「上記」が語る国生み・神生み神話

 

 


 

 

世界の始まりと八十島の誕生

 

『上記』はいわゆる神代文字の一種(豊国文字という)で、世界の始源からヒタカサヌ( 神武天皇)による大和朝廷開基までの神々の系譜と事蹟を記した奇書である。その本文冒 頭の一文は『古事記』の本文冒頭とまったく同じものと言ってよい。
「天地の始めの時、高天原に成りませる神の御名はアメノミナカヌシノミコト、次にタカ ミムスビノミコト、次にカミムスビノミコト」
『古事記』では、天御中主神ら造化三神の後、イザナギ・イザナミの出現までに十二柱の 神々が現れたことになっているが、『上記』では二八柱となっており、倍以上にふくれあ がっている。なお、その中にウキフヌ、ハコクニという二柱が含まれているが、一説によ ると、これはノアの洪水のような方舟伝説が日本にもあったなごりではないかという。
 さて、イザナギとイザナミは天津神の命を受け、水母なす漂える国を固めることになっ た。二柱の神が、天の浮橋に立ち、アマノヌホコ(瓊玉で飾られた矛か)で潮を掻き回す と、矛からしたたる塩が固まり、最初の国土オノコロシマができた。二柱の神はそのオノ コロシマに降りて結婚し、淡路、伊予(四国)、筑紫(九州)、壱岐、対馬、隠岐、佐渡 の島々を産んだ。ここまではほぼ『古事記』の所伝と同様である。
 その後、『古事記』ではイザナミは大倭豊秋津島(大和を中心とする畿内?)を産んだ とされているが、『上記』ではアマツミソラトヨチガハラ(本州全域)を産んだとあり、 本州十五国の国名とその神名が記されている。また、『古事記』では、オオヤシマ(大八 島国)は淡路から大倭までの総称だが、『上記』では本州一島の別名となっている。
 さて、本州を産んだ後、二柱の神はもろもろの小島を産んだ。『古事記』ではこの小島 群を産んだところで国生み神話はいったん終わり、そこから話は神生み神話に移る。とこ ろが『上記』の国生み神話は、ここまででは終わらないのである。

 

 

海外の国土創世

 

 八十島を産み終わり、二柱の神は高天原に登ってその結果を復命した。天津神はその功 績を喜び、さらにその八十島を元に、八百千万の国々を造るように命じた。二柱の神は、 天の安川の河原でとった天の真砂を種に海外の国土を造ることにした。
 二柱の神は自ら産みなした国土を廻り、その高山の上から海の彼方に向けて、真砂を吹 き撒いた。こうして生まれた島々の名をエゾ、オロ、イクツムロ、イクツフキ、カル、リ キウ、アモ、アカ、ココカルウカルという。これらの内、エゾは北海道を含む北方諸島、 リキウが琉球列島であることは容易に察しがつく。また、『上記』にはオルシという北方 系の異民族が出てくるからオロは沿海州もしくはロシアのことではないかと思われる。し かし、その他の国土については説話中に現れず、現実の国土との同定は困難である。
 むしろ、これらは純粋に神話的な島名としておいた方が妥当かも知れない。たとえば琉 球列島は本州から見て西南にあるが、『上記』のリキウは方位上、東南方向にあることに なっているのだ(そのため、『上記』のリキウをムー大陸とする説さえある)。
 イザナギ・イザナミが日本列島を産むだけではなく、遠く海外の国々まで造り成した− この『上記』の神話は、幕末期の平田国学を思わせる。大国隆正をはじめとする平田派の 国学者たちは、日本のみならず海外の諸国も記紀神話の神々によって興されたと主張して いたのである。そう思ってみると、『上記』の海外の島々の名は、江戸時代の文献におけ る欧米諸国の国名表記となにやら似た響きを持っているようである。

 

 

星となる神々

 

