書評シリーズ第2弾『絵地図の世界像』

 

『絵地図の世界像』
応地利明著・岩波書店・1996年12月20日発行・新書版(岩波新書)・227頁
初版本体価格631円

カバー見返し惹句:中世の日本図に描かれた架空の陸地「羅刹国」と「雁道」。信仰世界
の描出としてくり返し作成された仏教的世界図・・・。これら“荒唐無稽”な古地図に託
されたメッセージとは?前近代を特徴づける幾つかの異域を手がかりに、その成立の謎や
変容・消失過程をさまざまな絵地図のなかに読み解き、人びとの世界認識の変遷を探る。


 

 

古地図研究の三つの流れ

 

 最近話題となった英国人作家グラハム=ハンコックの著作『神々の指紋』、そのインチ
キさ加減については、このホームページでもすでに『「神々の指紋」の超真相』(H・ユ
ウム他共著、データハウス刊)への書評
という形で取り上げ、幸い御好評をいただいた。
しかし、あれほどインチキな本がなぜ大ベストセラーになったか、そのことを考えるのは
決して無駄ではあるまい。『神々の指紋』で読者へのツカミとなっているのは古地図の話
である。16〜18世紀に西欧で作られた世界地図で南半球の地理を見ると、そこには当
時、まだ知られていなかったはずの南極大陸(1818年発見)によく似た陸地が描かれ
ている。つまり、これこそ私たちの文明が南極大陸を発見する以前から、その地理知識が
密かに伝えられていた証拠というわけだ。

 この幻の「南極大陸」が実は、空想上の大陸であり、それが実際の南極大陸に似ている
ように見えるのは、読者の気のせい、というよりもハンコックのトリッキーな誘導による
ものであることは『「神々の指紋」の超真相』もしくは私の書評を参照されたい。

 空想上の島や大陸は古地図にはよく見られるものであり、日本や中国においても例外で
はない・・・というわけでその問題に関する恰好の入門書が現れた。それが岩波新書、応
地利明著『絵地図の世界像』(以下、本書)である。

 著者略歴によると応地氏は一九三八年大阪生まれ、専攻は人文地理学、現在の肩書は京
都大学東南アジア研究センター教授とある。

 さて、応地氏によると古地図=絵地図研究には三つの流れがあった。
「第一は地図発達史ともいうべき流れで、最初は“荒唐無稽”であった絵地図が精度を高
めていって、だんだんと現場や生活世界をいかに“正確に”表現するようになっていった
かという観点から、絵地図をあつかうものである。・・・このような視点からの研究には
、近代的な地図ほど“正確”であり、“進んだ”地図であるという暗黙の前提があった。
第二の流れは、失われた過去の景観を復原するための重要資料として絵地図を利用するも
のである。・・・従来、歴史学や歴史地理学は、主としてこの観点から絵地図をとりあげ
てきた。第三の流れは、地図を書物にたとえていえば、ちょうど本が意味のつまったテク
ストであるように、絵地図もまた意味に満ちたテクストであるという立場である。たとえ
絵地図の表現が“荒唐無稽”なものであったとしても、その背後には意味に満ちた描き手
のメッセージが隠されていると考えるのである。・・・第一の流れとは異なって、第三の
流れでは、絵地図は“荒唐無稽”であるがゆえに意味がある、という逆説的なことになる
」(本書、3〜5頁)

 この内、第一の流れを支える「暗黙の前提」は進歩史観が骨の髄まで染み込んだほとん
どの現代人に共有されるものだろう。ハンコックはこの「暗黙の前提」から外れた(かに
見える)データを提示することにより、読者の理性を揺さぶりをかけ、トンデモない世界
に引き込んでいったというわけである。

 また、ムーやアトランチスなどの「失われた大陸」説や太古天変地異説の信奉者もよく
古地図を持ち出す。その場合には、古地図の「荒唐無稽」とされる箇所を、むりやり第二
の流れにそう方法で解釈するわけである。その場合、地図の描き手の所在から余りに遠方
で、とても責任を問えないような遠方の描写までが信用できるものと見なされる。

 しかし「前近代の絵地図の場合には、いわゆる近代的な地図が切り捨ててきた、観念や
信仰にもとづく空間知覚の内容をも図上に表現してきた。その場合には、たとえ表現され
たものが実在するものであったとしても、その表現には観念や信仰による潤色がくわえら
れている」(本書、5頁)

 西欧の古地図にある幻の「南極大陸」は、観念にもとづく空間知覚の典型である。西欧
人はこの観念に惑わされたため、あの巨大なオーストラリア大陸が18世紀まで見えなか
ったのである(それ以前にみつかっていたオーストラリアの一部は長い間、ニューギニア
もしくは幻の「南極大陸」の一部と誤認されていた)。

