シェイクスピアの秘密

 

 


 

 

ハムレットは日本人?

 

 ウィリアム・シェイクスピアとは何者か? まず、十六世紀末から十七世紀始めにかけ て、この名義で書かれた戯曲がロンドンで好評を博していた。その名は、やがて史上最高 の詩人・劇作家を意味するものとなり、作品は世界のあらゆる言語に訳されて、今も新た な読者を獲得し続けている。
 一方、同じ頃にストラトフォード・アポン・エイヴォンという小さな町出身の同姓同名 のならず者がロンドンに出て、演劇界で稼ぎまくり、成功者として故郷に錦を飾ったとい う史実がある。常識的理解としては、この両者は同一人物ということになる。
 ところが、シェイクスピアは一片の直筆原稿も書簡も残していない。わずかに残された シェイクスピアの直筆は、契約書や遺言状といった散文的な文書の署名ばかりである。そ もそも彼がまともな教育を受けたかどうかさえわからないのだ。
 ストラトフォードに帰ってからのシェイクスピアの事績も、不動産売買や高利貸しもど きの契約と、詩聖らしからぬものばかりだ。
 その同じ頃にも、ロンドンで次々と上演されていた偉大なるシェイクスピア劇と、成り 上がりの俗物のどこに接点があるというのか。
 シェイクスピア没後、その作品群の歴史的評価が確立していくにつれて、この違和感も ますます拡大し、やがてはそれがタネとなって、無数の奇説や偽書が花開いた。本論考で 、この異形の花園の一端なりとも垣間見ていただければ幸いである。
 まずは、我が日本の木村鷹太郎によって説かれた説を紹介したい。木村はその「新史学 」の第一歩となった『世界的研究に基づける日本太古史』の下巻(一九一二)で、早くも シェイクスピアの『ハムレット』、バイロンの『海賊』、そして記紀のホムチワケ説話( 垂仁天皇の皇子)が同じ題材から派生したものであると主張し、さらに一九一三年の『日 本太古小史』では垂仁天皇の時代、日本民族はアラビア方面に建国していたとして、ホム チワケについて次のように述べる。
「此王子の伝説は、多少の変化を以つて耶蘇教の中に摂収せられ、又たマホメット教の起 源を為せるものの如し。今若し本牟知別王の名称をローマ字に綴りて比較し、是れに敬語 “マ”なる語を冠する時は、甚だマホメットに近き名称を得るものなり。・・・又此王の 伝説の西洋に伝はりて戯曲となれるものはシェイクスピアの『ハムレット』にして・・・ 戯曲の内容素より同じ。是れアラビア日本の伝説が北欧に伝はりてデンマーク史中に入り しものなるや疑ふ可きなく、吾人は長腕を伸ばして、。かに又たデンマーク歴史の其部分 を抹殺訂正し得るものなり。而してシェクスピーアの『ハムレット』の脚本は、前記古事 記の『本牟知別王伝』、戯曲『大蔵卿』『安珍清姫』謡曲『道成寺』及び『金比羅御利証 』等の諸分子を結合せるものにして、材料も、地理も、実は皆東洋なり。詩人バイロンの 『海賊』も亦同一主人公を別伝し、インド南部の光景をギリシャ、トルコに移したる物語 に過ぎざるなり」(原文の国名表記はすべて漢字)
 木村は一九一五年の『ハムレットの東洋的材料』でこの見解をさらに発展させ、『ハム レット』の舞台となった時代にはデンマークという国そのものが北欧ではなく、東洋イン ドはガンジス・ブラフマプトラ河口の地にあったと唱えるにいたった。木村は同書におい て豪語する。
「此頃“新研究”なるものを行ふてハムレットに対して其材料研究を為て見ると、全く今 までの信仰を掃き去って“何んだ此んな支離滅裂な、書生ダマシの様な、つまらぬ戯曲が ”と思ふやうになった。然るに又た考へ直して見ると“成程ハムレットは旨く作ったもの である”と謂ふ感じがするやうになった。・・・『ハムレット』は旧来存在して伝へ来た もの−然もインド日本の多くの材料を寄せ集めたものか、或は其翻訳であって、其抜粋編 集を旨くやって居ると謂ふに過ぎぬのである。・・・吾等は東洋人であったことを天に感 謝する。又た日本語を話す民族であったことを幸福とする。何となれば、東洋人たり、又 た日本語民族であって、始めて正当に是等の研究を為すことが出来るからである」
 現代人から見れば、『ハムレット』の題材が日本の『古事記』や歌舞伎からとられたと いうのは奇想天外の説だが、そこにはようやく国際社会に認知されたばかりの日本文化を 世界史の中に位置付けようという木村の気負いをうかがうことができる。
 しかし、本家英国でシェイクスピアの正体をめぐって生み出された奇説の数々と比べる と、作品解釈の枠内に止まる木村の説などはまだおとなしい方である。奇説の花園はなか なか奥が深いのだ。

 

 

シェイクスピア=ベーコン説

 

