日本の予言書
−『野馬台詩』『聖徳太子未来紀』『竹内文献』−

 

 


 

 

人王百世にして日本は滅びる?

 

 『野馬台詩』とは、古来、日本の命運を語る予言詩として史上、多くの人の心を魅きつ けてきたものである。梁の武帝(在位五〇二〜五四九)の尊信を受け、幾多の予言を成し たことで有名な禅僧・宝志(宝誌、四一八〜五一四)作と伝えられているが、なぜ、中国 の高僧が日本のことをわざわざ予言したのかは定かではなく、後世の仮託とみなした方が よいだろう。さほど長いものではないので、ここにその全文を読み下して掲載したい。

東海の姫氏の国 百世天工に代る       右司輔翼をなし 衡主元功を建つ
初に治法の事を興し 終に祖宗を祭るを成す  本枝天壌に周く 君臣始終を定む
谷填して田孫走り 魚膾羽を生じて翔る    葛後干戈動き 中微にして子孫昌なり
白龍游ぎて水を失い 窘急にして胡城に寄す  黄けい人に代わりて食し 黒鼠牛腸を喰ふ
丹水流れ尽きて後 天命三公に在り      百王の流れ畢く竭き 猿犬英雄を称す
星流れて野外に飛び 鐘鼓国中に喧し     青丘と赤土 茫々として遂に空しく成る

 象徴的な表現もあってわかりにくいが、大意をとれば、古代中国の周王室(姫姓)の流 れをくむ東海の国(日本)は百世にわたって代々栄える。しかし、戦乱の世に入るや、皇 室は絶え、かつての大臣、内実は猿や犬のような輩(申年・戌年生まれの人という解釈も ある)が国を奪って相争う。その結果、国中ことごとく焼土となり、あとかたもなく滅び てしまうというのである。
 その形式は十二聨二十四句だが、内容は六編の四行詩として分けて読むこともできる。
あのノストラダムスの予言書が四行詩からなっていることが連想される。

 

 

吉備大臣の入唐譚

 

 すでに平安初期の『承平私記』に「梁の時の宝志和尚の讖に云ふ 東海の姫氏国」とし て『野馬台詩』とおぼしきものの引用がある(「讖」とは予言書のこと)。
『江談抄』第三巻や『吉備大臣物語』などによると、『野馬台詩』は吉備真備が唐から持 ちかえったものだという。これらの文献は十二世紀頃のものだから、その由来説話は、遅 くとも平安時代末期には成立していたということになる。
 さて、それによると、大臣吉備真備が遣唐使として唐の国にいた頃、その学識に恐れを なした唐人は、彼を高樓に登らせて梯子を外し、そこに住む鬼に殺させようとした。
 しかし、吉備大臣の前に現れた鬼は、自分もまた遣唐使として入唐した際、高樓に閉じ 込められて死んだのだと身の上を語り、同じ日本人のよしみで吉備大臣に唐国のことをい ろいろと教えようと申し出た(この鬼の正体は安倍仲麻呂というのが通説だが、小林恵子 氏は、これを高向玄理ではないかと推定している)。
 吉備大臣は鬼の助けを得て、唐人が出す難問(『文選』の解読、囲碁の名人との勝負) を次々とクリアしたが、最後に出てきた宝志作という不思議な暗号文には手も足もでない 。そこで思わず日本の仏神を祈った時、屋根から一匹の蜘蛛が落ちてきて、その文の上を 這いまわった。吉備大臣がその糸の跡を目で追うと、それまで見当もつかなかった暗号が すらすらと読めたのである。かくして、吉備大臣は『文選』や囲碁と共に『野馬台詩』を 日本に持ち帰ることになった。
 吉備真備(六九三〜七七五)は、奈良朝の官僚として有名だが、一方で彼は陰陽・暦道 ・天文に長じ、陰陽道の宗家・賀茂氏(後の幸徳井家)と安倍氏(後の土御門家)に陰陽 道を伝えたともいわれている。予言詩を日本にもたらすには、まさにうってつけの人物だ ったといえよう。

