和田家文書は加茂岩倉を説明できるか?
            −『東日流外三郡誌』問題と銅鐸−

 

 


 

 

「歴史学のビッグバン」

 

 一九九六年三月の昭和薬科大学退職後、著述に専念するとの名目で約一年、聴衆の前に 立つことがなかった古田武彦氏が現在、さかんに講演活動を行っている。教団崩壊の危機 に尊師も隠れてはいられなくなった、といえば皮肉がすぎるだろうか。

 その皮切りとなったのが九七年四月二〇日、東京で一四〇名の聴講者を集めて開かれた 「歴史学のビッグバン」である。

 この講演会において、古田氏は、一九九六年十月に島根県で発見され、話題になった加 茂岩倉遺跡と関連して、和田家文書に言及している。
「荒神谷と加茂岩倉は別に時期、別の集団の遺跡だ。私は荒神谷をA型で第一期、加茂岩 倉をB型で第二期と区別する。両遺跡は出ている位置が違う。Aは丘陵部の真ん中へんの 側壁で、頂上には何もない。Bは頂上に埋めてあった。中身も違う。Aは三百五十八本の 銅剣(私が出雲矛と考えるもの)と十六本の筑紫矛、それに小銅鐸。Bは銅鐸ばかりで、 武器型祭祀物はない。Bは大型銅鐸の中に中型銅鐸を重ねて入れてある。AはBのような 中型銅鐸の中にスポッと入るのに、そうしていない。

 第一期は筑紫に征服され、第二期は大和に征服されて埋めた。禁止された物と埋められ た物にギャップがあるのは、禁令をオーバーに受け止めたから。筑紫が禁じたのは打ち物 (武器型祭祀物)のみで、銅鐸はOKとなって中型、大型へと発展していった。

 神武の大和征服以来、壊された銅鐸が近畿で多数出土している。天皇家は反銅鐸勢力だ 。大和がほぼ無金属状態になるのは、支配下に銅山がないからで、奪った銅鐸を溶かして 銅鏃を作っただけだ。

 両方の遺物からX印が出た。これで一般には両遺跡がイコールで結ばれる論調となった が、Xのつけ方が違う。荒神谷の出雲矛のXは木の柄を付けると見えなくなる。実用にさ しつかえない。加茂岩倉の銅鐸(半分弱)のXは紐についている。埋める時、外敵が掘り 起こして汚らわしい真似をしないように、まじないのためにつけたものだろう。
『東日流六郡誌大要』の中に“荒覇吐神一統誌”があり、第一期と第二期の違いを説明し ている。これは和田家文書の一つで、加茂岩倉よりずっと前に世に出ている。

 野村という人が和田家文書を訴えた裁判があったが、地裁は古文書については裁判所が 判断すべきものではないとし、写真を無断で転用した件について和田喜八郎氏に罰金二十 万円を言い渡した。訴訟費用は両者折半。高裁は写真の件は和田氏自身が知らなかったと 言っても通用するものではないとし、罰金を四十万円に増額したが、古文書については原 告側の論点を一つ一つすべて斥け、訴訟費用は和田氏四分の一、野村氏三分の一とした。 事実上和田氏の全面勝訴だ」(註1)

 なお、文中、荒神谷遺跡より「小銅鐸」が出土したとあるが、これは誤解もしくは誤植 であろう。大和の「無金属状態」も疑わしいがそれも置くとしよう。

 ここで古田氏が取り上げている「荒覇吐神一統史」の内容は次の通りである。
「出雲神社に祀らる玄武の神、亀甲とイヒカの神は荒覇吐国主三神にして古来より祀らる も、世襲に於て川神とて遺りぬ。出雲荒神谷神社は大物主の神を祀りし処なるも、廃社と なりにしは開化天皇の代なり。討物を神に献じるを禁ぜしより無用と相成りぬ。

 倭領に荒覇吐神にて一統されしは少かに三十年なりと曰ふ。神器ことごとく土中に埋め 、神をも改めたる多し。孝元天皇をして荒覇吐神布せにしも、開化天皇をして是を改めき は、奥州に大根子王を建宮せるに依れるものなりと曰ふ。開化天皇鉄の武具を好みて神器 とし、銅なる神器を土に埋めたり。神をば天地八百万神として荒覇吐神を廃したりと曰ふ 。
寛永二十年八月二日                    大邑土佐守」(註2)

