「秀真伝」が語る太古ヒタカミの神々

 

 


 

 

歴史は日高見から始まる

 

 一九九四年、青森市郊外の三内丸山遺跡で今から約四五〇〇年前(縄文中期)の巨大木 造建築跡が発見されるという事件があった。残された木柱の太さから推定して、そこにあ った建物は高さ十メートル以上にもなったはずだという。
 さらに同じ遺跡の住居跡等の調査により、集落そのものの発祥は、その建築よりもさら に一五〇〇年ほど前(縄文中期)まで遡ること、しかもその集落の規模は縄文時代として は全国最大級であることなどが判明した。また、その柱穴の間隔は規則的で、八戸工業大 学の高橋成侑教授はそこから三五センチもしくは七〇センチを基礎単位とする「縄文尺」 の存在を推測している(『東奥日報』平成六年七月二九日、九月十五日、他)。
 これまでにも石川県のチカモリ遺跡や真脇遺跡、群馬県の矢瀬遺跡などで木柱跡が見つ かっており、縄文時代の巨大建築の可能性がささやかれてはいたが、三内丸山遺跡での発 見はそれを裏付けるものとなった。だが、太古東北地方における巨大建築の存在は、すで にある文献によって暗示されていたのである。その文献こそ、日本のイリアッドとも言わ れる叙事詩『秀真伝』である。
『秀真伝』第二紋によると、天地開闢、陰陽が別れた時に始めて現れた神をクニトコタチ (国常立尊)という。そして、この神が治めた国土をトコヨクニ(常世国)といった。ク ニトコタチはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八降りの神を生み、それをトコヨク ニから諸国土に派遣して治めさせた。これが諸国の王の始まりだという。各々の割り当て は明記されていないが、その内「ト」の神はハラミ山(富士山)に都を定めたという。
 また、「カ」の神が治めたという国から、ニシノハハカミ(西王母)が来日したという 記述があるため、その範囲が西域方面を含む中国大陸であることはまず間違いない。
『秀真伝』の特徴は、この始源の場たるトコヨが天上の理想郷であるとともに、具体的な 地上の国土でもあると見なしているところにある。それは陸奥国、ヒタカミといわれる領 域であった。つまり、世界は日本、それも東北地方の一角から始まったというわけである 。そして、『秀真伝』によるとその日高見国はまた天皇家の原郷・高天原でもあった。
『秀真伝』では繰り返し、古代の東北地方に巨大建築が造営されたことを語っている。そ の一つはクニトコタチが人民を生み出すための産屋としてであり、それはまた神社建築の 起源でもあったという(第二一紋)。また、出雲の国譲りの後、津軽岩木山のふもとに隠 退したオオクニヌシが、造営したという大本宮の話もある(第十紋)。
 六国史などの正史では、東北地方といえば、大和朝廷による侵攻と征服の対象としての み語られており、そこに高度な文化があったことは認められていない。そうした東北地方 観は今もなお尾を引いている。たとえば現代の蝦夷征伐といわれる六ケ所村核燃基地問題 などにも、東北地方への蔑視が再生産された形で反映しているのではないか。
 それだけに『秀真伝』の日高見高天原説は、単に古代史の異説として興味深いだけでは なく、現代的な意義さえ帯びているといえよう。

 

 

タカミムスビの日高見国統治

 