 

 

戦乱を告げるけい惑星

 

 この吉備大臣入唐譚を収めた『江談抄』は、有職故実の大家・大江匡房(一〇四一〜一 一一一)の晩年の談話を、藤原実兼が必録したものである。その冒頭で匡房は、世間が彼 自身のことをけい惑星の化身だと噂し始めたということを吹聴している。
 日本では儒学といえば、道徳の教えというイメージが強いが、中国では古来、天の意思 を読み取り、未来を予測することも儒者の務めと考えられていた。
 そのため、儒者には天文や易などの占い、「讖緯」といわれる予言書にも精通すること も求められていたのである。また、天の意思は民衆の流行歌や世間の風俗などを通じても 顕れるものと信じられていた。匡房が『江家次第』のような緻密な有職故実書を著す一方 、『洛陽田楽記』『遊女記』『傀儡子記』『狐媚記』などで当時の風俗を書き残したのも 、この天意を問うという儒教的問題意識に基づくものだったのだろう。
 けい惑星、すなわち火星は古代ローマでも戦いの神マーズを象徴する星だったが、中国や 日本においても戦乱や疫病、飢饉の予兆となる不吉な星であった。そしてまた、その不吉 さゆえにこそ、火星は予知をつかさどる星ともなった(深沢徹『中世神話の煉丹術』人文 書院)。匡房が自らを火星になぞらえたのも、武家の台頭の最中、迫りくる戦乱への予感 に、予言者たらんとする気概を示したものといえようか。『野馬台詩』を日本にもたらし たという吉備大臣に、匡房は自らの先駆をみたのかも知れない。

 

 

日本国の終焉はいつか

 

 さて、『野馬台詩』の百世にこだわれば、第百代天皇の即位後に皇統は絶え、日本国は 滅亡することになる。一般には第百代天皇といえば南北朝合一を成し遂げた後小松天皇で ある。そのため、鎌倉時代末から室町時代にかけての日本には終末への不安が蔓延するこ とになった。たとえば、『応仁記』序では、聖徳太子未来記と共に『野馬台詩』が戦乱の 予言書として挙げられ、応仁の乱のありさまは「茫々として遂に空しく成る」という末尾 の行そのままだとされている。「百王の流れ畢く竭き」を南朝滅亡のことと見なせば、な るほど『野馬台詩』の予言はすでに成就したことになるだろう。しかし、応仁の乱は長い 戦国時代の幕開けを告げるものでしかなかった。
 江戸時代末から明治初期にかけて、巷では暗号で当時の政府に対する痛烈な風刺や、百 姓一揆に関する極秘通信を記すことが流行した。代表的なものには、嘉永六年(一八五三 )、浦賀への黒船来航の模様を語った『野暮代之侍』や、同年に南部藩で起きた一揆を語 る『南部一揆野馬台詩』がある。表題からもわかる通り、それらの文書は『野馬台詩』に 範をとったものだった。当時の人々は魏志倭人伝の「邪馬台国」よりも、むしろ『野馬台 詩』の方でヤマタイの名に親しんでいたのだ。
 一九七五年、空前の予言ブームの最中、演劇研究家の故武智鉄二は『邪馬台の詩』(白 金書房)を著し、『野馬台詩』について新解釈を出した。すなわち、越前から出て新王朝 を建てたという継体天皇(第二六代)から見れば、昭和天皇(第一二四代)は九九世とい うことになる。したがって、『野馬台詩』が予言した終末の世は、当時の皇太子の即位後 、武智自身のついに見ることのなかった平成の御代のことだということになる。
 武智によると、その終末は次の過程が進行するという。すなわち、皇太子が即位し(百 王の流れ畢く竭き)、それまで天皇制に反対してきた革新陣営の人物が政権を握った直後 (猿犬英雄を称す)、UFOが地球を襲い(星流れて野外に飛び)、宇宙的規模の戦乱が 生じる(鐘鼓国中に喧し)。人類はほぼ全滅し、日本の地には焼きただれた赤い土のみが 残る(青丘と赤土)、そして、ついには日本列島そのものが沈没し、あとには何も残らな いという。この武智氏の『野馬台詩』解読には五島勉氏によるノストラダムスの虚無的解 釈の影響が強く見られる。
 以上、見てきたように中世末期、幕末維新、そして現代と、日本が変革を迫られる時、 『野馬台詩』は常に新しい装いを得て、私たちの前に甦るのである。

 

 

ノストラダムスを超える予言者?