 シェイクスピア劇の真の作者として名指しされた人物は数知れない。精神分析の父ジグ ムンド・フロイドは真のシェイクスピアが持つべき心理学的特質を有する人物は、ストラ トフォードの成り上がり者ではなく、オックスフォード伯爵エドワード・ド・ヴェールし かいないことを明らかにした。
 十六世紀末の戯曲家クリストファー・マーロウもシェイクスピアの正体として人気が高 い。マーロウはシェイクスピアの人気が沸騰する以前の一五九四年、酒場での喧嘩で殺さ れたはずなのだが、だからこそシェイクスピアとは実は密かに生き延びたマーロウの変名 だったという論も成り立つというわけである。
 エリザベス女王やダニエル・デフォーの名を挙げた論者さえある。およそ十六世紀末〜 十七世紀初頭の英国人なら(あるいは英国人でなくても)誰もが候補になれるといってよ いほどである。
 シェイクスピアの正体に関する新説をもてはやす人々が、シェイクスピア劇の作者候補 として認めないのは、ただ一人、ストラトフォードの成り上がりウィリアム・シェイクス ピアくらいのものである。
 さて、シェイクスピアの正体探しで特に人気があるのは、同時代の哲学者フランシス・ ベーコンである。シェイクスピア=ベーコン説に最初に到達したのは十八世紀末の牧師ジ ェームズ・ウィルモットだといわれる。ウィルモット師はシェイクスピア伝を書くために 膨大な資料を集めていたが、本人にしかわからない理由から、その原稿を破棄した。
 ところが一八〇五年、ジェームズ・カウウェルなる人物が、ウィルモット師の自宅を訪 問することでその業績の片鱗が世に残ることになる。彼は、ウィルモット師自身が葬りさ ろうとしていたシェイクスピア=ベーコン説を聞き出すのに成功したのである。カウウェ ルが帰宅直後に書き上げた二本の論文こそ、成文化されたものとしては最古のシェイクス ピア=ベーコン説である。
 アメリカの女流作家デライア・ベーコンが一八五七年に著した『シェイクスピア劇に現 れたる哲学』にはナサニエル・ホーソンの序文が付されている。
 デライアは、ベーコンが自らの哲学を戯曲の形で広めることにより、人類を無知・迷信 ・圧政から解放しようとしたのだ、と信じていた。
 彼女はホーソンの他、トマス・カーライル、ラルフ・ウォルド・エマソンはじめ多くの 名士たちと親交を持ち、彼らの間でシェイクスピア=ベーコン説を熱心に説いて回ったが 、前掲著書が出る前後から精神に変調をきたし、五九年、孤独の内に世を去った。
 デライアの晩年は痛々しいものではあったが、少なくとも彼女はシェイクスピア=ベー コン説を英米社交界の話題として定着させることには成功し、やがてはそれを聞きかじっ た人々の間から熱心な信奉者も現れてくる。一八八五年にはシェイクスピア=ベーコン説 の実証を目的とするベーコン協会まで設立されている。
 ミネソタ州選出の政治家イグネシアス・ダンリー(日本では「ドネリー」とも表記)は 『偉大な暗号文−シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンに よる暗号−』(一八八八)と続編『戯曲および墓碑の暗号』(一八九九)で、ベーコンは 暗号により、シェイクスピア劇の中に自らが真の作者であることを示す手掛かりを書き込 んでいたとの説を唱えた。これによりダンリーは、シェイクスピアの正体を探す人々に、 シェイクスピア劇の「暗号」という重要なアイテムを与えることになったのである。
 マーチン・ガードナーは次のように評する。
「ドネリーは“アメリカ奇人のプリンス”という称号をつけられたが、まさにぴったりで ある。ふつう擬似科学者はただ一つの中心的トピックにしかとりつかれないものだが、ド ネリーは三つにとりつかれていた。つまりアトランティスの存在、シェークスピアの戯曲 にかくされている暗号メッセージ(それらがじつはフランシス・ベーコンによって書かれ たことを証明するもの)、接近した彗星が地球に及ぼした壊滅的効果である」(ガードナ ー著、市場泰男訳『奇妙な論理』現代教養文庫、一九八九、原著一九五二)
 とはいえ、ダンリーはやはり一つの中心的トピックを持っていたようである。彼が著し た近未来予測SF『シーザー記念塔』(一八九〇)は、資本家と労働者の抗争と共倒れに より文明世界そのものが滅亡してしまうという話である。この小説は一九〇三年、早くも 『社会主義新小説 文明の大破壊』(磯野徳三郎訳)として邦訳されている。
 ダンリーは『アトランティス−大洪水以前の世界−』(一八八二)であらゆる歴史上の 文明の起源となった先文明の栄華を讃え、その偉大な文明も滅亡をさけえなかったことを 唱えた。また、彼は『ラグナロク−炎と礫の時代−』(一八八三)で旧約聖書が語る諸都 市の滅亡は地球と彗星の接触から来たものだとして、人が堕落を恐れ、労働の価値を重ん じるならば神は二度と彗星を地球に近づけることはないだろうと説いた。
