2000年11月6日: 大きくて怪しい荷物

いつものことながら、この荷物の多さは尋常ではない。今回は一人旅だから荷物は多すぎず、できる限り旅なれた風を装ってスマートに行動しよう。そう思って、スーツケースとダンボールひとつは宅急便で空港にあらかじめ送って、電車にはバッグ一つ持って乗るつもりだった。ところが土壇場で「やっぱりお米も、そうだお赤飯も作ろう」などと考え、あれもこれもと買い足して、結局はとんでもない大荷物になってしまったのである。布製の袋に米やもち米やささげなどを詰め込んで、電車に乗るにも「エイッ」「ヨイッショッ」と掛け声をかけなければ持ち上がらない。

空港で荷物を受け取ってからはもっと大変。チェックインする時にはカートを使えないので、汗だくになって荷物を運ぶ。ようやく大きな荷物を手放して、キャスターに布袋二つを乗せたものと、これまた大きなバッグを肩に担いで空港内をさまよう。機内に乗り込んでからも狭い通路に引っかかって行きつ戻りつ。こんなみっともないことはない、もう二度とこんな荷物は持ってこない、そう固く誓ったのである。

成田を1時間近く遅れて出発したのに、ポートランドにはほぼ定時に到着した。入国管理官とはお定まりの「目的は?」「娘に会いに」「学生?」「いえ、結婚してます」という会話。このあたりで止めておけばいいものをつい「私はおばあちゃんになるのよ」「へえ、それはおめでとう。で、いつ?」「多分、今日か明日」などと、いらないおしゃべりをする。そこまでは“ちょっと荷物がかさばることを後悔した一人旅”ですんでいた。

荷物が出てくるのをしばらく待って、また汗をかきながらカートに乗せる。荷物チェックが終わったらすぐにもう一度荷物を預けてお茶でも飲もうと考えながら進んだ。ところがカウンターでは、おっきな女の人がにこりともせずに「ちょっとこれを開けてくださいマム」と荷物を指差す。こんな善良そうな日本国民を捕まえて何をいうのかと思うまもなく、彼女は私が苦労して結んだダンボールの紐を容赦なくカッターで切り開いている。で、そうしながら別の荷物をあけろと目で促す。開けたってたいしたものはない。「米ともち米とささげ・うどんとそばとラーメン・調味料と調味料・スナックとスナック」見せるのも恥ずかしいようなごく普通の食品と衣類が出てくるだけである。いくつかこれは何かと確認した後で、開いたダンボールをテープでさっと止めてよこした。

あのねェ、私は持ちやすいように紐をしっかり結んできたのよ。それを平気で切って。なんとかしてよ。と言いたいけどそこまで言えない私の英語力。悔しいけど心の中で「残念でした。何も出なかったでしょう」と憎まれ口をききながら、黙って引き下がるしかない。そもそもこの「荷物を開けろ」というのはどういう基準で言ってるのだろう。私がアメリカにくるのは1年か2年に一度だから、怪しいほどは多くない。じゃ、怪しそうな風貌??それも考えられない。係官の長年鍛えた感?不自然なほどの荷物の量?いったいどれだろう。ま、私の次につかまった人は柿を2個取り上げられていたから、かなりの確立で怪しい人を見分けているのかも知れない。陽子も以前肉を取り上げられたと言っていた。これも確かに当たっていたのである。



同じく、2000年11月6日: 雪景色
あと30分ほどでソルトレークシティーに到着するだろうという頃、地上を見ると見事に真っ白に雪化粧している。紅葉にはまだ早い、ちょっと寒くても15度くらいのところから、いきなり雪景色の中に放り出されるのだろうか...。空港に降り立つとここはまだ積もってはいないが、大きな雪が白く舞っている。迎えの車を待つ間20分ほど屋外にいたが、思ったほど寒くないのには安心した。


2000年11月7日: 大統領選
学校から帰ったテイラーが「今日大統領選に投票したよ」という。どうやら学校で模擬大統領選を行ったらしい。「え、どっちに投票したの?」「ブッシュ」「なぜ?」「クールだから」小学生の見た大統領とはどんなものなのか、どういうのをクールと言うのか興味があったが、それ以上聞きたくても言葉の壁があるので質問するのはあきらめた。

夜中にCNNのサイトで開人速報を見ていたが、かなりの接戦のようだ。それまでは249人対246人でゴア候補がリードしているのだが、このあとのフロリダ州の開票結果で勝敗は決まるということだった。ブライアンの説明では、ユタ州の代議員は5人だがフロリダ州は人口が多いので25人いるのだと言う。フロリダ州の開票速報では二人の得票差は約3万票で、なかなか結論が出そうにない。ベッドに戻ってしばらく本を読んでいると、ブライアンの「Yes!」と言う大きな声が聞こえた。ブッシュ候補が勝ったのだとわかった。すぐに陽子が声をかけてくれて私も起きてパソコンの画面を一緒に眺めると、ブッシュ候補の得人数が271になっていた。まだ3つの州の結果が出てはいないが、270が過半数だということで当選者は確定した。CNNのトップページは、さっきまでのゴア、ブッシュ両候補の画像ではなくブッシュ一人の笑顔に変わっていた。


