当事者意識と立証責任

 

 


 

 

「人間的な義侠心」?

 

『新古代学』第三集(一九九六年七月)はある意味で貴重な資料といえよう。そこに収録 された、和田喜八郎氏による写真・論文盗用裁判(いわゆる『東日流外三郡誌』裁判)関 係資料は、被控訴人・和田氏の側の立場から編集されたものではあるが、それを事実に照 らして見ていけば、和田氏および古田武彦氏・古賀達也氏の詐術を考察する上での実例と なりうるからである。

 私は著書『幻想の荒覇吐秘史』ですでにその問題を扱ったが、ここでは同書で触れなか った論点について述べたい。

 古田武彦氏は平成九年一月二四日付陳述書において、「控訴人側は、被控訴人(和田喜 八郎氏)と筆者との間について、これを〔一味〕のごとく扱おうとしている。この点が不 当であることを最後に明らかにしたい」として、次のように述べる。
「敢えて両者(被控訴人と筆者)の関係を一言で明示すれば、かのフランスのドレフュス 事件におけるドレフュス大尉とゾラとの関係に、すこぶる相似する所あり、と言い得るか も知れぬ」
「この被控訴人に対する“偽作”説に関する冤罪を見捨てること、それは人間の根底の倫 理に反する、そういう思いが筆者の心裡の内奥から深く発するに至ったからである。この 点、文才・力量等の諸点においては天地懸隔ではあるけれど、ゾラを突き動かした“人間 的(ヒューマン)の義侠心”と、全く同一のものであったこと、そして今もそうであるこ とを、筆者は自己に対し、一瞬も疑ったことはない」

 これは真に奇妙な言である。古田氏は『真実の東北王朝』(駸々堂、一九九〇)を出し た前後から和田家文書の広報係ともいうべき役割を果たしてきた。古田氏自身、同じ陳述 書において「今のところ、ほとんど筆者のみが和田家文書(明治写本)を和田喜八郎氏か ら研究委託され、この文書の調査・研究に当ってきた、ほぼ唯一の専門的研究者」である として、その癒着ぶりをかえって誇っている。和田家文書の偽作が暴かれることは、すな わち古田氏自身の学者としての名声の失墜につながるのである。

 ドレフュス大尉がフランス陸軍参謀本部からスパイ容疑をかけられたのに対し、軍とも ドレフュス個人とも利害関係がないにも関わらず、文豪としての名声を投げうってでも彼 を弁護しようとしたゾラとは、まるで立場が違うのである(ドレフュス事件については拙 稿「偽史と陰謀」『季刊邪馬台国』五七号所収、参照)。

 また、管見に入る限り、古田氏を和田氏の「一味」と呼んだ例は、偽作説側の論者の文 章にはない。ここで「一味」という表現が出てくるあたり、古田氏には自分の言動が客観 的にはどのようなものに見えているか、意外と判っているのかも知れない。

 本当に『東日流外三郡誌』の偽作説が「冤罪」であり、古田氏がそれを本気で雪ごうと しているのなら、文豪ゾラ気取りで千言万言を費やすより先に、すませておくべきことが ある。

 それは「和田喜八郎氏から研究委託」されているという「和田家文書(明治写本)」と 称するものを法廷に提出し、あるいは第三者的な研究機関の調査・鑑定に委ねることであ る。

 古田氏は『東日流外三郡誌』裁判の最後まで、その肝心の行動をとろうとはしなかった (そして今もその行動をとろうとはしない)。

 これでは、和田氏および和田家文書の「冤罪」を雪ぐところか、古田氏は本当のところ 、それが「冤罪」ではないことを知っていると解釈されても仕方がないのである。

 

 

古田氏と和田氏は一蓮択生

 

 岩手県衣川村が、「安倍頼時の墓」を建立した際、和田氏提供の骨片(一九九八年、こ の骨は実はクジラの化石であることが判明した)を本物に間違いないと太鼓判を押したの は古田氏であった。

 和田氏が秋田県田沢湖町に怪しげな御神体や遮光器土偶(実はレプリカ)をもたらした 時、古田氏は同町で和田家文書を讃える講演会を行った(藤村明雄「ご神体と縄文灯台」 『季刊邪馬台国』五四号所収)。

