エルサレムまで何マイル?

 

 


 

 

獅子心王リチャード一世

 

 現イスラエル共和国の首都エルサレム、それはユダヤ教においてはダビデ王、ソロモン 王の栄華の跡であり、キリスト教徒にとってはイエス・キリストによる人類贖罪の地であ り、イスラム教徒にとってはムハンマドが天馬ブラークに乗って赴いたという天界への入 口である。この地は三つの宗教にとって共通の聖地であるため、その争奪に数多の流血が くりかえされることになった。
 六三八年、イスラムの第二代カリフであるウマルはエルサレムを無血開城。その後は聖 地への畏敬から寛容政策をしき、この伝統が十一世紀まで続いた。エルサレム城内には、 ローマ教会信者の街や、アルメニア正教を奉じる人々のアルメニア人街、ユダヤ人街があ り、各宗教の巡礼や交易のために訪れる人々で賑わっていた。
 一〇九五年、ローマ教会は聖地の独占を図り、ヨーロッパ諸侯に十字軍の結成を呼び掛 けた。一〇九七年春、フランク人の軍勢が十字軍の名の下にコンスタンチノープルに終結 、トルコ半島からパレスチナへと兵を進める。一〇九九年六月、フランク人はエルサレム を包囲、七月十五日にはこれを陥落せしめる。
 血に飢えたフランク人はイスラム教徒に虐殺と略奪の限りを尽くし、ユダヤ人はシナゴ ーグごと焼かれた。ローマ教会信者はフランク人との内通を恐れたイスラム軍により城外 に追放されていたため難を逃れたが、もしも残っていたなら、彼らもまた同じ目にあって いただろう。フランク人の暴虐は、同じキリスト教徒であるはずのギリシャ正教、アルメ ニア正教などの信者にも及んでいたからである。
 十字軍による聖地「浄化」の後、初代エルサレム王国国王の位についたのは、ブローニ ュ伯ボードワンであった。フランク人のエルサレム王国は八八年の間存続したが、一一八 七年十月、クルド人の英雄にして、エジプトのアイユーブ朝の始祖サラディン(サラーフ ・アッディーン)によって聖地は奪還される。
 サラディンはフランク人との戦闘の最中、虐殺も破壊行為も一切行わず、聖地解放後は キリスト教徒やユダヤ教徒にも信教の自由を認めた。また、戦闘後の流血をさけるため、 エルサレム落城の際、イスラム軍に捕らえられていたローマ教会司祭やフランク人捕虜も 解放し、彼らは生きてパレスチナを離れることができた。
 しかし、サラディンが一一九三年に世を去った後、アイユーブ朝はたちまち衰微し、そ の機に乗じた十字軍とイスラム勢力の間でまたもや流血がくりかえされることになる。
 その後の成り行きはさておくとして、サラディンがフランク人と戦っていた頃、遠くイ ギリスからエルサレム王国救援の十字軍を率いて遠征し、後世、サラディンの好敵手とし て歴史に名を留める人物こそ、獅子心王リチャード一世(在位一一八九〜一一九九)であ る。リチャード一世はついにエルサレム奪還こそできなかったが、その武勲の数々はイギ リス国民の誇りとなり、西の果ての島国の国民に、東方の聖地への憧憬と親近感をつちか うことになった。
 中世の伝説によれば、イギリスとエルサレムの関係はさらに古代ローマ時代にまで遡る 。キリスト教をローマ帝国の国教としたのはコンスタンチヌス大帝(在位三〇六〜三三七 )だが、三二六年頃、皇帝の母ヘレナ大后は自らエルサレムに赴き、キリストが磔にされ た聖十字架およびキリストの墓を発見したという。現在、そのキリストの墓があったとさ れるあたりにはキリスト教各派共通で管理する聖墳墓教会が建てられている。
 そして、『ブリテン列王紀』によると、このヘレナ大后の父親は、ブリテンの伝説的な 王、オールド・キング・コールその人だったというのである。この話はイギリス以外にも 知れわたっていたらしく、『黄金伝説』にも次のように記されている。
「信頼できるある年代記にも書かれているように、ヘレナはブリトン人の王クロヘリスの 娘であったと考える人たちもいる。それによると、コンスタンティヌスがブリタニアを攻 めたとき、王のひとり娘であったヘレナを妻にした。クロヘリスが死ねばこの島国がわが 手にころがりこむと踏んだからだという。このことは、ブリトン人たちもみとめている」 (前田敬作・山口裕訳『黄金伝説』第二巻、人文書院、一九八四。コンスタンティヌス大 帝の父コンスタンチヌス副帝は在位二九三〜三〇六)
 つまり、中世には聖十字架とキリストの墓はブリテンの王女によって発見されたと、広 く信じられていたというわけである。
 英国王戴冠式の聖歌は、エルサレム建都を宣言・賞賛するものである。また、アングロ サクソンにはデビッド(ダビデ)やジェームズ(ヨセフ)、ジョン(ヨハネ)などヘブラ イ系のファースト・ネームを持つ者が多い。こうしたことから英国王室はイスラエルの直 系である、あるいはアングロサクソンはいわゆる「失われた十支族」の末裔であるという 説も英国では古くから唱えられている。

 

 

ロンドンこそ新たなエルサレム

 

