アーサー王伝説とグラストンベリ修道院

 

 


 

 

英国建国の聖地

 

 アーサー王−彼は英国の伝説的建国者であるばかりではなく、世界中の人々から敬愛さ れてきた英雄である。彼を主人公とする小説や映画は今も絶えることなく生まれている。 日本でも、古くは夏目漱石『薤露行』(一九〇五)以来、アーサー王伝説に題材を求める さまざまな小説が書かれ、一九七〇年代にはアーサー王を主人公とした日本産テレビアニ メ・シリーズが作られたこともある。
 アーサー王の墓といわれるものがイングランドの東南、グラストンベリのトールの丘に ある。その地はたちまち建国の聖地として名高く、今も英国人の、否、アーサー王を慕う すべての者の魂の故郷として訪れる人が絶えない。
 しかし、その墓は実は、グラストンベリ修道院が、信者集めのために捏造したものにす ぎなかった(かつてその修道院はトールの丘に建っていた)。
 アーサー王の墓、それは建国神話がどのように捏造されるかを考える上で恰好のサンプ ルを提供してくれる「聖地」なのだ。

 

 

アーサー王伝説の展開

 

 アーサー王のモデルとなった人物が五世紀頃のイングランドにいたことは事実とみとめ てよいだろう。問題はその人物の実像がどれほど現存のアーサー王伝説の中に投影されて いるかである。
 ユーラシア大陸の四〜五世紀はまさに騎馬民族の時代であった。中国大陸では匈奴・羯 ・鮮卑ら騎馬民族の活動によって西晋王朝が弱体化し、ついに三一六年、匈奴出身の劉曜 が西晋を滅ぼして五胡十六国時代に突入する。
 四三九年、北魏が長北以北を統一してからは南北朝時代とされるが、漢族の南朝に対し て、騎馬民族系の北朝が対峙するという構造は変わらなかった。この動乱が朝鮮半島に波 及した結果が楽浪郡・帯方郡の消滅となり、満洲から南下する高句麗と、日本列島から北 上する倭の直接激突をうながすことになる。
 西方では、アラン、サルマタイ、フンなどの騎馬民族と、彼らに追われて大移動を開始 したゲルマン民族が西ローマ帝国を席巻、四一〇年には首都ローマそのものがゴート人( ゲルマン系)の手に落ち、四五一年にはアッティラ王率いるフンの軍勢がフランスはオル レアンまで侵入した。彼らの活動の結果が四七六年の西ローマ帝国滅亡につながり、ヨー ロッパはいわゆる暗黒時代に突入する。
 西晋の動乱が朝鮮半島・日本列島まで波及したように、西ローマ帝国の動乱はブリタニ アの島々まで波及した。ゲルマン系のアングロサクソン(アングロ人、サクソン人、ジュ ート人の総称)がブリテン島侵攻を開始し、それと連動して北方スコットランドのピクト 族も南下、本国との連絡を絶たれたブリタニア駐留ローマ軍と先住のブリトン人(ケルト 系)は南北に敵を迎えて、共に苦戦を強いられることになった。この動乱の中にアーサー 王の原像が見え隠れする。
 加藤恭子氏は「もしアーサーが実在したとするなら、ブリタニアの土地において、侵入 してきたサクソン人と戦ったローマ化されたブリトン人、もしくはブリトン化されたロー マ人であった可能性がある」と簡潔に述べている(『アーサー王伝説紀行』中央公論社、 一九九二)。また、井村君江氏も「アーサーは紀元五〇〇年ごろに実在したといわれる“ 英雄”で、ローマとケルトの血を半分ずつ受け継いだ“戦士”である、ということでしょ う。ですからアーサー(Arther)という名前は、ラテン語の“アルトリウス(Ar torius)”に由来するという説もあります」と述べる(『アーサー王ロマンス』筑 摩書房、一九九二)。
 遡って史料を求めると、まず、ウェールズ人僧侶ギルダス(五〇〇頃〜五七〇頃)は『 ブリテンの滅亡と征服について』別名『嘆きの書』で、五世紀末にベイトン山というとこ ろでブリトン人とサクソン人の一大決戦があり、ブリトン人の勝利の後、半世紀に及ぶ平 和が訪れたと記している。
 ギルダスはこの戦いの指導者の名を明らかにしていないが、やはりウェールズ人僧侶の ネンニウスが九世紀初めに著した『ブリトン史』では、ベイトンの戦いでブリトン人を指 揮した人物の名はアーサーだったとされる。アーサーはただ一人で一日に九六〇人の敵を 屠ったという。ただしネンニウスはアーサーの地位について、王ではなく一介の戦闘隊長 だったとする。それはアーサー(のモデルとなった人物)が土着のケルト系首長というよ りもローマ軍の流れをくむ人物であったことを示唆している。
 ギルダスがベイトンの戦いを語るにあたり、アーサーの名に触れなかったことから、後 世、ギルダスとアーサーは同時代人で反目しあっていたという説が生じた。十二世紀初め 、カラドック・オブ・ランカルヴァンによって著された『聖ギルダス伝』には、アーサー がブルターニュ王だったギルダスの弟を殺した、という話が記されている。
 また、ギルダスは熊の乗る戦車が戦場をかけめぐったと記しているが、アーサーの名を 語源を遡るとラテン語artos(熊)にいたることから、一説にはこの「熊」こそアー サーのことだという。