2000年11月8日: 再び大統領選
大統領選はブッシュ候補の勝利で決定したとばかり思っていた。ところが夕方陽子が帰ってきて、フロリダで票を数え直すことになったんだってと言う。この家にはテレビはあるがビデオを見るだけで、アンテナにはつながっていない。新聞も取ってないので、ニュースはインターネットで見るしかない。パソコンを起動していCNNのニュースを見ると、アメリカだけでなく世界中が混乱しているようだ。

ところで、杏子の赤ちゃんはまだ生まれてこない。ま、はじめての出産は1〜2週間程度遅れるのが普通のようだから、あせるわけでもないが毎日誰かが来たり、帰宅するたびに「まだ?」「生まれた?」と聞かれるのもちょっとかわいそうになってきた。


2000年11月9日: 掃除 
こちらに来て3回目の朝を迎えたのだが、一晩も満足に眠れていない。10時か11時に寝るのだが、決まって3時には目がさめる。そのまま明るくなるまで眠れなくて、みなが出勤する気配を聞きながら少しまどろみ、10時頃起き出す。そんな日が続いている。目を覚ますために大きな掃除機を取り出して、家中を掃除する。こちらのものは何でもサイズが大きいが、この掃除機も例外ではない。私が持ち上げるには、無理なほど大きくて重い。でも、大きいおかげで掃除できる範囲が広いので「はか」が行く。吸い込む力も強いようで、一度でさっときれいになってなんとも気分がよい。


2000年11月10日: 雪化粧
一昨日からの雪がまだ降り続いている。この時期にこんなに降り続くのは珍しいと言う。まだ葉を残している木々は白く雪化粧をし、町中がクリスマスツリーで飾られたように美しい。くまはこんな日でも散歩に誘うとちぎれんばかりに尾を振って喜ぶ。雪の晴れ間を縫って、3ブロックほどをのんびり歩き風景を楽しむ。

このあたりの家はほとんど平屋で、一部に地下室のある家がある。庭には塀はなく、どの家も庭の手入れが行き届いていて、芝生も植え込みもきれいに手入れがされている。その上どこの家も大きな木が植えてある。雪にもかかわらず庭の手入れをしている人にも出会う。散歩していてすれ違う人は、だれもみな笑顔で挨拶してくれるので気持ちがいい。学校帰りの小学生につかまって、「かわいい犬だね、名前は?」「くま」程度の挨拶を交わす。そのあといろいろ言ってはくれたが、早すぎてわからない。「ごめん、英語あんまりよくわからないの」と言うと、みんないともあっさりと去っていった。


2000年11月12日: 快適さゆえに...
私は長期旅行の際には必ずパソコンを携帯している。少なくとも2.3日に一度は仕事のメールをチェックする必要があるからだ。今回の旅の1ヶ月ほど前に4年近く使っているSOTECのノートパソコンが瀕死の状態になった。48M乗せてあるメモリが、16Mしか認識されなくなったのだ。16Mでも動くことは動きメールチェックだけなら使えなくはないのだが、このたび思い切って新いパソコンを購入した。選んだのは小さくて持ち運びが楽なのと、小さい割には性能がよいことが気に入ったLet's Noteである。モデムもネットワークボードも内蔵されているので、付属品を持ち歩く必要がないのも気に入っている。CD-ROMドライブを取り外して、代わりにウェイトセーバーをつければ300グラムほど軽くもなる。まさにモバイルパソコンとしては快適で、理想的なマシンだと思っている。これまでのように3キロもあるパソコンを持ち歩かなくてよくなったと一人悦に入っている。ところがその携帯性のよさが裏目に出て、初日からいろんな問題が出てきた。

到着した翌日、メールをチェックしようと電話線を差しこんだが、このパソコンウンともスンとも言わない。出発直前まで快調に動いていたし、途中特別なショックも与えた覚えはない。壊れたわけでもないだろうにと首をかしげているうちに、あることに思い当たった。モデムは国によって規格が異なり、ものによっては日本では使えてもアメリカでは使えない可能性があるのだ。そのことは承知していたので、あらかじめ確認しておこうと思ってはいた。ところが、急がしさに取り紛れてすっかり忘れていたのである。出発間際に思い出したが、まあ、大丈夫だろうとそのまま出てきたのだった。