 さて、すでにこの文書について斎藤隆一氏は次のように指摘している。
「出雲荒神谷より三五八本の銅剣と六個の銅鐸が出土したのは、昭和五十九年のことであ る。一方『東日流六郡誌大要』(八幡書店刊)の刊行は平成二年である。出土事実が先な のである」(註3)
「最新のニュースでは、(九六年)十月十九日に、荒神谷から八キロメートル離れている 加茂町から三十四小もの銅鐸が出土したことを伝えている。さすがに予想外の出来事なの で、当然これまでの『東日流誌』には記されているはずもない。これで、荒神谷にのみこ だわった前の文書の作為性が明らかになったのではなかろうか」(註4)

 ちなみに「荒覇吐神一統史」でアラハバキを「玄武」や「亀甲」と関連つけるのは斎藤 守弘氏の論考「抹殺された神−津軽の至高神アラハバキ」を参照したものであろう(註5 )。この論考の初出誌は『歴史読本』昭和六一年八月号「みちのく謎の古代王国」だが、 その号に掲載された論文が和田家文書のタネ本に用いられた例がすでに斎藤隆一氏によっ て指摘されている(註6)。

 

 

「荒覇吐神一統史」は加茂岩倉を語らず

 

 そもそも「荒覇吐神一統史」はもちろん『東日流六郡誌大要』全体、否、公開された和 田家文書のいずれを見ても加茂岩倉の地について言及する箇所はない。それが「加茂岩倉 よりずっと前に世に出ている」からといって何の意味があるのだろう。
「荒覇吐神一統史」で「討物を神に献じるを禁ぜし」というのは「開化天皇の代」のこと とされている。そして「鉄の武具を好みて神器とし、銅なる神器を土に埋め」させたのも また開化天皇だという。この文書からそれぞれの事件が「別の時期、別の集団」によって 行われたなどと読み取ることはできない。

 ましてや前者は筑紫、後者は大和の征服によって起きたなどとは、どこにも書かれてい ないのである。古田氏の主張は和田家文書にさえその根拠を求めることはできない。

 古田氏は荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の異質性を唱えるが、たとえばX印の位置のような 細かな差異を強調しなければならないところにかえってその苦渋が現れている。

 古田氏は荒神谷の銅剣のX印は柄をつけると見えなくなるが、賀茂岩倉の銅鐸のX印は そうならないという。しかし、銅鐸を下げるには縄状のものを鈕に通すはずだから、銅鐸 の鈕のX印も実用の際には隠れていたかも知れないのである。

 この場合、重要なのは隣接する遺跡でX印という特徴あるシンボルが共通して現れるこ とではないか。

 では、「荒覇吐神一統史」が討物の禁と銅器の埋没を別々に記しているのはなぜか。そ れは荒神谷遺跡発見の状況を思い起こせば簡単に推定できる。

 同遺跡で銅剣が大量出土したのは一九八四年だが、銅鐸六個、銅矛十六本が出たのは翌 八五年のことだったのである。『東日流六郡誌大要』執筆時、初めは銅剣埋蔵の理由だけ を考えて書いていたのが、銅鐸埋蔵をも説明できるようなストーリーをつけ加えることに したというだけの話だ。

 結局、「荒覇吐神一統史」の二段構成は荒神谷遺跡発掘調査時における銅剣発見と、銅 鐸・銅矛発見のタイムラグを反映していただけで、加茂岩倉遺跡とは何の関係もなかった ということになる。

 また、同じ講演において古田氏は中国古典で東方を意味する語に「日下」があることに 言及し、「『東日流外三郡誌』には日本と日下が両方出てくる。日下将軍は筑紫にいた」 と述べているが、実際の『東日流外三郡誌』では日下将軍は奥州阿倍氏の称号として用い られており、筑紫にいたとする文書はない。古田氏は明らかに「日下将軍」の語を自らの 九州王朝説に引きつけて解釈している。

 自らの小説的フィクションが和田家文書に記されていると強弁し、だから和田家文書こ そ真実だといいはる、その姿には水に映る自らの影にみとれて、ついには自分自身をも失 ってしまったナルシスの神話を想起させるものがある。