 しかし、ここはすなおにギルダスの時代にはまだアーサーの名は伝承化してなかったと みるべきだろう。「熊の乗る戦車」も勇猛さの比喩と思われる。
 六〇〇年頃、ウェールズの詩人アナイリンが著した『ゴドディン』もブリトン人とサク ソン人の戦いを歌ったものだが、その中ではブリトン人の勇者が「アーサーには及ばねど 、カラスに(敵の死体を)存分に貪り食わせた」とされている。これが後世の加筆でなけ れば、『ゴドディン』こそアーサーの名が現れる最古の文献である。
 七〇〇年頃、スコットランドで成立した『聖コロンバ伝』には、ダリルアダという国の 王子としてのアーサーが登場する。彼は生涯を戦いの内に過ごし、父の在世中に死んだた め、ついに王にはならなかった。なにやら日本のヤマトタケルを思わせる人物である。
 十世紀成立の『カンブリア年代記』(カンブリアはウェールズの別名)はベイドンの戦 いで戦闘隊長アーサーに率いられるブリトン人が勝利をおさめた二一年後、カムランの戦 いでアーサーとメドラウトが倒れたと伝える。これは後世のアーサー王伝説で、アーサー 王が実の息子ミルドレッドと戦い、共に斃れたとされるモチーフの原形であろう。
 ウェールズ民話集『マビノギオン』の「キルウフとオルウェン」のアーサーは主人公キ ルウフの従兄弟であり、ブリテン、アイルランド、ブルターニュ、ノルマンジーを領土と してギリシャ遠征をも企てたことのある偉大な王である。また、この民話には「円卓の騎 士」の原形となるアーサー王幕下の勇者たちも多数登場する。『マビノギオン』が最終的 にまとめられたのは十四世紀のことだが、「キルウフとオルウェン」は十一世紀頃、すで に成立していたともいわれる。
 十二世紀前半、ジェフリー・オブ・モンマス(一一〇〇年頃〜一一五五)が著した『ブ リテン列王史』に現れるアーサー王は、ブリテンとアイルランドを統一するだけではなく 、現在のアイスランド、ノルウェー、デンマーク、フランスをも征服、ついにはローマ皇 帝ルキウスを倒し、あわやローマ帝国をも簒奪しそうになる。
 だが、モルドレッドの裏切りを知ったアーサーはルキウスの遺体をローマに送るやブリ テンにとって返し、モルドレッド軍と交戦。アーサーはモルドレッドを倒した後、自らの 傷を癒すべく神秘の国アヴァロンへと去っていったという。
 ギルダスの時代からモンマスの時代までの約七世紀の間に一介の戦闘隊長だったアーサ ーが、ついにヨーロッパ征服を成し遂げた偉大な帝王にまでのしあがったというわけであ る。
『ブリテン列王史』は一一五五年、ワース(一一〇〇頃〜一一七五頃)によって、ラテン 語からフランス語訳され『ブリュ物語』として流布した(「ブリュ」とはブリテンの伝説 的開拓者ブルータスのこと)。この『ブリュ物語』は、かの名高き円卓が初めて登場刷る 文献でもある。つまり、円卓の騎士の伝説はここから始まったとも言いうるわけだ。
 イングランドの司祭ラヤモンは十二世紀末に『ブリュ物語』の英訳『ブルート』を完成 する。そして、これが実にラテン語でもフランス語でもなく、英語で書かれた初のアーサ ー王伝説のテキストとなるのである。
 一一七〇年頃、『ブリテン列王記』(後述)にアラン・ド・リールが付したといわれる 注釈は、「キリスト教世界でブリトン王アーサーへの賞賛が行き渡らなかった場所がどこ にあろう。彼の名はブレトン人(フランス・ブルターニュの民)の間に勝るとも劣らぬほ どアジアの民にも知られている」として、当時、アーサー王の名がエジプト、ボスポラス 、ローマ、カルタゴ(チュニジア)、アンティオキア、アルメニア、パレスチナでも讃え られていることを伝えた。アーサー王伝説は十字軍により、はるか東方にまでもたらされ ていたのである。
 アーサー王伝説の形成と展開をくわしく見ていくには、フランスのロマンスにおけるア ーサー王モチーフ(たとえばアーサー王の都キャメロットの名の初出は一一七〇年代、フ ランスの詩人クレティアン・ド・トロワの記した『ランスロット』なのである)や、十二 世紀のヨーロッパに広まり、遠くシシリーでも読まれていたという「マーリンの予言」( マーリンはアーサーを助ける魔法使い、モンマスはこの予言のために『ブリテン列王史』 の一章を割いている)など論ずべきことは多々あるが、本稿では割愛したい。
 何はともあれ、十二世紀末には、ヨーロッパの征服者たるアーサーの令名は英国のみな らずキリスト教世界全域に知れわたっていたというわけである。
 ところが、初期の史料でアーサーがサクソン人と戦ったとされるベイトン山、最後の戦 いの場となったカムロン、『ブリテン列王史』の中で瀕死のアーサーが去ったとされるア ヴァロンの島、中世ロマンスでアーサー王の首都とされたキャメロットなど、アーサー王 伝説での重要な地名の多くは、いずれも複数の候補地が名乗りをあげているとはいえ、現 在の何処にあたるのか、そもそもそのような場所が実在していたのか、杳としてつかみど ころがない。アーサー王伝説はあくまで「伝説」であり、この中から史実を読み取ろうと する試みはきわめて困難なのである。

 

 

グラストンベリでの発見

 