確認しようと、陽子のパソコンでPanasonicのサイトに情報を探しに入った。なんとそこには余りにもはっきりと「内蔵モデムは国内専用で、海外では使えません」と書いてあるではないか。これまでに使っていた二つのTDKのカードモデムは日本、アメリカ本土、ハワイとどちらも何の問題もなく使えていた。すっかり世のなかそんなものと、たかをくくっていたのが大きな間違いだった。仕方なく翌日になって杏子にパソコンショップに連れて行ってもらい、一番安いカードモデムを買ってきた。さあ、これでメールが読める.....と喜んだのは箱を開けるまで。ドライバのインストールをしようにも、フロッピードライブは持ってきていないし、CD-ROMドライブはわざわざ外してウェイトセーバーをつけてきている。もちろんインターネット経由でドライバをダウンロードするわけにはいかない。

ブライアンに会社の帰りにノートパソコンを持ってきてもらって、PCカード経由でドライバをLet's Noteに移した。到着後3日目にしてようやくカードモデムが使えるようになり、メールをチェックすることができたのである。なんとまあ、世話の焼けるパソコン(の持ち主?)だこと。

2000年11月13日: 杏子の入院と出産
とうとう杏子が入院した。
午後1時から予約してあった検診に行ったのだが、その場で予定日より1週間遅れているので入院して陣痛誘発剤を使おうということになった。4時頃から点滴をはじめ、私と陽子が病院についた5時過ぎには3分おきくらいに軽い陣痛がきていた。回診の医師の話では初産のことでもあり、生まれるのは明日の朝くらいでしょうということだった。

病院は新しくできたばかりということで、すばらしくきれいな建物だ。窓は大きく、明るく開放的で、ロビーや廊下などもゆったりしたスペースで、まるでホテルのようだ。病室も広くゆったりしている。歩いて測ったところによると、約20畳はある部屋だった。オットマンのついたロッキングチェアや、きれいな模様のカーテン、壁紙。バスとトイレもついて、本当にホテルのようにきれいだった。オスカーが今夜はこの椅子で寝るのだと、喜んでいた。

私は陽子と二人で必要なものを持っていったのだが、大勢でいてもうるさいだけだ。時折襲ってくる痛みに顔をゆがめる杏子をオスカーに頼んで、私と陽子はとりあえず帰宅した。

・・・とここまで書いたところで、なんと赤ちゃんがもう生まれたと言う電話が入った。明日に備えて早寝しようと思ったところだった。

とるものもとりあえず病院に駆けつけた。医師や看護婦も驚くほどの安産だったようで、杏子の顔に余り疲れは見えない。子供は男の子で体重は3090グラムほど、まあ、並みよりちょっと大きい程度だろう。私が子供たちを生んだ頃には、生まれる前に性別を教えてはもらえなかったが杏子たちの場合はあらかじめ男の子だと知らされていた。だから生まれる前から名前がついているし、ベビー用品も男の子用のものを準備してあった。生ま、れたときにすでについていた名前はLucas日本名はルカという。

ルカは診察のため別室に連れて行かれ、その間に杏子は体をきれいにしてもらって病室を移動した。そう、私が感動したあの部屋は分娩室だったのだ。私の経験した病院の分娩室はいかにも手術室といったふうの、白と少し緑色があるだけの寒々とした無機質な空間だった。今は日本の病院もこんな風に、普通の部屋のようになっているのだろうか。それともあの頃のままなのだろうか。
移動先の病室は分娩室よりは狭いが、それでもロッキングチェアとソファーが置いてある。トイレとシャワールームも完備していて、快適な空間になっている。杏子がのどが渇いたと言うと、看護婦はオレンジジュース、コーラ、スプライトetc何がいいかたずねて、希望の飲み物を持ってきてくれる。私は陽子を出産するときに、分娩台で身動きできないときに看護婦に水がほしいと頼んだら、生ぬるい水を持ってきてくれて「今ほかの人の出産で私たちは忙しいんだから、そんなことで呼ばないでください」といわれたことを思い出した。

しばらくしてルカが帰ってきて、杏子が母乳を飲ませ始めた。ルカは疲れているようで一口、二口動かしては眠っている。看護婦が足をさすって目を覚まさせようとするが、それでもほんのいっとき口を動かしては寝ている。そんなルカを見ているあきないが、いつまでもいると杏子が休めないだろうと、心惹かれる思いで病室を後にした。家についたのは12時を回っていた。こんな時間でも家族の面会が許されているようで、特にとがめられなかったしほかにも花を持って歩いている若い男性などに出会った。なんと解放的な病院だろう。ただその分病院側も神経を使っているようで、このタグを下げている者(つまり病院の職員)以外には子供を渡さないようにと注意された。


