「九鬼文献」が語るウシトラノコンジンと鬼門八神

 

 


 

 

『九鬼文献』歴史篇の謎

 

『九鬼文献』とは、本丹波国綾部藩主・九鬼旧子爵家に伝わった歴史・神道・武道関係文 書の総称である。『二宮尊徳翁夜話』には、綾部の九鬼侯から所蔵の神道書十巻を見せら れたという話が出ている。もっとも尊徳はそれに興味をそそられず、「無きも損なきなり 」と断じており、そのくわしい内容は不明である。現在、『九鬼文献』として知られてい るものには昭和十六年、太古史研究家の三浦一郎が時の当主・九鬼隆治からの史料提供を 受けて著した『九鬼文書の研究』(八幡書店より復刻あり)と、武道家・高松澄水が昭和 十年頃、筆写した『天津蹈鞴秘文遍』全三六巻(未公開)がある。
 さて、『九鬼文書の研究』には、歴史篇として、太元輝道神祖なる始源神に始まる長大 な神統譜が掲載されている。その中には、スサノオの姉と、スサノオの娘という二人のア マテラスを挙げ、天皇家は後者から発したとする系譜や、ウガヤフキアエズ王朝七十三第 の存在が記されている。さらにその系譜によると、日本の神々の子孫は遠く海外まで広が っており、たとえばノア、モーゼ、イエスはスサノオの、釈迦はツキヨミの血をそれぞれ ひいているという。この歴史篇は主に「天地言文」なる古文書を典拠にしたというが、実 は「天地言文」が本来、九鬼家に伝わっていたものかどうかは疑わしい。
 昭和二八年、三浦は『九鬼文書の研究』出版にまつわるトラブルの一端を著書『ユダヤ 問題と裏返して見た日本歴史』(八幡書店より復刻)で明かした。それによると、三浦は 「天地言文」の写本を見た時、「遺憾ながら極最近に書換えたものである」ことに気付い た。そこで原本を提出を求めたが、隆治は原本は書写後、焼き捨てたという。その内に九 鬼家の書生だった藤原某が持っているはずだということが判明した。そこから先の経緯に ついて三浦は明言しようとしない。ただ、『九鬼文書の研究』で公表した史料は、正しく は「大中臣文書」というべきだったと奥歯に物のはさまったような言い方で真相を暗示し ている。おそらく「天地言文」は九鬼家に本来伝わっていたものではなく、九鬼家に出入 りしていた神道家・藤原俊秀が持ち込んだものなのだろう。九鬼家は藤原氏を称していた から、隆治は同族のよしみで問題あるまいと考え、それを三浦に提供した。

 

 

信濃に逃れた大中臣氏

 

『九鬼文書の研究』所引の「大中臣系図」には、用明天皇二年、物部守屋に加担した大中 臣牟知麿という人物が守屋滅亡と共に信濃国諏訪郷に落ちのびたという記事がある。とこ ろが同書所引の「九鬼家歴代系図」は、大中臣家との係累を主張しながらも、牟知麿なる 人物についての記述がどこにもない。そして「天地言文」では、用明天皇の御代、厩戸皇 子と蘇我馬子の神祇殿放火により、神代からの「天地言文」原本が失われたとして、さら に次のような記録を残しているのである。「天地言文記録ノ写本ハ守屋ノ一族、大中臣ノ 一族、春日ノ一族、越前武内ノ一族各保存ス」
 この内、守屋の一族とは、『物部文献』を伝えたという秋田の物部家、武内ノ一族とは 『竹内文献』で名高い竹内巨麿の家だろう。春日ノ一族とは、昭和初期の神道家・春日興 恩の家と思われる。「大中臣系図」と「天地言文」を併せて読めば、「天地言文」の写本 の一つは信州の大中臣氏に伝わったということになる。そして、関係者の証言によると、 藤原俊秀はまさに長野県出身だったというのである(吾郷清彦『九鬼神伝全書』)。
 以上から考えて、『九鬼文献』の歴史篇といわれるものは、もともと九鬼家に伝わった ものではない可能性が高い。では、『九鬼文献』本来の核心はどこに求められるべきなの だろうか。ここで注目されるのが謎の神「宇志採羅根真大神」である。

 

 

「宇志採羅根真大神」

 