 十七世紀イギリスの清教徒の間には、ユダヤ人ではなく、英国人こそが真の「神の選民 」であるという信念が広まっていた。一六四九年から五八年まで続いたイギリス共和制の 指導者オリヴァー・クロムウェル(一五九九〜一六五八)は清教徒の典型のような人物で あったが、彼は旧約聖書「詩篇」の一節「イスラエルの神は御自らの民に力と権威を賜る 」を引き、共和国議会に対して、選民としての自覚を持つよう呼び掛けた。
 清教徒は信仰の純粋さを尊ぶが、その純粋さにこだわる余り、極端な主張を説く宗派も 派生した。たとえば神から直接啓示を受けようとするクェーカー教徒、道徳律廃止論を説 くランターズ、教会を否定してパブ(居酒屋)に集うマグルトン派などである。
 彼らはいずれも英国人はエルサレムを再建すべき使命を帯びている、あるいは英国に新 たなエルサレムが現れるなどと説いた。たとえば、ランターズのシオーロ・ジョンことト マス・タウニーは、一六五〇年、エルサレムにユダヤ人を召集するべく神より任せられた と宣言している。数年後、タウニーは小船でパレスチナまで渡ろうとして、海に落ち、そ のまま溺死した。
 十七世紀のこうした熱狂は十八世紀の詩人ウィリアム・ブレイク(一七五七〜一八二七 )に引き継がれる。ブレイクの叙事詩『エルサレム』(一八二〇年彫版完成)では、世界 と人類を象徴する巨人アルビオンの堕落と再生を通して、ブリテンが失われたアトランテ ィス大陸の名残であり、ロンドンこそ真のエルサレムであることが示される(「アルビオ ン」はブリテンの古名の一つ)。
 大熊昭信氏はアルビオンすなわちイギリスに世界と人類を代表させるというところにブ レイクの「中華思想」ともいうべきものを見出す(大熊『ウィリアム・ブレイク研究』彩 流社、一九九七)。また、イギリスの歴史家アーサー・レズリ・モートンは「ブレイク自 身は英国がユダヤ教徒の最初の故郷であると信じていたように思える」と述べている(モ ートン著、松島正一訳『ブレイクとランターズ』北星堂、一九九六、原著一九五八)。
 また、やはり十八世紀の神学者ウィリアム・スタケリーは、英国国教会は古代ドルイド の正統的後継であり、それは神が人類に啓示した真の宗教そのものだからユダヤ人はパレ スチナではなくブリテンにこそ聖地を求めるべきだと説いた。スタケリーによると、ユダ ヤ人がブリテンに「帰還」し、キリスト教に改宗したその時こそ、新たなるエルサレム、 キリストの地上の王国が光臨するのだという(ジョン・ミッチェル著、和田芳久訳『奇天 烈紳士録』工作舎、一九九六、原著一九八四)。
 一八八三年には高名な奇人がエルサレムを訪れた。太平天国鎮圧の英雄チャーニズ・ジ ョージ・ゴードン将軍(一八三三〜八五)である。彼は狂信的なファンダメンタリストで 品行正しき人物として知られていた(ただし、彼の女性問題への潔癖さはその同性愛的性 向と無関係ではなかったようだ)。
 ゴードン将軍は神秘的な霊感を受けて、キリストのほんとうの墓は聖墳墓教会の場所に はないことを知り、エルサレム北郊にある一世紀頃の埋葬遺跡こそ、真のキリストの墓で あると主張した。彼はさらにその周辺にあるはずのエデンの園をも探し求めたが、やがて イスラム軍軍との戦いのためにスーダンに去り、ハルツームに戦死した。英国国教会は当 初、ゴードン将軍の「発見」を正式に支持したが、彼の没後に撤回した。
 英国保守党の雄ベンジャミン・ディズレーリ(一八〇四〜一八八一)や作家ジョージ・ エリオット(一八一九〜一八八〇)は「ユダヤ人よ、シオンに帰れ」と呼び掛けた(シオ ンはエルサレム郊外の丘の名)。テオドール・ヘルツェル(〜一九〇四)がシオニズム運 動を興した当初、国家としてこれを支援したのはイギリス一国のみだった。英国首相アー サー・ジョージ・バルフォア(一八四八〜一九三〇)によって提案され、一九一七年十一 月二日に閣議を通過した「バルフォア宣言」はまさに「イギリスはユダヤ人をエルサレム に帰還させる義務がある」という信念を成文化したものであった。
 それはかなりの変質をともなっているとはいえ、獅子心王以来のイギリスによる聖地奪 還の使命感を受け継ぐものである。そして、その本音としての動機、中東でのイギリスの 利権確立という野心もまた十字軍以来のものであった。
 英国はバルフォア宣言発表と平行して、パレスチナをアラブ人の手に委ねるとの公約を も暗に示していた(その際、イギリス政府とアラブ側の仲介になっていたのがかの有名な アラビアのローレンスである)。そのため、パレスチナでは長年共存してきたアラブ人と ユダヤ人は、国土の独占をめぐって争うことになる。今にいたるも続くイスラエルとPL O(そして、それを支援する中東イスラム諸国)の争いはイギリスの無定見な中東政策か ら生じたものだったのである。
 帝国主義の時代には、英国=ユダヤ同祖論は大英帝国の世界支配を正当化するためにも 用いられた。エドワード・ハイン(一八二五〜九一)の『英国民とイスラエル失われた十 支族との共通点を示す四七の身分証明』(一八七四)によると、旧約聖書「エレミア書」 で神が「お前が散らされていた国々をわたしは滅ぼしつくす」と告げている以上、大英帝 国にくみこまれたタスマニアの原住民が絶滅したのは神の摂理であり、アイルランド人、 ネイティブ・アメリカン、オーストラリアのアボニジニ、ニュージーランドのマオリなど も遠からずその後を追うであろうという。

 

 

エルサレム=エディンバラ説

 

