『東日流外三郡誌』と熊野猪垣(一)

 

 


 

 

水野孝夫氏の苦渋

 

 一九九八年七月に刊行された『新・古代学』第三集はなかなか興味深いものであった。
同誌のメインとなっているのは前年十月、事実上の結審となった和田喜八郎氏の盗作問題 についての民事訴訟結果の報告である。

 同裁判については、『季刊邪馬台国』五六号、六一号に報じられたように、青森地裁・ 仙台高裁では和田氏による写真盗用を認めるということで原告・野村孝彦氏が実質勝訴し ている。原告側では、歴史的文書の偽造の社会的問題を問うべく、さらに最高裁へと上告 したが、最高裁ではそれを棄却し、裁判としては一応の決着を見ることになった。

 この裁判の意義と、最高裁上告棄却の問題点については、すでに拙稿「歴史偽造は許さ れるべきか」(『正論』一九九八年六月号)がある。
『新・古代学』第三集収録の裁判関係資料の冒頭には、古田武彦氏の「和田家文書(『東 日流外三郡誌』等)訴訟の最終的決着について」が置かれている。

 古田氏はその文を「判決文をお読みいただくための手引」であるとし、その中では、著 作権侵害を前提とした野村氏の請求が認められなかったということを強調して、最高裁上 告棄却を「まさに鎧袖一触の感がある」と賞賛している。「手引」といえば、いかにも客 観的なようだが、これが古田氏の筆になるものである以上、読者の解釈を和田喜八郎=古 田武彦側の主張へと誘導するものであることは言うまでもない。

 実際には、民事訴訟は、理非を糺すというよりも、原告側・被告側双方の言い分に折り 合いをつける傾向になりがちのものだから、原告側の請求が全面的に認められないのもや むをえないのだが、古田氏はあらかじめその点にのみ読者の視線を誘導し、あたかも被告 側が勝訴したかのような先入観を与えようとしているわけである。

 古田氏はこの文中で「主戦場はいうまでもなく、北方新社刊行の『東日流外三郡誌』等 の基となったのが和田氏作成の偽書なりや否やの一点にある」「野村氏は、北方新社開口 等の『東日流外三郡誌』は和田氏による偽作であり、その中において野村氏の本件論文を 剽窃、盗用し、複製権又は翻案権を侵害した、と主張する。それが本件訴訟の主戦場であ る」と記し、青森地裁、仙台高裁が『東日流外三郡誌』そのものにおける著作権侵害まで 踏み込んだものでないことを以て、偽書説まで否定されたかのような印象を与えようとし ている。

 しかし、偽書説は、和田家文書における著作権侵害を成立させる上での必要条件の一つ にすぎない。著作権侵害の主張が認められることは、即、裁判所が偽書説を認めたことを 意味するが、その逆は必ずしも真ではないのである。実際には、和田家文書が偽書である ことは、当裁判で問題となった「耶馬台城」関係の記述以外の証拠からも証明できるし、 後述のように、裁判所でも偽書説の妥当性は認めているのだ。

 また、古田氏は裁判所も認めた『知られざる東日流日下王国』での写真盗用について、 「『『東日流日下王国』は実質的には成田氏との共著であり、野村氏指摘の箇所は和田氏 の執筆ではなく、和田氏は校正にも参加していない、という」と、郷土史家・成田不二雄 氏(故人)へと責任を転嫁しているが、成田氏の御遺族は『知られざる東日流日下王国』 が成田氏の執筆であることを否定している。

 さらには、野村氏が盗用されたとする「日本経済新聞」掲載の論文よりも前に、『東日 流外三郡誌』が市浦村から刊行されていることを持ち出すなど、この「手引」は事情を知 らない人を、和田=古田側の主張に導入しようというトリックに満ちている。

 実際には、北方新社版『東日流外三郡誌』は市浦村版より大幅に増補されており、市浦 村版にはまだ問題の「耶馬台城」に関する記述はない。そして、和田家文書の増補が現在 もなお続けられていることは、最近、三内丸山遺跡の高層建造物の絵が書かれた「新資料 」が出ていることなどからも明らかなのである(斎藤隆一「『東日流外三郡誌』には縄文 の風景も描かれていた!?」『別冊歴史読本・よみがえる縄文の秘密』所収、他)。つまり 「日本経済新聞」掲載の論文より前に、市浦村版『東日流外三郡誌』が出ていても、盗作 を否定する根拠にはならないのである。

 ところが、この手引を掲載した『新・古代学』第三集奥付ページの「編集後記」には次 のような箇所がある。
「和田家文書に関する裁判は、特定の地域を除いては、報道が少なく、正確な判決文をご 存知の方は少ないので、紙数の許す限りの資料を収録するように努めました。法律的な解 釈は明瞭になったと信じます。もっとも和田家文書が偽書であるか否かについての“学問 的”な判断は法律問題とは別であることは当然です」

 これでは、まるで古田氏が述べる「法律的な解釈」と学問的な真実とは別であるといわ んばかりではないか。

 同誌収録の裁判資料末尾、そして同誌本文ページの末尾にあたる位置に置かれているの は、原告側から最高裁に提出された「上告趣意書」である。

 その中で原告側は、和田家文書(『東日流外三郡誌』等)に野村氏の論文および写真に 基づいて偽作された文書があることを実証しており、さらに歴史的文書の偽作と流布が「 公序良俗」「正義の観念」「信義則の理念」に反するものであることを、明確に指摘して いる。

 この文章を裁判関係資料、ひいては『新・古代学』第三集のまとめとも言うべき場所に 配置したということは、『新・古代学』第三集の立場が、法律的解釈をむやみに玩ぶより も、むしろ良識の側に立とうとするものであることを示しているのであろう。

 もともと『新・古代学』は古田武彦氏の個人誌としての性格が強い本であった。古田氏 の著書『古代史の未来』(明石書店、一九九八)の巻末にある「紀要論文および著作リス ト」では、『新・古代学』は一、二、三集とも論文掲載誌としてではなく「著作」として 分類されている。また、古田氏の支援組織の広報用文書では『新・古代学』は雑誌として ではなく「古田先生の本」として宣伝されるのが常だった。

 しかし、『新・古代学』第三集で新たに編集責任者となった水野孝夫氏は、一九九二年 の時点でいち早く『和田家文書』の偽作性・盗作性を指摘した人物である(「昭和二八年 以後に『岩波文庫から盗作した『古代ギリシャ祭文』」『季刊邪馬台国』五二号、拙著『 幻想の津軽王国』批評社、一九九五、参照)。

 水野氏は古田氏の支援組織の一つ、古田史学の会の発足(一九九四年五月)以来、その 代表に就任している(九八年十月現在も継続中)。

 同じく支援組織の一つである多元的古代研究会(関東)では、代表の高田かつ子氏が、 会発足時の挨拶で、「(和田家文書偽書説などに)動揺する人は古田先生を信じていない のです」「古田先生の悪口をいう人は入会させません」などの迷言を並べ、また、古田史 学研究会を設立した不二井伸平氏は会則案の文面に「古田先生に加えられるあらゆる謀略 ・妨害の排除に取り組む」「ドロケチ研究に対するドロ落とし、ケチはがしを古田先生に させることなく、会員がドロ落とし、ケチはがしに取り組む」「古田ファン、結構!古田 史学、なお結構!古田学派、ますます結構!」などと明記して、共に失笑をかった。

 しかし、それとほぼ同時期、水野氏は、古田史学の会発足時の代表者挨拶で、自らが偽 書説論者であることを強調し、会内部にも言論の自由が保証されていることを示そうとし たのである。