 

「聖徳太子未来記」、この幻の予言書を一般に知らしめたのは、かつて『ノストラダムス の大予言』で一大予言ブームを巻き起こした五島勉氏その人であった(『聖徳太子「未来 記」の秘予言』青春出版社、一九九一年)。五島氏によると、聖徳太子こそユダヤ・キリ スト教・白人文明の思い上がった未来プログラムを打ちくだく古代日本最高の知性であり 、ノストラダムスも超える大予言者なのだという。
 とはいえ五島氏は別に「聖徳太子未来記」を発見したというわけではない。それは中世 思想史や国文学の研究者の間では、すでに周知のものであった。ではなぜ、あの一九七〇 年代の予言ブームの最中、それが話題に登らなかったのか。その主な原因は二つある。そ の一つは学界とジャーナリズムの乖離である。つまり、民間の予言ブームに関わって信用 を落とすわけにはいかないという学界側の閉鎖性と、ジャーナリズム側の不勉強のために 、聖徳太子未来記にまで関心を寄せる人が出なかったのである。
 しかし、それ以上に重要な理由として、「聖徳太子未来記」には実体がないということ があげられる。「聖徳太子未来記」としてまとまった文献などは、どこにも残されていな いのである。そこで、その研究を行うには、中世のさまざまな文献から未来記の逸文と称 するものを拾っていかなければならない。これはなかなか根気のいる仕事なのだ。
 その意味では、五島氏の著書は、「聖徳太子未来記」の知名度を高めたというだけでも 評価できるかも知れない。しかし、聖徳太子が本当に五島氏のいうような大予言者だった かということになると、私は首をかしげざるを得ないのである。

 

 

聖徳太子の予知伝承

 

 聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)の予知能力は、すでに正史たる『日本書紀』の推古天皇の 条に「聖の智有り・・・兼ねて未然を知ろしめす」として記されたところである。
 また、『聖徳太子伝暦』によると、敏達天皇九年(五八〇)、難波に不思議な童子が現 れた。当時、六歳だった太子は、その童子がけい惑星の精であり、その歌は予言になってい ると解き明かしたという。この説話は太子自身が予言の星・けい惑星と関係があることを暗 示するものだ。太子自筆と伝えられる四天王寺の縁起書『荒陵山御手印縁起』にも、聖書 の黙示録を思わせるような世界の終末の模様が語られている。
 平安時代初期成立の『先代旧事本紀』十巻本や『上宮聖徳太子伝補闕記』には、宇治に 行幸した太子が、その近くに将来、聖皇が都を開くだろうと告げたとある。この予言は後 の七九四年、平安京造営として実現したということになる。
 鎌倉時代初頭成立の『古事談』などによると、天喜二年(一〇五四)九月二十日、法隆 寺の僧忠禅が、太子の陵墓から未来記の石碑を掘り出したと伝えている。この記録からう かがえるのは、どうやら未来記は当時、碑文として埋蔵されたものと考えられていたらし いということだ。その内容は、太子滅後の仏法興隆を予告した(と称する)ものだった。 平安時代末から鎌倉時代にかけては、聖徳太子の予言として、末法の世(釈迦入滅二千年 後)に衰微した仏教が日本でふたたび興隆するという説が広まっていたらしく、親鸞や日 蓮もしばしば、太子の予言を信じ、自らの行動の指針としている旨、書き残している。

 

 

「未来記」の流行

 

