「竹内文献」が語るSF的創世神話

 

 


 

 

『竹内文献』の天神七代

 

 富山県負婦郡神明村久郷、そこは神通川の水害と冬の冷気に長年悩まされてきた所であ る。そんないかにも北陸地方らしい寒村に、遥かな太古、日本、否、世界の中心たる聖地 だったと主張する年代記と文書群があった。その文献こそ「古史古伝」の代表として、良 くも悪しくも有名な『竹内文献』である。広島県庄原市の葦嶽山ピラミッド説や、青森県 新郷村のイエス=キリストの墓など、古代妄想と呼びたくなるような怪しげな噂はそのほ とんどが、この『竹内文献』に由来するといっても過言ではない。だが、いわゆる神代文 字で書かれていたという年代記の原本はもはや地上から永久に失われてしまった。
 ここで『竹内文献』の決定版といわれる『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)をひもと いてみよう。その冒頭に現れる神名は、天神第一代・元無極躰主王大御神、またの名を天 地身一大神、あるいはナンモ、、アミン、ノンノ、カンナガラ、メシアなどともいう。こ うした異名の数々はこの神が持つ究極の神性を表現するためのものらしい。この神は「天 地ヲ産祖神」であり、「天地乃大根元身体乃大神」だという。したがって、この神が現れ た時、宇宙はいまだ「天地未分ス、鶏子乃玉子如奈リ」という状態であった。
 続く天神第二代の出現で、泥の海に岩石のような塊ができ、ようやく土と水が分かれて 天地は玉のようになった。その変化には「年歴無数」の時間を要したという。
 天神第三代の出現から二百二十四億三十二万十六年後、天地が別れてようやく大空に中 空ができる。そして天神第四代、その中空の中に清らかな煙がたなびき、天上に男神とし ての日の神、地上に風の神としての女神が生じ、男女の別が定まった。
 天神第五代、天の底にあたる地上で祭天の儀が始まり、天越根日玉国狭依国越中国(飛 騨・越中)が天国の柱、天皇・天神の宮が置かれる国と定められた。また、万国の底を地 美、造化の男女二神がマグワイした所を淡海根(近江)と名付けた。これらは地上におけ る最初の国名である。それから百六十億万年のちには泥の海がすっかり固まり、二百六十 億十万年後には天神五代の神々が天に登った。その神々が天上に登った所は天一柱の国と 名付けられた(『古事記』では天比登都柱は壱岐の別名)。
 天神第六代、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動のヒナ形を造った上、天 上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の 海となった。高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという 。さらに神々は天の底の天神人祖神一神宮で造化の神々の像を造って祀り、天皇をその祭 主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動をつかさどり、月の女神も現れて 大地を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。
 天神第七代の位を受け継いだのは、前代に現れた夫婦の日神である。この神々によって 暦はさらに整備され、星々の運行まで定められた。また、この神々の皇太子は日玉国の位 山(現岐阜県宮村の位山)に大宮を造営した。そして、その皇太子の即位によって上古二 五代の御代が始まるのである(その初代は天日豊本葦牙気皇主尊天皇)。

 

 

神と人の連続性

 

 以上、『竹内文献』における天神七代の神々は宇宙創成の各段階を現す象徴的な世代と みなすことができよう。だが、『竹内文献』は続く上古二五代を、具体的な人格を持った 「天皇」として扱っている。つまり、今様にいえば天皇制は宇宙開闢のビッグ=バン、あ るいはそれ以前から始まっているというわけである。
 神々の系譜がいつの間にか地上の王権の起源につながっている。これは現存の神話の中 では、特に日本のものに顕著に見られる現象である。これは神話的起源を有する王権がい まなお実質上の元首(「国民統合の象徴」としての人格は元首以外の何者でもない)とし て君臨している我が国の特殊な事情がしからしむるものでもあろう。
 記紀では、天皇家のみならず他の各氏族も何らかの形で神々の系譜につらなる家系とさ れている。したがって日本神話では人間の創造が殊更に語られることはない。人間は神々 の被造者というより、その子孫として産みなされたことになるからである。
 これと対極的な位置を占めるのが、古代メソポタミアのバビロニア・アッシリアの神話 である。その中では神々は万物の創造主であり、地上の存在に対して絶対的な権限を有し ている。人間も被造物の一つである以上、その支配から逃れることはできない。
 それどころか、古代バビロニアの新年祭で高僧により朗読されたという「神々の戦争」 の物語によると、人間は神々に奉仕するために、悪神の血肉からわざわざ造られた存在な のだという。こうした神話の下では、特定の家系が神の子孫であることを主張できたとし ても、それが万民に及ぼされるということはありえない。
 ヘブライ人はこのバビロニア・アッシリア系の神話を引き継ぎ、さらに一神教化を進め ることで主なる神の絶対性をさらに強化した。旧約聖書『創世記』にはところどころ主な る神が複数形で語られている個所があるが、それはバビロニアの多神教のなごりである。 そして、そのヘブライ神話を下敷きとしたキリスト教やイスラム教の教義でも、神と人と の間には絶対の隔絶があることが強調されている。
 ところが『竹内文献』では、創世神話の神々は絶対的な創造主であると共に人間の先祖 でもあるとされているのだ。このような神話においては、地上の人格でありながら創造主 にも等しい権能を持つ存在も容認されることになる。かくして、『竹内文献』の太古天皇 たちは、SF的ともいうべきパワーを有することになる。しかし、その天皇観は結果とし て『竹内文献』の神話に奇妙な歪みをもたらすことになった。

