「大成経」と伊勢神道

 

 


 

 

『先代旧辞本紀』と『大成経』

 

『先代旧辞本紀』は聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、すでに平安時代からその 存在は知られていた。室町時代の神道家・吉田兼倶は『先代旧辞本紀』を神書とし、『日 本書紀』『古事記』と共に三部本書に数えている。。だが、その内容では聖徳太子と敵対 したはずの物部氏の始祖伝承が重視されており、太子撰というのは信じ難い。おそらく何 人かが律令国家確立の過程で没落した諸氏族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広 まったものであろう。『先代旧辞本紀』は天御中主尊、国常立尊に先行する始源神・天祖 天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊の名を伝えるなど、記紀にない伝承を多く含み、また、太子 信仰と結びついたこともあって多くの異本を派生することになった。その中でも、公開時 、物議をかもしたのが『先代旧辞本紀』七二巻本(附二巻)こと『大成経』である。

 

 

磯宮の謎

 

 話は垂仁朝、伊勢神宮創建まで遡る。皇女・倭姫命は、土着の神の抵抗にあい、大和で 祀ることができない皇祖神・天照大神の御神鏡を奉じ、祭祀にふさわしい場所を探してい た。彼女は伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに磯宮を建て、ようやくそこに皇祖神を 鎮めることができた。これが伊勢内宮の起源である。外宮は皇祖神が飢えることのなきよ う、雄略朝に、伊勢の地に食物を司る神・豊受大神を勧請したものであった。
 伊勢神宮は朝廷の宗廟として、その創建以来、私幣禁止を原則としていた(今でも伊勢 神宮に賽銭箱がないのはこのためである)。そのため、国家による保護は神社の死命を決 することになる。だが、国家はどうしても内宮の方を重視する傾向がある。
 そこで、外宮では鎌倉時代、いわゆる神道五部書を広め、豊受大神は単に食物を生産す るだけの神ではなく、天御中主尊、国常立尊と同体で世界万物の始源神であるという宣伝 を行うようになった。この外宮の主張に基づく神学こそ、いわゆる伊勢神道である。
『神道五部書』は古人に仮託されてはいるが、実際には鎌倉時代初頃の外宮の神官が古伝 に基づき、造作したものであろう。ところがその五部書の一つ、『造伊勢二所太神宮宝基 本紀』にやっかいな記述がある。それによると、往古、朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を 納める際、内宮・外宮・別宮そして礒宮(磯宮)はそれぞれ別の扱いになっていたという 。また、内宮側の史料『皇大神宮儀式帳』にも伊勢内宮は礒宮から現在の位置に移ったと ある。これによれば、現在の伊勢内宮と別に、それよりも古い礒宮があったことになるの である。ここから後世、大問題が生じることになる。
 源平合戦の頃から戦国時代にかけて、伊勢の地はしばしば戦乱に巻き込まれていた。特 に伊勢別宮の一つ、伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)は志摩の九鬼水軍から大規模な略奪 を受け、再建もままならなかった(この時、伊雑宮から奪われた文書が『九鬼文献』のタ ネ本になったとする研究者もある)。伊雑宮はたびたび幕府や朝廷に再建の願いを出した が容れられることはなかった。その上、万治元年(一六五八)、伊勢内宮より、伊雑宮が 幕府に提出した文書の中に偽作の神書があるというクレームがついた。
 すなわち、それらの神書によると、伊雑宮こそ日神・天照大神を祀る真の礒宮であり、 外宮はツキヨミを祀る月神の宮、内宮にいたっては天孫・ニニギを祀る星神の宮に過ぎな いというのである。このような主張を内宮が受け入れるはずはない。伊勢神道を奉ずる外 宮にしても同様である。幕府はこの問題の処置に頭を痛めた。
 寛文二年(一六六二)、幕府は伊雑宮再建のためにようやく重い腰を上げた。しかし、 それはあくまで内宮別宮の一つとしての扱いであった。その主張が全面的に認められなか った伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。