 どうやら彼の本心は、堕落した資本主義こそ、世界滅亡への道であると警告するところ にあったらしい。アトランティスも巨大彗星もその結論を導く枕として持ち出されたよう なところがある(それにしてもバカでかい枕である)。シェイクスピア=ベーコン説への 傾倒もベーコン哲学こそ人類を無知と圧政から救うというデライア・ベーコンの主張に共 鳴したためだったのである。
 永遠の改革者として資本家の腐敗と、労働運動の暴走の双方と戦い続けたダンリーは一 九〇一年に世を去った。その時、彼は人民党の副大統領候補であった。
 国際的ジャーナリストとして名をはせたウィリアム・カミンズ・バーモントは、その著 書『処女王の秘密の生涯』(一九四七)において、ベーコンがシェイクスピアであるばか りではなく、エリザベス女王の隠し子であったことを考証した。
 バーモントはベーコン王子説を唱えた最初の人物ではないが、この説の信奉者の中でも きわめつけの奇人であったことはたしかである。なにしろ彼はエジプト、ギリシャ、イス ラエル、カルデア、フェニキアなどの古代国家はことごとく、かつてアトランティスとも 呼ばれたブリテン諸島にあったと信じていたのだから・・・
 バーモントは『地球の謎』(二五)『神秘の彗星』(三二)『先史ブリテンの謎』(四 六)『世界史の鍵ブリテン』などの著書で、古代イギリス=アトランティスの栄華は地球 と彗星の衝突によって滅びたこと、かろうじて再建された古代国家もローマ人の組織的略 奪にあったこと、ローマ帝国がイスタンブールに遷都して後に古代国家の遺跡は地中海・ 中近東の各地に移築され、歴史は完全に書き替えられてしまったことなどを明らかにした 。ボーモントは歴史の真相を隠し続けようとする陰謀の存在を信じており、シェイクスピ ア=ベーコンの正体もまたその種の陰謀によって隠蔽されたものと考えていた。
 ドネリーにもその傾向はあるが、異端的な歴史観は陰謀論との相性が良いらしい。その 信奉者の立場からすれば、自説の証拠が見つからないのも、世間の人が自説に同意してく れないのも、みな、悪辣な陰謀家のせいにできるからだろう。
 推理小説「ブラウン神父」シリーズで有名なジョージ・キース・チェスタトンは、シェ イクスピア=ベーコン説を揶揄して次のように書いた。
「シェイクスピアがフランス人やドイツ人みたいに、ロールパンとコーヒーで一日を始め たなんてこと想像できませんよ。ベーコンか燻製にしんで始めたにちがいありません。お や、ひらめきましたよ。例のギャラップ夫人と謎の文字、シェイクスピアはフランシス・ ベーコンだったというほんとうの意味がやっとわかりました。あれはただ固有名詞と普通 名詞の間違いだったんですな。私は反論をひっこめます。全部認めましょう。たしかにベ ーコンがシェイクスピアを書いたんです」(別宮貞徳・安西徹雄訳『棒大なる針小』一九 七五、原著一九〇九)
 エラリー・クィーンの短編「変わり物の学部長」(『クィーン検察局』ハヤカワ文庫、 所収)には小道具として、ベーコンがシェイクスピア劇の作者でないことを示す決定的証 拠なるものが出てくる。もちろん、そのようなものは今のところ実在していないわけだが 、クィーンはその登場人物の一人に「ベイコン支持者たちの無学文盲ぶりには、マーロウ 気ちがいと同様に、特効薬はありませんな」と言わせてのけた。
 ジョン・ケンドリック・バングスの短編「ホームズ氏、原作者問題を解明す」(一九〇 三初出、エラリー・クィーン編『シャーロック・ホームズの災難〔下〕』ハヤカワ文庫、 所収)では、天国の探偵シャイロック・ホームズがシェイクスピア=ベーコン説の真偽を 確かめるべく、当人たちに会いに行く。
 暗号だの陰謀だのに彩られたシェイクスピアの正体探しは、機知を愛する推理作家たち にとって恰好のオモチャのようだ。そのパロディの最高傑作としては、アンソニィ・バウ チャー「テルト最大の偉人」(一九五二初出、各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』河出文 庫、所収)が挙げられる。その中では、はるか未来の考古学者が、克明な伝記があるのに 著書が残っていない謎の人物シャーロック・ホームズと、作品は残っているのに伝記資料 がないシェイクスピアの両者が、実は同一人物であることを見事に考証している。
 シェイクスピア=ベーコン説をはじめとする正体探しの試みは不毛の努力のようにも思 えるが、一方で思わぬ副産物をもたらした。シェイクスピア劇から暗号を抽出しようとい う試みが積み重ねられる内にアメリカ、イギリスの暗号研究は大きく進展した。そして、 その成果が第二次大戦での連合国側の勝利に大きく貢献したのである。