 もっとも今頃はすでに、加茂岩倉遺跡について記した「新資料」が和田家から出ている かも知れない。なにしろ和田家からは最近も古田氏の要望に応える形で、三内丸山遺跡の 木造高層建築を描いた絵巻が出ているのである(註7)。

 コーネル大学天文宇宙科学科教授の故カール=セーガンは一九八〇年代、空飛ぶ円盤フ ァンの間で話題になった、いわゆるMJ−12文書について次のように述べる。
「一九八四年の暮れ、映画プロデューサーであるジェイミー・シャンデラの郵便受けに、 一本のフィルムが入っていた。(中略)

 フィルムを現像してみると、そこに写っているのは何ページにも及ぶ“マル秘”行政命 令だということが“判明した”。日付は一九四七年九月二十四日。この日、ハリー・S・ トルーマン大統領は十二人の科学者と政府関係者を集め、墜落した円盤と小柄な宇宙人の 死体を調査するために委員会を設立したというのだ。(中略)

 美術品を買う人は、その絵の来歴に関心をもつ。自分の前の持ち主は誰で、その前は誰 で・・・・・・とたどってゆき、オリジナル画家にまでさかのぼるのである。その糸が途 中で途切れていれば(たとえば、三百年前の作品なのに六十年前までのことしかわからず 、それ以前にどこの家や美術館にあったのかが不明だったりすれば)その絵は贋作の疑い がある。美術品の贋作づくりは儲かる商売なので、コレクターはくれぐれも気をつけなく てはならない。MJ−12文書のいちばん怪しい点も、まさにこの来歴だ。なにしろ、おと ぎ話の『靴屋とこびと』のように、証拠の文書が奇蹟のように玄関先に置いてあったとい うのだから」(註8)

 和田家文書についても、古田氏の要望に応じて、新たな文書が「奇蹟のように」現れる 傾向がある。その来歴を疑われるのは当然だろう。

 しかも、文書の体裁・形式に着目した場合、和田家文書はMJ−12文書よりも。かに出 来の悪いシロモノなのである。MJ−12文書の発見当初、公文書の専門家に鑑定を依頼し ても特に偽作だという証拠は見つからなかったという(註9)。

 和田家文書とMJ−12文書、内容の荒唐無稽さでは五十歩百歩というところだが、さて 、どちらが百歩でどちらが五十歩だろうか?

 

 

民事訴訟の勝敗をめぐる詭弁

 

 なお、野村孝彦氏と和田喜八郎氏の間の民事裁判について、古田氏は「和田家文書を訴 えた」ものであるとし、また判決について「(裁判所が)原告側の論点を一つ一つすべて 斥け、・・・事実上和田氏の全面勝訴だ」としているが、これも事実とは異なる。

 まず、争われたのは野村氏の提供した紀州や大和の猪垣の写真が和田氏の著書に津軽山 中の「耶馬台城」の写真として無断で使われた件と、野村氏の論文が『東日流外三郡誌』 の中で翻案・剽窃された件についてであり、和田家文書の真贋を直接争うものではない( 第一、現在の日本では偽書を作ること自体を禁じる法的根拠はないといって良い)。

 実際の判決分には「偽書説には、それなりの根拠がある事が窺われる」とあり、随所に 「前記(『東日流外三郡誌』)の記述が本件論文(野村論文)にヒントを得たという余地 はあるにしても、これを翻案したものであるとまでは直ちに認めることはできない」とい う表現がある。

 つまり、裁判所も『東日流外三郡誌』に野村氏の論文が参考にされていること(つまり 事実上、和田氏が作者であること)は認めるが、そのことをもって著作権侵害とまでは言 いにくいとしたのである。しかし、明確に著作権侵害が認められる写真使用について、高 裁は一審の罰金二十万をさらに倍増している(註10)。
『季刊邪馬台国』六一号が報じたように「四十万円は、この種の著作権侵害事件としては 、異例の高額。裁判においても、反省なく虚偽をのべつづけるため、賠償金額が倍増した 。和田喜八郎氏が、歴史の贋造を行なう人であることは、ふたたび確認された」(註11)
というのが常識的理解というものだろう。