 明日のエルサレムがイギリスに現れるとすれば、昨日のエルサレムもイギリスにあって 何がおかしかろう。ブレイクの詩的幻想を「現実」の歴史に写し込み、世界史そのものを 書き替えようとした人物として、ウィリアム・コミンズ・バーモントの名が挙げられる。 彼は『先史ブリテンの謎』(一九四六)、『世界史の鍵ブリテン』(一九四九)、『アト ランティス後』(未刊)の三部作でエルサレムはパレスチナではなく、スコットランドの エディンバラにあると主張した。
 オリブ山の名は現エルサレムにある同名の山よりも、エディンバラ郊外の「アーサー追 うの腰掛け」といわれる山にこそふさわしい。パレスチナにある港町ジョッパは、エディ ンバラ近郊の同名の町が移されたものだという具合である。ボーモントによれば、聖書の バビロンとはヨーク、ダマスカスとはロンドン、ソドムとタルシシはともにブリストルの ことであり、イエス・キリストが生まれたベツレヘムは「エデンの園」とも呼ばれたイン グランドのグラストンベリー、彼が活躍したガリラヤはサマーセットにあったという。
 一九五〇年、ボーモントは新聞に投書し、聖書の描く聖地がパレスチナではなくブリテ ンにあることを証明するために考古学的調査を行うべきだと提案した。
 もっとも、ボーモントがブリテン諸島に求めた古代国家はイスラエルばかりではない。 たとえばエジプト、ギリシャ、バビロニアもスコットランド西部、真のエルサレムの近く にあったし、カルデアの都ウルはオークニー諸島にあった。またブリテン諸島そのものが 古代にはアトランティスとも呼ばれていたという。
 古代ブリテンの没落は、モーゼ、ゾロアスター、オーディンとも呼ばれる邪悪な征服者 の侵略から始まった。エルサレム(エディンバラ)は強大な侵略者の軍勢に包囲され、あ わや落城という時、彗星がその近くに落下して侵略者は亡びた。彗星墜落は後世、神の奇 蹟と称されることになるが、それに伴う天変地異はブリテン=アトランティスをも壊滅さ せた。この時、ブリテンから地中海へと植民した人々はやがて発祥の地を忘れさり、自分 たちが先祖代々その地に根づいていたように思い込んでしまった。
 さらに後世になると、ローマ帝国がブリテンを組織的に略奪し、古代国家の建造物をも 奪って地中海方面に移築した。歴史改竄のとどめを行ったのがコンスタンティヌス大帝で 、彼は母ヘレナ大后を騙して偽の聖十字架をパレスチナで「発見」させ、古文献の検閲・ 焚書を徹底して聖地がブリテンにあったとする伝承を根絶した。また、現行の聖書はパレ スチナに執着するユダヤ人によりことごとく書き替えられてしまったのだという。
 ボーモント説に結実するイギリス人の聖地執着は、ギリシャ・ローマ・オリエントの古 代文明圏から遠く離れ、ヨーロッパでは文明の後発国たることを余儀なくされたイギリス のコンプレックスの反映と見ることが可能であろう。その事実を素直に認めることができ ない人々が、イギリスこそ神に定められた聖地であった、あるいは地中海の古代文明より も古いアトランティス文明の発祥地であったという幻想に慰めを求めるのである。
 余談だが、西欧文明の伝播という点からはイギリスよりもさらに後発国であったアメリ カ合衆国で、新大陸は失われた十支族が開いたと説くモルモン教が興り、イグネチアス・ ダンリー(一八三一〜一九〇一)の近代アトラントロジー(世界のあらゆる文明の発祥地 がアトランティス大陸にあるという主張)やジェームス・チャーチワード(一八五二〜一 九三六)のムー大陸説が発祥した遠因も同様の心性にあるのかも知れない。
 また、最近のアメリカ合衆国でキリスト教ファンダメンタリズムが流行しているのも、 このことと無関係ではなさそうである。
 シオニズム運動を最初に支援した国家はイギリスだったが、現在、イスラエルの最大の 支援国となっているのはアメリカ合衆国である。特にファンダメンタリストを標榜するド ナルド・レーガンが政権の座について以降、イスラエル支持はアメリカの確固不抜の政策 となってしまった。
 越智静雄氏によると、現在、アメリカの政策に大きな影響力を持っているファンダメン タリストたちにとって、最終戦争の戦場(メギド高原=ハルマゲドン)と、再臨のキリス トが統治するべき千年王国の都エルサレムを擁するイスラエルを手放すわけにはいかない のだという(越智「アメリカにおけるキリスト教右翼の文脈」『ユリイカ』一九九九年二 月号)。かつてのイギリスの聖地執着がアメリカにも感染したかのようである。

 

 

イスラエル共和国での「遺跡」捏造

 

 さて、ボーモントの妄想を笑い飛ばすのは簡単なようだが、その前に厄介な問題がある 。それは現在のパレスチナに旧約聖書時代のイスラエルがあったことを示す決定的な考古 学的証拠がない、ということである。
 前六三年、エルサレムはローマ軍の前に陥落し、パレスチナはローマ属領に編入された 。その動乱の中でローマへの協力者として自歩を固め、ユダヤの領主となったのが新約聖 書に名高いヘロデ王である(ただし実際にイエス・キリストに会ったのはこのヘロデ王の 息子)。ヘロデ王は紀元前四年にこの世を去るまでの間に精力的にエルサレム市街の整備 を続け、彼が築いた城塞、砦、舗装道路の後は今も多数残されている。
 また、ヘロデ王が発行したコインもパレスチナの各地から出土する。ヘロデ王のエルサ レム、すなわちローマ属領としてのユダヤの首都がパレスチナの現在の場所にあったこと は疑うべくもない。ところが旧約聖書の時代となると、この状況は一変する。
 たしかにパレスチナには旧約聖書時代の遺跡が多数存在する。その中には、モーセの後 継者ヨシュアに攻め亡ぼされた城塞都市イェリコの跡といわれるものもある(ヨルダン川 河口西北十五キロ地点)。
 しかし、それらの遺跡が聖書に登場する都市であることを裏付ける文字遺物はパレスチ ナからは一点も出土していない。イェリコといわれる遺跡にしても、旧約聖書のヨシュア の時代と対応する年代の破壊の跡はいまだ見出されていないのである。
 一八六八年、モアビという国の王メシャが前九世紀頃、イスラエルと戦ったことを記し た石碑(モアビ碑文)が死海のほとりで発見されているが、これもメシャがこの地方にい たことを示すだけで、その敵国たるイスラエルの所在もパレスチナであったか否か、決定 的なことはいえない。
 第二次大戦後、イスラエル共和国が成立して以降、ユダヤ人たちは旧約聖書の時代から 自分たちの祖先がその地に建国していた証拠を探し求めてきたが、その成果ははかばかし いものではない。
「熱にうかされたような遺跡探しがはじまり、目をみはるようなものがぞくぞく出てきた 。すべて正真正銘だという、有名なヘブル人の預言者や王の墓、サウルの玉座、サムソン のものといわれる洞窟などが、毎日のように霊感にうたれた熱心なアマチュア考古学者に よって発見された。こうした発見には、アブネル、サウル王の参謀長、預言者ナタンなど 比較的マイナーな聖書の登場人物の墓もあった。〔こうした“発見”は第一次十字軍当時 の似かよった発見を思い出させる−数例をあげれば、アンティオキアでの“聖槍”の発見 や、カエザリアでの略奪品の中に見つけた杯を“最後の晩餐の杯”とボードワン一世が認 めたといったもの〕有名な考古学者イガル・ヤディン教授は、ヘブロンの大モスクにある 中世の墓石はアブラハム、イサク、ヤコブとその妻たちのものではなく、とうに忘れ去ら れてしまったアラブ人首長たちのものかもしれないと新聞に書いたが、これに対して宗教 相は公式の批判分を出した。由緒がどうあれ、そんなことおかまいなしにいくつかの古い 石は熱烈な崇拝の対象となり、呪物崇拝と紙一重の様相を呈した」(アモス・エロン著、 村田靖子訳『エルサレム』法政大学出版局、一九九八、原著一九八九)
 この状況を逆にいえば、旧約聖書時代のエルサレムが現在のエルサレムと異なる場所に あった、という論者に対する有効な反論は、意外と難しいということなのである。ボーモ ントのエディンバラ=エルサレム説は無理にしても、パレスチナ以外の中東にも、エルサ レムの所在地と目された場所はあるのだ。その点については後述することにしよう。

 

 

諏訪神社はエルサレムにあった?