 つまり古地図を検討するためには、第三の流れにそった知識と方法が欠かせないという
わけだ。そして本書はその第三の流れに立ち、「主としてわが国の前近代をとりあげて、
異域に代表される特異な場所・空間への当時の人々の知覚内容を、絵地図のなかで読み解
いていこうとする」ものである。
『神々の指紋』のようなインチキに二度とだまされないようにするために、本書は必読で
ある。そして、本書を読み終えた時、目前に広がる世界は『神々の指紋』などよりはるか
にスリリングでスケールの大きいものなのだ。

 

「羅刹国」と「雁道」

 

 さて、本書ではまず中世日本に流行した形式の日本地図、いわゆる行基図の中でも特に
「金沢文庫蔵日本図」(14世紀初頭から中頃の時期の作成)に例をとり、その中で日本
列島の周囲に描かれた六つの陸塊に着目する。

 その内、一つには「龍及国」や「雨見嶋」の名が記され、南西諸島を象徴するものであ
ることは間違いない。また一つには「唐土三百六十六ケ国」として、中国であることが示
され、また他の一つには「高麗ヨリ蒙古え・・・一称八百国」とあって、朝鮮からモンゴ
ルにいたる国々を示すことがわかる。また、一つの陸塊はまったく無名である。

 さて、残る二つの陸塊にはそれぞれ次のように示されている。

「雁道雖有城非人 新羅国五百六十六国」
「羅刹国 女人華来人不還」

 本書28〜59頁では、『今昔物語集』に基づいて「雁道」「羅刹国」という二つの国
名の謎解きが行われる。なかなか面白いので本書をぜひ読んでいただきたいところなのだ
が、結論をいってしまうとどちらの名もインドを舞台とする説話に起源が求められるとい
う。「羅刹国」にいたっては、『今昔物語集』の説話のさらに原典となった『大唐西域記
』巻十一の説話では、南天竺からはるか南方の大島とされ、仏典をも参照すると現代のス
リランカ、すなわちセイロン島にあたるらしい(本書34〜35頁)。

 応地氏は特に指摘していないが、このことは古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』で、
ラクシャサ(鬼族。仏典にいう「羅刹」)の支配する島とされるランカが伝統的にセイロ
ン島と同一視されていることと無関係ではないだろう。そもそもスリランカ(=聖なるラ
ンカ)という現在の国名も『ラーマーヤナ』のランカに由来しているのである。

 羅刹国のモデルがセイロン島に特定できるかどうかは別にして、インドの説話に登場す
る国が日本列島とあっさり隣接しているはずはない。雁道にしても同様である。そう言え
ば、古地図から古代史を解くという類の本の中に、この雁道のことを北海道だとしている
ものがあった。その本の著者は、古地図について頭の痛くなるような解釈を行い、えらく
破天荒な古代史像を描き出す人物だったが、その彼も本書を読めば、少しは考えを改めて
くれるだろうか(改めないだろうな、おそらく)。

 それはともかくとして、本書により、中世日本人の地理認識はインドに隣接すべき国を
日本列島のそばまで引き寄せてしまったことが明らかにされた。応地氏はこの二つの国が
描かれた理由について、それらが説話の中で「人間の形をした異類」の住む国とされてい
ることに注目する。

 そして、中世日本人の空間観念、<中心−周縁−境界−異域>という配列が<浄−穢>
の体系と対応しているという中世史研究物たちの指摘を踏まえ、「異形の人間」の住まう
異域のさらに外側に「人形の異類」の住む仮想的な異域が設定されたとするのである(本
書60〜66頁)。

 

二つの混一彊理図

 

 羅刹国、雁道を書いた地図で14世紀以降となると、日本製では16世紀中期のものが
現存するに過ぎない。しかし、行基図は日本国内のみならず、海外にも流れて地図作成の
ために利用された。そのため、この2世紀半の空白を埋める上で朝鮮や中国の地図が役に
立つという(本書84頁)。

 またイタリアのフィレンツェ博物館にはポルトガル語で説明が書かれた16世紀の日本
地図があり、そこにも「女人だけで男はいない」陸塊(羅刹国)と「鳥の道」という陸塊
(雁道)が描かれている(本書116〜119頁)。