 ところが一一九〇年もしくは一一九一年、伝説上のアーサー王が突然、実体を持って現 れるという事件があった。グラストンベリ修道院の墓地からアーサー王とその妃グィネヴ ィアの遺骨が「発見」されたのである。
 発掘の二年後、年代記作者ギラルドウス・カンブレンシス(ジェラルド・オブ・ウェー ルズ)はグラストンベリを訪れ、その墓所の跡と出土品を見た。
 ギラルドウスによると、その男女の遺骨はくりぬかれた樫の棺に別々に納められており 、棺の下に置かれた鉛の十字架には「ここに著名なる王アルサルス、彼の第二の妻ウェネ ヴェリアとともにアヴァロニアの島に眠る」との銘文があった。妃のものと思われる一房 の金髪が生前そのままの色艶を保っていたがある僧をそれを取ろうとすると粉々に崩れて しまった。その墓地にアーサーらが葬られていることは、かつてイングランド王ヘンリ二 世がある年老いたブリトン人から聞いていたところである。
 ギラルドウスによると、グラストンベリはかつてアヴァロニア、ブリトン語でイニス・ アヴァロン(リンゴのなる島)と呼ばれていたことからも、カムランの戦いで傷ついたア ヴァロンの島がグラストンベリであることは間違いないという。
 ギラルドウスは修道院長からアーサーの遺骨を見せられたが、その大腿骨を立てるとそ の場でもっとも背の高い男より三インチも高く、頭蓋骨も巨大で目と目の間が掌ほどもあ った。頭蓋骨には多くの傷があったが、ひときわ大きな裂傷が死因と思われた。
 ギラルドウスの報告のほぼ三十年後に書かれたラルフ・オブ・コギシャルの『イングラ ンド年代記』にもアーサーの遺骨発見についての記述があり、やはりグラストンベリがか つて「リンゴのなる島」アヴァロンと呼ばれていたとする。ところが、ラルフは鉛の十字 架が棺の下ではなく上に置かれていたとしており、その銘文は「ここに著名なるアーサー 王、アヴァロンの島に眠る」だったとしている。また、ラルフはアーサーの遺骨発掘を一 九〇一年と明言している。
 リチャード・バーバーは、ギラルドウスやラルフならびに後代の年代記作家らの十字架 の描写、発掘時期についての記述を比較し、その矛盾を指摘した。そこからバーバーはグ ラストンベリではアーサー王の墓「発見」以来、それにまつわる史料がくりかえし改竄さ れてきたことを明らかにしている(バーバー『アーサー王』高宮利行訳、東京書籍、一九 八三)。
 そもそも、ネンニウスの『ブリトン人史』にみられるように、古い時代の伝承ではアー サーは王ではなく、一介の戦闘隊長(dux bellorum,dux belli) に過ぎなかった。ところが、遺骨と共に出土した鉛の十字架はギラルドウスにしろラルフ にしろしっかりアーサーを王(rex)としている。
 このこと自体、この十字架がアーサーが「王」とされた十一〜十二世紀以降の知識によ って作られたものであることを示しているのだ(青山吉信『グラストンベリ修道院歴史と 伝説』山川出版社、一九九二)。
 十二世紀にグラストンベリで何らかの発掘が行われたことは考古学的にも確認されてい る。バーバーは、ギラルドウスが、アーサーの遺骨は樫の棺におさめられていと記してい ることから、実際に出土したものは北海周辺(ブリテン、アイルランド含む)の青銅器時 代にしばしば見られる船型棺だったのではないかとする(前掲『アーサー王』)。
 十二世紀の発掘で実際に何かが出土していたとしても、おそらく、それはアーサー王と は何の関係もない遺物だったのだろう。
 グラストンベリとアーサーを結びつける最古の記録は十二世紀初めの『聖ギルダス伝』 であり、そこにはかつて「ガラスの市」と呼ばれたグラストンベリに幽閉されたグィネヴ ィアをアーサーが救出したことが語られている(リチャード・キャヴェンディッシュ『ア ーサー王伝説』高市順一郎訳、晶伝社、一九八三、原著一九七八)。
 実は、この『聖ギルダス伝』はカラドックがグラストンベリ修道院の依頼を受けて書き 上げたものだった。しかし、そこにはまだグラストンベリがアヴァロンであるとか、そこ にアーサーとグィネヴィアが葬られているという話はない。

 

 

グラストンベリ修道院の伝説

 