 その後、野村氏は最高裁への上告を試み、差し戻されているが、事実関係の認定はそれ までに終了しており、その中で裁判所が『東日流外三郡誌』の偽作性を認めているわけだ から、別に最高裁が偽書説を覆したというわけではない。最高裁判断の問題点については 場を改めて論じることになるだろう。
「古文書」と称するものの真贋が論点の一つとなった裁判として有名なものに昭和十一〜 十九年の天津教事件(不敬罪容疑)がある。この裁判では、天津教の教典であるいわゆる 『竹内文献』の真贋が問題とされたが、結局、証拠不十分により、無罪との判決を得た。 このことを以て、裁判所も偽書だと証明できなかった以上、『竹内文献』は真正の古文書 だという論をなす者もいる(註12)。

 しかし、この件の実際の判決は、『竹内文献』の来歴は疑わしいが、それを以て、天津 教が不敬をはたらいたとまでは言い切れないとするものであった。『竹内文献』の偽作性 は裁判の開始直後、狩野亨吉が発表した名論文「天津教古文書の批判」によって、すでに 完膚なきまでに暴かれている。
「和田氏の全面勝訴」を主張し、それを以て『東日流外三郡誌』真作説の証拠とする古田 氏の論法は、天津教事件の無罪判決を振り回す『竹内文献』信奉者の論法ともはや同レベ ルのものと言わざるをえない。

 ちなみにこの種のペテンがらみの民事訴訟の問題点として、真実を明らかにしようとす る側の訴訟費用の負担が大きくなることがあげられる。

 野村氏−和田氏間の裁判とは原告、被告の立場が逆だが、幾多のエセ超能力者のトリッ クを暴いてきたジョン・ランディ氏は、かの有名なユリ・ゲラー氏から名誉棄損で東京地 裁に訴えられ、多大の出費を強いられたと聞く(註13) 。
「超能力者」の実入りはその批判者よりもよい。ゲラー氏はすでに億万長者の一人に数え られる人物なのである。収入との比較でいえば、ランディ氏が強いられる負担はゲラー氏 のそれよりもはるかに大きいといえる。少なくとも日本では、現行の裁判制度はペテンを 暴こうとする者よりもペテン師の方に恵み多きものとなっているらしい。

 今後、類似の問題に立ち向かうであろう勇気ある人々を守るためにも制度改善の余地が あるといえよう。

 

 

寛政原本は盗まれた?

 

 さて「歴史学のビッグバン」後の懇親会でも、古田氏を囲んで、和田家文書に関する質 疑応答の一幕があったという。
Q「和田喜八郎氏に寛政原本を古田氏に見せろと言いに行ったら、見せてないことはない 、五所川原市史編纂の時に研究している連中が四散させたんだと言っていた。数日前に荒 覇吐神社から何トンもトラックで盗まれたとも」
A「寛政原本は出ていない。和田氏が原本と言うのは活字本に対する言い方で、私が明治 写本と読んでいるものだ」

 ありもしない寛政原本を出すよう求められ、懸命に言を左右してごまかそうとする和田 氏の姿が目に浮かぶようだ。

 しかし、この問い、「原本」というのは明治写本のことだなどという言葉のすりかえで お茶を濁せる性格のものではない。

 ここで本当に問われているのは、和田氏がなぜ、必ず出すと約束した寛政原本を今まで 出さずにいるのか、ということだからである。

 古田氏はかつて次のように述べた。
「より重要なのは私が取り組んできたいわゆる寛政年間の原本を出すという作業なんです 。私が思いますのは、(九三年)十月以降なら大丈夫だと思います。寛政のものを出せば 二つの論難もストップするんです。つまり和田喜八郎さんの創作、和田末吉氏の創作だと いう論難もストップするんです。それが、十月現在になお出てこないということになった ら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらっていいんです」(註14)