 

 

シェイクスピア学史上最大の贋作

 

 一七九四年夏、すでに観光名所と化していたストラドフォードの地を、サミュエル・ア イアランドとウィリアム・ヘンリー・アイアランドという親子が訪れる。これがシェイク スピア学史上最大の贋作事件の幕開けであった。当時、父サミュエルは五十歳、子ウィリ アムは十九歳(ただし彼自身は後に著したパンフレットで、この年にはまだ十七歳だった と主張している)。
 父子はここでシェイクスピアの屋敷に残されていた大量の書き物が、ある農家に運びこ まれたという噂を聞く。父子はあわててその農家にかけつけたが、その家の主の返事は「 手紙やなんか屑籠に何杯もあったが、二週間ほど前に全部燃やしてしまった」とのこと。 現在の通説では、シェイクスピアの屋敷には、書き物など最初から存在せず、父子は気の いい田舎の農夫にかつがれたということなのだが、少なくとも父サミュエルはこのホラを 真に受けてしまった。
 ほんの二週間ちがいで貴重なシェイクスピア自筆が永久に失われてしまった・・・ロン ドンに帰ったサミュエルは腑抜けのようになり、譫言めいた口調でシェイクスピア、シェ イクスピアと繰り返すばかり。失意の父をなぐさめるためにウィリアムが打った手は、シ ェイクスピアの自筆文書をもたらすことだった。もちろん、そう簡単にシェイクスピアの 自筆が見つかるわけはない。なければ自分で作り出すまでである。
 法律事務所の徒弟だったウィリアムはすでに古い法律書類についての知識を得ていた。 古本屋・骨董屋めぐりの趣味のおかげで古い紙や羊皮紙も手に入った。仕事の関係で知り 合いになった製本屋の職人は古風に見えるインクの調合を教えてくれた。この職人に限ら ず、ウィリアムの友人たちは贋作の思いつきを責めるではなく、むしろ面白がって協力し ていた。彼らにしてみれば、この程度のイタズラは失敗してもともと、成功すれば、古い 物をやたらとありがたがる上品な方々を笑い物にできるというわけである。
 九四年十二月初め、ウィリアムは父親に、ある紳士と知り合いになったと告げた。その 紳士の家には大量の古文書があり、その中でウィリアムが気に入ったものがあれば、何で も貰い受けることができると約束してきた。そして、その中には、シェイクスピアの署名 入り文書があった・・・
 シェイクスピアの不動産抵当書類と称するものが、狂喜するサムュエルの前で広げられ たのは十二月十六日の夜のことだった。これがウィリアムによるシェイクスピア贋作の第 一号となったのである。
 サミュエルは、知り合いの古事研究家フレデリック・イーデンを招いて、文書の鑑定を 依頼した。イーデンはそれが本物であることを保証し、署名の下にある蝋印はクインティ ンという槍試合の的の模様だから、シェイクスピア(「槍を振る」の意味)の姓を持つ者 にふさわしいといってのけた。実はウィリアムはその模様が槍試合の的であることなどは 知らず、ただ手近にあった古い書類の蝋印を剥がしてはりつけただけだったのである。
 イーデンの鑑定以来、シェイクスピアの蝋印がクインティンだったというのは、父子の 共通認識となり、その後、ウィリアムが次々ともたらすシェイクスピア文書の中でこの蝋 印は多用されることになる。
 さて、サムュエルの求めに応じて、ウィリアムは次々とシェイクスピアの自筆文書を届 けてきた。シェイクスピアがカトリックだったことを示す信仰告白書は、サミュエル・パ ーとジョセフ・ウォートンという当時の代表的碩学によって鑑定されたが、彼らはシェイ クスピアの文章の美しさを讃えるばかりだった。
 名士たちが次々とアイアランド家を訪れ、新発見のシェイクスピア文書に感嘆した。彼 らの中には、学者や評論家として名を成している者も多かったが、その学識が感動に水を 指すことは希だった。わずかに上がる疑惑の声も名士たちが挙げる歓声の騒音に掻き消さ れた。

 

 

現物を見たところでダメ

 