 グラストンベリの伝説はこの地にイギリス最初のキリスト教教会が建てられたことを伝 える。グラストンベリ修道院の前身をなす古教会は一一八四年の大火災で修道院もろとも 焼け落ちたが、一一三〇年代にグラストンベリの歴史を調べた年代記作者ウィリアム・オ ブ・マームズベリ(一〇九五頃〜一一四三)によると、当時、古教会はイエスの使徒ピリ ポに派遣されたイエスの直弟子たちに建てられたとされていたという。
 この伝説は眉唾としても、遅くとも六世紀頃、この地にケルト系修道士団がいたことは 現在の教会史家の間でも広く認められている。
 法王グレゴリウス一世(在位五九〇〜六〇四)は、法王選任の直前、アングロ人をアン ゲリ(天使)たらしめんという決意を固め、法王になるとともに宣教使オーガスティンを イングランドに派遣することにした。オーガスティンは五九七年にブリテンに上陸、カン タベリに修道院を造り、イギリスを総括する大主教になった(初代カンタベリ大主教)。
ところがオーガスティンは先住のブリトン人キリスト教徒に対して尊大にふるまったため 、第七代カンタベリ大主教シオドア(在位六六八〜六九〇)がイングランド・ウェールズ の教会統一を果たしてからも、グラストンベリを初めとするカンタベリ以前の修道院とカ ンタベリとの間のしこりは残ることになる(八代崇『新・カンタベリー物語』聖公会出版 、一九八七、他)。
 ウィリアム征服王(在位一〇六六〜八七)によるノルマン王朝創始はイギリスの教会に 波紋をもたらした。征服王に敵対したために廃位させられたグラストンベリ修道院長エゼ ルノースにかわって、院長の位についたのはノルマンディ出身のサースタン(在位一〇七 八〜九六)である。
 サースタンによる修道院改革は伝統を重んじる修道士たちの反発を買い、一〇八三年に はバリケードを築いて院内に立て籠もる修道士を院長側の騎士が攻めるという流血沙汰に 発展した。
 グラストンベリ修道院の混乱に乗じ、カンタベリからグラストンベリの歴史に関する疑 義(グラストンベリからいえば中傷)を記した書物を次々と世に問うた。
 伝統を誇る修道院にとって、歴史についての疑惑が広まることは、即、経済的危機につ ながる。グラストンベリは懸命に反論したが、その過程で、それまで知られることのなか ったグラストンベリの「伝説」が次々と公表(捏造)されることになるのである。
 ウィリアム・オブ・マームズベリの『グラストンベリ修道院古史』で十二世紀初めまで のグラストンベリ「伝説」はいったん体系付けられた。彼は古教会の創建をキリスト教が 最初にブリテンに伝えられたとされる一六六年頃としながら、修道院が主張するように使 徒時代まで遡る可能性をも認めた。
 また、同時代の『聖ギルダス伝』により、グラストンベリはアーサー王伝説の世界とも 接点を持つようになった。
 十二世紀はグラストンベリにとって苦難の時代となった。ロンドンのウェストミンスタ ー寺院はエドワード懺悔王(在位一〇四二〜一〇六六)の列聖(一一六一)を宣伝に利用 した。ウェストミンスターの直接のライバルはロンドン総主教座のセント・ポールだった が、グラストンベリにとってもウェストミンスターの躍進は脅威であった。
 一一七〇年には、イングランド王ヘンリー二世(在位一一五四〜一一八九)と対立して いたカンタベリ大主教トマス・ベケットが、王の派遣した騎士たちに暗殺されるという事 件が起きた。ヘンリー二世は司法制度における国王の優越権を確立しようとしたが、ベケ ットは教会法を擁護する立場からこれに抵抗したのである。
 暴力は何の解決にもつながらず、やがてヘンリー二世は法王に大主教殺害の罪の赦免を 請わなければならなくなるが、この事件は当時のキリスト教世界全体を震撼させた。
 イタリアはジェノヴァ市大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(一二三〇頃〜一二九八)の 『黄金伝説』にもベケット殉教の模様がくわしく語られている。
 カンタベリはベケット殉教の聖地としてその名を高め、おびただしい巡礼者が列をなし て訪れた。中世の巡礼者たちの有り様は、ジェフレイ・チョーサー(一三四〇頃〜一四〇 〇)の『カンタベリ物語』などからうかがうことができる。
 今世紀においても、たとえばトマス・エリオット(一八八八〜一九六五)の詩劇『寺院 の殺人』(一九三五)はベケット殉教を扱ったものである(ちなみにエリオットの代表作 『荒地』はアーサー王伝説に材をとっている)。
 一九八二年にはヨハネ・パウロ二世自ら法王としては初めてイングランドの地を踏み、 カンタベリのベケット殉教の現場で祈りを捧げた。
 話を十二世紀に戻して、長年のライバル、カンタベリの隆盛はグラストンベリ修道院を 苦しめることになった。弱り目に祟り目となったのが、一一八四年の大火災である。
 ヘンリー二世は修道院再建のための寄進を約束したが、リチャード一世(一一八九〜一 一九九)が王位につくと、十字軍遠征の予算確保のため、国庫から教会への寄進は止めら れてしまう。グラストンベリ修道院は財源確保のための新しい目玉を必要としていた。
 ここにアーサー王の墓が発見される必然性が生じたのだ。先述のように十二世紀末、す でにアーサー王人気は英国のみならずキリスト教世界の全域で高まっていた。
 ギラルドウスはアーサー王がグラストンベリ修道院の庇護者にして寄進者、支持者であ ったと記した。高名な文筆家ギラルドウスをグラストンベリに招いたことによる広告効果 は大きく、カンタベリさえもアーサー王の墓発見の「事実」を認めざるをえなかった。十 三世紀初め、カンタベリのジャーヴァスなる修道士が「アーサー王はアヴァロンすなわち グラストンベリに眠る」と記しているという。
 アーサー王の墓の発見は、イングランド王室からも歓迎された。当時、イングランドは ウェールズの抵抗に悩まされていたが、ブリトン人の直系の子孫の国ウェールズにはアー サー王不死の信仰が根強く、人々はいつの日かアーサーが帰ってきて、ふたたびアングロ サクソンの国・イングランドのサクソン人どもを蹴散らしてくれることを祈っていた。  墓の発見により、アーサーが確かに死んだということになれば、ウェールズの反イング ランド運動は精神的支柱の一つを失うはずである。
 実際、アーサー王の墓発見の話が広まるにつれて、アーサー王不死の信仰は次第に下火 になり、十四世紀以降は、アーサー王が魔法でワタリガラスに姿を変えられたなどといっ た民話の世界にその命脈を保つことになる。
 エドワード一世(在位一二七二〜一三〇七)は、一二七八年、ウェールズ遠征の帰りに グラストンベリに立ち寄った。アーサー王を尊敬していたエドワード一世は、アーサー王 の遺骨と称するものを黒大理石造りの立派な墓に納め、アベイ・チャーチの祭壇の前に安 置したという。

 

 

聖盃伝説とアリマタヤのヨセフ

 

 生涯を投獄と脱獄の繰り返しで送ったイングランド中部出身の無頼漢トマス・マロリー (一四一〇頃〜一四七一)は晩年、母国語によるアーサー王ロマンスの執筆にとりくみ、 それは一四八五年、イギリス最初の印刷業者ウィリアム・キャクストン(一四二一頃〜一 四九一)により『アーサー王の死』と題されて刊行された。
 この『アーサー王の死』こそアーサー王伝説の決定版ともいうべきものであり、後世、 このテーマを扱う多くの文学者にとっての基本テキストとなった。
 その中でアーサー王はローマ皇帝ルキウスを倒しただけではなく、自らローマ皇帝に即 位したことになっている。
『アーサー王の死』にキャクストンが付した序文は、さる高貴な方々の言として「アーサ ーなどという王は実在しないなどと、考えたり言ったりする輩は無知の大馬鹿者と呼ばれ てもしようがあるまい」と述べ、アーサー王実在の証拠の筆頭にグラストンベリ修道院の アーサー王の墓を挙げている。
 ところがマロリーはアーサー王の死と埋葬について述べる一方、アーサー王生存説が根 強いことも認めており、アーサー王の墓石の碑文として次の文を伝えた。

