮下家はその大宮司としておさまることになった。中臣 藤原物部麿とは、氏族系統がさっぱり不明な人名だが、こうした氏族系統の乱れは『富士 古文献』所収の系図の多くに見ることができる。
 平安時代末期、三浦義顕の長子でありながら宮下家に入り婿になった源太夫義仁は文献 の保存に情熱を傾け、十数年の歳月をかけて予備の写本を作った。義仁はまた鎌倉幕府開 幕の影の立役者でもあり、宮下家は相模・甲斐の土豪として勢力を奮ったという。
 だが、弘安五年(一二八二)、馬入川の洪水が寒川神社を襲い、文献は時の大宮司・宮 下佐太夫国明とその長子・記太夫明吉らと共に流されてしまう。かくして、またもや三浦 一族の手元の写本のみが、地上に残されることになった。
 宮下家はその後、建武政権に参画したが、室町幕府成立によって勢力を失い、文献の多 くが焼きすてられた。また、江戸時代の寛文年間(一六六一〜七三)には、宮下家は明日 見村の庄屋として郡内領主・秋元喬知と対立したため、当主・甚太夫宗忠は斬首、残って いた文献もほとんどが奪われ、室町時代と同様の焚書にあった。度重なる弾圧に苦しんだ 宮下家では、文書の一部を屋根裏の棟にくくりつけ、難を逃れようとしたのである。
『富士古文献』が宮下家の家宝の中から再発見されたのは明治十六年、さらにそれが三輪 義煕によって整理編集され、『神皇紀』(隆文館)として世に問われたのは大正十年のこ とであった。さらに現在では、八幡書店から『神伝富士古文献大成』全七巻として現存写 本の影印本も刊行されている。すなわち『富士古文献』は「古史古伝」で唯一、テキスト の現態が判る形で、一般に公開された文献なのだ。
 なお、『富士古文献』によると、阿祖山大神宮は衰微した後、浅間神社としてその命脈 を保ったという。そして、それは静岡県富士宮市の浅間神社本宮や山梨県八代郡の一宮浅 間神社よりも古い浅間神社の真の本宮だと主張されている。さらに、この文献には、浅間 神社のみならず、伊勢神宮、出雲大社、八幡宮、賀茂神社、天神社、稲荷神社、恵比寿神 社、住吉神社などの各社も阿祖山大神宮から別れたことを暗示する記述もある。こうした 記述からも、阿祖山大神宮が伝承の中で次第に肥大化し、神代以来のパンテオンに成長し ていった過程がうかがえるようである。

 

 

「天之世」「天之御中世」の神々

 

『神皇紀』は神々の歴史を日本列島渡来以前、大陸での事蹟から説きおこす。まず、天地 開闢の始元、最初に現れた神の名は天之峰火夫神という。その後、天之高火男神、天之高 地火神、天之高木比古神、天之草男神、天之高原男神、天之御柱比古神が続き、以上七代 の神の治世を総称して「天之世」という。天之世の神々は獣の皮、鳥の羽根、木の葉など を衣服とし、岩山などに穴居していた。食物は草木の実や肉類を石でつぶし焚き火で炙っ たものだったという。また、海岸や山の砂に着いた白い物(塩)で調味することも知って いた。このように原始的な生活をおくっていたにも関わらず、彼らはすでに文字を用いて おり、消し墨と魚油からインクさえ作っていたという。
 天之御柱比古神の御子・天之御中主神は、土を練った器に海水を入れそれを焼き固めて 塩をとる方法を考えた。これは製塩法の発明であると共に土器文化の発祥でもある。これ 以降、十五代に渡る神々の治世を「天之御中世」という。天之御中主神は天津日嗣の大御 神の紋章として十六の条光を持つ日輪を定めた。これは天皇家の紋章・十六条菊紋の起源 説話であろう(天皇家が実際に菊紋を用い始めたのは鎌倉時代以降)。
 天之御中世第五代の天之常立比古神(諱・神農比古神)の御代には、土器文化が発達し 、穀物や魚類、肉類を煮て食べることが広まった。また、穀物を煮たものを幾日も置いて 飲み物とすることが始まり、「酒」と名付けられた。
 天之御中世第十五第の高皇産霊神(天之神農氏神、諱・農作比古神)は、諸々の草木を 嘗めて、薬を定め、それを子孫へと伝えさせた。また、御子たちに「日の本なる海原に状 貌世に二なき蓬莱山のあるなり。汝か命等之に天降りて蓬莱国を治せ」と命じ、後に自分 も蓬莱国の高天原に渡って、そこで生涯を終えたという(『富士古文献』の文脈では蓬莱 山は日本の富士山を意味する)。以上が、『神皇紀』の語る神々の大陸統治時代である。  なお、高皇産霊神の命で日本に天降ったという御子は五男の国常立尊(諱・農立比古尊 )と七男の国狭槌尊(諱・農佐比古尊)だが、他の五人の御子がどうなったか『神皇紀』 には記述がない。その後、高天原では国常立尊を名目上の初代とする高天原世七代と、天 照御神(諱・大市毘女尊、大日留女尊)に始まる豊阿始原世五代が続き、ウガヤフジアワ ス王朝の成立まで神都としての繁栄を保ったとされている。