「日高見国」という国名の文献上の初出は『日本書紀』景行天皇二七年、東国視察を終え た武内宿禰の報告の中にある。
「東の夷の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並びに椎結け、身を文けて、為人勇み 悍し。是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土地壌えて広し。撃ちて取りつべし」
 また、景行天皇四十年には、日本武尊が東国遠征からの帰途、陸奥国から常陸国に入る ところで「日高見国から帰りて」という一節がある。これで見ると景行紀では、日高見国 は常陸国よりも北にある国土とみなされていることが判る。ちなみに北海道の地名「日高 」は明治時代、景行紀の日高見国にちなんでつけられた名である。
 一方、『釈日本紀』『万葉集注釈』所引の『常陸国風土記』逸文には、日高見国とは常 陸国信夫郡の古名であるとされている。『常陸国風土記』序文には「古の人、常世国とい へるは、蓋し疑ふらくは此の国ならむか」という一節があり、常陸国と常世国を結びつけ る伝承もあったことがうかがえる。しかし、『秀真伝』に関する限りでは、そのヒタカミ およびトコヨは陸奥国を指すとみるのが妥当である。
 クニトコタチからヒタカミを受け継いだのは、記紀神話でもおなじみの高木神ことタカ ミムスビ(高皇産霊尊)であった。タカミムスビはヒタカミから富士山をはじめ世界各地 に降臨した天八降りの神の統治を助けた。その時、タカミムスビはトコヨを象徴する木で ある橘を富士に植えさせたため、富士山は橘香るカグヤマ(香久山)として讃えられた。
タカミムスビの第五世は、天上に座す四九柱の神々をヒタカミの地に勧請して祭った。以 来、ヒタカミは地上の高天原となり、国は栄え人々の暮らしはうるおった。そのため、タ カミムスビ五世はトヨケと呼ばれることになる(伊勢外宮の祭神・豊受神のこと)。
 ある時、トヨケは人民の数が増え過ぎたため、それを統治できるだけの神がいないこと を嘆いていた。トヨケの娘イサナミは、その父の嘆きを鎮めるため、自ら世嗣の御子を産 みたいと申し出た。トヨケは喜んで、葛城山に斎場を造り、天からの子種が得られるよう に祈った。これは現在の奈良県葛城山系、金剛山の中腹にある高天彦神社(祭神・高皇産 霊尊)の起源説話であろう。この神社は高天原旧蹟という伝説があり、葛城王朝発祥の地 として鳥越憲三郎から注目された所である。

 

 

男神アマテルの誕生

 

 さて、イサナミは夫のイサナキと共に諸国を廻り、神々を産んだ。二人の結婚の儀が行 われたのは常陸の筑波山であった。しかし、その最初の子は女子であったため、岩楠船に 乗せて捨てられ、摂津国の住吉神に育てられた。この女神をヒルコ(蛭子)またはワカヒ メ(和歌姫)という。この漂流譚は現兵庫県西宮市の西宮神社、通称「エベッさん」の起 源説話らしい(祭神・蛭子神)。
 イサナミは次の子を流産した後、富士山でイサナキとの婚儀をやり直し、ついに望む男 子を産んだ。それは日神たるウヒルキ(大日霊貴)である。この神はアマテル(天照大神 )とも呼ばれ、富士山に留まることになった。なお、記紀では周知の如く天照大神は女神 であったとされている。この神を男神とするのは『秀真伝』の特徴である。ちなみに記紀 の天照大神の女性的要素が、『秀真伝』では、ヒルコの属性とされているらしい。
 次にイサナキたちは筑紫でツキヨミ、熊野でソサノヲを産み、この一女三男の神に天下 をまかせることにした。
 さて、『秀真伝』第四紋によると日神は生まれた時、エナに包まれ、まるで卵のような 姿で生まれたという。トヨケはそれを瑞兆として喜び、自ら櫟の木の枝でエナの中から御 子を取り出すと、シラヤマヒメ(菊理媛ともいう。加賀一の宮白山神社の祭神)に預け、 産湯をつかわせた。神官の持つ笏が櫟に定められたのは、この故事によるという。
 これは中国や朝鮮の神話によく見られる卵生伝承(王朝の始祖が卵から生まれたという 神話)を連想させる。また、イタリアの歴史学者カルロ=ギンズブルグによると、エナを 被ったまま生まれた子供は長じて優れたシャーマンになるという観念はヨーロッパから東 アジアまで汎ユーラシア的分布を示しているという(竹山博英訳『ベナンダンティ』せり か書房)。いずれにしろ、この種の異常出産は聖者の誕生にはつきものの話である。
 アマテルはヒタカミのヤマテ宮で、トヨケから天の道を学び、長じては富士山に最初の 都をおいた。その後、アマテルは伊勢の伊雑宮に遷都し、皇太子オシホミミを得た。
 だが、アマテルの十二后の一人、ハヤコが熊野のソサノヲと密通し、彼をそそのかして 反乱を起こさせた(第七紋)。反乱が鎮圧された後、反省したソサノヲは今度はハヤコの 怨念が凝り固まった八岐大蛇と戦い、さらに反乱軍の残党を自ら討って朝廷に赤心を示し た。こうしてソサノヲはヒカワ神の名を賜い、出雲に鎮まったという(第九紋)
 このあたり、『秀真伝』の語り口は、素朴な神話というよりも、浄瑠璃の王代物を思わ せるものがある。実際、このソサノヲの活躍には、近松の『日本振袖初』から借りたとお ぼしきモチーフが見られるのである(拙著『もう一つの高天原』参照)。
 ちなみに出雲大社本殿の背後には須佐之男命を祭る社がある。また武蔵一の宮氷川神社 の祭神も須佐之男命である。