「過去の王にして未来の王アーサー此処に眠る」

 マロリーはアーサーの死に言及する際、dieという語は避け、chenge his  lifeという表現を用いている。また、アーサーの墓に関しても、グラストンベリの ことは言及されず、その葬儀を行ったのはカンタベリ大主教だったとしている。
 マロリーはグラストンベリのアーサー王の墓にうさんくさいものを感じていたのかも知 れない。
 アーサー王の墓発見から後、グラストンベリ修道院による史料の改竄・偽作は常習化す る。ウィリアムの『グラストンベリ修道院古史』にも改竄が加えられ、そのため、一一三 〇年代に書かれたはずの『グラストンベリ修道院古史』が一一八四年の大火災に言及する という奇妙な現象も起きた。彼らの改竄は意外と杜撰だったのだ。
 現存の『グラストンベリ修道院古史』で、十三世紀前半の挿入は間違いないとされる第 一章には、使徒ピリポにより、ブリタニアに派遣されたがアリマタヤのヨセフが紀元六三 年、蛮族の王よりグラストンベリの地を与えられ、そこに教会を建てたと記されている。 かくして、一一三〇年代には、マームズベリにより、使徒時代に遡る可能性が漠然と語ら れるにすぎなかったグラストンベリの創始が、一世紀後にはアリマタヤのヨセフ創建と明 確にされ、その年代も紀元六三年と確定するにいたった。
 青山吉信氏はその経緯について「時代がくだるにつれて、修道院の創始は、逆に時代を 遡らされ、明確化していったのである」と述べている(前掲『グラストンベリ修道院歴史 と伝統』)。
 グラストンベリがその創始者にアリマタヤのヨセフを選んだのも、アーサー王からの連 想であった。アリマタヤのヨセフのことは新約聖書の福音書『マタイ伝』第二七章、『マ ルコ伝』第十五章、『ルカ伝』第二三章に言及されている。彼はイエスの磔刑の後、その 遺体を引き取って埋葬した人物である。
 さて、アーサー王の円卓の騎士たちが聖杯を探し求め、ついに騎士パーシヴァルによっ てそれがもたらされるという、いわゆる聖杯探索譚はアーサー王伝説の中でももっとも愛 されてきたものの一つである。
 聖杯探索譚の現存最古の文献は、一一八〇年頃、クレアチン・ド・トロワが著した『ヘ ルスファルまたは聖杯物語』だが、その中では聖杯の起源については明らかにされていな い。クレアチンはこの作品を完成させる前に世を去ったが、その後をついだ十二世紀末か ら十三世紀にかけての作家が書き続けたフランス語やドイツ語のロマンスの中で、聖杯は イエスが最後の晩餐に用いた後、磔刑に処されたイエスの血を受けた器であるという由来 が確立した。
 ちなみにフランス語のロマンスの一つ『高貴なる聖杯の書−ペルレスファウス』(一二 一〇頃成立)はグラストンベリ修道院所有のラテン語原本の翻訳を称しており、グラスト ンベリ伝説とロマンスが互いに影響しあう関係にあったことを示している。
 マロリーは主にフランス語のロマンス群を典拠としている。『アーサー王の死』は聖杯 の中に「キリストさまの聖なる御血が入っている」とする。
 また、聖杯はイエスの遺体と共にアリマタヤのヨセフに引き取られたとされ、したがっ てそれをブリタニアにもたらしたのもアリマタヤのヨセフその人だったという話が成立す る。アーサー王−聖杯−アリマタヤのヨセフという連想が、アリマタヤのヨセフにグラス トンベリの創建者としての役割を与えたのである。
『グラストンベリ修道院古史』(改竄後のもの)は聖杯に触れるのを避けてはいるが、一 五三九年にグラストンベリ修道院が閉鎖された後、聖杯は実は修道院に保管されていたと いう伝説が生じた。ウェイルズのポーウェル家という旧家には、グラストンベリ最後の修 道士から引き継いだという聖杯が何世紀もの間、伝わっていたが、歳月とともに朽ち果て 、今では失われたという。
 また、一説には、アリマタヤのヨセフ到来より前、すでに大工の技術を持っていたイエ スその人によってグラストンベリの古教会が建てられていたという。イエスは青年時代、 錫交易の取り引きのため伯父であるアリマタヤのヨセフの勧めでブリテンに暮らしていた というわけである。キャヴェンディッシュは「これを見れば、なぜ新訳聖書にイエスの少 年後期と聖人時代初めの記述がないか説明がつくかも知れない」と述べている(前掲『ア ーサー王伝説』)。なにやら『竹内文献』のキリスト来日説を思わせる話である。
 ちなみに大正〜昭和初期に日本で流行した日本=ユダヤ同祖論には、実はイギリス=ユ ダヤ同祖論の輸入という側面がある。日本のキリスト来日説と同じような話が同祖論の本 家イギリスにあるのは、意外というよりむしろ当然かも知れない(『竹内文献』とキリス ト来日説については拙著『幻想の超古代史』『幻想の津軽王国』参照)。
 伝説上の聖杯の起源はキリストと関連付けられているが、聖杯という概念の典拠はキリ スト教神学にはないため、そこに異教の影響を考えないわけにはいかない。異教の影響と いう側面を重くみた聖杯伝説起源論は、ケルト起源説と東方起源説に大別できる。
 ケルト起源説はウェールズやアイルランドの伝説にしばしば出てくる魔法の釜を聖杯と 結びつけるものである。現代の多くの研究者がケルト起源説を支持しており、さながら定 説となった感がある。
 もっとも、現在の定説では聖杯伝説のみならず、アーサー王伝説全体をケルト文化の所 産とみなす傾向があるようだ。バーバーはアーサー王の歴史上のモデルは六世紀のアイル ランドの王子だったとしているほどである(前掲『アーサー王』)。
 オペラ『パルジファル』(一八八二)の作者リヒャルト・ワグナー(一八一三〜一八八 三)は東方起源説をとっていたらしく、ある書簡の中で聖杯探索の騎士パルジファルの名 はもともと「ペルシャ王」という意味の語から来たものではないかと述べた。もっともワ グナーは後の書簡でこの語源解釈は思いつきにすぎなかったとして自ら否定している。
 ジェシー・L・ウェストン(一八五〇〜一九二八)はケルト伝説の魔法の釜は聖杯が示 すべき精神性を欠いているとして、ケルト起源説に批判的立場をとった。彼女は聖杯伝説 の起源をペルシャのミトラ神の密儀に求め、その密儀は中世においても東方のテンプル騎 士団によって継承されていたとする(『祭祀からロマンスへ』、丸小哲雄訳、法政大学出 版局、一九八一、原著一九二〇)。
 なお、ウェストンは、ブリテンにミトラの密儀をもちこんだのはローマの傭兵たちだと 考えていたが、その点では後述するリトルトンの説にもつながる要素がある。
 さて、ウェストンは当時の人類学の成果、特にフレイザー学派のものを駆使して聖杯伝 説を論じている。しかし、一方で彼女はクエスト・ソサイアティーというオカルト・サー クルのメンバーであり、『祭祀からロマンスへ』の論調にオカルト色が強いこともまた否 めない。エリオットはウェストンの説に霊感を受けて『荒野』を著したという。
 もっともケルト起源説が東方起源説よりオカルトとの縁が遠いかといえば、そうでもな い。フランスの神秘主義者ルネ・ゲノン(一八八六〜一九五一)は、聖杯を「世界の中心 」、原初の楽園の象徴とみなし、それはケルトの密儀宗教ドルイドの僧によって護持され てきたものとする(『世界の王』田中義廣訳、平河出版社、一九八七、原著一九二七)。 ちなみにウェストンも『祭祀からロマンスへ』でドルイドについて言及しているが、彼女 はどうやらドルイドそのものが東方に起源すると考えていたようだ。