 さて、行基図を参考にしたと思われる地図の中に、1402年、李氏朝鮮の廷臣・権近
の題跋を付せられた世界図二点がある。すなわち「混一彊理歴代国都之図」(京都・龍谷
大学蔵、以下、龍谷図)と「混一彊理歴代国都地図」(島原市本光寺蔵、以下、本光寺図
)である。これからしばらく本書の論旨を離れ、この二点の地図について述べたい。

 龍谷図はかつて邪馬台国畿内説の論拠の一つとされてきた。龍谷図では、日本列島は南
北に細長い島国として描かれた上、九州島や琉球を北にして、本州島は南に南にと伸びて
しまっている。しかも、行基図では日本列島の南方にあるはずの羅刹国は西方、雁道は東
方の島となっている。つまり龍谷図の日本列島はほぼ90度、傾いてしまっているのであ
る。

 さて、邪馬台国問題の基礎史料といえば『三国志』東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝
だが、その中では、倭の女王の都する邪馬台国は、北部九州の国々から南方にあることに
なっている。邪馬台国畿内説にとってはその点がネックとなるわけだが、ここで龍谷図が
光をもたらした。つまり、古代中国人は本来、九州から東方に伸びるべき日本列島の地理
を南方に伸びると誤って認識していた。したがって魏志倭人伝に「南」とあるのは東のこ
とであり、邪馬台国は北部九州から見て東方にある畿内で問題はない。龍谷図の傾いた日
本列島は古代中国人の地理認識のなごりである。15世紀にさえ誤っていた日本列島の地
理をどうして3世紀の邪馬台国の時代、正しく理解していたということがあろうかという
わけである。

 そこには地理的認識は時間の経過と共に一方的に進むものだという進歩史観が「暗黙の
前提」となっている。和歌森太郎や肥後和男といったアカデミックな研究者によって説か
れたこともあり、この説は戦後の邪馬台国研究に大きな影響を与えた。

 また、龍谷図は畿内説以外の論者、たとえば出雲説や阿波説などの論者からも自説の根
拠に利用されることになる。つまるところ、邪馬台国問題がらみで龍谷図を珍重した人々
は、魏志倭人伝にある「南」が本当の南であっては困る人々だったというわけである。

 さて、龍谷図は長らく中世の中国・朝鮮人の極東地理を示す代表的な地図とされていた
。ところが1980年代末、弘中芳男氏によって本光寺本の存在が好評されてからは、龍
谷図の評価はまったく変わってしまった。本光寺本の日本列島は九州島から東に伸び、中
部地方のあかりからは東北に湾曲している・・・つまり、九州・四国・本州の3島に関す
る限り実際の日本列島の形状をリアルに描いたものだったのである。

 名称の類似からも題跋を同じくするところからも両者の地図がルーツを同じくすること
は明らかだ。では、どちらの地図がより原形に近いのだろうか。

 ここで注目されるのが、日本列島周辺にある島々である。応地氏は『海東諸国記』(1
471年、申叔舟撰進)所載「海東諸国総図」が龍谷図系統の地図を基本として作られた
ことを考証している(本書84〜103頁、ただし「海東諸国総図」の日本列島は九州島
から真東に伸びている)。

 その中で応地氏は「海東諸国総図」で日本列島周辺にあるとされる扶桑、瀛州、女国、
三仏斉、大身、勃楚、支、黒歯、勃海、大漢、尾渠の11島について、「いずれも聞きな
れない島名であり、いわば架空の島々といってもよい」と述べている(本書98頁)。こ
れらの島々はいずれも龍谷図では日本列島に隣接して描かれている(本書101頁参照)
。ところが本光寺図では、扶桑、瀛州、女国は日本列島のすぐ東方、三仏斉、大身、勃楚
、支、黒歯、勃海、大漢、尼渠(「海東諸国総図」の尾渠)が琉球ほぼ東方の羅刹国より
もさらに南方の海上に描かれているのである。

 これらの島々の内、「瀛州」は神仙伝説上の神山である。また、「黒歯」は魏志倭人伝
、「扶桑」「女国」「大漢」は『梁書』扶桑国伝と中国正史にも記載された国だが、現在
の地図上のどこに該当するかは判定困難であり、実在を疑う説すらある。

 しかし、この中に間違いなく実在した国がある。それは「三仏斉」である。三仏斉国に
ついては『宋史』『明史』に伝があり、趙汝活撰の『諸蕃志』(1225年)にもその名
を見ることができる。三仏斉はシュリヴィジャヤの音写であり、スマトラ島を拠点にマラ
ッカ海峡を支配した海洋国家だった。