 また、その後の論文でも繰り返し次のように述べている。
「これ(寛政原本)なしには、わたしの学問的要望は全く満たされぬ。学問の基礎には、 ならないのである」
「和田家文書に対する、真の学問的研究は、“寛政原本”の出現を待たずしては、決して 出発できない。これが偽らぬ現実だ」
「わたし自身は,和田家文書は、これら(『群書類従』『古事記』『日本書紀』)に比肩 すべき史料価値を持つ、あるいは、これらに代わりえぬ史料価値をもつ、と“予想”して いる。“学問的仮説”を抱いているのではあるけれど、すべては“寛政原本の出現”とい う、そのときまでは、あえて慎重に、断言をさしひかえさせていただきたいと思う」
「今必要なこと、それは、次の一事であろう。いわく“是非をいそがず”と。これが学問 の王道である。そして“寛政原本出現の日”、そのきたる日を、心を輝かして待ちたい」 (註15)

 この前後、寛政原本をめぐって古田氏が演じたドタバタ喜劇については、『季刊邪馬台 国』五五号のスクープなどに譲るとして、重要なのは古田氏が「出てこないということに なったら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらっていい」とまで言い切った寛政原本 が四年後の今も出てこないということ、そして、古田氏自身の言を借りれば「寛政原本出 現」という「学問の基礎」を欠いたまま、和田家史料に三内丸山遺跡や加茂岩倉遺跡が出 てくるなどという言説だけが垂れ流されているということである。

 これのどこが「是非をいそがず」という態度なのだろうか。

 古田氏が自己の言説に責任を持とうとするなら「寛政原本は出ていない」などとうそぶ いていられるはずはないのである。

 なお、九六年、和田氏から、石塔山荒覇吐神社の宝物が盗まれたとして盗難届が提出さ れたという事実はある(註16) 。

しかし、被害者のはずの和田氏の証言が混乱しているため、警察でも扱いかねているの が現状という。

 

 

「情報通」の社交辞令

 

 やはり懇親会での質疑応答より。
Q「『真実の東北王朝』が出る前、民俗学、神道、仏教関係の研究者がかなり和田家文書 に興味を持って取り組んでいたが、以後は安本美典氏の研究者への要請などで、誰も手を つけなくなったが」
A「当時、松田弘洲氏が郷土史家の豊島勝蔵氏による偽作との説を出していた。豊島氏が 反論の小冊子を作って書店店頭に配付し、それで収まった。その時、安本氏が松田説を転 載し始めて、古田攻撃に使ってきた。
『東日流外三郡誌』は怪しいところもあるが、大変な内容を含んでいるというのが一般的 な認識だった。それを好事家が扱っているうちはいいが、大学教授、それも古田が取り上 げたことで学界は困った。邪馬壹国、九州王朝の古田説に危機感があったことも事実。そ れで二手に分かれた。一つは古田の名は隠すけれども、事実上古田説を受け入れる。二つ は更なる中傷で、これは末期症状だ。

 ある時、学界きっての情報通である学者に“古田説が無視される理由は学閥が一つ、学 問の内容が一つだが、二〜三十年後には認められるだろう”と言われた。慎重居士で知ら れた人の発言なので驚いた」

 松田弘洲氏の豊島勝蔵偽作説(註17)に対し、豊島氏が私家本で反論したのは事実だが 、その内容は『東日流外三郡誌』偽作への自らの関与を否定するものであり、偽作説その ものの否定ではなかった。

 豊島氏はその私家本の中で「(『東日流外三郡誌』の)“十三津浪図”の神社仏閣等の 記号について近代に定められた記号で江戸時代には使用されないとのご指摘に敬意を表す る」と述べており、暗に近代以降の成立であることを認めている(註18) 。

 松田氏の説は和田喜八郎氏の知性を不当に低く評価するところから出発しており、筆跡 鑑定に基づく研究の進んだ今では成り立つ余地はない。

 松田氏自身も、後にはいわゆる和田家文書について「和田喜八郎文書」と呼ぶことを提 唱し、豊島氏に対しては市浦村版『東日流外三郡誌』編集・出版の責任を問うにとどめて いる(註19)。

 大学教官・教員で『東日流外三郡誌』に関心を示した人物は古田氏が初めてというわけ ではない。古田氏が『真実の東北王朝』を著した一九九〇年より前、日本史学、国文学の 両分野において、複数の大学教官・教員が論文や著書、エッセイの中で『東日流外三郡誌 』について言及している。つまり、その時期、古田氏が『東日流外三郡誌』を取り上げた からといって、いきなり学界が困惑するような状況ではなかったのである。ここにも事実 関係の捩じ曲げがある。