 国生みを終えた二柱の神はその国土を整える神々と八百万の青人草(人民)を産んだ。 神々はやがて天に上り、それぞれ星となって留まったという。
 イザナミが火神を産んだ火傷のために死んだこと、イザナギがイザナミの後を追って黄 泉国に下ったことは『古事記』と『上記』とで共通している。しかし、『古事記』ではイ ザナミは黄泉国に留まったのに対して、『上記』では、イザナミを無事連れ戻すことに成 功し、蘇生の呪文によってその息を吹きかえさせたという。このイザナギの黄泉下りに限 らず、『古事記』で悲劇で終わる説話が『上記』ではほとんどハッピーエンドを迎えてい る。この楽観的展開は『上記』神話の基調をなすトーンである。
 黄泉国から帰った二柱の神は、その穢れを祓うため、大海原で禊することにした。そこ で阿波の水門(鳴門海峡)に行ったところ、その潮の流れは速すぎて、とても禊できそう にはなかった。そこで速吸の戸(豊予海峡もしくは明石海峡)に行ったところ、そこは海 水が渦まいており、禊には適さなかった。そこで「ツクシヒムカノタチハナノオトノアワ キハラ」(諸説あり)に出て、ようやく禊ができた。この禊の場所の選定にまつわる話は 『日本書紀』一書ノ十にもあるが、海洋的性格の強い説話といえよう。
 二柱の神の禊によって、またもや多くの神々が生まれた。その中でもヒムカタヒメ(ア マテラス)、ツクノミノヲ、スサノヲの三柱は最も尊く、優れていた。そこでイザナギと イザナミはヒムカタヒメに高天原を、ツクユミノヲに月の世界を、スサノヲに海の世界を 治めるように命じた。使命を終えた二柱の神は天へと帰り、後にイザナギは高天原の日の 若宮に、イザナミは出雲のヒワ山(現広島県比婆郡の比婆山)に鎮まった。

 

 

『上記』と海人族伝承

 

 従来の神話学の常識では、日本神話には太陽と月を除く天体説話は乏しいとされていた 。天体説話は遊牧民や航海民の間で発達するものであり、湿潤な土地に住む農耕民族たる 日本人は、星の物語を生み出す機会に恵まれなかったというわけである。
 ところが『上記』では、始源神アメノミナカヌシを始めとして、多くの神々が、星とし て天上にその座を占めたとされ、その運行までが記されている。金井三男(五島プラネタ リウム)の試算によると、この星々の観測場所を大分県九住山山頂とした場合、観測が行 われたのは最大幅で西暦紀元後六百〜千四百年、最確値八百〜千年のいずれかの時期と推 定できるという(田中勝也『上記研究』八幡書店)。いずれにしろ、『上記』成立に関与 した人々の中に、天体の運行に深い関心を持つ者がいたことは間違いない。
『上記』の撰者は鎌倉時代初頭の豊後国守護・大友能直とされているが、その根拠となる 序文の信憑性は低く、後世の仮託とみた方がよさそうである。
 現存する『上記』写本には、大別して大友本系と宗像本系という二系列がある。その内 、大友本系と言われるものは、大分県臼杵郡福良村(現臼杵市福良)の住人・大友淳(明 治十年没)の家に伝わっていた写本およびその写しである。また、宗像本とは豊後国大野 郡土師村(現大分県大野郡大野町)の住人・宗像良蔵の死後、その家に遺されていたもの を天保年間に神道家の幸末葉枝尺が買いとり、筆写して後世に伝えたものである。
 臼杵市は古く海部郡に属し、今も良港に恵まれた所である。『豊後国風土記』は「この 郡の百姓はみな海辺の白水郎なり。因りて海部の郡といふ」と伝える。また、宗像本を伝 えた宗像市は宗像神社宮司家の一族を称していたが、筑前の宗像神社は玄界灘に浮かぶ沖 ノ島を沖津宮とし、航海神の三姫神を祀っている。『上記』が、こうした海人族的伝統の 根強い地方や家系に伝わっていたのは、果たして偶然だろうか。『上記』の天体説話、ス ケールの大きな国生み説話、そしてウガヤフキアエズ王朝伝承には、九州を根拠地として 大海原を廻った、古の海人族の記憶が息づいているように思われてくるのである。  

 

 

                       2000  原田 実