 応地氏も羅洪先撰『広與図』(1561年)で大漢、尼渠、黒歯、支、瀛州、扶桑が「
東南華夷図」に記載されているのに対して、三仏斉、勃楚、大身が東南アジア以西を対象
とする「西南華夷図」の南端にジャワなどと共に記載されているとして、「つまり『広與
図』では、東アジアと東南アジアの二つの図に分かれて描かれていたこれらの島々が、龍
谷図では本州島の太平洋側にまとめて記載されているのである」とする(本所104〜1
05頁)。

 つまり、本光寺図では日本列島南方の島々と東方の島々がきちんと分かれ、三仏斉の所
在もほぼ妥当な位置にあったのに対して、龍谷図では日本列島の形が歪んだためにそれら
の島々の位置が混乱し、さらに「海東諸国総図」では龍谷図系の地図を参考にしながら日
本列島の方向を南から東にただそうとしたため、スマトラにあるはずの三仏斉が日本のす
ぐそばに引っ越すという騒ぎになったのである。つまりこの地図が作成された当時の地理
的認識をより正確に伝えているのは、本光寺図の方だと考えられるのだ。

 なお、これらの地図にある「勃海」について、8世紀、旧満州から沿海州にかけて渤海
という国が実在したが、それが南海に描かれるとは考えにくい。これはあるいは「勃泥」
の誤記が写し継がれたものではないか。勃泥国は『宋史』『文献通考』に伝が立てられて
おり、『諸蕃志』には「渤泥国」とある。ボルネオ島北東部、現在のブルネイ共和国の地
である。「大身」については『粱書』扶桑国伝の「文身国」か、もしくは「大食国」(ア
ラビア)の誤記とも考えられる。

 龍谷図を邪馬台国畿内説(そして出雲説や阿波説など)の証拠に用いることができない
のはこれでおわかりだろう。かつては地理的知識は必ずしも時間と共に直線的に進歩する
とは限らない。正確な知識が、より荒唐無稽なものに駆逐される場合だってありえたので
ある。ちなみに3世紀、日本列島の地理について中国側でも十分、把握していたにも関わ
らず、その知識がいかに失われたかについては拙著『優曇華花咲く邪馬台国』(批評社刊
、本体価格2330円)を参照されたい。

 さて、なぜ龍谷図では日本列島の地理について歪みが生じてしまったのだろうか。その
理由の一つは図の全体を見るとよくわかる。龍谷図では中国と朝鮮半島は大きくくわしく
描かれているが、その四方はえらく窮屈になっている。そのため、日本列島には東に伸び
るためのスペースが与えられなかった。この地図を作った主体である朝鮮半島との距離を
保ちつつ日本列島の細長い形を地図内に収めるには、中国との距離関係を犠牲にしても、
九州島から南に伸ばすしかなかったのである。

 また、中国でも4世紀以降、日本列島を中国江南のすぐ東と考える思潮が生じ、それも
また龍谷図のような歪んだ地図を受け入れる要因となったらしい。それについてはすでに
前掲拙著でもくわしく述べたところである。

 以上、本書の書評としては大脱線なのを承知で、あえて邪馬台国と古地図の関係につい
て、長々と言及させていただいた。この問題は地図の発展史ということで応地氏のいう「
第一の流れ」に関連し、古代地理の探究ということでは「第二の流れ」に関連するだろう
。しかし、このような考察が可能になったのも、地図そのものをテキストとして解読する
という本書の立場にインスパイアされたからこそである。謹んで感謝したい。

 

余談

 

 本書には他にも仏教的世界観に基づく中世日本の世界全図・五天竺図の解読や、近代的
地理観の日本移入など興味深い問題が論じられており、ぜひ一読をおすすめする肥大であ
る。最後に余談を一つ。1708年(宝永五年)に出た西川如見の『増補華夷通商考』に
所載された「地球万国一覧之図」(本書178〜179頁見開き)、日本列島を中心とす
る世界地図だが、その南半球に広がるのは『神々の指紋』でおなじみ、幻の「南極大陸」
ではないか!!

 その大陸には中国で作成された世界地図にならって「黒瓦臘尼加」すなわちメガラニカ
と名付けられている(マゼラン海峡を渡ったポルトガル人マガリエンスの名にちなむ。第
一字「黒」は「墨」の誤記)。応地氏によると「メガラニカ大陸もまた、古代ギリシャ以
来の想像上の大陸である“未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)”を
ひきつぐもの」であるという(本書173頁)。
「地球万国一覧之図」のメガラニカにはすでに「新オランダ」というオランダ植民地もあ
るとされ、南極大陸などでないのは明らかだ。ハンコック氏の御意見、ぜひうかがいたい
ところである。

                              −了−
 

 

 

                        97年5月23日  原田 実