 九〇年代に入ってから、和田氏が自治体相手の大がかりな詐欺行為にとりくむ時には必 ずそれをサポートする古田氏の姿があった。

 ちなみに古田氏は「安倍頼時の骨」を鑑定した件については「わたしには“骨を鑑定す る”ような能力もなければ趣味もない」として否定し、藤村氏らに対し「“骨鑑定”が古 田によった、という証拠を提出せよ(「偽証人」の手法は不可)」と要求している(『新 古代学』第一集、一九九五年七月)。

 骨を鑑定する趣味、という言い方が実は人骨の研究に生涯を捧げている法医学者・人類 学者・考古学者への侮蔑になっていることに気付かない無神経さもさることながら、「偽 証人は不可」と念押しするあたり、古田氏の詐術も堂にいったものではないか。

 これなら本当に証人が現れても、古田氏のほうでそれを偽証人と決めつければすむだけ の話だからである。

 それはさておき、『新古代学』についても、本来は「多元的古代研究会」関東・関西・ 九州の連合機関誌として企画されていたものを、古田氏が「『東日流外三郡誌』問題で出 版妨害があり、どの書店も『東日流外三郡誌』について反論の場を提供してくれない、ど うしても反論の場が欲しい」と称して編集に介入し、その結果、当初の企画とは似ても似 つかぬ雑誌になったことを、「多元的古代研究会・関西」代表の高山秀雄氏が暴露してい る(拙稿「浮き足立つ古田武彦(元昭和薬科大学教授)の支援組織−東日流外三郡誌問題 の行方−」『ゼンボウ』平成九年三月号)。

 つまり、『新古代学』は古田氏が編集に介入した時点から、和田家文書の広報誌として 方向付けられたわけである。

 なお、『新古代学』第一集の編集に際し、古田氏の露骨な介入に思いあぐねた編集委員 が「古田武彦責任編集」というクレジットを入れたいと申し出たところ、「これは皆さん で作る雑誌ですよ」と言って断ったという。雑誌の内容は自分の思う通りにしたいが、そ の「責任」を負うつもりはないという古田氏の人柄がうかがえるエピソードである。

 和田家文書について、古田武彦氏と和田喜八郎氏はもはや一蓮択生の間柄といってよい 。これで古田氏の和田氏擁護が義侠心の発露だというのなら、企業や官庁で上司や同僚の 汚職を揉み消すのも義侠心ということになる。

 もっとも『広辞苑』第二版によると、「義侠」と「任侠」は同義語だそうだから、古田 氏のいう「義侠心」は「任侠道」のことかも知れない。『真実の東北王朝』にも、古田氏 が和田氏の差し出す地酒のコップをグイと飲み干すという「儀式」のくだりがあった(つ まり和田氏と古田氏は盃を交わしたというわけだ)。

 

 

当事者意識の欠如

 

 冗談?はさておき、古田氏は自分が和田家文書問題に対しての第三者ではなく、当事者 であることが理解できないようだ。そうでなければ、自らの「人間的(ヒューマン)の義 侠心」を「自己に対し、一瞬も疑ったことはない」ままでいることや、自らをゾラに擬し ての自己陶酔などできようはずはない。

 古田氏は『東日流外三郡誌』裁判の法廷に資料として自ら編集した『足摺岬周辺の巨石 遺構』を提出したことがある。それによると、足摺岬の奇景をなす巨石群は、縄文時代、 灯台などに用いるために人工的に加工されたものだという。

 古田氏は自分の名声が学界でも認められているとアピールしたいがためにその報告書を 提出したらしい(こういう言動を権威主義もしくは俗物根性というのだ)。

 私はその内容について私見の一端を陳述したが、それについて古田氏は平成九年一月五 日付で弁護士を介し、法廷に提出した報告書で次のように述べた。
「右の報告書について早速批議をなす者(原田実氏)が現れた。全体としては現在の控訴 問題と無関係であるが、いわれなき『火の粉』をはらうために簡明に反論する」

