期待の老人

私は最近、無性に老人と「お友達」になりたいと思っている。「人生の達人としての彼らの話を聞き、何かを学び取ることができたら」と考えているからだ。

そんな私の思いをかなえてくれるかのような出会いが、最近あった。山形県に旅行したときのこと、通り道にある駅へ観光案内のパンフレットをさがしにいった夫が、一人の男性を伴って車に戻ってきた。架線の故障で新幹線のダイヤが乱れ、自宅に帰れなくて困っている人を見て、「方向が同じだから、いっしょに車に乗ってはどうか」と勧めたのだという。

年齢70歳前後、定年退職後第3の職場で働いているというその人は、朗らかで、話し方もかなりしっかりしている。何より、人前で話すことに慣れているように見受けられたのである。彼こそ、まさに、私の求めている条件にぴったりの人物であると思えた。その人物の職業についての、私の推察は「校長先生」であった。しかし、彼の差し出した名刺には、「XXXX共育XX所」とあった。

「私には、何も教えることはできません。いっしょに育っていくだけです」繰り返しそう言う彼が提唱するのは、実践的な倫理であって、内容は分かりやすく、ある意味では至極当たり前のことであった。「できるかできないか、などと考えている人は何もできない。やってみることです」といった内容が多いのだが、その話し方には妙に説得力がある。そのあたりに、何やら怪しげなものを感じないでもなかったが、「私は決して惑わされない」という自信があったので、話を聞いてみることにした。

「共に育つ」と書いて「共育(きょういく)」と読む。この言葉に共感を覚えた私は、「共に育つ」ということを、もうすこし掘り下げて、彼と語り合いたかった。そこで、まず、「人にパソコンを教えながら、自分自身も育っている」と話してみた。「そうですか、パソコンですか」。私の問いかけに対しては、このように、いたって簡単な反応が返ってくるだけであった。私の求めているものは、そうではない。「共に育つ感動」を、話し合いたかったのである。反対に彼は、自分の提唱する倫理については、まさに「立て板に水」というように、よく話してくれる。まるで、壊れたテープレコーダーのようである。ある意味で、洗脳された人のようにも思われるほどであった。

彼の話を聞いているうちに、私は失望してくるのを感じた。彼は自分に刷り込まれている倫理の概念を、一方的に繰り返し語るだけで、その場で自分で考たことを話しているのではないのである。彼が自分で考え、自分の言葉で話すのは、周辺の観光案内や日常のことだけだ。彼は自分の唱える倫理の実践を人前で説き、賛同あるいは、賞賛を得ることに酔いしれている。人前で話すことそのものに、意義を感じているようにも見受けられた。私は彼に会って、「話し方の上手、下手」と、「自分の考えをしっかり持っている」ということは、違うものなのだということを痛感した。

期待が大きかっただけに、失望も大きかった。残念ながら、この人は私の求める人ではない。しかし、考えてみるとこれは私の勝手な思い込みによる一人相撲で、この老人のせいでもなんでもない。彼は人に誇れる、立派な老後を送っているといえるだろう。