 ところが、それ以降、水野氏は和田家文書問題については表向き、沈黙を保っている( もしくは沈黙を強いられている)。

 最近では、古田氏の支援組織内部からさえ、和田氏の、潔白を主張するにはあまりにも 非合理な態度に疑問の声が上がり始めている。古田史学の会会員の室伏志畔はその機関誌 で次のように述べる。
「古田武彦は『親鸞思想』の中で、親鸞思想の精髄を伝えるものとして持て囃されている 唯円の著した『歎異抄』の記す“大切の証文”及び“目ヤス”が、通説とは異なり末尾の “流罪記録”そのものを指すことを論証し、現在の“流罪記録”は原著者の一部であって 全部ではないとし、その親鸞の“大切の証文”を断裁し不完全本『歎異抄』にして伝えた 犯人こそ本願寺教団の開祖・蓮如その人であったとしている。本願寺教団の教義の確立は 、親鸞の「大切の証文」を闇に葬ることなくしてありえなかったのである。とするならこ れは和田家文書(秋田家文書)の公開の言明から久しく沈黙し、擁護を古田武彦や古賀達 也に任せきって、その理由について明らかにすることなく延ばしに延ばしている和田喜八 郎の態度はまったく解せない。『歎異抄』が教団の都合で断裁自由である権限が赦さるべ きでないなら、秋田家文書の公開が和田喜八郎の胸先三寸で処理される時代ではもはやな いのだ。誇るべき史料で公開に耐えない史料なぞありえないように、秋田家文書の声価は その全面公開によってこそ問わるべきであろう」(「物神化と危機意識」『古田史学会報 』二三号、九七年十二月刊)

 この非難は和田氏ばかりではなく、和田氏の史料秘匿(そもそも公開すべき史料があれ ばの話だが)を許し、「今のところ、ほとんど筆者のみが和田家文書(明治写本)を和田 喜八郎氏から研究委託され、この文書の調査・研究に当ってきた、ほぼ唯一の専門的研究 者」(仙台高裁提出の陳述書より)などと得々として語る古田氏にも、向けられているこ とは言うまでもない。

 古田史学の会の代表とはいえ、否、代表だからこそ、水野氏は古田氏個人の愚行から「 古田史学」を救うべく頑張っておられるのではないか。『新・古代学』第三集からは、そ うした水野氏の苦渋が読み取れるのである。

 なお、宗教・思想・政治などの結社では、一般に指導的立場の人物は組織の中心にいる ものだが、古田氏は、古田史学の会の会員ではない。古田史学の会の会則では、会が古田 氏を一方的に支援することだけが定められている。つまり、古田史学の会は、会に対して なんら責任を持たない人物が、指導的立場を占めるという構造を有しているのだ。それは 政治・軍事・祭祀という三大権を掌握しながら、国家的行為の結果からは免責されていた 戦前・戦中の天皇の地位にもよく似ている。まさに「古田天皇」である。

 あるいは水野氏は、古田史学の会のこうした不健全な構造に対し、危機意識を抱いてお られるのかも知れない。

 

 

虚構の耶馬台城

 

 さて、この裁判の原告である野村孝彦氏は七四年頃から奈良県生駒市や和歌山県新宮市 ・那智勝浦町の「猪垣」といわれる古い石垣に関心を持ち、それが古代の遺物かも知れな いとして、七五年五月十四日付の日本経済新聞朝刊紙上でその調査の必要性を訴えた。

 七六年頃、市浦村版『東日流外三郡誌』の存在を知った野村氏は、所蔵者の和田喜八郎 氏と連絡をとり始めた。野村氏は和田氏に日経新聞掲載の論文を見せ、また和田氏の希望 に応じて生駒と熊野の猪垣の写真を送った。

 ところがその後、和田氏の著書『知られざる東日流日下王国』(東日流中山古代中世遺 跡振興会刊)にその猪垣の写真が、青森県山中の耶馬台城の写真として掲載されていたの である。

 さらに野村氏の論文・写真提供以降に刊行された北方新社版『東日流外三郡誌』には、 明らかにそれを下敷きにした文書が含まれていた。

 野村氏はその事実を知って以来、数カ月間、和田氏に事実をただしたが埒があかず、九 二年、写真盗用および論文の著作権侵害に対して民事訴訟を起こしたのである。

 さて、野村氏の論文・写真提供以降に世に出た和田家文書を見ると、たとえば『東日流 外三郡誌』の「東日流耶馬台城跡」は、四百字詰原稿用紙二枚文ほどの短い文であるにも 関わらず、野村氏の論文に依拠すると思われる表現が三十箇所もあり、さらにそのストー リーも野村氏の論文とほぼ一致している。

 和田家文書を江戸時代成立、明治時代書写の古写本とする所蔵者側の主張が筆跡問題か ら崩れた今、常識的には、これを野村氏の論文の翻案とみなして、なんら差し支えないで あろう。

 なお、今まで刊行されている和田家文書によると、秋田孝季なる人物がまったく異なる 時期に、ことなる状況で、三度も「耶馬台城」を発見したと記しているが、和田家文書に おける前後の矛盾はそれに限ることではなく、和田家文書の真の著者がかなり無頓着な性 格であったことがうかがえる(千坂げんぽう編著『だまされるな東北人』本の森、一九九 八)。

 さて、「東日流耶馬台城跡」には、「石垣延延たる耶馬台城」なる表現があるが、江戸 時代、明治時代の人が風景について記したものなら、これは「蜿蜒たる」と書かれるべき であった。

 野村氏の論文には「延々と続く」という表現があるが、これは七五年という時点の新聞 に掲載するには正字の使用はかえって一般的ではないとして、あえて簡略な字を用いたも のなのである。そして、「東日流耶馬台城跡」はその簡略な字を踏襲したのである。

 また、「東日流耶馬台城跡」の「遺物の土器物ありて」という表現は野村氏の論文の「 土器など考古学的出土品が多い」という記述に基づくものと思われるが、江戸時代の用法 で「土器物」とは、土器そのものではなく、大きな器に盛られた酒の肴を意味しており、 この文書が実際には古語の知識にうとい人物によって書かれたことを示している。

 さらに「東日流耶馬台城跡」には耶馬台城は「飛鳥山」にあるというが、『東日流外三 郡誌』が耶馬台城の所在として示す中山連山の山中にはそのような地名はない。

 青森市には「飛鳥山」という地名が実在しているが、青森湾沿岸約二キロの処であり、 近いといえないこともないが、明らかに異なった場所である。

 耶馬台城の所在地としての「飛鳥山」が野村氏の論文に登場する熊野の飛鳥神社および 、その「後ろの山中」に石垣があったという記述から、創作された地名であることは明ら かである。
『東日流外三郡誌』の「耶馬台城之大秘道しるべ」にも、「石垣延々と続く」「飛鳥山」 という表現がある。また、「庄屋中村殿より・・・聞き及びて得たり」「時早く日暮れて 」という箇所は野村氏の論文の「曽根の飛鳥神社をたずねて、当屋(神主にあたる)から いろいろの伝承をうかがった」「日の短い秋、冬になると懐中電灯を使って山を下りねば ならなかった」という記述に基づくものだろう。この両者には地元の人から伝承を聞き、 日暮れまで遺跡を探し求めるという共通のストーリーがある。
『東日流外三郡誌』では他にも「耶馬台城址之伝」「耶馬台国之崇神」「東日流往古之謎 史跡尋抄」にも野村氏の論文に基づく表現を見出すことができる。中でも「耶馬台城址之 伝」は「これなる城造りは、吾が東日流及び紀州のみに実在なして他類なき城址なり」と あり、熊野猪垣との類似が問題になった際の予防線を張ったかのような記述がある(以上 、前掲「上告趣意書」および『だまされるな東北人』参照)。