 足摺岬の巨石問題についての私見および古田氏への再反論は別稿に譲るとして(少なく とも古田氏の説く縄文灯台説が成立しえないことは断言してもよい)、そもそも法廷に『 足摺岬周辺の巨石遺構』を提出し、『東日流外三郡誌』問題と足摺岬の巨石問題をリンク させようとしたのはあくまで古田氏なのである。

 それを「現在の控訴問題と無関係」「いわれなき『火の粉』をはらう」などとはよく言 ったものである。

 また、『アサヒ芸能』平成六年九月二九日号および『季刊邪馬台国』五五号は、古田氏 自身が偽古文書の作成を古美術商に依頼したという疑惑について報じている。

 その疑惑に対する古田氏の反論(と称するもの)が、弁明の態さえなしていないことは 拙著『幻想の荒覇吐秘史』で指摘した通りである。古田氏は自らが偽作に加担したと疑わ れている件についてさえ、当事者としての自覚がまったく欠けているのだ。

 思えば古田氏は論争の当初から自分の置かれた立場をわかっていなかったようだ。『サ ンデー毎日』平成五年七月四日号で古田氏は次のように述べた。
「よろしい。わたしは提案する。この両文書全体を紙質試験場たとえば、王子へ持参する 。安本氏とわたしと『サンデー毎日』編集部との立ち会いのもと、紙質検査する。その結 果、広葉樹パルプや蛍光増白剤入りの“戦後の紙”と判明したら、わたしは以後、一切、 学者としての活動を断ち、教授の職を辞す。その代わり、高知の判定と同じく、双方とも “こうぞ”と出たら、当然、安本氏は今後、一切、学者としての活動・執筆を捨て、教授 の職も辞してほしい。その覚悟あれば、いつでも、この再検査に応じよう」(「古田武彦 教授職を賭して再反論する」この執筆に先立ち、古田氏は高知紙業試験場にサンプルの鑑 定を依頼したという)

 さて、この“挑戦”に対し、安本美典氏は「責任のとり方はいろいろあるだろう。私は 、古田氏のように、他を論難攻撃して、責任をとって、大学の職をやめよというようなこ とを、強要したりはしない」とたしなめた。

 まず、学説の正否と教授の職というのは本来、無関係の問題である。自説が誤っている ことがわかったら、職を辞すのではなく、誤った説を引き下げ、正しい説を広めるのが学 者として当然の責任のとり方だろう。

 しかも、この時期、古田氏には昭和薬科大学の停年退職が近づいていたのである。一般 教養担当の大学教授が停年を前に退職することなど珍しくもない。古田氏は口先で対等を 装いつつも安本氏側の方に実質上、。かに厳しい条件を設定しようとしている。

 しかし、それ以上におかしいのは、この勝負のルールそのものである。なにしろ古田氏 の側が指定したサンプルを鑑定することで決着を付けようというのだ。

 このルールでは、古田氏が和田氏と自覚的に共犯関係にあるとすれば、必勝である。古 田氏があらかじめ、和田氏から確実に「こうぞ」を使ったというサンプルを借りてきさえ すればよいだけの話だからだ。

 このようなうさんくさい提案をして、大見栄を切れること自体、古田氏は自らが客観的 にどのような立場に見えるか、まるで認識していなかったことを示している。

 そして、この当事者意識の欠如が、古田氏の和田家文書問題に対する、立証責任の軽視 につなかっているのではないか。

 

 

筆跡問題と立証責任

 

 和田家文書の真贋問題について、偽作説論者よりも、真作説を主張する古田氏の側にこ そ立証責任があることは、拙稿「『東日流外三郡誌』真贋論争の倒錯」(『季刊邪馬台国 』六一号初出、『幻想の荒覇吐秘史』所収)で述べたところである。

 一方、民事裁判においては、被告側ではなく、原告側に立証責任が求められることにな っている。そのため、『東日流外三郡誌』裁判では、原告側の立つ偽作説の方が立証責任 を負うという形になり、偽作説論者は大きな負担を強いられた。

 しかし、法廷を離れ、純粋に学術的な論争として見れば、やはり真作説側にこそ立証責 任があることは間違いない。

 ところが、古田氏にはそのことがわかっておられない。もしくは故意に議論の混乱に拍 車をかけようとしている。

 古田氏は『季刊邪馬台国』五一号グラビアに和田氏の自筆原稿として掲載されたものの コピーを和田氏に見せ、第三者同席のもと、そこに「これは娘の字己の字ではない」とい う書き込んでもらったという(『新古代学』第一集)。