 よく、文献の真贋論争で、真作説の論者から、実際に現物を見た者(その多くの場合「 私」)が本物だといっているのだから間違いないという論法が用いられることがある。和 田家文書の真贋論争でも、真作説論者の間から「偽書説論者は現物も見ず、和田喜八郎氏 の話も聞かずに否定している」という非難が出された。
 また、松本健一氏により偽作であることを考証された中山文庫についても、「多くの安 藤昌益研究家が中山文庫から出た資料の現物を見ているが、彼らから偽作説は出されてい ない」という形での偽作説批判がなされたことがある。
 松本氏はそれに応えて、次のように述べる。
「そうだとすれば、現物をみたところでだめなのだ。偽作者は・・・確固たる仮説をつく りあげているのだ。その仮説に従って、いっしょうけんめい昌益をふくむ歴史的な著名人 の思想を知ろうとし、またその字体をまねたのである。思想内容のほうからのみ追求しよ うとする研究家はもちろん、字体からのみ追求をする鑑定家でも、なかなか及ばないので ある。・・・とすれば、偽作者の仮説がほころびをみせている場所から追求して、中居屋 重兵衛関係史料の『中山文庫』から出た資料は『後世の偽作ではないか』という仮説を勇 気をもって打ち出すしか、偽作者の確固たる仮説に対抗することはできないのではないか 」(松本健一『真贋』新潮社、一九九三)
 アイアランド家のシェイクスピア文書についても同様のことがいえる。シェイクスピア の作品の登場人物はなまじの実在人物よりも明確な個性を持っているが、その作者はとい えば、既成の資料による限り、ちぐはぐで存在感に乏しいイメージしか結びえなかった。 それがシェイクスピア文書の大量出現により、はじめて血の通った人物としてとらえられ る可能性が出てきたのである(その新たなシェイクスピアの人物像が実際にはウィリアム の「仮説」で構成されていることはいうまでもない)。
 アイアランド家を訪ねようと決意した時、その論者の胸にはすでに期待と願望が芽生え ている。そして、歩を進める間にその期待と願望は大きく膨らみ、「現物」と対面する時 にはすっかり感動モードに入ってしまっている。もはや、よほどの批判的精神をもたない 限り、その誘惑に抗することはできない。同じようなことは和田家を訪ねる者や、中山文 庫から出た資料所蔵者を訪ねる者の胸中にも起きていることだろう。だから「現物をみた ところでだめ」なのである。
 ジョンソン博士の伝記作家として有名なジェイムズ・ボズウェルは、その書類を一つ一 つ調べた後、ブランデーを所望し、一気に飲み干すや「われらが不滅のバード(詩聖)の 聖遺物に口づけす。生きて現物に見みえた以上、死すとも悔いなし」と叫んだ。ボズウェ ルが世を去ったのはアイアランド家訪問の直後、一九七五年五月十九日のことである。
 彼の親友だったジョンソン博士はとうにこの世にいなかったが、もしジョンソンが存命 でボズウェルに同行していたなら、彼がここまで盛り上がることもなかっただろう。ジョ ンソンが生前に示した批判的精神をもってすれば、シェイクスピア文書の偽作を見破るこ とはたやすいことだっただろうからだ。実際には、ウィリアムの偽作は決して綿密なもの ではなかった。
 後にシェイクスピア文書の偽作を暴く急先鋒となったエドモンド・マローンは、一度も アイアランド家を訪ねることなく、文書の現物を目にすることもなかった。しかし、その 偽作を証明するには、サミュエル・アイアランドによる複製出版のテキストに目を通すだ けで十分だったのである。

 

 

『ヴォーティガンとロウィーナ』

 