 和田氏は、津軽山中の耶馬台城の所在を知っていると主張し、NHKテレビ「ぐるっと 海道3万キロ」の取材でヘリコプターに乗って、その場所と称する所を上空から指さした こともある。同番組ナレーションではその地域を「十三湖からほど近い山林」と表現して いるが、地元の人はそのような史跡の存在を否定している(もちろん青森市の飛鳥山から も遠い)。

 それどころか、和田氏は耶馬台城のものとして著書に用いたのと同じ写真を、岩手県衣 川村にある安倍氏の宝が隠された所として、衣川村役場の人々に提出したことさえある。 それが衣川どころか、野村氏撮影による熊野猪垣などの写真であることは野村氏自身によ り確認されている(前掲『だまされるな東北人』)。

 この写真は野村氏の提供によるものだが、むろん野村氏はそれが歴史偽造や詐欺目的に 用いられるとは夢にも思っていなかったのである。

 状況証拠は、津軽山中の耶馬台城なるものが、熊野の猪垣をモデルとして和田氏が創作 した、まったく架空のものであることを示している。

 和田氏が潔白であるならば、その立証は簡単なことである。古田氏とその支援組織以外 の研究者、研究機関にも所蔵史料を提供し、また、耶馬台城と称する場所をも公開して、 公的な調査に委ねればよいだけである。古田氏も本当に和田氏を擁護されるのであれば、 和田氏を説得してその方向に導くべきではないか。

 

 

「紀州熊野宮之由来」

 

『東日流外三郡誌』以外の和田家文書では、『総輯東日流六郡誌』の「紀州熊野宮之由来 」に「神域に石垣、土垣を築きめぐらしたるが、この長蛇の如き石垣を・・・」「熊野山 中十五里の石垣」という表現があり、野村氏の論文に依拠したことを示している。

 なかでも、この「十五里」という数値は重要である。野村氏の論文では、熊野猪垣の長 さは小見出しに「総延長六〇キロ」、本文に「およそ六〇キロメートルにおよんでいる」 「現地で確認できた部分の総延長が約六〇キロに達した」と記されているからである。六 〇キロを一般的な換算で日本里に直せば十五里ではないか。

 この「六〇キロ」という数値は、あくまで日経新聞に投稿した時点での暫定的なもの( 次の機会の調査ではさらに延長されるであろう性格のもの)であり、江戸時代にたまたま 同じ史跡を調査した人物が同じ数値を得るなどということはありえない。実際、その後の 調査では列石の長さが百キロ以上もあることが判明している。

 野村氏の論文が発表された七五年から、『総輯東日流六郡誌』が刊行された八七年まで に熊野猪垣についてふれた一般向け書籍では、むしろ猪垣の長さを百キロ以上とするもの が見受けられる。 「伊勢から熊野にかけて、『猪垣』と称する高さ一・五〜二メートルの石積みが延々一〇 〇キロ以上に及んで残っている」(武内裕『日本の宇宙人遺跡』大陸書房、一九七六)
「紀伊半島の熊野地方(和歌山県新宮市から那智勝浦町付近)の雑木林のなかに、全長百 キロにおよぶ“万里の長城”ならぬ不思議な石垣が発見された」(佐藤有文『にっぽん怪 奇旅行』KKベストセラーズ、一九七八)
「武内裕」とは八幡書店社主・武田洋一氏のペンネームの一つであるが、『日本の宇宙人 遺跡』には、いわゆる遮光器土偶のモデルを宇宙人とする説と、『東日流外三郡誌』を結 びつけた論考が収録されている。また、佐藤氏の『にっぽん怪奇旅行』には『東日流外三 郡誌』に基づく「幻の東北古代王国を発見した」というレポートが収録されている。

 どちらも自ら虚構した「歴史」の社会的反響を気にしていた和田氏が目を通していてお かしくないものである。しかし、それらの書籍に出てくる百キロという数値ではなく、野 村氏の論文に出てくる六〇キロという数値が採用されたということは、「紀州熊野宮之由 来」が野村氏の論文に直接基づいて書かれたものであることを示している。

 原告側が裁判所に提出した半田正夫氏による鑑定書でも、「紀州熊野宮之由来」の「十 五里」という数値が重視されており、さらに筆跡からも「紀州熊野宮之由来」が和田氏の 手になることが明らかにされている。ちなみにその際、筆跡鑑定に用いられたものの一つ に、津軽書房版『総輯東日流六郡誌』の編者、山上笙介氏の手元に残された『東日流六郡 誌』テキスト(和田氏が古文書の「原本」と称して提出したもの)のコピーがあり、その 中には、「熊野山中十五里の石垣」の記述もあった。

 さて、古田武彦氏は「半田『鑑定書』に対する批判」を著し、弁護士を介して法廷に提 出している(『新・古代学』第三集、所収)。

 ここで、その内容を個条書きにしてみよう。ただし、古田氏の論点には、半田氏の用語 の定義をめぐって水掛け論に引き込もうとする態のものもあるので、ここでは和田家文書 と野村氏の論文、双方の内容に関わる論点だけをあげてみたい。

A,鑑定文では『東日流外三郡誌』について、昭和五八年以降の発行として扱っているが
  、市浦村版『東日流外三郡誌』は昭和五十年に発刊されている。
B,「表面から観察しやすい部分」の石垣に関しては、寛政七年(一七九五年、「紀州熊
  野宮之由来」が書かれたとされる時代)から現代まで大異がない。同一の石垣を調べ
  たのだから数値の一致はおかしくない。
C,野村氏の写真では、一面草茫々の荒れ果てた光景が写っているのに対し、「紀州熊野
  宮之由来」の「見取り図」では、石垣が見事に整理・清掃された姿が描かれている。
  これは寛政時代の実情を描いたものとみなす他ない。現実の草茫々の状況を清掃・整
  備ならしめて描く必要はないし、むしろ、さらに一段と“茫々たる蒼古の神域”らし
  く表現するはずである。
D,「紀州熊野宮之由来」に出てくる数値が「十五里(六〇キロ)ズバリ」なのに対して
  、野村氏の論文で語られる数値は「十五里(六〇キロ)以上」である。野村氏の論文
  が基になっているなら、「以上」を「ズバリ」へと縮小するいわれはない。
E,野村氏が石垣にしか関心を持たないのに対し、「紀州熊野宮之由来」は石垣のみなら
  ず土垣にも言及しており、より注目の仕方が重層的である。
F,野村氏の論文が猪垣は「山城」か「神域」かという問題提起を行い、古代の軍事防衛
  線として注目しているのに過ぎないのに対して、「紀州熊野宮之由来」では石垣が「
  神そのもの」の古代的表現であるという思想が表明されており、これは、市浦村版『
  東日流外三郡誌』以来の「宗教思想にもとづく展開」であり、「一貫した思想表明の
  上に立つもの」である。「紀州熊野宮之由来」は野村氏の論文より「はるかに宗教思
  想として深く、かつ鋭い」

 まず、Aについて、北方新社版、八幡書店版『東日流外三郡誌』は市浦村版『東日流外 三郡誌』から大幅に増補されており、その増補した箇所の信憑性がより疑わしい(市浦村 版をも和田氏の偽作とする立場からいえば増補箇所の方が出来がよくない)ことは、今や 和田家文書を擁護する立場の研究者さえ認める傾向である(たとえば渡辺豊和『北洋伝承 黙示録』新泉社、一九九七)。