 

 

スキタイ起源説の登場

 

 ところが最近、聖杯伝説の東方起源説に関連して興味深い新説がでてきた。しかも、そ れは聖杯伝説のみならずアーサー王伝説全体の起源について問題提議をなすものである。 C・スコット・リトルトンとリンダ・A・マルカーの共著『アーサー王伝説の起源』(辺 見葉子・吉田瑞穂訳、青土社、一九九八、原著一九九四)。邦訳版の副題とされている「 スキタイからキャメロットへ」は原題の直訳である。青土社の『ユリイカ』一九九八年九 月号の新刊案内では「アーサー王はスキタイから来た」というなかなか煽情的な仮題で紹 介されていた。
 リトルトンがアーサー王のスキタイ起源説についての論文を最初に世に問うたのは一九 七八年、『アーサー王伝説の起源』原書が書かれる十六年も前のことである。
 それに先立ち、一九六九年に神話学者ジョエル・グリズワルドがコーカサス在住の民族 オセットのナルト叙事詩とアーサー王伝説の間に共通のモチーフがあることを報告してい た。
 ナルトとはオセットの伝説に登場する戦士団の名であり、ナルト叙事詩はスキタイの神 話の原形をとどめるものとして神話学において注目されているものである。さて、ナルト 叙事詩にはナルトの首長で後に他のナルト戦士と敵対するパトラズが死に瀕した時、その 身は海岸に運ばれ、彼と運命的に結ばれていた聖剣が水中に投げ込まれたというくだりが ある。一方、アーサー王伝説ではアーサー王は死に瀕した際、海の彼方のアヴァロンに運 ばれ、彼と運命的に結ばれていた聖剣エクスカリバーが水中に投げ込まれる(マロリー『 アーサー王の死』のクライマックスである)。
 リトルトンはこれをさらに押し進め、ナルト叙事詩に出てくる「ナルトの杯」といわれ る不思議な杯と聖杯の関係やナルトと円卓の騎士たちの比較にまで論を進めたのだ(リト ルトン『新比較神話学』堀美佐子訳、みすず書房、一九八一)。
 リトルトンのアーサー王伝説スキタイ起源説が発表された後、大林太良氏と吉田敦彦氏 は共著『剣の神・剣の英雄』(法政大学出版局、一九八一)において、日本神話のスサノ オ、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノヒボコ、ヤマトタケルの説話に見られる聖剣の要素 と、ナルト叙事詩のパトラズの聖剣、アーサー王伝説のエクスカリバーを比較し、ユーラ シア大陸を駆け巡った戦士集団が、聖剣信仰を日本列島からヨーロッパまで伝えたという 雄大な説を唱えた。その戦士集団の実体としてはスキタイ、トラキア、サルマタイ、アラ ン、フン(匈奴)といった騎馬民族が想定される。大林氏と吉田氏がこの説を唱えるにあ たってリトルトンにも触発されていたのは、同書に「最近ではリトルトンによってアーサ ー王伝説のサルマタイ要素についての興味深い説が提出されており、これを考慮にいれれ ば、新しく見る考え方は有力となってくる」とあることから明らかである。
 ただし、同書では聖剣信仰の日本列島への伝播を説明するのに江上波夫氏の騎馬民族征 服王朝説を援用したことは、かえってその説の弱点を示しているようでもある。ちなみに 同書共著者の内、騎馬民族征服王朝説への依存は大林氏よりも吉田氏の方に顕著な傾向で ある。吉田氏はまた邦訳『アーサー王伝説の起源』に解説を寄せている。
 リトルトン自身、アーサー王伝説とナルト叙事詩との比較研究に日本の事例をも取り込 みたいとの要望を持っているようだ。すでに『新比較神話学』においてリトルトンは「( アーサー王伝説に)含まれる諸要素が、以前に論及した他の“スキタイの”主題と共に日 本へ伝播したこともまた、いまや明らかである」と述べた。
 また、松原孝俊氏と松村一男氏が編集した『比較神話学の展望』(青土社、一九九五) にリトルトンは論文「ヤマトタケル」を寄せ、ヤマトタケル、パトラズ、アーサーが「皆 結局は“スキタイ”の英雄的、最終的には神的原型に由来するのである」」と唱えている 。これは『アーサー王伝説の起源』の原書刊行後のことだから、リトルトンの関心はいま やまっすぐ日本に向かっているとみてよいだろう。
 ちなみに『アーサー王伝説の起源』における共著者マルカーの役割だが、彼女は、リト ルトンの説を発展させ、リトルトンがアーサー王伝説に混入したケルト的要素とみなして いたものの中にもスキタイ的要素を読み取りうることを指摘した。それがこの共著につな がったわけである。したがって『アーサー王伝説の起源』の骨子はあくまでリトルトンが 提供したものであった。