 

 

ヤマテ宮はどこか

 

 オシホホミは即位後、都をトヨケの故地、ヒタカミのヤマテ宮の跡に置くことにした。 その都はまたタガのコフとも名付けられたという。さて、このヤマテ宮とは、いったい何 処のことであろうか。「ヤマテ」を仙台の訓読みとすれば、それは現在の宮城県仙台市方 面に求められることになるであろう。『秀真伝』においては、漢語をむりやり読み下した ような語彙は、他にもしばしば見受けられるところである。また、仙台をあえてヤマテと 読むことで「邪馬台国」と関連付けるつもりだったのかも知れない。
 日本では新井白石や本居宣長が研究を始めるまで、邪馬台国の名は魏志倭人伝よりも、 むしろ日本の未来を予言したという『邪馬臺詩』の方でよく知られていた。
「タガのコフ」を多賀の国府、すなわち多賀城(多賀柵)のことだとすれば、そこから仙 台市までは十キロほどしか離れていない。有名な多賀城碑文によれば、この城は神亀元年 (七二四)、陸奥按察使の大野東人によって置かれたものだという。
 もっとも仙台とは、もともと青葉城が国分市の居城時代、千代城と呼ばれており、それ を伊達政宗が仙台城と置き換えたところから生じた地名だそうだから決して古いものでは ない。多賀城の国府もまた、当然ながら神代まで遡りうるものではない。この種の時代錯 誤は「古史古伝」では珍しいものではなく、むしろその真の成立年代を考察する上での貴 重な手掛かりとなりうるものである。

 

 

日高見国の衰退とヤマトタケ東征

 

 だが、オシホミミが皇子のホアカリとニニギを西方に派遣した後、ヒタカミは次第に衰 微し、逆に西日本ではニニギの子孫である大和朝廷が勃興してきた。『秀真伝』第三七紋 によると、タジマモリは垂仁天皇からトコヨに派遣されたが、彼が帰朝した時、天皇はす でに崩御していた。彼は嘆き悲しみ、朝廷がヒタカミとふたたび友好を結ぶための方策を 遺言してこの世を去った。タジマモリの常世国往来は記紀にも語られているが、その所在 は明らかにされていない。それに対して『秀真伝』はそれをヒタカミと明記している。
 景行天皇の皇子ヤマトタケ(日本武尊)は、タジマモリの遺言に導かれて、東征の旅に 出た。ヒタカミの長ミチノクは津軽の長シマヅミチヒコ、東北諸国の国造五人、県主百十 四人とともにヤマトタケの征旅を阻もうとした。ミチノクは筑紫から出て大和を奪い、い ままたヒタカミをも奪おうとする大和朝廷の侵略性をなじった。
 それに対してヤマトタケは、神武天皇の東征はナガスネヒコの反乱を鎮めるためのやむ を得ない措置だったと述べ、ミチノクにその用いている暦を聞いた。ミチノクが伊勢の暦 だと答えると、ヤマトタケは、日神を祭る伊勢の暦を用いている以上、その伊勢の暦を用 いるのは当たり前だと説いた。ミチノクは抗弁することができず、ヤマトタケに服するこ とになった。ヤマトタケはミチノクとシマヅミチヒコを改めて現地の長に任じた。
 以上の問答は『秀真伝』第三九紋に記されている。話は飛ぶが、『将門記』によると平 将門が挙兵して新皇を称した際、彼はその王城に八省百官を置いたが、ただ暦日博士だけ を置くことはなかったという。時間の支配は国家の特権である。逆に言えば時間に支配を 及ぼせない国家は将門の坂東国家の如く不徹底なものにならざるを得ない。ヤマトタケは ミチノクのその不徹底さをついたというわけである。
 ヒタカミとの国交を回復したヤマトタケは、帰朝の途上で死ぬ。皇子の死を悲しんだ景 行天皇はその足跡をたどって東国を巡行し、夢にヤマトタケがヒカワ神(ソサノヲ)の転 生であることを悟って、『秀真伝』全四十紋は終わる。その結末を見ると『秀真伝』とは 本来、ヤマトタケに捧げられた長大な鎮魂歌だったのではないかと思われてくる。