 

 さて、先にイギリスの聖地執着の心理的背景に、イギリスが西欧文明の後発国であると いうことを指摘したが、それをいうなら日本もまた西欧文明の基準では後発国の一つであ る。ということは日本でイギリスと類似の政治執着が発生してもおかしくはない。
 明治時代の哲学者・木村鷹太郎(一八七〇〜一九三一)は、『世界的研究に基づける日 本太古史』上巻(一九九一、下巻刊行は翌年)において、日本の出雲神話にいう「八雲た つ出雲」の語は、旧約聖書「創世記」に現れるヤコブ(ヤコモ)とイドムの兄弟を意味す るものであり、オオクニヌシの伝記にはヤコブの子でエジプト宰相となったヨセフとその 弟ベニアミンやダビデ王の事績が含まれていると説いた。
 木村によると出雲神話のみならず、日本の古典には聖書と共通の記述が多くみられるが その先後関係については「猶太の歴史家等が日本の文学より竊かに其文章を盗み取りて、 以つて自国の建国史を装りしものなることは、火を見るよりも明かなり。何となれば日本 伝来の其文学は、吾人の神話及び信仰と自然の調和を有し又た古代的なりと雖、猶太の夫 れは構想新規にして、彼等の信仰に取つては、一種付着物的性質なればなり」という。
「大国主ノ神若しヨセフなりとせば(又其「アブラ」なる語より研究してアブラハム関係 或は之れ有らん)基督なる思想は最も古くよりイドム、埃及方面に存在し、後代パレスチ ナの地に於て其信仰を再興し、此信仰及び大国主神或は少名彦名の神徳を中心として、種 々の学説及び伝記を之に結合付着せしめて編纂せしもの、是れ現在の耶蘇教たるなり」( 『世界的研究に基づける日本太古史』上巻、「キリスト」の語源はギリシャ語で「油塗ら れたる者」の意味)。
 さらに木村によると、国譲りの際、オオクニヌシの子・タケミナカタが逃れたという信 濃の諏訪の海とは、日本の長野県の同名の湖ではなく、死海のほとりエルサレムであり、 タケミナカタとはダビデの子ソロモン王にあたる。すなわち、「信濃」はシナイ山、「諏 訪」とは死海の別名アスハルトを音写したものだというのである。
「尚ほ最も面白き考証の材料は、極東日本の諏訪神社の縁起及其の地守屋氏の系図中、建 御名方ノ神の諏訪の海に遁れ行きましし時、其地に洩矢ノ神なるもの居りて之れを拒むと のことと、又た諏訪湖の西方に守屋山なる山ある事之れなり。而して又たエルサレムの地 図を見よ、死海の西方、エルサレム市の中央部にモリヤ(Moriah)山即ち橄欖山有 るを見ん。是れ偶然の一致なるか、はた又一致の当然理由はあらざるか。(中略)極東日 本の諏訪神社は、これエルサレムの移写たるなり。(又其洩矢の神が、建御名方の入国を 拒みしは、物部の守屋が仏教の入国を拒みし史伝の別伝と見る可き如し)」(『世界的研 究に基づける日本太古史』上巻。木村はモリヤ山と橄欖山すなわちオリブ山を混同してい るが実際には別の山)
 ちなみにタケミナカタと諏訪の土地神たる洩矢ノ神との戦いは『諏訪大明神画詞』など に語られており、最近では劇画の題材になったこともある(諸星大二郎『孔子暗黒伝2』 集英社、一九七八)。
 また、木村は『希蝋羅馬神話』(一九二二)において、釈迦の伝道はインドではなくオ リエント、アフリカで展開されたとして、「(釈迦は)地中海岸の猶太に説教し、エルサ レムが王舎城」で「印度は仏教の東流地に過ぎぬ」とも述べている。つまり木村はエルサ レムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教のみならず神道と仏教の聖地でもあると主張し たわけである。
 さて、日本神話、特に出雲神話と聖書の記述の類似は日本=ユダヤ同祖論者がよく持ち 出す話題である。聖書に「エドム」という人名・国名(パレスチナ南部とされる)が登場 することやエルサレムのモリヤ山の存在も、語呂合わせによる結びつけを容易にしている 。たとえば、小谷部全一郎(一八六七〜一九四一)は『日本及日本国民之起源』(一九二 九)において、パレスチナのイドム地方にいたエサウ族がエルサレムの先住民エブス人と 共に、イスラエル人に追われて日本列島まで逃れ、出雲族、蝦夷、アイヌとなったと説い た。小矢部によると、その後、イスラエル人も日本に渡来して天孫族になったという。 「西部亜細亜のカナンの地に在りてエサウ人がエブスと呼ばれたるエミス民族と共力して イスラエル人と戦いたる如く、本州にありてもエソ人とエミス人と協力して新来の優秀民 族に反抗して遂に勝つこと能わず帰順せるものは混血して日本民族となり、敵対せるもの は滅ぼされ或は東北地方に逃れて自滅せるは、東西其の揆を一にするものと謂うべし」 「是れ或は古事記に伝うる出雲とエソ及びエビス等の伝説は、西部亜細亜に於けるエドム のエサウ及びエブスに関するものを伝うるにあらずやとまで思われざる点なきにあらざる も、兎に角国名といい、種族名といい将又歴史上の出来事といい彼我共に悉く一致するは 史家の注目すべき所なるべし」
「蝦夷と呼ばるるエソも、また天孫人種も、始めは皆西部亜細亜のカナン、即地今のパリ ステナ中心とする地方に居住せる民族にして、而して彼地に在りても本州に於けるが如き 順序に依り、穴居民族たるエブスは先住民にして多毛強勇なるエサウ民族に逐われて東方 に逃れ、後にエサウも優秀なるイスラエル民族に征せられて東走し、後年イスラエル人は 隣国のアッスリアに攻められて国を亡ぼし、是亦前者の足跡を辿りて東遷し、幾世紀の後 と雖も其の不言の軌道を歩み、三者極東の本州に於て復又大陸に於けると同一の順序に依 りて相争い、遂に神智勇武なる天孫民族に征服統一せられたるに顧みれば、人は畢竟小な る地球上に於て同一の歴史を繰返し居るものの如くに観ぜられる」(『日本及日本国民之 起源』)
 戦後は、鹿島f氏が、物部守屋の名はイスラエルのモリヤ山から来たもので古代インド のマウリア王朝とも同語源である、諏訪神社の秘祭とされるイサクジン祭祀はカナアンに 起源した(鹿島『倭人興亡史1』新国民社、一九七九)、出雲神話の神統譜はイスラエル 王家の系図でオオクニヌシはソロモンにあたり物部守屋はその子孫である、また日向神話 のサルタヒコの一族はイスラエルから別れたユダ王家でサルタヒコの名や伊勢の地名はど ちらもエルサレムを意味するものである(川崎真治・鹿島共著『シルクロードの倭人』新 国民社、一九七九)などと説いている。
 また、清川理一郎氏も、諏訪の土地神としての洩矢神、エルサレムのモリヤ山、インド のマウリア王朝、物部守屋の名はすべて同語源であり、その原点は旧約聖書「創世記」で アブラハムが長男イサクを生贄にするよう神に命じられたというモリヤの地にあるとする 。諏訪神社の秘祭イサクジン(ミサクチ)祭祀とはイサクを祭るものだったというわけで ある(清川『諏訪神社謎の古代史』彩流社、一九九五)。
 鹿島氏は一九七九年の時点ではまだ木村鷹太郎の著書を読んではおられなかったようで ある。また、清川氏の『諏訪神社謎の古代史』にしても、巻末の参考文献表に木村の著書 は挙げられていない。しかし、イドム=出雲、モリヤ=洩矢or守屋、といった語呂合わ せは木村ならずとも思いつく程度のものであり、直接の影響関係がなくても類似の結論に いたるということは十分にありえたのだろう。