 では、古田氏以外の大学教官・教員が『東日流外三郡誌』から手をひくことになったの はなぜか。少なくともこの質問者が邪推するように、「安本美典氏の研究者への要請」で ないことは確かだ。第一、ポリシーを持った研究者が他人の要請でそう簡単に研究テーマ を投げ捨てるはずはない。

 秋田大学学長の新野直吉は述べる。
「(八三年発表の論文で『東日流外三郡誌』について)私が“改めて論ずべきこともある であろう”と予告的言辞を用いていたにもかかわらず、それから十年たった今まで何も書 きもせず、論じもしなかったのはなぜであろうか。すなわち“私には何も言うことのない 対象である”ということを、時とともに明確に知ったからである」(註20)

 私はある学会で、かつて和田家文書を自ら調査したことのある大学教授(国文学専攻) に『東日流外三郡誌』についての意見を求めたことがある。その方は吐き捨てるように言 われた。「あれはカタリだ」

 念のため、語り物の意味かと問い直すと「いや、詐欺、騙りの方のカタリだ」と断言さ れたものである。古田氏以外の研究者が和田家文書から手を引いていったのは、その本質 に気づいたからに外ならない。こうした場合、いちいち偽作だと騒ぐよりも、黙殺して資 料に用いないことで暗に立場を表明するのが現代日本の学界の慣習なのだ(註21) 。

 それにしても「更なる中傷」が「末期症状」だというのは言いえて妙である。実際、古 田氏が実質主宰した雑誌『新・古代学』(新泉社)の内容は、偽作説論者への罵倒・誹謗 ・中傷のオンパレードであった。後援者の中にもその内容にあきれる人が出て、雑誌その ものが二号で終わってしまったほどである。

 社交辞令としか思えない「事情通」の言葉を得々として語る古田氏の精神の荒廃ぶりに は、もはや憐れむしかない。

 

 

さいごに

 

 以上、「歴史学のビッグバン」での古田氏の和田家文書問題がらみでの主張はくわしい 事情を知らない相手のみに通用する内容であり、その場だけしのげれば良しとする態のも のであった。

 そして、同講演で古田氏が語った和田家文書関係以外の「新説」については、いずれも 思いつきを語る程度のものに過ぎず、学問的検討に耐えられるとはとても思えない内容ば かりである。

 たとえば、その講演において古田氏は、最近、鹿児島県で発見された縄文草創期〜早期 の遺跡群を『漢書』地理志の記述と結びつけて説明しようとしている。

 しかし、『漢書』は後漢の班固撰、前漢代(前二〇二〜後八年)を主な対象とする中国 正史であり、縄文草創期は今から約一万三千年前までに遡りうるから、両者の間には一万 年以上もの年代差があることになるのである。

 一九九七年九月十三・十四日、神奈川県の藤沢市教育委員会主催で二百人余の聴講者を 集め、行われた講演会において、古田氏は、日本近海の海亀は南米まで回遊するから、浦 島太郎伝説の竜宮城はエクアドルにあった、とか、千葉県には「よもぎ」(四方木などと 表記)という地名が多いから、古代中国の神話にいう蓬莱山とは千葉県のことだ、などと 粗雑な論を立てている。

 しかし、このような内容でも、講演会は「アンケートの結果によると、たいへん好評で 企画者も面目を施した」のだそうだ(註22)。

 宇宙人ヤオイさんことTVディレクターの矢追純一氏も教育委員会後援での講演会が多 く、「全国教育委員会御用達UFOジャーナリスト」と皮肉られたこともある(註23)。
教育委員会主催の講演会だからといって、内容まで教育委員会が保証しているとは考えな い方がよい。