 古田氏はこれにより、偽作説論者による筆跡鑑定の根拠は崩れたという。ところが古田 氏はそれに対比すべき和田氏の「娘」(和田章子氏)の筆跡見本を出そうとはしない。

 斎藤隆一氏は友人からの伝聞として次のように述べる。
「古田氏が、ある講演でこう述べたそうである。“こちらは娘さんの字など、出す必要は ないんですよ。真作を偽作だと言っているんだから、立証するのは偽作論者の方なんです ”それが何を意味しているのか、もうお判りであろう。古田氏は今後も和田氏の娘さんの 筆跡を提示することはないと思われる」(斎藤隆一「筆跡論争」『季刊邪馬台国』六一号 所収)

 古田氏自身、平成九年一月二四日付陳述書で次のように述べる。
「被控訴人側が章子さんの筆跡を提出することは甚だ容易である。それを敢えてしないの は、本人が女の手、単独で、二人の子供を学校に通わせるという、生活上“必死の毎日” を日々斗っているため、裁判の場へのかかわりを“避けさせ”たために他ならない。しか し、本人が水沢市あての『和田喜八郎、講演要旨』(『知られざる聖域、日本国は丑寅に 誕生した』)について、『本人(章子)の筆跡である』旨の証言(末尾、自署名)も筆者 は所有している。父(喜八郎氏)の証言と同一である」

 ここでは問題のすり替えがある。そもそも問題の原稿が章子氏の筆跡だと言い出したの は和田喜八郎氏であり、そのことを『新古代学』第一集で発表したのは古田氏である。

 章子氏の筆跡問題について、古田氏はすでに当事者なのである。和田氏と古田氏には、 自らの発言をすすんで立証する責任があるはずだ。ところが古田氏には当事者意識がなく 、したがって自分が立証責任を負うていることも理解できない。

 実際、法廷に筆跡見本を提出するだけなら、はなはだ容易なことである。いかに日々の 暮らしが大変であろうとも、章子氏にその程度のことができないとは思えない。第一、古 田氏が和田章子氏の自署名入りの文書を持っているならそれを提出すればすむだけの話で はないか。

 また、古田氏は章子氏の証言が父親の和田氏と同一だというが、刑事事件でも、容疑者 の家族の証言については容疑者を庇うものである可能性が考慮されるのが常識である。父 と娘の証言が一致した、とその父親の共犯者ともいうべき人物が陳述したところで、信じ ろという方が無理な話である。

 もっとも、斎藤隆一氏や藤村明雄も指摘しておられるが、問題の原稿と和田家文書の筆 跡が一致しているわけだから、たとえそれが和田氏本人ではなく、「娘の字」であろうと も偽作説が成り立つことにかわりはない(斎藤「筆跡論争」、藤村「偽書と宗教と三内丸 山遺跡」『季刊邪馬台国』六一号所収)。

 さらに問題の原稿については、たとえ章子氏の筆跡見本なしでも、それが章子氏ではな く、和田氏の手になることを立証することは可能である。

 和田氏が古田氏に請われ、第三者同席のもと、原稿のコピーに書いたという書き込み「 これは娘の字己の字ではない」、それ自体が明らかにコピーと同筆なのである(『幻想の 荒覇吐秘史』)。

 コピーについて、「これは娘の字己の字ではない」という命題が真だとすれば、その書 き込みそのものも「己の字ではない」ということになる。では、その書き込みを書いたの は誰か、これではまるで不思議の国の論理学である。

 和田氏のその場しのぎのウソをそのまま発表することで「冤罪」を雪いだ気になる。こ れは古田氏がこの真贋論争の当初からくりかえしてきたところだ。たとえば、ホテルサン ルート五所川原のロビーに展示されていた「安東船商道之事」について、その用いられて いる紙が現代のものであることが発覚した際、古田氏は和田氏から聞いたとして、そのサ ンプルが「古文書」の現物ではなく、レプリカだと言い出した。和田氏の説明する方法( パンタグラフによる拡大)では、筆書きの文字を模写することは不可能であるにも関わら ずである(『季刊邪馬台国』五二号)。