 鎌倉時代には、武家の台頭と幕府成立という時代背景を受けて、聖徳太子の予言にも戦 乱に関する、具体性を帯びた内容のものが次々と現れてきた。
『平家物語』巻八には、平家都落ちのことはすでに「聖徳太子の未来記」に予言されてい たという記述がある。また、慈円の『愚管抄』(承久二年=一二二〇成立)には、聖徳太 子が著した「世滅松」なる予言書に、幕府による朝廷圧迫が記されていたとある。
 藤原定家の『名月記』にも、太子の墓の周囲から「太子御記文」と称される石が次々と 出土すると記されている。定家は嘉禄二年(一二二六)に出土したという瑪瑙の碑石の文 面を紹介しているが、その内容は、人王八六代の時、東夷が来たりて泥の王が国を取り、 次に西戎が国を従える。賢王の治世が三十年続いた後、彌猴(大ザル)や狗が人を食らう というものであった。これは仲恭天皇(第八五代)の御代におきた承久の乱(一二二一) の予言とみなされたという。
 鎌倉幕府が倒れるや、太子がすでにそのありさまを予見していたという類の記録が頻出 した。たとえば、吉田隆長の『吉口伝』には、藤原家倫が元弘二年(一三三二)頃に注記 して吉田家に伝えたという未来記や、南都唐招提寺に伝わったという未来記の逸文がある が、そこには人王九六代、東魚が大兵乱を鎮め、次にその東魚を西鳥が食らって天下太平 となるという謎めいた記述がある。当時の人々はこれを、後醍醐天皇(第九六代)の軍勢 (西鳥)が鎌倉の北条方(東魚)を滅ぼすという予言として受け取っていたらしい。
 ほぼ同様の内容は、『太平記』に楠木正成が四天王寺で見たとある聖徳太子未来記にも 記されていたという。『太平記』はさらにその続きとして、西鳥の海内統一後、彌猴の如 き者がふたたび天下を奪うとしている(足利尊氏のこと)。
 南北朝の兵乱が泥沼化すると未来記にも足利幕府の成立と南朝の最終的勝利を予言した と称するものが出てきた。南朝方の重鎮・北畠親房が興国三年(一三四二)、結城親朝に 送った書簡には、「聖徳太子の御記文」にも南朝方の勝利は明らかであるという旨の記述 がある。だが、この予言が結局は実現しなかったことは歴史が語る通りである。
 戦国時代にも『応仁記』序をはじめとして、聖徳太子未来記を引用する文献は少なから ずある。しかし当時の目まぐるしい権力抗争の中では、さしもの未来記も事態の推移を追 い掛けるのが精一杯で、親房のようにこれを政治的に利用しようとしても、うまくいかな かったようだ。こうして、いつしか未来記はその影を潜めてしまう。
 江戸時代にも『先代旧事本紀大成経』未然本紀のように太子が豊臣秀吉の朝鮮出兵や、 徳川幕府の天下統一まで予知していたという本が出されてはいるが、その予言が特に反響 を呼ぶということはなかった。むしろ、この時代には恋川春町『楠無益委記』、朋誠銅喜 三二『長生見度記』、竹杖為軽『夫従以来記』など黄表紙本の未来記パロディの方がこの 二十世紀末の風俗を予見しているようで面白い。

 

 

「未来記」は未来を語らない

 

 さて、このように見ていくと、聖徳太子の予言はほとんどの場合、現実の事件を後から 追い掛ける形で世に出ているということがわかる。ノストラダムスの予言書の場合、すで に与えられたテキストについて後世の研究者が現実の事件とツジツマを合わせる形で解釈 していくのだが、聖徳太子の場合は、テキストそのものが新たに出現するのだ。それは未 来記に実体がないからこそ可能な離れ技である。
 五島氏の著書に出てくる未来記本文は『明月記』『太平記』などからの引用であり、そ の「東魚」をアメリカ、「彌猴」を環境汚染などというふうに現代的に読みかえたにすぎ ない。鎌倉時代や南北朝時代に関する未来記が現代にもあてはまるとすれば、それはかえ って予言の解釈が絶対的ではないということを示しているのではないか。
 聖徳太子在世の年代ではなく、各々の未来記逸文が実際に世に出た年代を規準にして考 えれば、その予言は遠い未来ではなく、過去、現在、そしてごく近い将来を対象にしてい ることがわかるだろう(しかも将来に関する予言はしばしば外れる)。聖徳太子未来記の 出現状況は予言というものの本質を私たちに教えてくれているのである。