 古田氏はこれからも支援組織に守られつつ、迷妄の繭の中でいつまでも甘い夢を見続け ようとするのであろう(註24)。

そうした支援組織の方々にこそぜひ本稿を読んでいただきたい。そして、古田氏の支援 者の立場から、本稿へのご意見、ご反論などいただければ誠にありがたい次第である。

                   註

1 田島芳郎氏のレポート「設立十五周年記念春季講演会・歴史学のビッグバン」『tokyo古田会news』第五五号所収、古田武彦と古代史を研究する会発行。
2 東日流中山史跡保存会編『東日流六郡誌大要』所収、八幡書店、一九九〇年。
3 斎藤隆一「『東日流誌』についての総合的批判」『季刊邪馬台国』五二号所収、梓書院。
  また、同号所収の藤村明雄氏の論文「『和田家資料』の考古学的考察」でも「『和田 家資料』の記述の初出は考古学的な発見発掘や伝承よりも後であった」例の一つとし て荒神谷遺跡が挙げられている。
4 斎藤隆一「筆跡論争」『季刊邪馬台国』六一号所収
5 斎藤守弘著『神々の発見−超歴史学ノート』再録、講談社、一九九七年。
6 斎藤隆一「『東日流誌』についての総合的批判 そのII」『季刊邪馬台国』五三号所収。
  同「みちのくを揺るがす『東日流外三郡誌』騒動」『歴史を変えた偽書』ジャパンミックス刊、一九九六年、所収。
7 斎藤隆一「『東日流外三郡誌』には縄文の風景も描かれていた!?」『別冊歴史読本』七六「よみがえる縄文の秘密」所収、新人物往来社。
  藤村明雄「偽書と宗教と三内丸山遺跡」『季刊邪馬台国』六一号所収。
8 青木薫訳『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、一九九七年、原書一九九六年。
9 志水一夫『UFOの嘘』データハウス、一九九〇年。
10 斎藤隆一「『東日流外三郡誌』裁判始末記」『季刊/古代史の海』第七号所収、季刊「古代史の海」の会発行。
11 コラム「和田喜八郎氏に四〇万円の支払い」『季刊邪馬台国』六一号所収。
12 たとえば竹田日恵『〔竹内文書〕が明かす超古代日本の秘密』日本文芸社、一九九八年、など。
13 久保田裕「東京地裁『超能力』裁判の顛末」『と学会連絡誌』第二号、と学会発行。
14 「安本美典VS古田武彦両教授 激突8時間」『サンデー毎日』一九九三年七月一一日号所収、毎日新聞社。
15 古田武彦「『東日流外三郡誌』の信憑性を探る」『歴史Eye』平成六年一月号所収、日本文芸社。
16 「『東日流外三郡誌』を追う」『ゼンボウ』平成八年十二月号所収、全貌社。
17 松田弘洲著『古田史学の大崩壊』、あすなろ舎発行、一九九一年。
18 豊島勝蔵著『松田弘洲著「古田史学の大崩壊」における市浦村、豊島勝蔵偽作・盗作説に強く反論し、謝罪を要求する』、私家版、一九九一年。
19 松田弘洲「やはり『古田史学』は崩壊する」『季刊邪馬台国』五五号所収。
20 新野直吉「静かに念うこと」『季刊邪馬台国』五二号所収。
21 小口雅史「『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか」『季刊邪馬台国』五二号所収。
22 藤沢徹氏のレポート「古田先生藤沢市で講演」『tokyo古田会news』第五七号所収。
23 志水一夫『UFOの嘘』前掲。
24 古田武彦氏の支援組織としては「古田武彦と古代史を研究する会」の他に「古田史学の会」「市民古代史の会」「多元的古代研究会・関東」が活動中、内部で『東日流外三郡誌』問題関係の虚偽情報を流通し続けている。また、組織外部に向けての発信は主にインターネットのホームページ「新古代学の部屋」で行われている。

※一般書店への注文で入手できる『東日流外三郡誌』問題参考書籍一覧。
1,原田実『幻想の津軽王国』(批評社)
2,原田実企画構成『歴史を変えた偽書』(ジャパンミックス)
3,『季刊邪馬台国』第52〜55、57、61号(梓書院)
4,『ゼンボウ』平成8年8〜12月号、平成9年3、9、12月号(全貌社)
5,『市民の古代』第16集(ビレッジプレス)
6,別冊歴史読本『古史古伝の謎』『よみがえる縄文の秘密』(新人物往来社)
7,安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂出版)
8,安本美典『虚妄の東北王朝』(毎日新聞社)
 

 

 

                       1998,5  原田 実