 訪問者の中には、アイアランド家にシェイクスピア文書の正当な所有権があるのか、い ぶかしく思う者があった。その声に応えてウィリアムは、シェイクスピアの贈与証書なる ものを作った。
 それによると、シェイクスピアがテムズ川を遡ろうとしていた時に船が転覆し、あやう く溺れかけた。その時、瀕死の詩聖を救ったのが、友人のウィリアム・ヘンリー・アイア ランドなる人物だった。シェイクスピアはこの命の恩人の子孫に自作の著作権を贈与する ことにしたというわけである。
 この証書には、ご丁寧にもアイアランド家の紋章とシェイクスピアの紋章を鎖でつない だ絵が添えられていた。ちなみにこの絵はイングランドの組み合わせ紋章の規範にかなっ ておらず、後に偽作説論者から槍玉に挙げられることになった(森護『シェイクスピアの 紋章学』大修館書院、一九八七)。
 この話を造作した時、ウィリアムの念頭には、謎の「W.H氏」のことがあったのだろ う。シェイクスピアの作風が軽妙な喜劇から重厚な悲劇へと変遷する、まさにその転機と される十九世紀末、シェイクスピア名義で世に出た詩編『ソネット集』は全部で一五四編 からなっていたが、その内、百編余りは「W.H氏」という男性、最後の二八編はシェイ クスピアと恋愛関係にあったらしいさる女性(ダーク・レディ)に献じられたものだった 。「W.H氏」とダーク・レディの正体探しは長らくシェイクスピア研究者の関心を集め るところであり、今もなお結論は出ていない。
 シェイクスピアの時代の有名人で「W.H氏」といえば、まず連想されるのはH.W. サザンプトン伯爵であり、彼はエリザベス女王のお気に入りでシェイクスピアの劇団のパ トロンでもあった、という事実からいろいろと妄想を膨らませることもできるわけだが、 もとより確証があるわけでもない。
 そこで、ウィリアムはこの「W.H氏」の座からサザンプトン伯を押し退け、架空の被 贈与人を作り出したというわけである。
 このシェイクスピアの被贈与者の名が偽作者と同姓同名であることは興味深い。ウィリ アムはシェイクスピアの同時代に自分の分身を送り込み、それを自らの架空の祖先とした ようである。和田喜八郎氏が自らの分身ともいうべき架空の祖先・和田長三郎吉次を造作 したことを連想させる。
 もっとも、この証書が本物ならば、シェイクスピア文書はアイアランド家そのものに伝 わっているべきで、謎の紳士の介在する余地などないはずなのだが、偽作者はその程度の 細かいことはあまり気にしなかったらしい。
 その間にも、サムュエルはしきりに古文書の所蔵者たる紳士に直接会わせるようウィリ アムに迫ったが、ウィリアムは言を左右にするばかり。ウィリアムは件の紳士の言伝とし て「私に会うより先に、第二のシェイクスピアともいうべきご子息の才能を認められよ」 という内容の書簡を届けたが、父は我が子の才能などまったく信じようとはしない。
 無能な息子に詩聖の作品を真似することなどできるはずはない、だから、件の紳士は実 在するし、シェイクスピア文書も本物である、と父はひたすら信じこんだ。
 偽作の成功に気をよくしたウィリアムは、文書だけではなく、シェイクスピアの未発表 戯曲の創作にまで手を染めるようになった。むろん、その切っ掛けとなったのは、シェイ クスピア文書の中に戯曲は含まれていないか、という父サミュエルの要望であった。
 父は気付いていなかったが、子がもたらす“シェイクスピアの未発表戯曲”はその才能 のきらめきと限界とを共に示すものになった。ウィリアムがもたらした改作『リア王』は 、サミュエルを大いに満足させるものだった。
 ウィリアムは『リア王』の深みのある表現を刈り込み、代わりに分かり易く、かつサミ ュエルの信奉する小市民的道徳にかなうような文を書き込んだのである。サミュエルはそ れこそが真の『リア王』であり、実際に流布している『リア王』のテキストは俳優たちに よる改竄の結果をとどめるものにすぎないと信じた。
 ウィリアムは続いて『ハムレット』の改作にとりかかったが、これはほんの一部のみで 挫折した。『ハムレット』はセリフの一つ一つが多様な解釈を許し、その解釈ごとで全体 像が変わるという万華鏡のような作品である。たとえば木村鷹太郎はその万華鏡の中に日 本的題材を見出したというわけだ。
 ウィリアムが偽作に精を出した十八世紀末といえば、ヨーロッパの大陸側ではいざ知ら ず、島国イギリスの演劇評論では未だに、喜劇と悲劇の峻別や、三一致の法則(戯曲の中 では場所、時間経過、登場人物の性格の三つが徹頭徹尾統一されなければならないという 理念)を説くアリストテレスの演劇論が生き延びていた。そのような時代の「良識」に『 ハムレット』を適合させようなどと試みること自体無謀だった。
 二十世紀のT.S.エリオットさえその混沌ぶりに恐れをなし、『ハムレット』は芸術 的には失敗作だったと断じているほどだから、このような複雑な作品が矮小な偽作者の筆 など受け付けるはずもなかったのである。
 とはいえ、実際にシェイクスピアの作品と格闘したことでウィリアムはそれなりの自信 を得た。ついに、ウィリアムはシェイクスピアの“新作”『ヴォーティガンとロウィーナ 』が間もなく手に入ると父に告げたのである。
 その時、アイアランド家の壁にはヴォーティガンを描いた歴史画がかかっていたのだが 、父サミュエルはその“偶然”に感動するのみであった。
 ヴォーティガンはブリテンの伝説的な簒奪者で、実在したとすれば五世紀、日本でいえ ば倭の五王と同時代の人である。彼は北方の強敵ピクト族を抑えるため、サクソン族を傭 兵として国内に定住させたが、やがてサクソン族の首長ヘンギストに国を奪われ、亡命先 のウェールズで先王の弟アウレリウスとユーサーに殺されたという。ちなみにユーサーは 有名なアーサー王の父である。また、サクソン族は現在のイングランド人の祖先だから、 ヴォーティガンがブリテンにサクソン族を迎え入れたという伝説は、イングランド建国の 前史を考察する上で無視できない。
 古くは六世紀の文献でサクソン族に国を奪われた傲慢な専制君主のことが見出され、八 世紀の文献でその君主が「ヴォーティガン」に通じる名だったとされる。さらに後世のジ ェフリー・オブ・モンマスの『ブリテン列王史』(十二世紀)やホリンシェッドの『イン グランド・スコットランド・アイルランド年代記』(十六世紀)、ミルトンの『英国史』 (十七世紀)などで、ヴォーティガンの簒奪とその最期が、それぞれに異伝をまじえなが らくわしく記された。
『ヴォーティガンとロウィーナ』(以下、『ヴォーティガン』)は、先王を弑殺して王位 についたヴォーティガンと、ローマの支援で国を取り戻そうとする先王の二王子の争いに 、色仕掛けでヴォーティガンを籠絡しようとするヘンギストの娘ロウィーナがからむとい う内容で、この題材を本当にシェイクスピアが取り上げていればさぞかし面白い戯曲とな ったことだろう。だが、生憎なことに実際に筆をとったのはウィリアム・ヘンリー・アイ アランドだった。
 サミュエルは『ヴォーティガン』の現物を見る前から、勅許劇場ドルリー・レインでの 上演の確約をとりつけ、興行収益の取り分についての契約まで交わしてしまった。ウィリ アムは期限に追われながら、『ヴォーティガン』の各場面を書き終えるごとに次々にサミ ュエルへともたらした。
 しかし、サミュエルを介して届けられる『ヴォーティガン』の出来映えに劇場側は頭を 抱えた。主演予定の女優セアラ・シドンズはあっさりと役を下りた。その弟でもう一人の 主演俳優ジョン・フィリップ・ケンブルは、いっそ初演を四月一日にしてはどうかと劇場 側に提案する始末だった。
 実際の『ヴォーティガン』初演は一七九六年四月二日のことであった。その二日前の三 月三一日には、マローンによる偽書説のパンフレットが出版され、アイアランド家のシェ イクスピア文書へのロンドン市民の関心はすでに頂点に達していた。
 大入りの観客の熱気に煽られつつ、ドルリー・レイン劇場の幕は上がる。第一幕、第二 幕はなんとか乗り切ったが、第三幕では観客の間から失笑が漏れ始める。第四幕では観客 はヘンギストの弟を演じる喜劇役者フィリモアの演技に爆笑が起きる(悲劇だというのに !)。そして第五幕クライマックス、ヴォーティガン役のケンブルはセリフの中の「この 仰々しいイカサマが終わってしまえば」という一節にわざと力をこめた。もはや幕が下り るまで観客の爆笑は止まらない。
『ヴォーティガン』上演は一日限りとなり、ドルリー・レイン劇場の次の開演では別の演 目に差し替えられた。これで『ヴォーティガン』がシェイクスピアの作でないことは誰の 目にも明らかになった。