 そして、野村氏の論文に基づくと思われる表現は、いずれも『東日流外三郡誌』の増補 箇所および『東日流外三郡誌』以降に刊行された文書にあるのだから、ここで市浦版を持 ち出すことは無意味である。

 古田氏は市浦村版『東日流外三郡誌』と、ここで問題にされている文書群の間には「内 面的形式」が共有されているので無関係ではないとするが、それは単に同じ著者が書いた と思われるという以上のことではない。つまり、市浦村版『東日流外三郡誌』を含む和田 家文書のすべてが同一の現代人の偽作だとしても、「内面的形式」の共有なるものは説明 できるのである。

 Bについて、野村氏が調査したのは「表面から観察しやすい部分」などではない。野村 氏は、時には早朝から夕暮れにかけて山中をめぐり、一年がかりでようやく六〇キロとい う暫定的数値を得たのだ。そのことは「日本経済新聞」の記事を読めば一目瞭然のはずで ある。古田氏がそれを「表面から観察しやすい部分」などと強弁するのは、野村氏の努力 に対する冒涜であり、自説に不利な情報を無視する態度である。

 同一の石垣を調べたのだから同一の数値が出るのは当然だという論法も成立しない。同 一の石垣を調べて、一方は苦心の末に得た暫定的数値、一方は「表面から観察しやすい部 分」だけを調べたのだとすれば、かえって一致する方がおかしいではないか。

 Cについて、古田氏が主張するように「紀州熊野宮之由来」が書かれた当時、猪垣が整 理・清掃されていたとすれば、その著者とされる秋田孝季は野村氏の暫定的数値よりもよ り正確かつ長大な数値を求めえたはずである。その場合、石垣は「二十五里」あるいはそ れ以上のものとして記されていたことだろう。

 野村氏提供の写真はいずれも当然ながら、猪垣の一部を写したものである。「紀州熊野 之宮由来」で、石垣が茫々と描かれていないのは、和田氏が野村氏提供の写真だけでは猪 垣全体のイメージをつかむことができず、石垣一般の整然とした姿を空想して描いたから にすぎない。猪垣は実在にしても、秋田孝季が訪れたというのが作り話だとすれば、真の 作者の趣味によって、その石垣を整然とした姿にも、茫々とした姿にも描けるはずだ。

 見取り図が空想で書かれたものなら、より茫々と描くはずだというのは古田氏個人の好 みの問題にすぎない。

 ちなみに、古田氏には自分の単なる好みを普遍的真実と混同する傾向があるようだ。古 田氏は『真実の東北王朝』(駸々堂、一九九〇)において、「キュリーの反証」なるもの を提唱している。

 一九〇三年、キュリー夫人のノーベル物理学賞受賞以降に生きる人なら、彼女による放 射能の発見に感銘を受けないはずはない。したがって、和田家文書が現代人の偽作・創作 ならば、そこに放射能のことを書かれていないはずはない。実際には和田家文書には放射 能の記述はないのだから、和田家文書は放射能発見より前の成立だというものだ。

 しかし、考えてみれば、和田氏も含め、現代人のすべてが古田氏同様、キュリー夫人の 熱烈なファンというわけではないのである。

 なお、最近、作家の高橋克彦氏が、「『東日流外三郡誌』は義経ジンギスカン説に触れ ていないところに真実味がある」といった意味の発言をしているが、それに対して、と学 会会長の山本弘氏は、次のように述べている。
「とほほ、それじゃあ“現代人が書いた偽書なら原爆のことが書いてあるはずだ”と言っ てた古田武彦氏と変わんないよ〜。単に“和田氏が義経ジンギスカン伝説に興味がなかっ ただけだ”とは、どうして考えないんだろう」(山本弘「トンデモ本紹介・超古代文明論 」『と学会誌』第6号)。

 もはや、古田武彦氏の説は「とほほ」という枕詞をつけて語られるものになってしまっ たようである。

 それはさておき、古田氏は江戸時代、猪垣には文字通り農地を獣害から守るための実用 的意義があったとして、そのため農民総出の作業で整理・清掃されていたと主張するわけ だが、肝心の「紀州熊野宮之由来」は問題の石垣を古代の神域とするものである。

 本当に「紀州熊野宮之由来」が寛政時代に秋田孝季なる人物が、現地を訪れて書いたも のであり、しかも古田氏が推定するように当時、猪垣が実用されていたというのなら、な ぜ孝季はそのことを書こうとはしなかったのだろうか。

 もっとも、もしも「紀州熊野宮之由来」で石垣が茫々とした姿で描かれていたら、古田 氏はどのように説明しただろう。案外、石垣の絵が空想で書かれたものではなく、秋田孝 季が、現在と同様のリアルな情景を描いたのだと主張したかも知れない。石垣の絵が整然 としていようが、茫々としていようが、実景の証拠だという理屈は後からつけられるもの なのである。「ああ言えば上祐」という古い流行語を思い出してしまった。

 Dについて、野村氏の論文には、猪垣を「徹底的に調べれば、まだ延びるかも知れない 」とする箇所はあるが、長さについては「総延長六〇キロ」「約六〇キロ」とするのみで ある。「十五里(六〇キロ)以上」という表現は古田氏が野村氏の論文から敷衍したもの であり、論文そのものに出てくるいるわけではない。野村氏の論文にさえ存在しない表現 が「紀州熊野宮之由来」にないからといって、それがいったい何の証明につながるという のだろう。それどころか、Dの論点は「同一の石垣を調べたのだから数値の一致はおかし くない」というCの論点と矛盾している。「十五里(六〇キロ)以上」と「十五里」では 「数値の一致」を言い出すわけにはいかないではないか。古田氏は各論点ごとに自分が展 開する論旨に都合よく、野村氏の論文を読み変えているのである。
「以上」を「ズバリ」に縮小するいわれはないというのも、古田氏の好みの問題にすぎな い。和田家文書の真の作者が細かい数値を気にしない性格であることは、たとえば秋田孝 季の年齢の矛盾などからもうかがえる(この点、別稿でくわしく論じる)。

 Eについて、「紀州熊野宮之由来」には「石垣、土垣」と並記する表現はあるが、実際 にくわしく描写されているのは石垣のみである(「長蛇の如き石垣」「熊野山中十五里の 石垣」)。古田氏のいう重層的な注目の仕方は、「紀州熊野宮之由来」全体をつらぬくも のではないのである。これは石垣については野村氏の論文というタネ本があったのに対し て、土垣の方は筆の勢いで書きそえたものにすぎないからではないのか。

 実際には熊野の猪垣には土塁の部分はない。やはり野村氏が調査したことのある奈良県 生駒市の猪垣には土塁の箇所があり、野村氏によると、そのことは和田氏に生駒の猪垣の 写真を送った際、説明として書きそえたことがあるという。和田氏がその説明をうろ覚え のまま「紀州熊野宮之由来」を書いたため、熊野にはないはずの「土垣」のことまで書い てしまったということは十分ありうる。

 Fについて、そもそも野村氏の論文は特定の宗教教義について説こうとするものではな いのだから、これを宗教思想として論じること自体が無意味である。

 それに古田氏は「紀州熊野宮之由来」には、市浦村版『東日流外三郡誌』以来の「宗教 思想にもとづく展開」があるとするが、『東日流外三郡誌』完成は文政六年(一八二三) とされており、「紀州熊野宮之由来」が書かれたとされる寛政七年より二八年も後のこと なのである。

