トマトが初めてトマトのために警察を呼んだ日
トマトの開店以来6年目になろうというときに、初めて警察の世話になった。これまでも110番して警察に来てもらったことはあるが、完全に「客と店」という、我々が当事者である場合は初めてである。

その二人連れの客は202号室に入り、チューハイとレモンサワーをオーダーした。注文の品を運んでフロントに戻ると、インターフォンがなる。「これは何だ」「?」「ちょっと来て、これを飲んでみろ」。どういうことかわからないまま部屋に行くと、とにかく二つの飲み物を飲み比べてみろという。仕方なく一口ずつ飲んでみるが、別に何でもない。「これはなんなんだ」となおも訳の分からないことを言う。「お客様のご注文通り、レモンサワーと、チューハイ--ショウチュウに水を入れたものです。そうおっしゃいましたよね」

通常、メニューに書いてない品物のオーダーがあったときには、「それは置いてありません」、または「メニューをご覧ください」などと応対する。しかしその客は、はじめからなんとなく怪しい雰囲気がしたので、「チューハイ」といわれたときに「チューハイとは、ショウチュウに何を入れたら良いのでしょう」と聞き、「水」というのを確かめて持っていったものである。それなのに「違うものだ」といわれるのかと思うと、そうでもないらしい。

「ショウチュウはどれくらい入っているのか」「この星印までです」「氷を入れないでか」「はい」「じゃ、氷を入れたらこのくらいか」と指で示す。まさか、「氷は最後に入れるから、そのくらいかどうかわからない」とも言えないから、「はい、そうだと思います」といったやり取りがしばらく続く。いったい何を言いたいのかわからない。どうやら、私が素直にショウチュウを足せば、とりあえずはおさまりそうだ。しかし、私にはできない。仮にその場は収まったとしても、次には他の要求を出し、それはしだいにエスカレートしていくことだろう。とにかく、どうみても理由もなく因縁をつけているとしか考えられないので、とりあえずマスターに来てもらうことにした。ちょっと大きい大人の男がいることによって、おさまることがあるかもしれないと思ったのである。

マスターの姿を見ても、相変わらずであった。自分たちの部屋のドアも、開けたままにしておく。閉めてくれるようにと言うのも嫌なので、そのつど私が閉める。何度もそんなことを繰り返していたが、さすがにめんどうくさくなったのか、しばらく閉まったままになっていた。その後何本目かのビールのオーダーがあり、持っていくと、部屋の窓が開けられていた。ドアを開けなくなったのは、こういうことだったのかとあきれて「窓は閉めておいてください」と言い、とりあえず私が閉めた。その時、客が「あつい」というので、クーラーをつけようとリモコンに目をやると、何とコードが引きちぎられていた。それを見たとたん「どうしてこういうことをするんですか……」私が切れてしまった。

そこでマスターの登場となるのだが、相手は元々そのつもりで来ているから、簡単には引き下がらない。引き下がるどころか、ますますエスカレートしてくる。「そんなことはしていない」「どこに証拠があるんだ」「この店は客に因縁をつけるのか」などと、ひたすらわめき続けている。彼は心得ていて、肩とあごを前につき出し、絶対に手を出そうとはしない。言葉で攻撃するのみで、どんなことがあっても、自分の非を認めることはなさそうである。理屈が通る相手ではない。マスターもかなり熱くなってきている。とても私たちの手におえそうもないので、とうとう110番することになった。

怪我人のないけんかなどは、たいしたことではないのか、10分、15分たっても警察はこない。その間も客は平然として、警察の来るのを待っている。いったいどういう神経をしているのかわからない。もう一度電話をして、しばらくするとやっとパトカーが一台到着した。その後次から次へ、パトカーやバイクが来る。とうとう7人の警官で、狭い店がいっぱいになってしまった。

ひきちぎられて
ぶら下がったコード
警官が交替でなだめても、客はわめき散らしている。警官が何を言っても、まるで準備していたかのように言い訳する。ドアの件も「トイレに行くときに良く閉めないから開いてしまう」と、故意ではないことを主張する。そうしているうちに「俺は今日が初めてじゃない、この間も若いモン(トマトのアルバイトのこと)を土下座させたんだ」といきまいた。私が見たことのない客ということは、ほとんどトマトにきたことがない客ということになる。それなのになぜ因縁をつけにきたのか、理解に苦しんでいたが、そのひと言で納得がいった。確かに、ひと月ほど前の月曜日に客と揉め事があり、猪原と佑次が手をついて謝ったことがあった。それに味を占めて再びやってきたのだろう。その日、佑次の電話に異変を感じて私が店に駆けつけたときには、すでに騒ぎが収まって客が帰るところであった。猪原はエプロンの紐を切られ、靴下に血がにじんでいた。佑次も猪原も、自分からは手を出すことなく、耐えていたのである。「私が来るのが遅かったために、こんなことになって」と、その後ずっと悔やまれていた出来事であった。

男が手をついて謝るのは、心から謝るとき、本当に悪いことをして人(の心)を傷付けてしまったときだけで良い。「あんなやつに、そんな謝り方はもったいない。今度からそういうことはしないでね」と言ったが、猪原と佑次の悔しさは、どう慰めても癒されるものではないだろう。いざこざの起こったいきさつを聞くと、どう考えても理不尽で、今度その客が来て何かあったら、被害届を出そうと相談していた。その時のために、猪原の診断書も用意しておいたのである。その客とわかっていたら、最初から入店を断っていた。

診断書を警官に見せて、事情を説明すると、「今ここで前のことを持ち出しても、話がこじれるだけですから」と、それは別の事件として考えるように言われた。その時はそうかと思ったが、後で落ち着いて考えてみると、「話がこじれるのは一向にかまわない。むしろ、こじれればこじれるほど、あいては馬脚をあらわすはずである」と思った。どうも私は瞬間の判断ができない、いつも後手に回ってしまう。

一時間ほどかけて警官になだめられ、ようやく客は帰った。彼は納得したわけではないらしく、素面のときにあらためて来て、マスターと話をつけるという。楽しみに待っているとしよう。