 

 

日本に新たなエルサレムを!

 

さて、木村は一九二〇年、『耶蘇教の日本的研究』なる一書を発表した。この書は一九八 一年、八切止夫により『旧約聖書日本史』(日本シェル出版)として編集復刻されており 、そちらをご覧になった方も多いかも知れない。同書のテーマは、イエス・キリストが複 数の神話上、伝説上の人物(その中には講談の佐倉宗五郎まで含まれている!)を合成し て作られた架空の人格であると説くものである。しかし、同書には、聖地執着という観点 からみて注目すべき二つのベクトルがある。その一つは日本こそが真の聖地、新たなるイ スラエルであるという主張である。
「実にヤコモ家(八雲家)のダビデの王位を継いで居る者は日本の皇室であることを知っ た以上は、猶太教家及び耶蘇教家等は、太古に行衛を失ふたダビデの王統や其中堅民族を 盗用日本に発見したもので、必ずや日本皇室及び日本民族に対して従来の傲慢不遜の態度 を改め、一種言ふに言へざる厳粛な喜びの感なきを得ざる事と信ずる」
「従来の猶太教徒、耶蘇教徒等は、エルサレムを聖都とし、シオンの昔をのみ夢みて居る (否或は欧米諸国を崇拝の目的物として居たかも知れぬ)が、彼等は今や流れの如く日本 につき、『いざ我等伊勢に座して天の下四方の国を安らく平けく治ろしめさん大神に詣ら ん』『いざ我等ダビデの王位を無窮に継ぎ玉へる日の御門に行かん』と言うやうになる」 (『耶蘇教の日本的研究』)
 これはイギリス国内にエルサレムを求めんとしたイギリス人の聖地執着に通じるものが ある。木村に続く世代の小谷部となると、イギリスからの直接の影響も顕著である。なに しろ『日本及日本国民之起源』には、エドムンド・ハイネ、ダグラス・オンスロウ、H・ H・ペイン、アルダースミス博士、レヴィ・ミルネア、シオドア・ベントなど多くの英国 =ユダヤ同祖論者の名とその著書名が挙げられ、次のように評しているほどだ。
「日本に於て之に類する説を主張して本書を著したるもの或は余を以て嚆矢とするも、西 方の英帝国にありては、其の祖先を猶太人なりとすること今は公然の秘密となり居れり。 (中略)大英国民が其の国祖及び皇室の起源に就て堂々とその研究を発表し、一般の国民 も皇室も黙して之を傾聴し、而して是等の何れの書籍も今日に至るまで無難に愛読せられ つつあるは、真理の顕彰を以て声明とする学究者に敬意を払う大国民の襟度して畏敬に値 す」
 なお、小谷部は同書においてパレスチナでのシオニズム運動を批判し、シオニストたち に「東方に金甌無缺三千年の神国日本の毅然卓立する事を知らず、屋上更に屋を架せんと して神国建設の運動に盲動しつつある猶太の子孫等よ覚醒せよ。(中略)卿等須く大悟徹 底し、総べてを全智全能の神の力に委せ、労して功なき宣伝を止め、堅固なる自己の国家 を日本に隣接する東部西比利亜のザバイカルに建設し、我日本と唇歯輔車の和親を保ちて 徐に神の道を天下に弘布し、物質文明に陶酔して前後を弁えざる現代人に覚醒の機を与え 、世界を真の平和に導く仲介者たれよ」と呼び掛けている。
 小谷部は一八八八年に渡米し、九七年にはエール大学の博士号を得ている。また、一九 一九年には陸軍通訳官としてシベリア出兵に従軍しており、そこでもユダヤ問題について 学ぶ機会を得たらしい。

 

 

酒井勝軍の倒錯

 