 古田氏がいうように、そこに宗教思想の展開があるとすれば、それは七五年の市浦村版 『東日流外三郡誌』発刊から八七年の『総輯東日流六郡誌』刊行までの間としか考えられ ない。また、古田氏はその宗教思想の展開を説明するため、「(市浦村版『東日流外三郡 誌』の大自然崇拝、石神崇拝といった)その宗教思想はもちろん、『北方新社版』にもう けつがれている」と述べているが、この文の意味は、北方新社版で新たに増補された箇所 にも市浦村版と同じ思想が受け継がれているという意味にしかとれない。

 つまり、古田氏は実は和田氏が事実上の作者であることを前提に和田家文書の宗教思想 を論じてしまっているのである。古田氏もとんだところで馬脚を現したものだ。

 古田氏が、和田家文書の宗教思想をいかに「深く、かつ鋭い」と賞賛しても、それは、 つまるところ古田氏個人の信仰を告白しているだけであり、古代なり近世なりの歴史的事 実とはなんら関係ない。
「半田『鑑定書』に対する批判」における宗教思想の重視は、古田氏の和田家文書擁護が 信仰的なものであり、実証主義とは反する立場にあることを示している。古田氏には、資 料が自ずから語るところを謙虚に読み取ろうとするよりも、自らの信念や先入観に有利な ように、資料を読み変えてしまう傾向がある。そして、それは今に始まったことではなく 、また、和田家文書擁護に限った場合のみでもないのである(高木彬光『邪馬壹国の陰謀 』日本文華社、一九七八、安本美典『虚妄の九州王朝』梓書院、一九九五、他)。

 

 

十五里は60キロに非ず?

 

 仙台高裁判決文はこの六〇キロ問題について、さらに奇妙な論法を展開する。
「『熊野山中十五里の石垣』との記述については、本件論文の六〇キロメートルに及ぶ石 垣という記述と、石垣の長さの点において、一里を三・九二七メートルとして換算すると 約五八・九キロメートルとなり極めて類似するものということができるが、熊野山中の長 大な石垣の長さを江戸時代に書かれたとされる文献において表現するとすれば、自ずと限 られた範囲内での一定の数値を採用するほかはないのであるから、その中で一五里という 数値が採られたからといって、これが控訴人の本件論文の記述に依拠しているものと直ち に推識することは困難である」

 この文を読んで、私は名探偵・神津恭介の次の言葉を思いだした。
「僕は一流の出版社から出ている『新漢和中字典をしらべてみたんだ。・・・ところが、 この本の巻末には、魏の一里は三百歩で四三四・一六メートル、一歩は一・四四七二メー トルだと書いてあった。それを見たとたんに、僕は思わずふき出してしまったがねえ・・ ・魏の代、紀元三世紀−その時代に、一里という相当の長さの距離を測定する場合、セン チの単位まで厳密に割り出せる測定法があっただろうか?一歩の測定が、ミリの次の単位 まで正確に出せただろうか?」(高木彬光『改定新版・邪馬台国の秘密』角川書店、一九 七六)

 ワトソン役の松下研三は神津のこの言に「精密すぎる測定をねらえば、かえって正確さ を傷つけるおそれが生ずる」の言葉で応えている。

 里という距離の単位は時代や地域ごとに変動が激しいが、江戸時代の日本でもっとも流 布していたのは三六町をもって一里とする算法だった。この一町がメートル法に換算する と、約一〇九メートルであり、一里はその三六倍ということで仙台高裁判決文の三・九二 七メートルといった数値が割り出されるわけである。

 鎌倉時代の日本では大里と小里の使い分けがなされていたらしい。その基準は六町を小 里とし、三六町を大里とするものが主だったが、別に五町を一里(小里)とする算法もあ った。北上山系の旧南部領では江戸時代になっても、五町を小路一里、小路七里(三五町 )を大路一里とする算法が用いられ、街道の一里塚も「七里塚」と呼ばれていたという( 大友幸男『江釣子古墳群の謎』三一書房、一九九四)。

 しかし、その後、小里は次第に使われなくなり、里は大里に限られていく傾向があった 。江戸時代、幕府が整備した街道には三六町を一里とする算法に基づいて一里塚が置かれ ている。とはいえ、幕府の統制は完璧なものではなく、地方によっては、それと異なる里 単位も用いられていた。先に旧南部領の三五町大路一里の例を見たが、他にも三八町里、 四八町里、五十町里などがあったという。

 全国一律に一里三六町と確定したのは明治二年十一月であり、その年のうちに諸道行程 の測量をすませるよう明治政府の民部省から各府藩県に通達された(小泉袈裟勝『歴史の 中の単位』総合科学出版、一九七四)。

 一里三六町は整備された街道をふつうの足どりの旅人が一時間ほど歩いた距離であり、 一休みするにはちょうどよい頃合である。

 里という単位は、地球の大きさを当初の基準としたメートルとは異なり、当時の人々の 生活に密着したものだった。幕府の公法以外の里単位が生き延びていたのも、それがそれ ぞれの土地での生活にもっとも便利な単位だったからである。

 生活に密着した度量衡の単位には、それゆえのアバウトさもある。そこに現在のメート ル法と同様の精緻さを求めてもナンセンスなのである。

 このように述べていくとますます十五里=六〇キロメートルとは限らないと早合点する 人も出そうだが、それは違う。

 一里という単位にアバウトさがともなっているからこそ、それをメートル法に置き換え る場合、四キロメートル一里という概数が便利なのである。実際問題として、一里はメー トル法でどれくらいかと問われた場合、いきなり三・九二七メートルと応える人がいるだ ろうか。仙台高裁判決文の計算は常識から遊離した数字の遊びとしか思えない。
「その中で一五里という数値が採られたからといって、これが控訴人の本件論文の記述に 依拠しているものと直ちに推識することは困難である」という回りくどい表現を簡潔に言 い直せば、一言、偶然の一致かも知れない、ということである。

 しかし、前述のように和田家文書に野村氏の論文に基づくとおぼしき表現が頻出してい る以上、ここだけを偶然の結果と片づけるわけにはいくまい。このような一致に証拠能力 がないということになれば、裁判の場で最終的に認められる証拠は自白のみということに なりかねない。それはかえって冤罪多発への道であろう。

 

 

『東日流外三郡誌』は長大な史書か?

 

 仙台高裁判決文は、和田家文書の真贋問題には判断を留保するとしてるが、「偽書説の 根拠として主張されている点と、これに対する被控訴人和田の対応、反論とを対照して、 本件各証拠上の裏付の有無を検討すると、右偽書説にはそれなりの根拠のあることが窺わ れる」としており、偽書説に分があることを認めている。

 また、仙台高裁判決文では和田家文書の作成に野村氏の論文が参考とされた可能性を認 める記述が各所に見られる。たとえば、
「東日流耶馬台城跡」については「本件論文にヒントを得たという余地はある」
「耶馬台城之大秘道しるべ」については「本件論文中の控訴人が本件石垣の存在を聞き及 んだ経緯の記述との部分的な類似性は否定できない」
「耶馬台国之崇神」については「右記述は本件論文にヒントを得たと見る余地はある」
「東日流往古之謎史跡尋抄」については「飛鳥山についても本件論文にある飛鳥神社に名 を借りたと解するのは根拠が十分ではなく、仮にそうであるとしても、それは控訴人の思 想、感情の表現とは無関係の事柄である神社の名称にヒントを得たに止まる」
「紀州熊野宮之由来」については「本件論文にある本件石垣に関する神域説と右記述の類 似は否定できない」「これが熊野宮に関する前記記述のヒントとなっていることは考えら れる」
 という具合である。