 

 

ローマの一部としてのスキタイ文化

 

 さて、それではリトルトンのスキタイ起源説はいかに評価されるべきだろうか。先に吉 田敦彦氏の日本神話研究について、騎馬民族征服王朝説への依存という弱点があることを 指摘した。騎馬民族征服王朝説には考古学的・文献学的な裏付けがなく、今は研究史上、 過去の試行錯誤の一つと位置つけてかまわないだろう。しかし、それに比してアーサー王 伝説に関するリトルトンの説は伝播経路の説明に無理がない。
 リトルトンはスキタイ系のアラン人、サルマタイ人がローマの傭兵としてゲルマンやフ ンと戦ったという史実に着目し、ブリタニアに派遣されたローマ軍の中にもアラン人、サ ルマタイ人があったのではないかとする。
 歴史家ディオ・カシウスの『ローマ史』(二二五年成立)は、一七五年、サルマタイ人 の一派イアジュゲス族がアルクス・アウレリウス帝に敗れ、降伏の後、八千人の騎馬傭兵 部隊をローマに提供、そしてその内の五千人がブリタニアに派遣されたと伝えた。
 実際、イングランド北部、ランカシャーのリブチェスター周辺からは土器や道具などサ ルマタイ文化の特徴を持った遺物が多数出土している。五世紀の初頭においてもリブチェ スター近辺にサルマタイ人のコロニーがあったことは考古学的に確認できるという。
 アラン人はしばしばサルマタイ人と混同されるが、彼らはローマの傭兵となった後、五 世紀以降のヨーロッパで大きな勢力となり、アラン人貴族ブルターニュ伯の家系は一一八 一年まで続いた。すなわち、フランスでアーサー王のロマンスがさかんに書かれる時代ま でである。
 つまりリトルトンの議論は、スキタイ(黒海沿岸)とブリタニアという一見、遠く離れ た地方が、ローマという絆で結びついていたことを重要視するものだったのである。

 

 

ローマの英雄としてのアーサー王

 

 リトルトンの仮説はかえって私たちが「ローマ」に対して抱いていた固定観念を浮き彫 りにすることになった。そもそも当時のローマはラテン人だけのものではなく幾多の民族 を包みこんだ世界帝国だったのである。
 加藤恭子氏はアーサー王の原像について「一人の人物にまつわるものであり、その人物 が実在したか、または伝説上の存在にすぎなかったのかは不明だが、ブリトン人の心に希 望を与えるものであった」とする(前掲『アーサー王伝説紀行』)。
 ブリトン人はもともとケルト系だが、実際に彼らをサクソン人から守っていたのはロー マ軍であった。というより、ローマ治世下においてブリトン人もまたローマ人としての自 覚を持っていたのである。ギルバード・キース・チェスタトン(一八七四〜一九三六)は 『英国小史』(一九一七)においてイギリスのローマ的起源を重視した。渡辺昇一氏によ る要約から引用したい。
「ローマ人がブリテン島で成したことは、彼らがゴールで成したことと本質的に同じであ る。つまりブリトン人はローマ人になったのであり、フランスもイギリスもローマの遺跡 を持っているのではなく、この両国ともローマの遺跡であるのみならずローマの聖遺物で ある。というのはローマはいまだにこの両国において生きた作用を持っているのであるか ら。ブリトン人はブリトン人であることには誇りを持っていなかったが、ローマ人である ように誇りを持つようになっていた。しかもブリテン島がローマの一部であった時期は四 百年におよび、これはイギリスにプロテスタンティズムが入ってきて以来の時間よりも長 い」「アーサー王などというケルトの王の実在を歴史学者が否定したとしても、異教徒の 侵寇に対して雄々しく戦い抜いて散って入ったキリスト教徒の王とその家来がいたこと、 そしてその王の記憶が広く国民に行きわたって、愛情と敬意をもってその遺徳が語りつが れていたという事実は間違いがない」(渡辺「歴史家としてのチェスタトン」、ピーター ・ミルワード他編『G・K・チェスタトンの世界』研究社、一九七〇、所収)
 アーサー王がローマ皇帝を倒したと伝えられていることは、アーサー王伝説が必ずしも 反ローマ的であることを意味しない。『ブリテン列王史』のアーサー王はローマ皇帝の遺 体に礼を尽くしたのみならず自らローマ皇帝になることを望んでいた。『アーサー王の死 』となると、アーサー王は法王の手により、ローマ皇帝として戴冠されている。アーサー 王伝説の展開をうながしたものはローマへの反発というより、自ら正統のローマたらんと する意志なのである。
 近年では、アーサー王伝説をケルト的文化の所産とみなす説が主流である。それに対し て、リトルトンの説はアーサー王伝説の形成と発展におけるローマ的伝統の役割を再評価 するものといえよう。その点で私は『アーサー王伝説の起源』は重要な問題提議たりうる 一書だと考えている。
 ただし、最近のリトルトンが力を入れる日本神話(の一部)のスキタイ起源説について は成立は困難と思われる。実際には日本神話とナルト叙事詩の類似は、アーサー王伝説と ナルト叙事詩の場合ほど顕著なものではない。また、騎馬民族征服王朝説を論外とすれば 、ブリテンとスキタイを結ぶローマに当たるものが、日本とスキタイの間には見出せない 。日本神話とナルト叙事詩の比較研究の将来はこの点の克服にかかっているであろう。
 なお、金文京氏によると、十三世紀モンゴルはアラン人などのスキタイ系部族を阿速衛 (「阿速」はasの音写、オセットと同語源)として元朝近衛軍に編入していたという。 金氏はリトルトンの説を踏まえ、ナルト叙事詩は阿速によって中国にも伝えられ、明代伝 奇小説の成立に影響を及ぼしたのでないかとして、次のように述べている。
「実証はむろんむずかしい。しかし古代スキタイ神話の英雄が、その軍団の移動と共に、 一は西へ行きアーサー王伝説となり、一は東に来て孫悟空や花関索などの物語を豊富にし たと想像するのは、それだけでも夢があって楽しいではないか」(金文京「『三国志演義 』と『西遊記』」『ユリイカ』一九九八年九月号、花関索は『三国志演義』などに登場す る関羽の息子)