 小谷部と同様、若くしてアメリカに留学し、またシベリア出兵に従軍した経歴を持つ人 物に酒井勝軍(一八七四〜一九四〇)がいる。彼がシカゴのムーディー学院及びシカゴ音 楽大学に学んだのは一九九八年から一九〇二年にかけて、通訳としてシベリアに従軍した のは一九一八年のことである。彼の場合、シベリアで学んだものは当時、ロシアで流行し ていたユダヤ禍論、陰謀論であった。
 一九二四年、酒井は『猶太民族の大陰謀』『猶太人の世界政略運動』『世界の正体と猶 太人』の著書を立て続けに世に問う。これを称して酒井の「反ユダヤ三部作」というのだ が、その論旨は「反ユダヤ」の一言で片づけるにはあまりにも奇怪なものであった。
「アア猶太人は凡てを破壊し、凡てを滅ぼしつつあるなり、但し彼れ神国を全地上に建設 すべき使命を有すればなり。而して彼に滅ぼされつつありて実は滅びず、反つて最後に彼 を膝下にすべきもの二あり、曰く、基督教なり、曰く、日本帝国なり、即ち『羔シオンの 山に立てり、十四万四千の人是と偕にあり』の聖句之を明かにして余りあり。(中略)羔 とは再臨のキリストなり、シオンの山とは日本帝国なり、而して十四万四千の人とはイス ラエル十二支族を指したるものなり」
「我等は猶太人の最後の勝利を信ぜざる能はざる時代に生れ居るものにして、亦日本帝国 が同じく千代に八千代に栄ゆべきものなることを信ずべき多くの理由を有するものなり、 而して余は聖書の約束及黙示に由りて日本こそ猶太人の鶴首翹望する帝国なることを信ず る者なり」(『猶太民族の大陰謀』)
 ロシアやナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に口実を与えた史上最悪の偽書『シオンの議定 書』(プロトコル)も、酒井にかかっては、ユダヤ人とマソン(フリーメーソン)の暗躍 が最終的には「神選の君主」たる日本皇室の栄光につながるという証拠文書となり、シオ ニズムも日本回帰運動として解釈されてしまう。
 酒井はその後、一九二八年の『橄欖山上疑問の錦旗』(一九二八)『神州天子国』(一 九二八)『天皇礼賛のシオン運動』(一九三一)『天孫民族と神撰民族』(一九三七)で 明確にシオニズム支持の立場を表明する。
 しかし、『橄欖山上疑問の錦旗』を例にとれば、酒井はその中でなおも「日本は神の秘 蔵国なり」「実現せられたるシオンあり、即ち日本是なり」といった宣言をくりかえし、 シオニズム運動はパレスチナの復興に止まらず「シオン帝国の建設」すなわち「日本の天 子の世界君臨」を目指すべきだと熱っぽく語るのである。このシオニズム運動の実情を無 視した強引な展開は「反ユダヤ三部作」とさほど変わるものではない。
 なお、酒井はこの前後、日本こそ世界人類の発祥国であるとする奇書『竹内文献』に傾 倒し、『モーセの裏十誡』(一九二九)『神代秘史百話』(一九三〇)『太古日本のピラ ミッド』(一九三四)『神代秘史』(一九三五)など『竹内文献』関連の書籍も多数著し ている。日本を世界の聖地とみなした酒井が『竹内文献』に魅かれたのも当然かも知れな い。なにしろ、『竹内文献』はユダヤ人も日本から発祥したと主張しているわけだから、 シオニズムとは日本回帰運動である、という酒井の長年の主張を裏付ける(?)文書とも なりうるというわけである(『竹内文献』の方でも酒井の妄想をとりこんでその世界を膨 らませていった形跡がある)。
 意外にも、あるいは当然というべきか、酒井と小谷部は仲が悪かったそうである。小谷 部が日本皇室の先祖を失われた十支族のガド族に求めたのに対して、酒井はエフライム族 を重視した。だが、この二人の説をならべて一刀両断したのがサンフランシスコ在住の牧 師・川守田英二(一八九一〜一九六一)である。もっとも川守田の説はある意味では小谷 部、酒井以上にファナティックだった。
 川守田は『日本ヘブル詩歌の研究』全二巻(一九五六−五七)を著し、日本は紀元前七 一二年、預言者イザヤに伴われて東漸した南朝ユダの王子インマニエルが建国した国であ ることを証明しようとした。川守田によれば、「日本こそ、新しきシオン新しきエルサレ ム」としてイザヤに用意された国であり、その皇室は「ダビデ王の永遠の王座を踏襲した 世界最古の王族」なのである。
 川守田にいわせれば、日本の皇室はユダの正統な王位を継いでいる以上、酒井や小谷部 のように皇室をイスラエルの失われた十支族に結びつけようとする輩は心得違いなのだ。 なお、川守田は日本民謡の囃子言葉をヘブライ語で解釈したことでも有名であり、最近で は『日本ヘブル詩歌の研究』を普及版としてダイジェストした中島靖侃編『日本の中のユ ダヤ』(たま出版、一九九〇)も刊行されている。

 

 

幻の満洲ユダヤ人国家

 

 牧師といえば、内村艦三(一八六一〜一九三〇)にも日本=ユダヤ同祖論的傾向はあっ た。
「日本は神国であり、日本人は精神的民族であるとは自称自賛の言ではない。(中略)国 としての存在を失った後の今日、イスラエルの子孫はその宗教と信仰とを以て世界の最大 勢力である。多くの人類学者に由つてイスラエルの血をまじえたる民と称せられるる日本 人の世界的勢力もまた、亡国とは至らざるも、その第一等国たるの地位をなげしちての後 のことであると思ふ。神が今、日本国を鞭打ち給ひつつあるのはこの準備のためではある まいか(中略)かつて或る有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、行きかふ 市民の内にまぎらふべきなき多くのユダヤ人あるを見て、指さしてこれを案内の人に示し たとのことである。その他日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、また神 道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありといふ。今回米国の日本人排斥に対して、 かの国一派のキリスト信者が“日本人イスラエル説”をとなえて大いに日本人のために弁 じたことを余輩は知る。日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは人のよく知るところであ る」(内村「日本の天職」『聖書之研究』大正十三年十一月刊初出)
 ちなみに内村は「エルサレム大学の設置」(『聖書之研究』大正七年九月十日刊初出) において、同年八月のヘブライ大学定礎式について語り、「かのシオン運動の重要なる計 画中の一たりしエルサレム大学は斯くて建設の緒に就いたのである、之れ亦神の言を信ず る者の最も注意すべき出来事である」として、それを可能にしたシオニズム運動とバルフ ォア宣言を讃えている。
 日本人には縁がないものと思われてきたキリスト教をなんとか根づかせようと苦心惨憺 する伝道者にとって、日本=ユダヤ同祖論は大きな慰めとなるのかも知れない。
 ホーリネス教会監督・中田重治(一八七〇〜一九三九)は『聖書より見たる日本』(一 九三三)において、日本人にイスラエル人の血が流れているばかりではなく、将来、日本 は満蒙からトルキスタン、ペルシャを経てエルサレムまで鉄道を引き、ユダヤ人のパレス チナ帰還を支援するべきだと説いた。
 この奇抜なシオニズム支持論をめぐってホーリネス教会は分裂し、一九三六年、中田は 「きよめ教会」を開く(反中田派は「日本聖教会」を名乗った)。「きよめ教会」は軍国 主義を鼓舞する特異な宗派となった。
 ちなみにエルサレムまでの鉄道敷設計画は晩年の酒井勝軍も説いており、また大本教の 出口王仁三郎(一八七一〜一九四八)も日本の大陸経営はエルサレムまで至るべきだと説 いていた。イギリス人の聖地執着が中東への野心と結びついていたように、日本人の聖地 執着もまた、大陸進出への野望とからみあっていたのである。
 なお、第二次大戦前夜、日本人の聖地執着がひょっとすると歴史の中で大きな意義を持 ち得たかも知れない一幕があった。開戦前夜、上海のユダヤ人社会と接触していた海軍の 工作員・犬塚惟重(一八九〇〜一九六五)と、大連特務機関長・安江仙弘(一八八八〜一 九五四)は共にユダヤ陰謀論の著書があり、しかも日本=ユダヤ同祖論の信奉者でもあっ た。特に安江は日本で最初に『シオンの議定書』を収録した書籍(『世界革命之裏面』一 九二四)を包荒子の筆名で著している。また、シベリア従軍中の酒井にユダヤ禍論をレク チャーしたのも安江だった可能性が高い。
 この犬塚と安江の陸・海軍の枠を超えた協力により、当時、ナチスドイツの魔手を逃れ て極東に逃げてきた多くのユダヤ人が保護されているのである。一九三九〜四〇年、リト アニアの日本領事代理として赴任し、ポーランドのユダヤ人難民のためにビザを発給し続 けた杉原千畝(一九〇〇〜一九八六)の事績は、今や「日本のシンドラー」として有名だ が、その杉原に救われたユダヤ人難民もいったんは犬塚や安江らの保護を受けていたので ある。
 一説には、安江らの思惑は満洲に第二のエルサレム、ユダヤ人国家を作ることにあった という。その構想が本当にあったとすれば、それは小谷部によるバイカルのユダヤ人国家 建設の主張とも似たものになっただろう。
 しかし、ナチスドイツとの同盟関係を強める日本に上海のユダヤ人社会が不信感を抱き 、犬塚らを見限ったために彼らの活動は挫折する。終戦後、安江はシベリアに抑留された まま帰らぬ人になった。犬塚は戦後は日猶懇話会の会長を努め、ユダヤとイスラエルの友 好親善のためにつくした。
 満洲で助けられたユダヤ人の中には、戦後、イスラエル建国のために貢献した人も少な からずあった。彼らは満洲に第二のエルサレムを作ることはなかったが、パレスチナでの イスラエル建国を間接的に支援することになったのである。