 仙台高裁判決文では、これらはいずれも翻案ではなく、著作権侵害とまでは言えないと している。

 前述のように「東日流耶馬台城跡」などは、野村氏の論文のまったくの翻案としか思え ないものであり、その点では不当な判断といわずにはおられないが、それでもなお、仙台 高裁も和田家文書を、和田氏らが主張するような古写本としてではなく、現代人の創作と みなして審理をすすめたことが、これらの記述からうかがえるのである。

 さて、仙台高裁判決文にはさらに次のような記述がある。
「『東日流外三郡誌』全体と本件論文とを対比して検討するとしても、前者は長大な史書 の体裁をなすものであるのに対して、後者は本件石垣の調査結果の報告論文である点で全 く異なる上、前者が古代日本に存したとされる邪馬台国及び邪馬台城の石垣に関するいわ ば伝説的な記述であるのに対し、後者は熊野地方に存する石垣の客観的な性状を探究して それが構築されるに至った理由、過程を学問的に探究しようとするものである点において も全く異なるのであるから、全体的な対比においても、著作物としての同一性を肯認する ことは到底困難であり、結局、前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分がある という程度に止まるというべきである」

 この判断は、青森地裁判決の内容を受け継ぐものであるが、そもそも『東日流外三郡誌 』は「長大な史書の体裁をなすもの」といえるだろうか。

 実際に刊本などで読んだことのある方なら御存知だろうが、『東日流外三郡誌』も含め 和田家文書は、小説でいえば短編やショートショート程度の長さの独立した文書の集積で あり、文書ごとの矛盾も多くて、一貫したストーリーを見出すにはなかなか骨の折れるシ ロモノである。

 したがって和田家文書における盗作、翻案の問題を論じるには、その個々の文書をこそ 対象とするべきなのだ。

 

 

和田喜八郎は世界的大作家?

 

 なお、従来、和田家文書偽書説の立場から、和田喜八郎氏の創作能力を高く評価する論 者もあった。
「和田喜八郎氏はテレビの時代劇作家になっておれば多分大成功を収めたと思う。毎回、 奇想天外なストーリーを創作して、全国の時代劇ファンを魅了したはずであるから」(小 松格「『東日流外三郡誌』論争に思う」『季刊邪馬台国』五二号)
「この壮大な偽書とこれだけの偽書をつくりあげた作者の情熱には賛嘆しました。これだ けの才能と情熱に恵まれていれば贋作ではなくオリジナルな作品を創造できるのではない かとおもいました」(森村誠一「編集部・編集者への便り」『季刊邪馬台国』五五号)

 そのため、和田家文書を擁護する立場からは次のような意見も出てくる。
「和田喜八郎さんもったいないと、あの津軽にうずもらしておくのが。世界的なすごい大 小説家やないですか。あんなすごいことを書ける人ね、偽作にしてはすごすぎる。それが 第一印象なんですよね。全部あの人が一人で考えてやったらね、あんなことちょっとでけ んで、と思うんですね」(「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第一集)

 実際、和田氏がある種の才能にめぐまれているのは確かだが、それは作家としての成功 を約束する性質のものではない。

 和田喜八郎氏には断片的な思いつきを羅列することはできても、それを長い文章にまと めるための構成力が欠如している。

 また、文体には文法的におかしなところや、文意の通じないところが多く、一気に書き とばしたものであることがうかがえる。さらに、そのことは和田喜八郎名義で発表された エッセイにも共通しているのである。

 すでに一九八七年の時点で、松本弘洲氏は次のように指摘した。
「外三郡誌の文章は、確かに“拙劣”である。文章ばかりではない。津軽書房巻の絵巻に ある絵も“拙劣”である。外三郡誌本文と同じような“拙劣”な文章は、現代人・和田喜 八郎氏の文章にもみられる」「和田喜八郎氏の文章は、分るようで分らない。和田喜八郎 氏の文章は、主客がしばしば転倒しており、実に外三郡誌本文の、下手な文章と酷似して いる」「私はたびたび外三郡誌執筆者の国語能力が低いことを述べて来たが、単に国語能 力が低いのではない。これは、酒を飲んで、酔っぱらいながら書いているのだ。すべての “お話”を津軽中心に書きたいという欲求が、酔っぱらうと同時に突き上げて来るものら しい」「この国語能力の低さ、酔っぱらって書いたと思われる“千鳥足的文章”からは、 戦後の昭和人であったことも十分に考えられるのである。なぜなら、戦後にならなければ 知ることの出来ない“情報”もあちこちに見られるからである」(松田弘洲『東日流外三 郡誌の謎』あすなろ舎、一九八七)

 この文中では、津軽書房版『東日流六郡誌絵巻』の絵も松田氏の槍玉に挙げられている が、その編者・山上笙介氏は和田氏の著書『東日流蝦夷王国』の編集にもたずさわってい た。

 山上氏は、和田氏名義の著書と和田家文書双方を扱った経験から、和田氏の文体は「奇 妙・難解・独善・晦渋をきわめて、内容もまた荒唐無稽」であるとし、さらに和田家文書 についても、次のように述べる。
「かなり若い頃から書いていたらしいから、和田氏には書ける能力がありますよ。それに 『東日流外三郡誌』なとはみな、文字や文書が、きわめて粗雑で、用語や文法を気にしな い、書き飛ばし、たれ流し式の書き方です。一巻をつくるのに、たいした時間は必要とし ないはずです」

 郷土史家として、和田氏および和田家文書に関わってきた三上強二氏もまた、次のよう に指摘する。
「『和田家文書』は、喜八郎氏が書いているものだ。“和田喜八郎には書けない”という 人もいるが、器用で歴史的な知識もあるので、あの程度は書けると思う。“それはおかし い”と指摘すると、説明がコロコロ変わったり、関係ないものを持ち出したりと、論理に 一貫性がないことも確かだ。また、以前に自分が何を言ったか忘れてしまって、次には違 うことを言うような、ちょっと抜けたところがあるようで、『東日流外三郡誌』にも、そ の傾向が見られる。ともかく、『東日流外三郡誌』という書名はもともとなかった。その 意味ではそれ自体が“史書”ではなかったはずだ。問題はそれが“史書”として扱われた からで、もし“創作物”あるいは“物語”として世に出され、それで通ったならば評価は 別だったと思う」(山上氏、三上氏のコメントとも、『だまされるな東北人』より。なお 、三上氏は市浦村版が出る前に和田氏提供の写本を見たが、その時点では、後に『東日流 外三郡誌』と呼ばれるものに「安東文書」なる表題があったという)。

 和田氏と直接関わった経験のある人の間からも、和田氏名義の文章と、和田家文書の文 章に共通の拙劣さがあること、和田家文書程度のものなら、和田氏にも十分書くだけの能 力があることを認める証言が出されているのである。

 では、なぜ、上岡氏のように、和田家文書の文芸的価値を過大に評価してしまう論者が 後を絶たないのであろうか。

 一つには、和田家文書、『東日流外三郡誌』の名を知る人々の間でも、その実態まで知 る物は少ないということがあるだろう。噂には尾鰭がつくものだから、噂だけで知る相手 を過大評価してしまうということは、人間には有りがちである。また、世間には、正確な 情報をつかんでいない事柄についてもコメントしたがる人、あるいはコメントしなければ ならない立場の人がいる。そうした人々の存在が話をますます混乱させるというのは、昨 今の事件報道を見ても感じるところである。
『東日流外三郡誌』の場合には、佐治芳彦『謎の東日流外三郡誌』(徳間書店、一九八〇 )、吾郷清彦・鹿島昇・佐治芳彦共著『日本列島史抹殺の謎』(新国民社、一九八二)、 佐藤有文『津軽古代王国の謎』(サンケイ出版、一九八五)、古田武彦『真実の東北王朝 』(駸々堂、一九九〇)、市民古代史の会編『津軽が切りひらく古代』(新泉社、一九九 一)、歴史マガジン文庫『北方の楽園みちのくの王国』(KKベストセラーズ、一九九二 )などの一般向け解説書や、『ムー』『ゴッドマガジン』『歴史読本』『歴史Eye』な ど大部数の雑誌での特集記事があり、そうした二次資料の流通は市浦村版、北方新社版、 八幡書店版の各刊本の発行部数の合計をはるかにしのいでいる。推理小説やSF小説、劇 画の題材にもなったし、テレビでも何度もとりあげられた。