 

 

『秀真伝』の可能性

 

『秀真伝』は近世以降、一部の僧侶や神道家の間で、神書として珍重されていたものであ る。それが「古史古伝」研究者の話題に上るようになったのは、昭和四一年、松本善之助 が古本屋の片隅でその写本の一部を見つけ、解読と探究に乗り出してからである。
 その著者はオオタタネコに仮託されている。記紀によればオオタタネコは三輪氏の祖、 三輪山の神の子もしくは子孫であり、崇神天皇の御代に流行った疫病を祓ったという人物 である。『秀真伝』はそのオオタタネコが景行天皇に捧げたものだという。
 しかし、先述したような時代錯誤の記述や近世以降の語彙なども散見されるため、実際 の成立ははるかに新しいものと思われる。おそらく、これを最終的に完成へと導いたのは 、安永年間(一七七二〜一七八〇)の修験者・和仁估容聰こと井保勇之進であろう。
 この人物は家伝の書と称する『秀真伝』を、近江国高嶋郡産所村の三尾神社(現在は廃 社)に奉納した張本人であり、さらに宮中にも献上せんとしたと伝えられている。
 彼が住んだ高嶋郡一帯には、『和解三尾大明神本土記』『嘉茂大明神本土記』『太田大 明神本土記』『子守大明神古記録』『三尾大明神略縁起』『万木森薬師如来縁起』など、 内容や用語に『秀真伝』と共通性のある寺社縁起が数多く残されている。これらは一見、 『秀真伝』の傍証となるようだが、実は、井保勇之進は大正十五年の『高島郡誌』で、す でに寺社縁起偽作の常習者として、名指しされているのである。偽書作成に際し、傍証と なる品を神社などにあらかじめ納めておくのは、よくある手口の一つにすぎない。
 しかし、『秀真伝』の現存テキストが安永年間頃の成立だとしても、それでこの文献の すべてが無価値になってしまうというわけではない。
 今から十五年も前、『秀真伝』の再発見者たる松本を囲んで、この文献の研究者たちが 座談会を開いたことがあった。その席上で、ヒタカミの所在を旧満州方面に求めようとす る鹿島f氏に対して、松本は次のように答えている。
「私は反対です。その一つの根拠は、(陸奥国に)式内社が百もあるという事実です。千 年も前に百社もあったということは、東北がかなり前から開けていたことの証拠でありま す。それから縄文土器が東北にたくさん出ておりまして、西の方よりも早く開けたという ことが言えると思います。しかも『秀真伝』全体の感触から言って、日高見というのは他 の国よりもずっと古い。高皇産霊神から始まっておりますから、東北ということは動かな いと思うのであります」(「『秀真伝』の諸問題(続)」『歴史と現代』第一巻二号)
 弥生時代以降はいざ知らず、縄文時代までの日本文化が東高西低であったことは、すで に考古学的に証明されている。三内丸山遺跡の発掘はそのダメ押しホームランに他ならな い。『秀真伝』はこれを予見していたのである。特異な伝承の書として、あるいは近世の 神道神学の書として、『秀真伝』は今後いっそう研究される必要があるだろう。  

 

 

                       2000  原田 実