 

 

キリストの遺言書

 

 私がまだ学生だった頃、下宿を一人の人物が訪ねてきたことがある。その男は三十がら み、妙にトゲトゲしい表情で、鋭い目をしていた。彼は下げてきた鞄から一束の紙を出し てこう切り出した。「キリストの遺言書を手に入れた。解読を手伝ってほしい」
 もちろん、エレサレムで十字架にかかったイエス=キリストの本物の遺書が今頃、突然 出てくるわけはない。それは、いわゆる「古史古伝」の代表として悪名高い『竹内文献』 の一つ、「イスキリスクリスマス遺言」を書写したものだったのである。
 十和田湖のほとり青森県戸来村(現新郷村)は、いわゆる「キリストの墓」があること で有名な所だが、「イスキリスクリスマス遺言」はその由緒書ともいうべきものである。 話の発端は昭和十年八月のことである。太古史研究者で画家の鳥谷幡山が竹内巨麿(一八 七五?〜一九六五)なる人物を案内して、十和田湖畔の迷ケ平地方を訪れたのだ。
 巨麿は新宗教・天津教の開祖であり、その本部には皇祖皇太神宮の御神宝として太古か ら伝えられたという宝物や古文書群が伝えられていたという。その古文書群こそ、いわゆ る『竹内文献』である。そしてその文書の一つには、日本にエジプトよりも古い世界最古 のピラミッドがあると記されていた。鳥谷は迷ケ平の大石神山こそ、その日本のピラミッ ドの一つに違いないと考え、文献所蔵者たる巨麿の視察を願ったのだ。
 さて、巨麿は鳥谷の案内で、鏡石の跡やドルメンと思われる巨石、謎めいた石畳などを 観察して山を下りたのだが、その麓で巨麿は突然立ち止まり、目の前の小さな塚を凝視し 始めた。やがて巨麿は一人頷き、「やはりここだ、ここだ」と騒ぎ始めたのである。
 巨麿は同行した戸来村の村長に、その塚に「統来訪神」、近くの二ツ塚に「十来塚」と いう目印を立てるよう話し、さらに鳥谷には、その塚について沈黙を保つよう命じた。
 やがて、巨麿は茨城県磯原の天津教本部に帰った後、神宝の中から新たに見つかったと 称して、漢字カタカナ交じりの奇妙な文書を公開した。それが「イスキリスクリスマス遺 言」なのだ。その内容は次の通りである。

 ユダヤの王イスキリス(キリスト)は、弟イスキリを身代わりにして十字架刑の難を逃 れ、「復活」の後、天国(日本)へと旅立った。
 垂仁天皇三三年、キリストは陸奥の八戸に上陸し、迷ケ平に居を定めて、弟イスキリの 頭髪と耳を十来墓に葬った。キリスト来日から六六年後、彼は自らの霊をこめた像を造り 、当時は越中にあった皇祖皇太神宮に奉納したという。
「イスキリスクリスマス遺言」によると、キリストがユダヤを去り、日本に旅立つ際、残 された弟子たちに次の言葉を残した。
「五色人ヨフ今ヨリ先ノ代千九百三十五年ヨリ天下土海トミダレ統一ノ天皇天国ニアル」  また、当時、皇祖皇太神宮の神官だった武雄心親王(『日本書紀』によると武内宿禰の 父)がキリストの像を祭る時、景行天皇は次の詔勅を下したという。
「イスキリス万国五色人ヨウ此太神宮ヘ納祭ル汝ガ造リ像オ汝祭思ヒヨフ今ヨリ先ノ代必 ズ千九百三十五年ヨリ汝ガ像霊再生出顕ル代ナルゾ汝ガ名統来訪神太郎天空ト云フ」
 この文書には、二個所、同じ「千九百三十五年」という年代が現れている。とはいえ、 その規準とされているのは一方がキリスト来日の年、一方が彼の像を祭った年なので、そ こには約六六年のズレがあるはずなのだが、双方の関係は判然としていない。ただわかる のは、この「遺言」が一種の予言書でもあるということである。
 すなわち、キリストに関する何らかの事件から一九三五年後、キリストの霊がふたたび 世に現れ、さらに地上が泥の海となるような混乱の果て、日本の天皇の下に世界が統一さ れるというわけだ。そして、鳥谷らによって「キリストの墓」が発見された昭和十年とは 、西暦(キリスト教紀元)ではまさに一九三五年なのである。

