「物部文献」が語るニギハヤヒの東北降臨

 

 


 

 

ニギハヤヒの出羽降臨

 

『日本書紀』神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来した者があ り、その名をニギハヤヒ(饒速日)というと伝える。ニギハヤヒは大和の土豪・ナガスネ ヒコ(長髄彦)の妹を娶り、当初はナガスネヒコと共に神武の侵攻に抗した。だが、神武 とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことで、互いに天神の子であることを認め 、結局、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏した。ニギハヤヒは物部氏の遠祖 となったという。そのニギハヤヒは『古事記』では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなく なった神武への救援者として登場する。記紀を見る限り、ニギハヤヒが飛来した所は畿内 にあると考えるしかない。『先代旧辞本紀』は、ニギハヤヒを天孫ニニギの兄とし、高千 穂への天孫降臨以上の威容をもって河内国哮峰(現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天 降ったとする。同地にはニギハヤヒを祀る磐舟神社もある。
 ところがこのニギハヤヒ降臨地が畿内ではなく、東北地方にあったと伝える文献がある 。それが本論稿で問題とする『物部文献』なのである。
 秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)に古代史に関する文献があるという噂はすで に戦前からあり、同社に伝わる神代文字の祝詞が公表されたこともあった(小保内樺之介 『天津祝詞の太祝詞の解説』)。しかし、その歴史関係の文書はなかなか公開されること がなく、ついに一九八四年、物部長照名誉宮司の英断で、その内容の一部が示されること になったのである(新藤孝一『秋田「物部文書」伝承』)。
 それによると、ニギハヤヒは豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国 を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であ った。ニギハヤヒはその国を巡ると、逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐 松神社のそもそもの由来である。ニギハヤヒは御倉棚の地に十種の神宝を奉じ、一時、居 住したが、その跡は現在の協和町船岡字合貝の三倉神社として残されている。

 

 

物部氏の興亡

 

 ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、ニギハヤヒと和睦して畿内に留まった 。だが、神武東征が始まるやナガスネヒコを裏切り、神武に帰順するというのは『日本書 紀』とほぼ同様の筋書きである。『物部文献』によると、ニギハヤヒは畿内だけではなく 自ら平定した東国をも神武に献上してしまった。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒ の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。
 神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、物部瞻咋連はこれを助け、懐妊した皇后のために腹 帯を献じた。その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って蝦夷の地に至り、日の宮に 詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営した。神威によって韓国を服ろわせたこと を記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)という。この神功皇后の蝦 夷巡行は、記紀にはなく、『物部文献』独自の伝承として注目される。
 こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきた。 だが、崇峻天皇の御代、『日本書紀』にも語られる崇仏排仏戦争に敗れ、物部氏はその勢 力を一気に失った。『物部文献』は物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加世が鳥取男速と いう臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびたことを伝える。『日本書紀』は守屋の近侍で 崇仏排仏戦争の勝敗が決した後も果敢なゲリラ戦を続けた鳥取部万の勇猛を記している。 鳥取男速はこの鳥取部万の一族か、もしくは鳥取部万をモデルに造作された人物だろう。 それはさておき、東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地、仙北郡に隠れ、日の宮の神官 としておさまることになる。現在の唐松神社宮司家はこの那加世の子孫である。

 

 

天日宮の不思議

 

 唐松神社の構造は一見して不思議な印象を与える。社殿を支える土台として、玉石で固 めた丘が築かれ、さらにその周囲には堀が廻らされているのである。
 その形はいわば前方後円墳のミニチュアであり、造営当初、玉石が輝いていた頃には、 まさに「天日宮」と呼ばれるにふさわしい偉容だったろうと思わせる。もっとも社殿その ものは近代に入ってから、古伝に基づき建てられたものだという。
 ニギハヤヒは天より降りる際、十種の神宝を持ってきたという。『先代旧辞本紀』は、 十種の神宝について、死者をも蘇生させる霊力があると伝える。現在、唐松神社にはその 内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。
 進藤孝一はそれを実見した印象として、次のように述べる。
「十握の剣は鎌倉時代になって作られた物のようである。鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のよ うな固い、黒い色をした石でできている」(『秋田「物部文書」伝承』)
 唐松神社には、さまざまな祈祷禁厭の作法や、呪言を記すための文字なども伝わってい る。この文字はいわゆる神代文字のアヒル文字草書体で、他にも豊国文字らしきものなど 数種あるという。これらの神宝や祈祷禁厭は、この神社の祭祀が古代以来のシャーマニズ ムの伝統を引き継いだものであることを示している。

 

 

神霊としてのニギハヤヒ

 

 私たちは『物部文献』のニギハヤヒ東北降臨伝承をどのように考えればよいのだろうか 。それは孤立した伝承であり、記紀などから裏付けることはできない。
 降臨地が鳥海山だというのも、「鳥海」をトミと読み、『古事記』でナガスネヒコの別 名とする登美毘古の名や、『先代旧辞本紀』でニギハヤヒが住んだとする大和の鳥見白庭 山の地名と関連付けただけとも思われる。しかし、そのように断じてはこの伝承独自の価 値が見失われてしまう。
 物部氏の「物」はもともと、霊を意味していたらしい。そのなごりは大物主命(三輪山 の神)などの神名や、モノノケなどの語彙に見ることができる。「物」に関わる部民の長 たる物部氏が、シャーマニズムを奉じるのは当然のことだった。
 鳥海山に降臨したニギハヤヒとは、東北に寓居する物部氏の祖霊召喚に応じた、神霊と してのニギハヤヒだったのではないか。そう考えれば、畿内に降臨したはずのニギハヤヒ が東北の地にも降臨したとしておかしくはない。
 物部那加世の蝦夷亡命は、他の史料で裏付けることができず、この地方への物部氏移住 が本当のところ、いつのことだったかは判然としない。しかし、物部氏はそのシャーマニ ズムを媒介として、地元の古い祭祀をも引き継いでいったのだろう。唐松神社の神宝の内 、鏡と玉が石製であることは、その祭祀の起源が弥生時代以降の金属器文化とは異質の文 化に属するものであることを暗示している。
 また、東北地方の日本海側では古くから大陸との交流の伝統があった。鳥海山の南麓に あたる山形県遊佐町の三崎山A遺跡からは縄文後期末の土器とともに中国製の青銅刀子が 出土している。川崎利夫の発表によると、その刀は商(殷)王朝中期の作品だという。大 陸からの船が東北地方に向かう時、鳥海山は恰好の目標となっていた。ニギハヤヒ降臨や 神功皇后来訪の伝承には、大陸からの船を迎えた記憶が反映しているとも考えられる。
 物部家では、代々の当主が文献を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたと いう。現在でも『物部文献』はその一部が公表されたとはいえ、その大部分は依然、未公 開のままになっている。古代以来の祭祀を伝える貴重な史料として、いつの日にか、その 全貌が明らかになるよう望む次第である。  

 

 

                       2000  原田 実