 

 

神々の原郷

 

 さて、『富士古文献』のテキストといえば『神皇紀』しかなかった頃、研究者の間では 大陸統治時代の神々の原郷探しがさかんに試みられていた。たとえば、三浦一族の末裔と して『富士古文献』の研究に取り組んだ岩間尹は、それをイランの東北、アム川とシル川 のほとりに求めた。いわゆるツラン平原である。岩間は日本民族をアリアン族(インド= ヨーロッパ語族)の流れとみなし、かつてその語族の発祥地として有力視されていた中央 アジアに着目したものである(岩間『日本古代史』三浦一族会)。
 また、神々のいた大陸をユーラシアではなく、太平洋上のムー大陸に求める論者もあっ た(藤沢偉作『日本ムー王国説』喜多要光『宇宙連合の飛来』)。
 また、高天原世、豊阿始原世の神々がいたという高天原も富士山麓ではなく、遠く海外 にあったのではないかとする説も出されている。たとえば、鹿島f高天原をトルコ東部 のアルメニア高原に求め、豊阿始原世とはアルメニアのウラルトゥ王国、シルクロードの 月氏族、日本列島のエビス族による汎ユーラシア的部族連合国家であると主張した(『倭 人興亡史2』新国民社)。また、高橋良典は古代インドのジョルヴェ=ネワーサ文化(前 七〜八世紀)と、『神皇紀』の高天原世の記述の類似に着目し、高天原はデカン高原のガ ンジス川源流地帯にあったと唱えている(『謎の新撰姓氏録』徳間書店)。
 しかし、『富士古文献』の語る大陸統治はあくまで神話的文脈のものであり、そこにい きなり史実との整合性を求めることは困難である。しかも、天之御中世の神々はその神名 や事蹟からみて、中国神話でいう神農氏がモデルとなっていると見るのが妥当であろう。 そして、それを裏付けるかのように、『神皇紀』にとられていない『富士古文献』の記録 には日本民族の祖神を神農氏と明記するものがあるのだ。

 

 

中国神話の神農氏

 

 そもそも神農氏は三皇五帝に数えられる伝説的聖王であり、烈山氏、炎帝などとも称せ られる。彼は人民に農耕を教え、また医薬の発明者として自ら薬草を嘗め、その効能を確 かめたという。そのため、中国には神農氏は一日に七十回も毒にあたって苦しんだ、ある いは命取りの毒草を嘗めたために腸がちぎれて死んだなどとする伝承も残されている(袁 珂『中国の神話伝説』上、青土社)。また、『帝王辞典』(陜西人民教育出版社刊)では 、神農氏を古代の部落首領とみなし、その事蹟は狩猟採集生活から有畜農耕生活に入るま での過渡期の文化が反映した伝承であろうとする。
 日本でも、神農氏は薬種業者もしくはヤシ、テキヤといわれる大道商人によって尊拝さ れ、しばしば祀られている。薬種業者が神農氏を祭るのは判るが、なぜ中国太古の聖王が 大道商人の守護神ともされるのか。一説には中国で始めて市を開いたのが神農氏だと伝え られるためだというが、あるいはこれは山岳宗教者が大道商人と薬屋(山野でとってきた 薬草を売る)を兼ねていた時代のなごりかも知れない。
 さて、『富士古文献』の公開によって判明したものの一つに、神農氏関係の豊富な伝承 がある。その文書の中には、日本が「神国」と呼ばれるのは、かつてこの国を神農氏が開 いた史実に由来すると記したものさえあったのだ。しかし、戦前の世相の中では、日本の 皇室が中国の王朝から発したという説には公表をはばかるものがあった。
 三輪義煕が『神皇紀』出版以前、『富士古文献』の一部を公開した『富士史』では、原 写本に「神農氏」とある個所をわざわざ伏せ字にして「切レテ見エズ」と注記していた例 さえある。したがって三輪は『神皇紀』においては日本の神々と神農氏との関係を伏せ、 天之御中世の神名で暗示するに止めたのであろう。

 

 

「支那震旦皇代暦記」

 