 

 

予言書としての『竹内文献』

 

『竹内文献』といえば、神武天皇以前にさかのぼる長大な皇統譜や世界各地を天空浮船( UFO?)で飛び回る太古天皇の事蹟など、超古代文明に関する史書というイメージが強 い。「キリストの墓」をはじめとする聖者来日伝承や「日本のピラミッド」の話などは、 いまでもしばしばオカルト雑誌や週刊誌などの誌面を賑わわせるところである。
 しかし、『竹内文献』は単に超古代の書であるばかりではなく、予言書としての性質を 持つ文献でもある。というよりも、むしろ予言こそが『竹内文献』のテーマであると見る ことさえ可能なのだ。そのような予言として代表的なものに、「世界再統一の御神勅」と いわれるものがある。これはウガヤフキアエズ王朝の第五九代・天地明玉主照天皇が発し たとされるもので、その天皇の御代から六三六五年後の未来、分割された世界は「天国天 皇、神人大統領大申政神主」の下に再統一される。それは皇祖皇太神宮の「神主官の左の 股に万国地図紋以て生る代」のことだという。神勅はその御代の天皇と皇祖皇太神宮の神 主を重んじるように告げ、次のようにしめくくる。
「天皇と神主に必ずソムクナヨ、ソモクト天罰殺すぞ、死ぬるぞ、ツブレルゾ、ナヤムゾ 、万苦にアフゾ」(『神代の万国史』皇祖皇太神宮刊、所収)
 ありがたい御神勅とは思えないような土俗的かつ脅迫的な文面だが、このような文面は 『竹内文献』には決して珍しいものではない。
 たとえば、ユダヤの預言者として有名なモーゼ自身が記し、それを雄略天皇の御代に平 群真鳥が訳したという「モーゼの遺言」には、次のようにある。
「五色人ヨ、必ズ後代にモオゼノ十誡法宝五枚石宝三千年後ニ発見スル時アル、万国ノ五 色人祖神棟梁皇祖皇太神宮ノ神主ニ左腿胯ニ地球型の図紋アル人、五色人ヲ統一スル神主 ナリ、必ズソモクト死スルゾ、マケルゾ、ツウレルゾ、必ズソムクナ」(『竹内文献資料 集成』八幡書店刊、所収)
 これらの文面からは、『竹内文献』成立に関与した人々の抱いていた強迫観念の強さを 読み取ることができよう。彼らは迫害を予感し、恐れていたのである。

 

 

世界を股にかけた男

 