 そのため、『東日流外三郡誌』に関心を抱いた人々の多くは、内容を体系的に整理した 上に面白い箇所だけを膨らませ、時には報告者が新たに創作した話までつけくわえた二次 資料だけからイメージを作ることになり、実物がいかに杜撰で平板なシロモノかを知らさ れないままに措かれてしまった。

 そして、いったん二次資料で『東日流外三郡誌』のイメージを形成した人が、刊本など を見る機会に恵まれても、先入観に邪魔されてその杜撰さ、平板さに気付かない、という ことも起こり勝ちだったのである。

 また、知識人・読書人が陥りやすいワナとして、自らの情報収集力や知的能力に自信の ある人ほど、それまで初耳だった話や、それまで空想も及ばなかったような話が出てくる 本を過大評価してしまうということがあげられる。それが実はすでに一部では知られてい る話で、たまたまその類の本と出会う機会がなかったなどとは、なかなか考えつかないの だ。この種の傲慢さと無知への鈍感さの蔓延につけこんで、成功した最近の例としては『 神々の指紋』のベストセラーが挙げられるが、『東日流外三郡誌』もまた同様の心理につ けこむことで知識人・読書人の一部から過大な評価を得ることになったのである。

 長山靖生氏は『歴史読本』読者投稿に「記紀では曖昧すぎて謎だらけの内容も『東日流 外三郡誌』では確かに辻褄が合う、だから信憑性が高いと考える」という内容のものがあ ったことを例に引き、次のように述べている。
「辻褄が合うのは、現代的解釈に合わせて史料を捏造しているからだ、と思わないところ が実にこの人の素直なところだろう。・・・こういう史料(?)はなにしろ面白いからつ い使いたくなってしまうのがマニアの哀しいところだ」(長山「歴史は投稿で作られる」 『別冊宝島406・投稿する人々』一九九八年十月、所収)。

 さらに、和田家文書の場合には別の要因がからみあう。それは、和田家文書が創作物と してではなく、歴史資料を擬態する形で世に出たということである。

 

 

「史料」への擬態

 

 岩村忍は歴史と歴史文学の違いについて次のように述べる。
「文学に歴史的題材を使用することは当然であろう。文学と歴史の間にはかなりの親近性 が存在するが、しかし、文学と歴史との相違もまた存在する。歴史においては“疑わしき は闕く”(『論語』)ということがいわれている。資料批判に耐え得ないことは歴史的事 実とは認められないから、歴史家としては使用できない。一つの歴史的事実と他の歴史的 事実との関連が証明されない限り、歴史家は疑問として残しておく以外はない」「しかし 、いわゆる歴史をテーマとする文学は、歴史とは異なる。歴史では“疑わしきは闕く”こ とができる。しかし、文学では空白や断絶は許されないであろう。歴史は全体としては連 続と見なされるが、部分的には空白があってもやむをえないのである。ここに歴史と歴史 文学との分かれ道があるといえよう」(『歴史とは何か』中央公論社、一九七二)

 歴史の空白を埋めるところに、文学者の腕の見せ所がある。史料が示す歴史的事実に空 想をまじえ、しかも全体を破綻させないというところに文学者の構成力が現れる。それで は、本来なら歴史文学として発表されるべきものが、「史料」そのものを擬態すればどう なるだろうか。

 その場合、「史料」であるとの自己主張が、作家としては致命的な欠点である構成力の 欠如を隠蔽してしまう。

 創作には許されないはずの空白や断絶について、ごまかしがきくどころではない。こう なると、空白や断絶の存在がかえってそれにより一層、「史料」としてリアリティを与え てしまう。それはたとえば次のような、和田家文書擁護論を見れば、明らかだろう。
「(『東日流外三郡誌』の)断片記録を理解可能な状態に再構成するのはほとんど困難と いっていい。おびただしい重複、文字使用の相違、虫餐い、年代誤差ありで、簡単に比較 考証を許さないためであるが、その側面ではかえってこうした状態が迫真力ある魅力をも たらしていることも事実である」「私には、単なる妄想でこのような書が録されたとは考 えられない。もちろん偽書ではない。偽書の第一条件は整然と、いかにも本物のように意 図的につくることにある。谷川氏は拙劣な文ときめつけるが、私は逆に拙劣だからこそい たるところに真実が秘められているとみる」(佐藤鉄章『検証二つの邪馬台国』徳間書店 、一九八六、文中「谷川氏」とは民俗学者の谷川健一氏のこと)
「『東日流外三郡誌』には、明治時代でなければ知りえないような知識や用語で加筆・修 正された痕跡もあり、素人目にも偽史くさい本と言えます。しかし、私はそのあまりにも 幼稚な加筆・改変ゆえに本物ではないかと思っています。写本を作る度に、その時代の新 しい知見を書き加えずにはいられない、そんな情熱の迸りがそうさせたのであって、偽書 を作ろうとする意図はなかったのではないか」「『東日流外三郡誌』にはアラハバキ神の 出自については三十くらい違った説が書いてある。おそらく編者である秋田孝季や和田長 三郎は、古代津軽について取材した話を博物学的方法で、真贋の吟味なしに全部並べたの でしょうね。偽史をつくるのであれば、もっと整然と合理化した形にするのではないでし ょうか」(奥野健男「日本文化の原風景」『歴史読本臨時増刊』五四二号、一九九一年三 月、所収)
「津軽地方に『三郡誌』と共通する内容をもつ伝説は多い。また、作者が意図的に『三郡 誌』の中に多くの矛盾を設けたとも思えない。一人の人間が幅広い伝承を集めた大部に及 ぶ『三郡誌』を創作することは不可能であろう」(武光誠『日本誕生』文藝春秋、一九九 一)
「(『東日流外三郡誌』を)編年体で書いていないというのもおかしいですね。いろんな ところにめちゃくちゃに出てくるんですよ。普通の人はあれを読んだときに絶対違和感を 覚えますよ。きちんとした偽書を作るつもりなら、あのデータで長髄彦の生涯をちゃんと 書いたはずなんですよ。だからかえって真実味が感じられるんですが、もしそこまで計算 して書いたとすればすごいもんですね。古田武彦さんがあれを信じちゃったのもそういう 部分ではないでしょうか」(高橋克彦・南山宏『超古代文明論』徳間書店、一九九七、よ り高橋氏の発言)

 ここまでくると、構成力の欠如はもはや和田氏の欠点ではなく、長所の一つといっても よさそうだ。しかし、構成力の欠如がかえって長所になるような作家が「世界的なすごい 大小説家」であろうはずもない。