 

 

天空駆ける天皇たち

 

 さて、『竹内文献』も上古二五代に入ると、記紀神話でもおなじみの神名が多く見受け られる。しかし、その系譜の中では『日本書紀』本文で始源神とされるクニトコタチでも 第十四代、『古事記』で始源神とされるアメノミナカヌシさえ、せいぜい第四代の位を占 めるにすぎない。その最後を飾るのは、記紀神話のヒコホホデミにあたる天津彦火火出見 身光天津日嗣天日天皇であり、その後はウガヤフキアエズ王朝七三代に引き継がれる。
 上古第一代の皇子には、農耕、牧畜、魚漁、養蚕や土器作りなどさまざまな生活技術を そのまま人格化したような名が多く見られる。これはこの天皇の御代に、人類の文化が発 祥したということを言いたいのだろうが、その中では特に次の名が注目される。
「天浮船大空乗公運尊」この皇子の事蹟は、「天空船、水船を造る」であったという。水 船の方はいいとして、天空船は素直に考えれば、飛行機のような空飛ぶ乗り物ということ になるだろう。
 上古第二代の天皇は五色人(黄・黒・赤・白・青)の皇子・皇女を生み、それを全世界 に派遣した。その中には支国インダウ天竺万山黒人民王やヨイロバアダムイブヒ赤人女祖 氏、オストリオセアラント赤人民王、ヒウケエビロスボストン赤人民王、アフリエジフト 赤人民王など、明らかに近世以降の地理的知識によって造作された人名も見られる。
 上古第三代の即位三十億万年、天皇は大船八艘、小船十六艘を造らせ、自らは天之浮船 (「天空船」と同じものか)に乗って最初の万国巡行に乗り出した。
 それは第二代の御代に世界に散った皇子・皇女たちの行く末を確かめるためだったらし い。帰朝後、天皇は史官たちに命じて、万国の主の名とを書き記させたという。
 また、この天皇の即位百六十億万年には地球全土大変動し、泥の海となって万国ことご とく滅ぶという事件が起きた。天皇とその一族は天空浮船で日球国に逃れ、災害から五億 五万千年目に天降って、ふたたび地球万国を産んだ(つまり、「日球国」は地球全土の外 にあったということになる)。
 これ以降の上古天皇たちの事蹟は、度重なる「地球全土大変動」と復興のくりかえしで ある。そして、この種の大災害の記録はウガヤフキアエズ王朝に入っても無くなることは ない。たとえば、ウガヤフキアエズ王朝第十代の女帝、千足媛天皇の御代には、太平洋に あったタミアラ国とミヨイ国(ムー大陸のことか)および現在のインド洋、カリブ海にあ った陸塊が海の底に沈んだという(「嗚呼オトロシヒエ地変ぞ」という注記がある)。
 また、第六九代の神足別豊鋤天皇の御代にも二度に渡って「天地万国大変動五色人多く 死す」という災害があり、その結果、紅海とアラビア砂漠が出現したとある。
『竹内文献』の天皇たちは天之浮船を駆り、全世界をめぐるほどの力を持ちながら、迫り くる災害を防ぐことは出来ない。彼らはその超人的能力を持って災厄から逃げ出し、後は ただ復興に力を注ぐだけなのである。

 

 

無力な絶対者

 

 世界を滅亡させるほどの大災害、それは『創世記』が語るノアの大洪水や、ギリシャ神 話のデウカリオンの洪水、あるいは哲人プラトンが書き残したアトランティス沈没の物語 などを思い起こさせる。聖書やギリシャ神話によると、洪水をもたらしたものは地上の人 間の堕落に対する神の怒りだった。
 この理由説明は、実はヘブライやギリシャの文明に先行する古代バビロニアの洪水神話 から引き継がれたものである(たとえば『ギルガメシュ叙事詩』の洪水説話など)。
 だが、『竹内文献』の上古天皇たちは、いずれも敬神の念厚く、天人人祖一神宮(皇祖 皇太神宮ともいう)の祭主として、祭祀にこれ努めていた。その事蹟には、まったく堕落 したような様子は見られない。それに第一、『竹内文献』の神話では地上の人間は単なる 被造物ではなく、創世の神々の子孫なのである。天上での都合だけで一方的に滅ぼされる 筋合いはないはずだ。そのせいか、『竹内文献』ではなぜそのような大災害が起きたのか 、その原因に関する説明は一切なされていない。
 何らの説明もされることなく理不尽に地上を襲う災厄、そしてそれに翻弄されるだけの 神(天皇)と人間、『竹内文献』の世界観はある意味では近代的といえるかも知れない。 そして万能の絶対者でありながら無力な天皇像は近代の天皇のイメージとどこか重なって いるようである。近代天皇制はキリスト教文化の背景を持つ西欧の絶対君主制と、それ自 身としては無力でありながら超越的権威として日本の権力構造を支えてきた日本の伝統的 王権との、よじれた結合の産物だった。そして、『竹内文献』の神話もまた『創世記』な ど西方の神話と日本神話との歪んだ習合の跡を止めているのではないか。
 そして、その意味では、『竹内文献』の神話は、その成立の背景となった近代日本の宿 痾をも暗示していたのではないか。おそらく神話とは、常にその時代の空気を呼吸しつつ 、再生産されていくものなのだろう。