 さて、『竹内文献』では、先述したウガヤフキアエズ第五九第天皇やモーゼ以外にも、 多くの天皇や聖賢によってくりかえし、股に世界地図紋がある神主が現れる時、世界が統 一されるという予言がなされたとしている。あるいは、むしろこの予言を語らせるために キリストやモーゼなどの聖賢を来日させ、あるいは神武天皇以前の太古天皇の名を記した のではないかとさえ思われてくるのである。
 また、『竹内文献』は太古の地球を幾度も「地球全土大変動、泥の海となる」という天 変地異が襲ったと伝えている。太古天皇は、その度に天空浮船で地球を逃れ、災厄が去っ た後に帰ってきて文明を再建したという。そもそも「世界再統一の御神勅」が出されたと いうのも、災厄の結果、諸国の分立に向かう世界を憂えてのことだったという。
 そして、その天変地異を思わせる「天下土海トミダレ」という表現が「イスキリスクリ スマス遺言」に見られるということは看過すべきではないだろう。そこには『竹内文献』 のいう世界再統一が、何らかの災厄をともなう黙示録的なものである可能性が暗示されて いるからである。
 それでは、股に世界地図紋がある神主はいつ現れるのか。その問いに答えることは、さ ほど難しくはない。天津教の関係者の証言によると、竹内巨麿の股には、『竹内文献』所 載の太古世界地図を思わせるような形のアザがあったというのである。
 股に残るアザ、それは巨麿を世の人から聖別する聖痕であった。彼は文字通り、世界を 股にかけたつもりになっていたのだろう。巨麿は自らと同時代の天皇、すなわち昭和天皇 が世界再統一をなし遂げることを信じていたに違いない。
 昭和三年から十年までの天津教神宝拝観者リストを見ると、その中には将官クラスの軍 人の名が多数あることに気がつく。その中には、荒木貞夫、真先甚三郎、山本英輔ら二・ 二六事件の関係者の名も見ることができる(中村和裕「偽史を支持した軍人たち」『歴読 臨増』本シリーズ2、所収)。昭和維新を志した青年将校たちにも、『竹内文献』の世界 再統一の予言は何らかの影を落としていたのであろうか。
 そうなると、昭和十一年二月、巨麿が不敬罪で逮捕された直後に二・二六事件が起こり 、その前後の天津教弾圧と平行するかのようにクーデター鎮圧と事後処理が行われたのも 偶然とは思われない。予言は必ずしも当たるとは限らない。しかし、これを信じる人々が 行動を起こすなら、予言は思わぬ形で歴史に影響を与えうるのである。

 

 

『竹内文献』に殉じた元軍人

 

 軍人の中には退役後、『竹内文献』にのめり込み、それを土台にして自らの予言書を著 した人物がいる。元海軍大佐・矢野祐太郎(一八八一〜一九三八)である。
 彼は昭和五年、酒井勝軍に伴われて天津教の神宝を拝観して以来、その研究にとりくみ 、以前から接触があった大本や肝川龍神の予言とリンクさせて、宇宙の始まりから近未来 の神政復古にいたる「大宇宙史」の編纂を志した。
 彼は昭和八年、神宝奉賛会を結成し、天津教内でのリーダーシップをとろうとしたが、 やがて脱会、自らの教団である神政龍神会を開くことになる。しかし、天津教を離れても 、彼が自らの「大宇宙史」の骨子に『竹内文献』をすえることに変わりはなかった。
 矢野の主著『神霊聖典』によると、昭和五年六月一日、神界では天の岩戸が開け、「み ろくの世」が始まったという。皇祖皇太神宮の御神宝は「竜宮乙姫」の活動により皇室に 納められる。しかし、そのころには幽界の建替立直しで霊が現界に流れこんで霊的異常が 多発し、また、天に異彩現れ、天変地妖が起こる。さらに、下級神霊の蠢動により、国際 社会は混乱し、日本はその渦の中心となって大擾乱に見舞われる。
 この混乱は日本対外国の戦争へと発展し、中国・アメリカは崩壊、イギリス・イタリア は没落と国際的な大転換が訪れる。しかし、日本では「裕仁天皇陛下」が「万国棟梁天職 天津日嗣天皇」としての自覚に目覚め、また、国民の神霊的覚醒によって天皇の親政が実 現し、やがては世界の万民も神霊的に目覚めていくというのである。そして、その過程で は、ユダヤ人が神の操縦によって大活躍するともいう。
 矢野は天皇にこの予言を伝えるべく、宮中工作を行うが失敗、不敬罪で検挙された後、 拘置所内で獄死した。一説には毒殺されたともいう。矢野の予言のルーツの一つが『竹内 文献』にあることを思えば、彼は『竹内文献』に殉じたという見方もできよう。