 

 

『大成経』出現

 

 延宝四年(一六七六)から七年にかけて、当時、江戸の出版界では知られる存在だった 戸嶋惣兵衛の店から、不思議な本が出版された。それは『神代皇代大成経』という総題が 付された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説くものであった。序文によると、その 由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、さらに太子の没後、推古天皇が四天王寺、大三輪社 (大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものだという。この『大成経』はたちまち江湖の話 題を呼び、学者や神官の間で広く読まれることになった。
 ところが伊勢両宮の神官たちは、たちまち『大成経』が秘めている危険性に気付いた。 『大成経』の神話は、伊雑宮を日神の社とし、外宮・内宮をそれぞれ月神・星神の宮とす る伊雑宮の主張を裏付けるような内容になっていたのである。
 伊勢神宮が国家の宗廟であり、幕府もタテマエ上は朝廷の権威に支えられている以上、 その秩序を乱すような異説は厳しく取り締まられなければならない。
 内外両宮からの度重なる訴えにより、幕府は『大成経』刊行の背後を詮議した。
 天和元年(一六八一)、幕府はついに『大成経』を偽書と断じ、禁書とした上で版木ま で焼いてしまった。また、戸嶋惣平衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采 女と僧・潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、と関係者一同の刑も 定まり、『大成経』事件は一応の終結を迎えた。
 ただし、永野采女はこの年に世を去っており、実際に刑を受けることは免れた。一方、 潮音は当時、中国から伝来したばかりの黄襞禅を学び、時の将軍・綱吉の生母、桂昌院の 帰依も厚い高僧であった。そのため、彼は特に罪を減じられ、上州館林の黒滝山不動寺に 身柄を移されるに止まっている。彼は自らが偽作者に非ざることを弁じ続けたが、一方で は宗派興隆のためにも尽くし、今なお、黄襞宗黒滝派の祖として尊敬を集めている。

 

 

「古史古伝」の元祖

 

 幕府による弾圧の後、多くの学者たちが『大成経』の偽書たることを論じた。徳川光国 をはじめとして、吉見幸和、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長、平田篤胤、橘守部・・・  だが、こうして学者たちが繰り返し、偽書たることを強調したというところに、かえっ て『大成経』事件の反響の大きさをうかがうことができよう。中には山崎垂加のように、 『大成経』が真正の古典たることを信じ、自説の例証に引用する学者さえあった。また、 各地の神社の由緒書にも、しばしば『大成経』の影響を見ることができる。
「古史古伝」の世界にも『大成経』が与えた影響は大きい。特に『秀真伝』およびその同 系の文献である『三笠文』『神勅基兆伝太占書紀』は、『大成経』を事実上の下敷きとし て書かれたと思われる。また、「古史古伝」では、しばしばニニギの兄・天火明命とニギ ハヤヒを混同する記述がある。この混同はすでに『先代旧辞本紀』十巻本から始まってお り、必ずしも『大成経』独自の伝承とはいえないが、『大成経』が直接の典拠となった可 能性は高い。さらに山田孝雄によると、しばしば神代文字の配列に用いられるヒフミ歌と いう呪言も、『大成経』を初出とするという(「所謂神代文字の論」)。
 公開時、ただちに時の権力から弾圧を受けたということからいっても、後世への影響か らいっても、『大成経』こそ、まさに「古史古伝」の元祖と呼ぶにふさわしいだろう。
 なお、最近、おりからの予言ブームで、『大成経』の「未然本紀」をいわゆる聖徳太子 の未来記と同一視する説が現れている。たしかに「未然本紀」は聖徳太子が自らの没後に 起きることを、あらかじめ記し残したという体裁にはなっている。しかし、これは『太平 記』で四天王寺に伝えられた未来記とはあくまで別物であり、混同してはならない。  

 

 

                       2000  原田 実