 

 

グラストンベリその後

 

 さて、話をグラストンベリに戻して、アーサー王の墓の捏造以来、グラストンベリ修道 院が史料の捏造や改竄を繰り返し続けたことは先述の通りである。青山吉信氏は中世の伝 承偽作者の心理について次のように述べる。
「今日にあっても、ときとして現実と無限との識別困難な経験や回想をもつ場合があるが 、ときは中世である。幻示、幻影もまた、新たなる神=近代合理主義による洗礼を経ない 中世人には、なおのこと“真実”の一つであった」
「中世にあっては、超自然力との交感もまた日常生活の一部であり、ヴィジョンや啓示も 、現実生活を構成する“事実”であり“真実”であった。それゆえ、みずからが、また他 の正しき人が体験し、体験したと信ずるヴィジョンが幾度となく語り伝えられるうちに、 誤りなき真実に転ずべきことは、むしろ自然な成り行きであった」
「こうした心的態度の奥底には、およそ聖なるもの、奇蹟、ヴィジョン、古伝、聖職者の 言葉、等々にたいする懐疑は、究極的には信仰を根底から揺るがしかねぬとの怖れがひそ んでいた」
「以上の意識とならんで、伝説記述者は、いま一つ、彼らの行為が、所属修道団体への奉 仕にとどまらず、みずからの信仰表白の確証でもあり、最終的には、神の恩寵宣布への参 加にほかならぬとの確信に支えられていた。ライヴァルたる他院への攻撃や論駁のため、 その対象たる当の相手と同じ手で、自分の側でもなみはずれた捏造改竄や“利己的”な強 弁をおこなったとして、最終的に逃げこみ得る倫理的正当性の根拠はここにあったのであ る。それゆえ、旧来の伝えを捩じ曲げ、今日でいう改作、挿入、省略等々、あらゆる術策 を弄することも、所属修道団体の尊厳と繁栄を増進し、究極的には福音宣布の神意に適う 行為を意味した。したがって伝説作成者には、基底にある信仰宣布の大義からすれば、あ からさまな“虚偽”の創作、架空の説話の捏造といった、われわれを躊躇させる今日的倫 理意識はほとんどなかったし、あったとしてもきわめて微弱だったと断ぜざるを得ない」 (前掲『グラストンベリ修道院歴史と伝説』)
 もっとも今日でも、自分が思い込んだ「真実」に固執して、そこに懐疑が向けられるの を防ごうとする人や、自ら属する組織を守るために平気でウソをつける人は後を絶たない 。その意味では青山氏の指摘は中世だけに限ったことではないだろう。
 チョーサーの『カンタベリ物語』やボッカチオ(一三一三〜一三七五)の『デカメロン 』(一三五三頃完成)には、怪しげな聖遺物を持ち歩き、その由緒を騙っては飯のタネに する説教師たちの暮らしぶりが出てくる。中世ならではの情景といいたいところだが、今 でもその程度の偽作物にひっかかる人は少なくなく、したがって中世の説教師さながらの ペテン師も暮らしていけるというわけだ。
 しかし、そのような輩の心理が「近代的合理主義」とも「今日的倫理意識」ともほど遠 いこともまた確かである。
 さて、グラストンベリ修道院は英国の国策に添い、その王権の伸長を助けることによっ て自らも繁栄してきたが、十六世紀にはそれまでのツケを一気に払わなければならなくな る。
 自らの離婚問題をめぐって法王庁と対立していたヘンリー八世(在位一五〇九〜一五四 七)が、ついに一五三四年、国王至上法を議会に可決させたのである。
 これにより、英国国王は単に国家の首長であるばかりではなく「アングリカーナ・エレ クシアと呼ばれるイングランド教会の地上における唯一至高の首長」であることが宣言さ れた。英国国教会の成立である。
 英国国内の修道院は次々と閉鎖され、その土地・財産は没収されて国庫を豊かなものに した。グラストンベリ修道院もその手を逃れることはできなかった。一五三九年、最後の 大司教がヘンリー八世の離婚に反対した罪で捕らえられ、トールの丘で処刑される。遺体 はバラバラにされ、二十カ所でみせしめのために晒されたという。
 また、修道院の破却と共にエドワード一世が作った墓も壊され、その中に納められたア ーサー王の遺骨(と称するもの)は永遠に失われた。
 鉛の十字架については、ヘンリー八世の調査官だったジョン・リーランドがその写しを 入手し、記録を残している。また、古事研究家ウィリアム・キャムデンは著書『ブリタニ ア』の第一〜第五版(一五八六〜一六〇〇)に十字架の銘文を採録していたが、その第六 版(一六〇七)ではついに模写図を掲載することができた。
 十字架の現物は十八世紀までグラストンベリの近く、ウェルズ市のヒューズ家にあった と伝わるが、その後の行方と知れない。
 現在、グラストンベリの地にはかつて修道院があったことを示す廃墟が残るだけである 。その一角、アベイ・チャーチ跡には、そこにアーサー王の「墓」があったことを示す立 て札があり、訪れる人はそこに佇んで伝説のアーサー王を偲ぶしかない。
 一方、グラストンベリ修道院のライバルだったカンタベリは英国国教会の中心として、 またカトリックの聖者ベケット殉教の地として、今や世界中から巡礼(観光客?)を集め 、賑わい続けているのである。
 

 

 

                       2000  原田 実