 

 

裏切られた予言者・酒井勝軍

 

 矢野を天津教に導いた酒井勝軍(一八七四〜一九四〇)も、予言的側面から『竹内文献 』に関わった人物である。酒井は山形県生まれ、もともとは当時流行の反ユダヤ主義の論 客として名を成した人物であった。ところが昭和二年、パレスチナ視察を契機として熱烈 な親ユダヤ主義者となる。彼は日本天皇こそ、聖書に予言されたメシアであり、シオニズ ム=ユダヤと日本の合体によって世界は統一されるという信念を持つにいたった。酒井は その証拠となる品を探し求める内に、昭和四年、ついに天津教の門をたたく。
 酒井はモーゼの十誡石の本物は日本に隠されているはずだと信じていた。そこで、酒井 の話を聞いた巨麿が数日後、神代文字で十誡が刻まれた石を出してみせるや、すっかり感 激してしまった。これがすなわち「モーゼの遺言」にある「モオゼノ十誡法宝五枚石宝三 千年後ニ発見スル時」である。また、先述した「日本のピラミッド」もそもそもは酒井の ピラミッド日本起源説が『竹内文献』に取り入れられたものらしい。
 酒井は皇祖皇太神宮に伝わる神秘金属ヒヒイロカネの原鉱石(餅鉄という鉄鉱石の一種 )を探し求めて、岩手県の五葉山に登り、その雲海の中に、迫りくる世界最終戦争の情景 を見たという。この直後、酒井はこの世を去る。日本がアメリカとの開戦に踏み切ったの は、その翌年のことである(五葉山探訪の模様は、酒井が主宰した国教宣明団の機関誌『 神秘之日本』にくわしい。八幡書店より復刻あり)。
 矢野や酒井が予言した全世界的規模の戦乱は太平洋戦争という形で実現した。しかし、 皮肉なことに、その戦争で崩壊したのはアメリカではなく、世界再統一の中心となるはず の「大日本帝国」であった。そして、日本に協力するはずのユダヤ人は、戦後、アメリカ の庇護下でイスラエルを建国する。彼らの予言は裏返しに成就したといえなくもない。

 

 

ふたたびキリストの遺言書

 

戦後、岡田光玉が開いた新宗教・真光は現在、複数の分派に別れて活動しているが、そ の教義には矢野祐太郎の予言を介して『竹内文献』が大きな影響を与えている。現にその 分派の一つ、崇教真光の奥宮がある飛騨位山は『竹内文献』で太古の神都が置かれたとさ れる場所である。とかく「手かざし」ばかりが話題となる真光系教団だが、その目標の一 つに『竹内文献』で世界の中心だったとする太古日本の栄光の再現があることは、その教 義や活動から明らかだ。
 しかし、真光以上に『竹内文献』の予言の影響を受け、さらに、それを終末論として再 編したカルト教団がある。それが昨今話題のオウム真理教である。
 開教当初のオウムは『竹内文献』と酒井勝軍の予言を奉じ、ヒヒイロカネを瞑想用のア イテムとしていたのだ(麻原彰晃「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」『ムー』 一九八五年十一月号所収)。
 かつての二・二六事件と天津教弾圧、最近の地下鉄サリン事件等一連のテロ事件とオウ ム糾弾の関係はまさにパラレルになっている。
 ここで話を学生時代の私の下宿に戻そう。その男は、キリストの遺言を手にとり、この 文書は歴史上のイエス=キリストに関する記録ではなく、真の救世主(キリスト)が日本 に現れるという予言である、と熱っぽく話し続けた。そして、その救世主本人を現に知っ ているとも・・・以来、彼とは二度と会うことはなかった。今にして思えば、あの男の異 様な眼光、あれはカルトに憑かれた者独特の輝きだったのであろうか。  

 

 

                       2000  原田 実