 

 

神話を作る人々

 

『竹内文献』の所蔵・公開者たる竹内巨麿(一八七五?〜一九六五)は庭田権大納言従一 位伯爵源重胤卿のご落胤を称し、実母の仇を討つために全国を流浪、武術と神道を研鑽し たという。しかし、目指す仇を見つけた時、相手はすでにこの世になかった。そこで人生 の目的を見失った彼は茨城県に落ち着き、そこで一念発起して新宗教を開いたというので ある。これが皇祖皇太神宮こと天津教である。
 その次第は巨麿の口述をまとめたという長峯波山著『明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚』 にくわしい(大正元年、復刻版として八幡書店刊『竹内巨麿伝』がある)。また、いわゆ る『竹内文献』は彼が育った久郷の地で、養祖父・竹内三郎右衛門から譲られた家伝の宝 物に含まれていたという。もっとも長峯の伝記には『竹内文献』のことはまったく記され ておらず、その由来はかなり眉唾物ということになる。巨麿は天津教開教後、それがまっ たくの新宗教ではなく、自らの郷里にあった古社の再興だと強弁するため、皇祖皇太神宮 の先史を造作していったというのが本当のところだろう。
 しかし、長峯の伝記の内容は、大時代的な仇討譚であり、明治末期の話としてはとても 受け入れられるものではない。そこから巨麿の想像力は本来、講談や立川文庫、宮芝居な どに通じるような大衆的なものであったことがうかがわれる。とても現存の『竹内文献』 に見られるようなSF的空想が、巨麿の脳裏から出てくるようには思えないのである。
 それでは『竹内文献』の壮大なイメージはどこからもたらされたものか。まず考えられ るのは天津教に出入りしていたオカルティストたちの影響だろう。その中でも特に重要な 人物としては酒井勝軍(一八七四〜一九四〇)の名が挙げられる。
 酒井は山形県の生まれ。大正七年、大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に 当時、西欧を席巻していたユダヤ禍論を知り、帰国後は反ユダヤ論の論客として名を馳せ た。ところが昭和二年、パレスチナ視察を契機として今度は熱烈な親ユダヤ論者となる。 そして、ついにはモーゼが神から授かったという十戒の本物は日本に隠されている、ある いはエジプトのものの原形となったピラミッドが日本の何処かにあるはずだなどという奇 説を唱え出し、その探索に乗り出したのである。彼がその探索行の最中、天津教本部を訪 れたのは昭和四年のことだったという。酒井と出会った巨麿は請われるまま、モーゼの十 戒石の「本物」やピラミッド建造の由来書などを皇祖皇太神宮の宝物から出してみせた。 酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。
 つまり、実際には酒井が自らの想像力を提供し、巨麿はそれに形を与えた上、『竹内文 献』の神話の世界へと繰り込んでいった、というわけであろう。おそらく、『竹内文献』 への聖書の影響は、主に酒井を介して与えられたものである。
 天津教の周囲には酒井の他にも、様々な異能の人々がたむろしていた。たとえば、青森 県戸来村にピラミッドがあると主張し、さらに巨麿によるキリストの墓「発見」にも立ち 会った画家の鳥谷幡山。あるいはそのキリストの墓をはじめとして相模のゼウスの墓・能 登のモーゼの墓・信州の釈尊の墓などを訪ねて日本各地を巡った山根キク。郷里の飛騨地 方を中心に先史時代の巨石遺跡を探索、調査して回った上原清二。越中の盆踊り歌に人類 発祥の秘密が隠されていると唱えた岩田大中・・・
 こうした人々が自らの研究の裏付けを『竹内文献』に求める内に、その内容が次第に豊 かなものになっていったことは想像に難くない(たとえば先述のムー大陸の話など大正時 代の刊本にはその片鱗さえなかったことが確認されている)。
 神話的権威に依存する戦前の国体は、「もう一つの神話」を許容できなかった。天津教 は繰り返し弾圧を受け、押収された文献・神宝も東京大空襲の業火で烏有に帰した。
 ただ、戦前の刊本やメモから復元されたテキスト(『神代の万国史』等)と現存する皇 祖皇太神宮(茨城県北茨城市磯原町)の祭祀から、失われた神話の大要を偲ぶことはでき る。そのような試みの一例として、僣越ながら、拙著『幻想の超古代史』(批評社)を紹 介し、本論稿を終えたい。  

 

 

                       2000  原田 実