 

 

ウィリアムの告白

 

 ジャーナリズムは、偽作の“主犯”サミュエル・アイアランドを攻撃した。サミュエル をネタにした戯歌や風刺漫画も次々と現れた。
 ウィリアムではなくサミュエル?そう、世間ではドルリー・レイン劇場を文字通り舞台 とするほどの大掛かりなペテンが二十歳にも満たないような少年によって引き起こされた などとは思いもよらなかったのである。アイアランド家はサミュエルをリーダーとする偽 書工房であり、ウィリアムはせいぜいその下働きの一人にすぎない、というのが当時の大 方の認識だった。
 同時代の政治家にして人気作家でもあったホレス・ウォルポールは、書簡の中で、サミ ュエルはウォルポール所有の印刷所から出ていた限定版稀覯本の海賊版を作って売りさば いたことがあると暴露した。
 なお、ホレス・ウォルポールは、サミュエル・アイアランドの他にもローリー詩集のト マス・チャタトンや、オシアン詩集のジェームズ・マクファースンなど、同時代の文学的 偽作者を片っ端から罵っている(チャタトンについては、この天才少年が自作の擬古詩を 最初に持ち込んだのがウォルポールのところだったという因縁もある)。
 しかし、そもそもウォルポールは代表作『オトラント城綺談』の初版(一七六四)を、 イタリアの古文献の翻訳と称して発表していたのだから、彼自身、文学的偽作者の一人と いえなくもない立場にあった(一七六六年の第二版序文において自作であることを公表) 。彼がサミュエル・アイアランドやチャタトン、マクファースンらを嫌ったのは近親憎悪 といってよいだろう。
 ちなみに、一九三三年発表の恐怖小説『銀仮面』で有名な作家ヒュー・ウォルポールは ホレス・ウォルポールの直系の子孫を称していたが、これはどうやらヒュー・ウォルポー ルによる文学的仮構らしい。自らの同類を罵り続けた文学的偽作者が二世紀近くも後の後 継者に復讐された形になったわけである。
 閑話休題、サミュエルは一七九六年十一月、『弁明の書』を出版、サミュエル側から見 たシェイクスピア文書の由来を説明し、潔白証明に代えようとした。
 しかし、こうなってみると、謎の紳士からウィリアムを介してシェイクスピア文書を入 手したという話そのものが辻褄が合わない。それをサミュエルが力説すればするほど、火 に油を注ぐだけであった。
 サミュエルの弁明と同時期、ウィリアムも『説明の書』を出版、ついにウィリアムは自 らが偽作者であることを世間に公表した。しかし、ジャーナリズムの反応は冷淡なものだ った。それはもはやサミュエルが偽作者の汚名を逃れるため、息子に強要して書かせたも のだとしか解釈されなかった。
 そもそも父サミュエルが自分の息子の告白を信じていなかった。父は最後まで息子にシ ェイクスピア文書を物するだけの才能があるとは認めようとしなかった。
 その上、父は『ヴォーディガン』の失敗に懲りてもいなかった。サミュエルは弁明に明 け暮れる最中にも、シェイクスピアの“新作”『ヘンリー二世』全編を謎の紳士の下から 早くもたらすよう(ウィリアムの側からすれば早く完成させるよう)、ウィリアムの尻を たたき続けていたのである。
 謎の紳士が名乗りでて、自らの潔白を証明してくれるのを待ちつつ、サミュエル・アイ アランドは一八〇〇年七月、五六歳で世を去った。
 残された子はいえば、一八〇四年に名家の未亡人と結婚、一八〇五年に『告白の書』と いう本を出す。この中身というのが、一見神妙そうな偽作行為への懺悔と、その偽作を可 能にした才能への自画自賛がないまぜになったシロモノで、マローンは「一片の真実もな い」と酷評したが、すでに『説明の書』の古書価格が高騰しており、海賊版まで出ていた 時期の刊行だったので、ウィリアムの懐を温めるためには役立った。
 ウィリアムは偽作の公表をきっかけに自分名義での詩集や小説、その他の著書も出版し 始めたが、それらも「シェイクスピア文書の作者」の著書ということで文学的評価はどう あれ、そこそこの売れ行きを示した。一八三五年四月、五九歳で死去。
 ウィリアムの没後四一年を経た一八七六年、サミュエルの全遺稿が大英博物館に収めら れ、シェイクスピア文書偽作に関する研究が急激に進む。その結果、サミュエルは偽作そ のものには関与しておらず、あくまでウィリアムの単独犯であったことが、あらためて明 らかになった。また、ウィリアムが偽作したシェイクスピア文書のコレクションの大部分 はバーミンガム図書館に収められていたが、一八九九年の大火で烏有に帰した。
 マローンは、アイアランド家のシェイクスピア文書を屠った後、シェイクスピア全集の 編集にとりかかる。一八一二年、マローンが世を去ってからはボズウェルの子であるジェ イムズ・ボズウェル二世がその事業を引き継ぎ、ついに一八二一年、ボズウェル=マロー ン版シェイクスピア全集・全二一巻が完成。マローンはその業績により後世、本格的シェ イクスピア学の創始者と仰がれる。