 また、古田氏は、和田家の屋根裏に「寛政原本」が隠されているという話に基づき、和 田家の屋根の工事費という名目で支援組織のカンパを集めている。この「寛政原本」の話 も、おそらくは和田氏の苦し紛れのデタラメにすぎないのだが、古田氏はそのデタラメを 根拠に善意の人々のなけなしの金を求めて、恥じようともしないのである(拙著『幻想の 荒覇吐秘史』)。

 和田氏がハリウッドの映画会社ワーナーブラザーズの取材を受けたというのを真に受け 、古田氏がそのありもしない映画の前宣伝を行ったこともある(『新古代学』第二集)。 こうなるともう笑い話だ。

 本来なら、和田氏から聞いたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、裏をとる努力を するのが古田氏の義務のはずだ。だが、古田氏は和田氏の言い分をそのまま記して、偽作 説への反論と称しているだけである。肝心の裏をとる作業は偽作説に押しつけている(た とえば映画の件についてワーナーブラザーズに問い合わせたのは私自身である)。

 そして、偽作説論者の調査で和田氏の新たなデタラメが暴かれると、今度はその調査し た相手を口をきわめて罵倒するのである。古田氏の論争相手への罵倒の激しさは七〇年代 、邪馬台国ブームの頃から“定評”があった。

 しかし、世の中良くしたもの(?)で、古田氏の他者への罵倒を読んで、自らの胸の溜 飲を下げている人も世の中には少なからずいる。そうした人々が今も古田氏の支援組織を 支えているのである。しかし、和田家文書問題で古田氏が馬脚を現すことにより、その支 援組織さえも次第に瓦解しようとしている。

 

 

「九州古代史の会」の失態

 

 古田氏の支援組織として現在活動しているものには「古田史学の会」「古田武彦と古代 史を研究する会」「多元的古代研究会・関東」「九州古代史の会」がある(『新古代学』 第三集所収の「協賛団体一覧」による)。

 かつては古田氏の支援組織とみなされていた「多元的古代研究会・関西」は古田氏の介 入に抗議し、現在は健全な歴史研究の会を目指して再出発している。

 笑止なのは「九州古代史の会」である。同会はもともと「多元的古代研究会・九州」と いう名であったが、平成十年に改名して、現在の名称になった。

 その契機となったのは、平成八年、「多元的古代研究会・九州」の執行部で『新古代学 』第三集への協賛は辞退しようといったん決定したことである。

 先述のように、もともと『新古代学』の企画は、「多元的古代研究会」の連合機関誌を 作ろうという話から始まった。ところがそれに古田氏がむりやり介入し、和田家文書の広 報誌に作りかえたのである。「多元的古代研究会・関西」はそのために古田氏の支援組織 から離反した。

 ちなみに「多元的古代研究会・九州」でも、『新古代学』について「これは私たちのめ ざした本ではない」と思ったが、その点について古田氏からは次の返答を得たという。
「機関誌を出したければ別に出せばよい。『新古代学』はそれとは違う、わが陣営最大の 拠点である。これに参加・協賛しないことは、利敵行為である」

 人のフンドシを借りて相撲をとっておきながら、開き直って貸した側を責めるこの度胸 、まさに古田氏の面目躍如たるものがある。

 さて、「多元的古代研究会・九州」の協賛辞退を受けた古田氏は同会に対し、一九九七 年二月十四日付書簡で、なおも協賛の継続を強要し、それに応じないようなら、「古田武 彦」という固有名詞や「多元的古代」など「わたし(古田)の独創した学問上の術語」の 使用を許さないと勧告してきた。しかも、古田氏はその際、同会の協賛辞退は「“異なっ た視点の意見を重視し、大切にする”という“多元的古代”の歴史観の基本精神」からみ て許せないとまでいってきたのである。

 その勧告により、「多元的古代研究会・九州」は、会名・会則・入会案内から「古田武 彦」の名や「多元的古代」などの古田造語を削除し、しかも『新古代学』への協賛(つま り古田氏の支持組織としての表明)を継続する、という矛盾した動きを示した。