 

 

湾岸戦争の主戦場はエルサレム?

 

 さて、木村の『耶蘇教の日本的研究』が内包していたもう一つのベクトル、それは本来 のエルサレムはパレスチナ以外の場所にあったという主張である。それが本当なら、現イ スラエル共和国は誤った場所に建国したことになる。
 先にウィリアム・カミンズ・バーモントのエルサレム=エディンバラ説を見たが、さす がに木村は古代のエルサレムを日本列島内には持ってこなかった。
「従来の聖書地理学者の研究結果に拠ると、聖書地理の多くが、現地中海海岸のパレスチ ナの土地に符合せぬものが甚だしく多く、又た位置も方角も記事と合はぬものが多いこと は、旧来の聖書地理学者が明かに言うて居る所である。(中略)我らの新研究を以つてす る時は、イスラエル人の土地、カナアンの地は二つあつて、其古い方は波斯とカルダヤと 即ちチグリスヨウフラテース河河国の南北の地即ち波斯湾の奥であり、其新しい方は地中 海の東岸の今の所謂パレスチナであることが知られるのである。(中略)猶太民族史は、 出雲族の歴史と一致した部分が多く、そして我出雲歴史に新研究を加へると、古い出雲は 波斯湾の奥の地であり、新しい出雲はパレスチナ及び埃及になつて居る。其れと同じく猶 太の歴史地理も其うなつているのである。其れだから猶太歴史の古い部分は波斯とカルダ ヤとの地理に拠つて研究せねばならぬことを心得て居る必要がある」
「耶蘇が降誕、伝道した土地は、決して地中海岸のパレスチナの猶太ではなく、波斯、バ ビロニア、殊にチグリス河口の南北の地であつて、将来の聖書地理学に革命が起こらねば ならぬ。又一方日本古典に対して新研究を行ふと、小亜細亜のアルメニア方面が高天原で 、天孫降臨なるものは、其天からメヂア(道の国)を通り、波斯方面へ降り玉ふので、豊 葦原の瑞穂国とはメソポタミアそなわちミソホ国−ミズホ・タミアの事である。(中略) 耶蘇降誕は天孫降臨史の復活改作たることを推知するは、決して無理ではない」(『耶蘇 教の日本的研究』)
 つまり、木村によると本来のイスラエルはペルシャ湾周辺のメソポタミアにあり、イエ ス・キリストの活躍の部会もそこにあったというわけである。そして、木村はパレスチナ に移る以前の本来のエルサレムはペルシャ湾岸のマハメムラーであり、その地はまたヨシ ュアが攻めたイエリコ、仏典の王舎城にも当たっているという。マハメムラーといえば現 在のクウェート国首都クウェートのあたりである。また、イエスがエルサレム入城の前に 渡ったガリラヤ湖とはペルシャ湾の一角を意味するという。
 木村がこの構想を得たのは、「難波古図」という古地図を見ていた時だという。
「如何なる不思議であらうか。いかなる天祐であらうか。耶蘇聖地の太古−甚だ太古の地 図が昔から日本人に描かれ、日本字で書かれたものが日本に伝はつて来て居る。我等は其 れに頼つて大に耶蘇の地理を明かに為し得る所の、専有の特権があることを誇る者である 。(中略)此地図は難波古地図とあるけれども、決して現日本の難波古地図ではなく、ヂ グリス河口、即ち波斯湾奥の古代地図であることは其地形、河川、地名(翻訳して)、地 形変化の具合などを見たら明瞭否むことが出来ぬ。聖書地理は波斯湾の奥であり、此地図 が又其れであつて、聖書地理を明かにすることが出来る部分が少くない、非常に愉快であ る。実に此の地図の発見は国宝の発見と云ふべく、又学界及び耶蘇教世界に取つても宝と 謂はねばならぬ」(『耶蘇教の日本的研究』)
 すっかり舞い上がった木村はその地図を「木村の新研究聖地地図」略して「新聖地地図 」と命名した。私などが、木村が同書に掲載した模写をみても、「新聖地地図」は大阪湾 の古地図としてそれほど不自然には感じないのだが、木村にはペルシャ湾岸の地図以外に は見えなかったようだ。
「耶蘇の墓は新聖地地図に日羅の墓とあるのが其れである。−耶蘇の墓参をしようと思う 者は此処へ来るべきである−地中海岸のパレスチナや、エルサレムは耶蘇教徒の聖地では ない」(『耶蘇教の日本的研究』)
 結局、木村のエルサレム−ペルシャ湾岸説には追随者は現れず、ほとんど影響を残すこ とはなかった。木村がもし存命なりせば、一九九一年の湾岸戦争についての感想を聞いて みたいところである。あの戦争での主戦場はまさに木村が言うところの本来のエルサレム 周辺だったのだから・・・

 

 

聖書アラビア起源説

 