『九鬼文献』の「鬼門祝詞」は宇志採羅根真大神という神の御神徳を讃えるものである。 「そもそも宇志採羅根真大神と申し奉るは、すなわち造化三神、天神七代、地神五代、陰 陽の神の総称にて、日月星辰、三千世界、山川草木、人類禽獣を始めとし、森羅万象の万 物をして宇宙の真理より創造大成せらるる大神の御事なり。
曰く、天之御中主大神。曰く、高御産霊大神。曰く、神御産霊大神。曰く、伊弉諾大神。 曰く、伊弉冊大神。曰く、天照大御神。曰く、月夜見大神。曰く、建速素盞嗚大神。を奉 斎主神とし、総じて宇志採羅根真大神と崇め給ふ。
 ここに全世界、地球をして東西に分ち、その東半球の北東の国、万国の丑寅の国は,わ が大日本豊葦原瑞穂国とす。すなわち全世界をして創造大成するの任にあたる所以なり。 宇志採羅は、宇宙真理の根元なり。(以下略)」
 丑寅(艮)は陰陽道では鬼門といわれ、祟り神の金神が潜む方位とされる。ところが『 九鬼文献』はその忌まれる神・艮の金神こそ万物の創造神であるという。この神が「天地 言文」の始源神・太元輝道神祖と関連付けられていないのも、その所伝が本来の九鬼家の ものであったことを暗示する。森克明は宇志採羅根真大神が、延享二年(一七四五)、綾 部本宮山に創建された九鬼魂神社の祭神だったのではないかとする。
 ちなみに九鬼魂神社はかつて九鬼霊石といわれる丸石を神宝としており、鞍馬山の奥ノ 院に降った隕石と伝えていたが、今、その霊石は兵庫県高砂市の高御位神社の神体となっ ている。なお、「天地言文」は高御位神社に主祭神の天御中主大神の他、天照座大神・月 夜見尊・素盞嗚尊・大国主尊・豊受姫命・埴山姫命・岩裂命・根裂命の「鬼門八神」が祀 られたとするが、これは各方位の守護神であり、宇志採羅根真大神とは別である。

 

 

大本との関係

 

 さて、艮の金神を最高神にいただくということで、まず連想されるのは日本新宗教界の 宗家ともいうべき大本であろう。大本発祥の地・綾部は九鬼家の旧領であった。大本開祖 ・出口ナオのお筆先にも「あやべ九鬼大隅守の因縁が判りて来たらどえらいことになる」 と告げるものがある。九鬼家の関係者からは、ナオは九鬼家の屋敷にあった本興稲荷の信 者であり、そこで得た啓示から大本を開いたというする説も出されているが、その確かな 裏付けはない。九鬼家と大本の確実な接触は、ナオの死後、大正八年九月に九鬼隆治が旧 領主として綾部に帰った際、教主・出口王仁三郎に招かれたことを以て蒿矢とする。
 だが、両者の関係はたちまち決裂した。江戸時代、九鬼家の藩邸で鬼門除けの札を配っ ていたことは『江戸名所図絵』などにもある。隆治からすれば、九鬼家こそ大本が興る遥 か前から鬼門の神を祭っていた家系だという自負があったのだろう。隆治は大正十年、皇 道宣揚会という教団を設立し、反大本運動を展開していく。九鬼家側の主張では、世界救 世教の岡田茂吉、生長の家の谷口雅春、神道天行居の友清歓真、合気道の植芝盛平など大 本を出て、それぞれ一派を開いた人物の多くが隆治の下で学んだとされる。
『九鬼文書の研究』出版も、目的の一つに第二次弾圧で教勢を失った大本に代わろうとい う目論見があった。だが、当時の体制は『九鬼文献』を大本や『竹内文献』の亜流とみな した。三浦はたちまちジャーナリズムの袋叩きにあい、『九鬼文書の研究』も千部印刷し たうちの九百部以上が没収焼却され、長らく幻の本となっていたのである。
 陰陽道を信じた古の王朝人にとって、鬼門への畏怖は具体的なものだった。それは東北 の地に跋扈する縄文人の末裔・蝦夷のイメージと重なっていたのである。艮の金神とは、 王朝人を震撼させた縄文の神だったのだろうか。『九鬼文献』は、この恐ろしい鬼門の神 が、実は創造大成の神だったことを教えてくれるのである。  

 

 

                       2000  原田 実