 同会では「古田氏は学術用語の問題を無断借用や剽窃といった著作権問題と混同されて いるようです」と言いながら、「本人から“個人の名前や独創した術語を会名・規約に利 用して貰いたくない”といわれれば聞き入れないわけにはいきません」としている(『九 州古代史の会NEWS』号外「改名・会則を変更して一周年」、平成十一年五月)。

 しかし、個人名はともかく、その用語が本当に学術的な普遍性を持ちうるものなら、主 唱者といえども他者にその使用を禁ずることはできないはずだ。

 たとえば、論敵に対し、万有引力という語の使用を禁じるニュートンとか、特殊相対性 理論の使用を禁じるアインシュタインなどを想像すれば、古田氏の要請の滑稽さはわかる だろう。それはたとえば、いわゆる『東日流外三郡誌』裁判で争われたような著作権侵害 とは自ずと次元が異なる問題なのである。

 古田氏の造語が学問的な普遍性を持つものだとすれば、古田氏はその使用禁止を強制で きないはずである(現に「多元的古代研究会・関西」はそのような認識から古田氏の支援 組織を離脱した後も改名には至っていない)。

 また、古田氏があくまでその用語のプライオリティを主張するとすれば、それは古田氏 自身、自らの造語が学問的な普遍性を持つものではないことを認めたことになる(ちなみ に「多元的」という語を古代史に用いたのは古田氏が最初ではない。拙稿「多元と王朝」 『古事記通信』四十号所収、参照)。

 そもそも、「異なった視点の意見を重視し、大切にする」という精神を踏みにじってい るのは古田氏の方ではないか。「多元的古代研究会・九州」はこの古田氏の理不尽な要求 に対し、さらに捩じれた対応をしてしまったわけである。

 反社会的カルトが信者獲得や資金集めのために正式な教団名とは別の名を用いることは よくあることで、たとえばオウム真理教は平成十一年春、京都大学において「生命科学研 究会」という名で新入生勧誘のビラを配っている。
「多元的古代研究会・九州」執行部の意図はどうあれ、「九州古代史の会」への改名は、 結果としてその種の欺瞞になってしまったのである。

 なお、古田氏は「多元的古代研究会・九州」の代表・副代表・事務局長・編集長の四名 に平成九年の元旦に届くように長文の手紙を出し、同会への悪口罵詈雑言恫喝を書き連ね ていたという。その文面は「親書として公表厳禁」になっているとのことだが、よほど外 聞がはばかられる内容なのであろう。

 会の運営に影響を与えた文書について、手紙を直接受け取った役員以外には見せられな いというあたり、「九州古代史の会」という組織が情報公開の理念とはほど遠い閉鎖的・ カルト的な性格のものであることを示している。

 しかし、離脱や改名といった支援組織内部の動揺は、それ自体、古田氏の社会的信頼が 失われつつあることの顕れとみてよいだろう。

 

 

自己を疑うことのない人々

 

 古田氏が和田家文書問題についての立証責任を放棄することにより、追い込まれている のは偽作説論者ではなく、実は古田氏自身なのだ。

 しかし、古田氏はこれからも当事者意識に目覚めることなく、「善意の第三者」を演じ 続け、和田家文書問題をよりいっそうの混迷に向かわせようとすることだろう。

 もちろん本当に混迷しているのは古田氏自身だ。それが自らの「善意」を「自己に対し 、一瞬も疑ったことはない」者の末路なのである。

 最後に一言、この世でもっとも危険な人は自己の正しさを一瞬も疑ったことがない、と いうより疑うことができない人である。古くは中世ヨーロッパの魔女狩り、スペインの宗 教裁判、今世紀に入ってからもロシアのポグロム(ユダヤ人襲撃)、ナチス・ドイツのホ ロコースト、アメリカによる東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、スターリンの大粛 清、中国の文化大革命、ベトナム戦争時のソンミ村虐殺、カンボジアのクメール・ルージ ュ、イラクのクルド人虐殺、コソボの悲劇、等々、理不尽な大量殺戮は常に自己の正しさ を疑うことのない人々により押し進められてきた。私たちは歴史の教訓を忘れてはならな い。  

 

 

                      1999,6  原田 実