 構成力の欠如をいかに隠蔽するか、そうしたテクニックは、たとえば怪奇実話作家の多 くが無意識に用いているところでもある。唐沢俊一氏は次のように述べる。
「小説というものが作者の意図する方向へ常に向かうものだと思っているなら、大間違い なのですぞ。あれほど手綱をとるのが難しいものは他にないのだ。作者に力量がなかった 場合や、構成のちょっとした計算違いで、アッという間に作品はあさっての方角へ突っ走 っていってしまう」「ノンフィクション・ライターが小説を書くと、どうもヘンテコなも のができあがることが多い。彼らはどうも、フョクションにおけるリアリズム性というも のに対し、安直な考えをもってしまうらしいのだ。彼らオカルト・ライターの書いたこと が、たとえどんなヨタであっても信じ込んでしまう読者が多いのは、それが“本当にあっ た話”というカンバンを背負って活字になるからだ。最初から、読むほうの目にフィルタ ーがかけられているのである。彼らはそのカンバンにかなりの部分、寄りかかっているこ とを自分で忘れてしまっている。これがフィクションとして発表された場合、事情はまっ たく異なるのである。一般の作家たちが自分の作品にリアリズムを持たせるためにどれほ ど苦労しているか、こういう人たちは知りもしない」(と学会編『トンデモ本の逆襲』洋 泉社、一九九六)

 この唐沢氏の発言を別の角度からみれば、「実話」というカンバンは、文学作品として の構成力の欠如を覆い隠す恰好のフィルターとなりうるということだ。

 和田家文書の場合は、古写本の体裁をとることにより、「史料」のカンバンという、単 なる「実話」以上に強力なフィルターがかかっているのである。

 和田家文書の文芸的価値を過大評価する論者は、自らの目にかけられたそのフィルター に気付くことがなかっただけなのだ。

 もしも、和田家文書が当初から、現代人の創作として公表されていたなら、それはただ 黙殺されるだけだっただろう。

 しかし、だからこそ、和田氏は自らの作品を、「史料」と偽って付加価値を与え、商品 化するという手法を編み出したのである。むしろ、その手法にこそ、和田氏の真の才能が 開花しているのかも知れない。
『季刊邪馬台国』五一号の特集記事は、和田喜八郎氏による和田家文書偽作の三つの動機 として、「経済的動機」「反体制史観」と共に、「創作欲」を挙げ、次のように指摘して いる。
「和田喜八郎氏の本は、ふつうの学者、小説家の本などより、はるかに豪華な本として刊 行されるようになった。描いた絵も、立派な形で印刷された。古田武彦氏らの学者も、ほ んとうの“古文書”としてみとめはじめた。さまざまな図書、雑誌、そしてテレビでも紹 介されるようになった。かくて、創作欲が刺激されることとなった」

 

 

「翻案」と盗作

 

 さて、海外作品を翻案し、自作として発表することは日本の小説家、漫画家、脚本家な どの間では慣習的に行われている(最近では、逆に海外の作家が日本の作品を翻案するケ ースも出てきており、たとえば、ディズニー映画の『ライオンキング』は手塚治虫の『ジ ャングル大帝』の盗作ではないかということで日米双方の話題となった)。

 巨匠と呼ばれる作家の作品にもそのような例は多く、八七年には、現代日本を代表する 推理作家の一人が、プロスペル・メリメ『イールのヴィーナス』(一八三七)を、出典を 示すことなく翻案し、自作短編集に掲載するどころか表題作にまでしてしまったケースが ある。もちろん『イールのヴィーナス』の著作権はすでに消滅しており、著作権上の問題 はないのだが、作品のオリジナリティを尊重する立場から言えば、盗作といわれても仕方 あるまい。しかし、それよりもっと深刻な問題は、この大家の盗作まがいの翻案が、日本 の読書人の間で、まったく問題視されなかったということ自体にこそあるだろう。

 もっとも翻案と盗作は同義語ではない。オリジナルとなった作品を明示するか、オリジ ナルがあまりにも有名な作品で読者にも一読で何の翻案とわかるという場合、その翻案作 品はパロディ、あるいはパスティッシュというれっきとした創作形態に属するとみなされ るからである。

 先の『イールのヴィーナス』の場合、翻案者にはそのような配慮はなかった。そして、 和田家文書については、そもそも翻案した人物がその作品を古写本だと言い張っているの だから、自らの翻案を認めるはずはないだろう。

 それはさておき、ある作家の短編集の中に翻案作品が入っていて盗作問題へと発展した 場合、その作家が同じ本の中の他の作品がオリジナルなのだから、盗作問題は存在しない などと主張すれば、相手はどのように対応するだろうか。屁理屈以前と一蹴するのがオチ だろうし、世間もそれを支持するだろう。

 和田家文書も小説本でいえば短編集やショートショート集と同じ扱いで考えるべき文献 なのである。

 仙台高裁では、実際の和田家文書がどのような体裁か、よく理解することなく、「長大 な史書の体裁をなすもの」と誤認したまま判決を下してしまったのではないか。

 また、海外小説などの翻案の場合、舞台を日本なり架空の国に移し、それにともなって 人名や地名の書き替えを行うということもよく行われる。その伝でいけば、和田家文書が 語る津軽の耶馬台城(架空)そのものが、野村氏の調査した熊野猪垣(実在)の「翻案」 なのである。
『広辞苑』では「翻案」について、「前人の行った事柄の趣向を変えること」とある。野 村氏の論文の客観的な記述と、和田家文書の伝説的な記述とでは語り口が異なるから、両 者の間に翻案関係がないなどとはいえない。むしろ、そのように同一内容を描写するのに 語り口を変えるところにこそ、盗作者による翻案の腕の見せ所があるはずだろう。

 仙台高裁は「前者(和田家文書)には後者(野村氏の論文)の記述にヒントを得たと見 られる部分がある」と認めながら、和田家文書の体裁を「長大な史書」と誤認し、さらに その一部であるが故に「東日流耶馬台城」が野村氏の論文の翻案であることを否定する。 この裁判における青森地裁、仙台高裁の著作権侵害に関する原告側請求の棄却、最高裁の 上告棄却は、一般の市民が常識的、日常感覚的に有している「翻案」「盗作」の概念と裁 判所の法的解釈の間との乖離を示すものである。

 一般市民的感覚での「翻案」「盗作」と、法律上の「翻案」「盗作」の判断に食い違い があるとすれば、その食い違いをこそ明らかにしなければならない。最高裁は「一切の法 律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所 」(日本国憲法第八一条)なのだから、法律上の判断そのものを問題にするべきであった 。野村氏側の上告をただ単に「著作権侵害とまではいえない」としりぞけるのではなく、 なぜ侵害とまではいえないかを、説明するべきだったのである。

 また、この事件が著作権法上の「翻案」の解釈だけではなく、歴史的文書の偽作という 問題について、現行法の不備を認識するための貴重な実例だったこともまた考慮されるべ きであった(前掲「歴史偽造は許されるべきか」参照)。

 今後、類似の状況で不正と闘わなければならなくなった人々を守るため、また、今後、 類似の問題で、法律上の解釈に関する不要な訴訟を少なくするためにも、関係者の再考を うながす次第である。

※参考図書
  『だまされるな東北人』
     −『東日流外三郡誌』をめぐって−

帯コピー :東北人の誇りをくすぐり、二十数年間も東北 の人々をだまし続けた未曾有の「偽古文書事件」。だます とは?だまされるとは?多角的検証からその真相に迫る。

        千坂げんぽう=編著
   谷川健一・浅見定雄・斎藤隆一・小野寺永幸
   豊島勝蔵・三上強二・山上笙介・安部義雄
   佐藤秀昭・熊谷充夫・渡辺清文

  四六版並製・296ページ・本体1800円+税
      1998年7月10日初版発行
 版元=本の森(仙台・TEL.022−712−4888)
 

 

 

                      1998,10  原田 実