 エルサレムの所在をめぐる異説ということになれば、避けて通れないものに、1984 年に話題となったエルサレム−アラビア半島西部説がある。
 これはベイルートのアメリカン大学歴史学教授カマール・サリービー(一九二九〜)が 発表したものである。サリービーは、その著書を英語で書いたが、発表に際してはなぜか 英語版(ロンドンのジョナサン・ケイプ社刊)よりドイツ語版の方が優先された。
 英語版がロンドンで刊行された際には、『ニューズウィーク』を始めとして大手マスコ ミが次々と記事にし、特に地元ロンドンの『サンデータイムズ』一九八四年八月十二日付 は「イスラエルは場所を間違えて建国したことになりかねない」という記事を掲載して話 題をもりあげた(同記事は共同通信社を通して日本の新聞各社にも配信された)。
 イスラエルとイスラム諸国の対立に世界の耳目が集中していた当時のことである。やが て、その著書はアラビア語、オランダ語、フランス語、フィンランド語、スペイン語、イ ンドネシア語などに翻訳され、世界的なベストセラーとなった。ちなみに日本語版は一九 八八年、草思社から発行されている(広河隆一・矢島三枝子訳、邦題は『聖書アラビア起 源説』)。
 サリービーによると、旧約聖書のヘブライ語原典に出てくる地名を、現在のパレスチナ の地名と対応させることはむずかしいが、アラビア半島西部、アシール州には聖書の記述 と明確な対応を持った地名が多々見られる。
 たとえばエルサレムは、アシール州ニマース地方にアール・シャリーム村として現存し ており、ダビデとソロモンの都はその集落近辺にあったと推定できるというのである。
 イスラエルの場所を動かすということは聖書が語るその周辺諸国の場所も変わるという ことである。サビーニーは聖書で従来、カルデア、メソポタミア、ユーフラテス、エジプ ト、クレタ、シリア、エチオピアなどとして解釈されていた場所もアシール地方に求める べきだとする。たとえば、「出エジプト記」でモーゼが脱出したエジプトはナイル川流域 ではなく、アシール州南部のミスリマである。また、聖書で従来エジプトとして解釈され てきた土地はミスリマだけではなく、ビーシャ川流域のマスルやガーミド高原のマドロー ムを意味することもあるという(聖書ではエジプトはMSRYMとして表記される。現在 のエジプト共和国も自称の国号はミスルである)。
 サビーニーの説が本当なら、聖書を史料に用いてきた古代オリエント史のすべてが書き 替えられなければならない。ことはイスラエル一国の歴史にとどまらないのだ。しかし、 発表当初のセンセーションにも関わらず、事態はいつの間にか鎮静化し、今ではサビーニ ーの説が議論されることはほとんどない。せいぜい、インターネットの反ユダヤ主義者の ホームページなどで、時おり話題となる程度である。
 ヘブライ語とアラビア語はどちらもセム系に属しており、比較的近い言葉である。かつ てのヘブライ語圏とアラビア語圏名に似た地名が頻出しておかしくはない。地名群の対応 は、使い方次第では貴重な歴史情報たりうるものだが、それは考古学や文献史学、民族学 など他の見地からのサポートがあっての話である。
 なお、旧約聖書の歴史的記述と対応する内容を含むと思われる粘土板文書としてはイラ ク北東部キルクーク近郊のヌジ文書(前十六〜十五世紀)、シリア北部のテル・マルディ ク文書(エブラ王国の遺跡から出土、前二五〜二三世紀)、アララク文書(前十七〜十五 世紀)、ラス・シャムラ文書(古代ウガリット国の遺跡から出土、前十五〜十四世紀)、 アナトリアのボアズキヨイ文書(古代ヒッタイトの首都ハットウシャの遺跡から出土、前 十四世紀)、エジプトのアマルナ文書(前十四世紀)があげられる。
 これがアマルナ文書を除いて、いずれもパレスチナから見て北の地方で発見されている ことは興味深い。特にテル・マルディク文書にはアブラム(「創世記」のアブラハムの別 名と同じ)、エサウム(エサウ?)、サウラム(サウル?)、イシマエル(イスマイル? )、イシラエル(イスラエル?)、ダウダム(ダビデ?)、ミカヤ(ミカル?)など聖書 の登場人物とそっくりな名を持つ人物が登場し、また、ラス・シャムラ文書にはエルサレ ムの地名と関連するとおぼしき女神サレムの名が見える。
 イスラエル人の起源は、パレスチナの南方よりはむしろ北方と縁が深そうなのである。 このことからもイスラエル人の起源をパレスチナの。か南方、アラビアはアシール州に求 めることは困難だろう。
 また、サビーニーの説はアシール地方の地名を古典アラビア語で発音表記し、ヘブライ 語聖書に登場する地名と比較しているのだが、そこには大きな問題がある。古典アラビア 語は二八、旧約聖書のヘブライ語は二二のアルファベットよりなるが、それはすべて子音 であり、母音を表す文字はないのである(ただし、アラビア語、ヘブライ語ともY,Wに あたる字は母音としても機能したことが推定しうる)。
 このような表記法で書かれた、たかだか三音節か四音節の固有名詞を扱う場合、どのよ うな母音を補うかで、恣意的な解釈を許す余地がでてくる。たとえば、極端な話、このよ うな表記法で検察調書を書き、元の証言で「松野」という人名が出てくるのを「三谷」と 解釈すれば、それで冤罪の一丁上がりである。そのような混乱を避けるために、ヘブライ 語聖書解読法についてはさまざまな伝承があり、また研究成果の積み重ねがあるのだ。し かし、サビーニーはそうした先人の遺産を軽視する。そして、それは結果として聖書の地 名とアシール州の地名との恣意的な結びつけを許すことになっているのである。
 しかし、サビーニーの説が忘れ去られたとしても、同じような説が今後また現れるであ ろうことは容易に想像できる。そもそも、サビーニーの前にも、ボーモントや木村鷹太郎 のような先駆者がいたではないか。彼らは、現実にエルサレムとは別の場所に「真実」の エルサレムを求めようとする。彼らは、自らがイスラエル人(聖書で「神の選民」と定め られた民)ではないということに耐えられず、せめて真実のエルサレムの発見者となるこ とでその渇きをいやそうとしているのである。
 もっとも、サビーニーの説が当初、説得力を持ちえた最大の理由は、パレスチナ考古学 の成果がいまだ旧約聖書の歴史的記述を裏付けるにいたっていないということにあるのだ から、この空白が続く限り、サビーニー流の異説に決定的な反駁を行い難いのも、また確 かなのである。
 エルサレムを聖都と信じる人々にとって、その歴史は単なる人間の営みではなく、神の 意志そのものである。そしてエルサレムは過去に栄えただけではなく、未来の聖都たるこ とをも預言された都市なのだ。その観念が生き続ける限り、そこから派生する妄想もまた 後を絶たないのである。イスラエルの歴史に関する奇説はこれからも再生産され続けるに 違いない。  

 

 

                       2000  原田 実