『富士古文献』の一つ、「支那震旦皇代暦記」は、『神皇紀』にまったく語られていない 中国古代王朝と日本の高天原との関わりについて詳述している。
 それによると、まず、中国を開いた大昊伏羲氏は、蓬莱山高天原から大陸中央の平原に 天降り、東陽婦人との間に炎帝神農氏を産んだ。神農氏は山海婦人との間に七男九男を産 んだが、その長男が黄帝有熊氏である。また、他の子供たちも四方の開拓に向かったが、 その内、五男と七男が東海を渡り、日本の祖神となった。また、中国に止まった黄帝有熊 氏の子孫は少昊金天氏、●●高陽氏、帝告高辛氏、帝沒ゥ唐氏、帝舜有虞氏の五代が続き 、彼らが後世、五帝と称せられることになる(つまり、『富士古文献』は沛wの禅譲とい う有名な故事を認めず、彼らの王位継承を世襲として伝えていることになる)。帝舜有虞 氏は蓬莱山のある豊阿始原瑞穂国が全世界の祖国であることを知り、武力による制圧を志 した。彼は自ら大船三六〇艘を指揮して東海に乗り出したが、世界開闢の祖神の怒りに触 れたのか、突如、黒雲・神風と出会い、ついには大軍もろとも海に呑まれてしまった。
 さらに「支那震旦皇代暦記」によると、五帝の後を引き継いだ夏王朝の祖・大禹王は神 農氏の三男の子孫、夏王朝に代わった商(殷)王朝の祖・成湯は神農氏の四男の子孫、さ らに商王朝を倒した周王朝の祖・文王は神農氏の次男の子孫、秦始皇帝は商王朝と同じ神 農氏の四男の遠孫と漢代より前の中国歴代王朝はすべて神農氏の一族であるという。その 意味では日本の皇室とも同族だったということになるのである。また、朝鮮国は周王朝と 同じ神農氏の次男の一族が建てた国であり、その流れをくむ新羅国の王子・多加王は日本 に渡って祖佐之男命(スサノオ)と称せられたという。
 中国には、漢民族の民族的同一性を強調する言い回しとして「我ら皆、黄帝の子孫」と いう言葉がある。だが、『富士古文献』はそれよりも古い神農氏の系譜を重視する。
 なぜ、富士北麓の一角に、かくも中国と日本との深い関係を主張する記録が残されての であろうか。ここには道教の濃密な影響が看て取れるのである。

 

 

呉鏡と石印

 

『三国志』で有名な呉の孫権は、皇帝の位についた翌年の黄龍二年(二三〇)、徐福の子 孫が住むという亶州と夷州とを求めて将軍の衛温と諸葛直に兵一万を与え、東海へと船出 させた。しかし、二人の将軍は夷州から数千の住民を連れ帰ったが、肝心の亶州には行き 着けず、帰国後に命令不履行ということで孫権に殺されてしまった。
 このことから、徐福の子孫が東方にいるという伝承がすでに三世紀の中国にあったこと 、呉の孫権がその伝承に関心を持っていたことがうかがえる。夷島とは現在の台湾のこと である。また、亶州の所在ははっきりしないが日本列島の一部である可能性は高い。
 そして、その呉の紀年鏡(赤烏元年・二三八)の一枚がなぜか阿祖山大神宮の故地とも 近い山梨県西八代郡の狐塚古墳(鳥居塚二号墳)から出土している。また、この古墳近く の米倉山遺跡からは一世紀頃、古代中国の貨幣だった貨銭も出土した。日本列島で出土し た三国・西晋紀年鏡は最近話題になった魏の青龍三年鏡(京都府竹野郡・大田南五号墳出 土)も含めて十一面、その内、呉のものは二面のみである(もう一面は兵庫県宝塚市・安 倉古墳出土の赤烏七年鏡)。なぜ、遠く江南の呉に由来すると思われる鏡がこの地にもた らされたのだろうか。古代中国では鏡は実用品であると共に魔除けの呪具でもあった。
 一九二三年、山中湖西岸に住む故羽田正次氏は、畑を耕していた時、「秦」と読める金 色の印章を見つけた。羽田氏は住所は往古、長生村といわれており、徐福が教えた薬草で 村人一同、長寿を得たという伝説の地である。当時、この印章は地元の話題になったが、 秦と読むにしては字体が余りにも新しく、好事家が徐福伝説にかこつけて作ったものでは ないかということで、学会の関心を呼ぶことはなかった。
 ところが、最近、徐州博物館の李人兪や書道家の侯学書など、中国の研究者の間から、 この印章は正しくは「大方」もしくは「己大方」と読まれるべきであり、それは後漢末の 黄巾軍の将軍号ではないかという説が出された。黄巾軍は太平道という原始道教教団を中 核とする反乱軍だから、この印章は徐福と直接は無関係だとしても、道教とは深い関わり のある遺物だということになる(羽田武栄『徐福ロマン』亜紀書房)。
 富士吉田市下吉田にある浄土信州の古刹・福源寺の境内には、徐福が化した鶴を葬った という鶴塚もある。『富士古文献』にみられる徐福や神農氏に関する説話も、富士山周辺 の伝説に濃密にただよう道教的雰囲気と無関係ではあるまい。
 富士山周辺は縄文早期から古墳時代まで、多くの遺跡に恵まれたところである。今後の 考古学的発掘の進展次第で、『富士古文献』はさらに新しいロマンの世界を私たちの前に 広げてみせるかも知れない。しかし、その前に『富士古文献』のテキスト自体に基づく入 念な史料批判がなされなければならないのは、言うまでもないことである。
 先述したように『富士古文献』は、宮下家歴代の命がけの努力と、度重なる筆写により 、かろうじて伝えられた文献とされている。そのため、現存写本から、その原態を推定す ることは、きわめて困難である(さらに言えば、その伝来過程そのものが捏造かも知れな い)。だが、それだけに今後の研究の可能性が大きく開かれた文献と見なすこともできよ う。本論稿がその一助となれれば幸いである。  

 

 

                       2000  原田 実