 

 

シェイクスピア学と日本古代史

 

 マローンの年長の友人で、そのシェイクスピア学の手ほどきをしたジョージ・スティー ヴンズは、アイアランド家のシェイクスピア文書を「恥辱の索引」と酷評したが、一方で は、彼自身、ディズレーリから「贋造と歪曲まみれの男」と評されていたという。
「ジャヴァ産のユーパス樹なるありもしない有毒樹をまことしやかにデッチ上げたのもス ティーヴンズなら、古代学者のガフをクヌード大王の息子ハーディクヌードの名を埋め込 んだ偽石でたぶらかしたのもスティーヴンスだった。彼はまた『地球座のたのしき会談』 なる一文を『シアトリカル・ミラー』紙に寄せて、シェイクスピアとベン・ジョンソンと ネッド・アレンが一夜たのしく地球座に会したときの有様を見てきたようにこまごまと書 いた。なんでも俳優ジョージ・ピールが一六〇〇年に書いた手紙のなかに出てくる描写と いうふれこみである。しかし当のジョージ・ピールは、その二年前の一五九八年にとっく に死んでいた」(種村季弘『ハレスはまた来る』青土社、一九九二)
 スティーヴンスのイタズラ好きはシェイクスピア学の方面にも示されていた。スティー ヴンス編のシェイクスピア全集の註には編者自身の創作とおぼしき根拠不明の話が含まれ ており、さらにはスティーヴンス自身の嫌いな人物の説と称して卑猥な言い回しまで書き 込む始末、まだまだシェイクスピア学そのものに胡散臭いものがまぎれこめる時代だった のである。アイアランド家のシェイクスピア文書が受け入れられるにも、それなりの背景 があった。
 しかし、その状況に合理性・実証性の剣をふりかざし、シェイクスピア学の清新を求め て切り込んでいったのがマローンたちだった。そして、アイアランド家のシェイクスピア 文書は出合い頭にその剣にかかり、一刀両断されてしまったというわけである。
 マローンはアイアランド家のシェイクスピア文書を、綴りの特徴、用語、年代、筆跡、 紋章など各観点から徹底的に分析したが、その方法は学術研究の場から偽書を排除するた めの規範となった。
 マローンの没後、十九世紀半ばにもジョン・ペイ・コリアというれっきとしたシェイク スピア学者が次々とシェイクスピア関係文書の新発見を発表するという事件があった(も ちろんすべてはコリア自身の偽作)。しかし、その偽作は大英博物館のサー・フレデリッ ク・マデンによりあっさりと暴かれ、大事にはいたらなかった。マデンはコリアの友人だ ったが、彼は友情よりも真実を選んだのである。
 かくして、シェイクスピア学は好事家の道楽から脱し、怪しげな偽書や奇説の類は学問 の大道から追放されたかに見えた。
 しかし、シェイクスピア学のように大衆的な裾野の広がりを持つテーマの場合、学界の 動向がどうあれ、その成果を享受する側の多くの人々の関心は以前とそれほど変わってい ない。むしろ、学界が学術的な厳格さを目指して怪しげなものを排除するほど、その流れ から取り残され、疎外されたと感じる人々が増えるのである。アイアランド家のシェイク スピア文書が忘れられた後にシェイクスピア=ベーコン説が流行するというように、怪し げな話の種がつきないのはそのためであろう。いかに学界の主流が否定しようとも、否、 学界の主流が否定するがゆえに、偽書や奇説が大衆的人気を得るということも起こりうる のだ。
 日本古代史学とシェイクスピア学は、限られたわずかな基礎資料に基づいて仮説を立て るという困難さだけではなく、大衆的な受容と学界の方向性との乖離という問題をも共有 している。
 和田家文書のような偽書が横行し、三角縁神獣鏡論争に見られるように大学教官・教員 の肩書でトンデモない奇説が流布する日本古代史学の現状は、マローン登場前夜のシェイ クスピア学と比較することさえできるだろう。
 シェイクスピア学の研究史に学ぶことにより、日本古代史学の新たな展開へのヒントが 得られるかも知れない。本論考がその試みのきっかけとなれれば幸いである。
 なお、本論考を著すにあたっては、ジョン・ミッチェル『奇天烈紳士録』(和田芳久訳 、一九九六、原著一九八四)および、大場健治著『シェイクスピアの贋作』(岩波書店、 一九九五)を特に参考にした。ここに慎んでお礼申し上げるものである。  

 

 

                       2000  原田 実