22000年11月14日: 杏子とルカの退院
午前中に病院へ行き、昨夜病院に泊り込んだオスカーと交代する。日本から持ってきた新米を炊き、おにぎりをつくる。先日スーパーマーケットで買った生鮭に塩を振ってフライパンで焼いたものを具にして、ブライアンが韓国出張のときに買って来てくれた韓国のりを巻く。万国旗でも立てたくなるようなおにぎりだ。
病院に着くと、杏子は部屋のシャワールームで体を洗い、さっぱりとしていた。ルカはおちんちんの手術中だった。割礼と言うのだろうか、アメリカではかなり一般的らしい。しばらくして戻って来たルカは、よく眠っていた。
お見舞いにきてくれたちあきさんが、「いいなあ、こんなきれいな病院で。私のときはまだ古い建物だったから、手術台で生んだのよ」と言っていた。彼女は3人の子供をこの病院で出産している。アメリカの病院も無影灯の下の手術台で出産するんだ........。何組かお見舞いの人たちを迎えて、病室はしばしにぎやかだった。
夕方になって検診を終えたルカは退院の許可がでた。ただし、生まれてから24時間は病院にいてほしいということで、午後9時過ぎの退院となった。話には聞いていたが本当にアメリカの病院は(オランダでもそうらしい)出産の翌日に退院するのだ。赤ちゃんの検診は3週間後だか、1ヵ月後と言っていた。


2000年11月15日:英語
アメリカで出産に立ち会って、奇妙に感じられた言い方が二つある。
まず、出産は英語でdeliveryと言う。このdeliveryを英和辞典で引くと「救う  解放する  配達する  出産する  (約束・願望などを)果す」などの意味がある。つまり、出産はおなかの中の赤ちゃんを解放し、約束を果たすことなのだろうか、それともコウノトリが「配達」してくれるということからきている言い回しなのだろうか。
次に、赤ちゃんがお乳を飲むことをeatingと言っている。日本人からするとeatingよりdrinkingのほうが適切な表現だと思うのだが....。



2000年11月18日:ベビーシャワー
今日は杏子のベビーシャワーの日。親しい女性たちが、生まれてくる(一般的には妊娠中に開くらしい)赤ちゃんにお祝いをしてくれる日ということだ。朝から家を掃除して、風船や、おもちゃで家の中をきれいに飾って軽食を用意する。2時を過ぎた頃から、かわいらしいおもちゃやプレゼントを持って三々五々集まってくる。
ここで面白いのは、まずベビーシャワーは母親になる人本人ではなく、親しい人が開いてくれる。本人(とその夫)は、いくつかの店に行き子供のために欲しいものをリストアップして店に預けてくる。招待状に「Shop AとBにリストがおいてある」旨を記入して送る。招待状を受け取った人たちはShop AかBに行き、自分の予算と照らし合わせながら本人たちの欲しがっているものを買うということになっている。欲しくもないものをいただいたり、同じモノが重なったりすることがないように合理的な習慣だと感心する。
つまり、この日はルカがプレゼントで埋まる日ということになる。

2000年11月23日:アマゾンドットコム
今日は、日本を出発する間際に校了した「パッ!!とわかるパソコン」の発売予定日のはずである。陽子にそのことを話すと、アマゾンで検索してみようと言う。そんなむちゃな、出てるはずないじゃないと思いながらも誘いに乗る。藤方景子とキーワードを入力して、検索簿tんをクリックすると....ほとんど待つ間もなく、【ぱっとわかるパソコン―あらゆる?を完全サポート Windows Me対応 藤方 景子 (著), 細江 哲志 (著) 】と表示されるではありませんか.....。当然と言えば当然、、驚きと言えば驚き....。思わず躍り上がる感激の瞬間だった。


2000年11月24日:帰国前夜
朝:ルカをお風呂に入れた。新生児をお風呂に入れるのは、杏子以来24年ぶりのことだ。今日は特に日本へ持って帰るビデオを撮影すると言うので、ちょっぴり緊張.....しないか、やっぱり。
余りの気持ちよさにルカはベビーバスの中で思いっきりおしっこを飛ばした。その元気のよさにみんな大笑い。今のうちよね、おしっこをして喜ばれるなんて。しばらくすると大きな声で泣き出し、思いっきり大声でしばらく泣いている。ルカは上を向いていると泣いていても、うつぶせにすると泣き止む。みんなそうなのか、この子だけなのかはわからない。


昼:玄関の開く音に振り返ると、ブライアンのお母さんが入ってきた。今、この家にいるのは私と、ルカとクマだけだ。ということは必然的に私が応対しなくてはならない......。お母さんは挨拶もそこそこに、この電話は使えるの?と聞き、電話をかけ始めた。早口で(遅口でも同じだが)、ちょっと助けにきてくれないだろうか、ハイウエイで、私の車が、3人のおまわりさんが、ストロングケーブルで......なんとかいくつかの単語が聞き取れる。どうやら車の調子が悪いらしい。ここまで車でこれたのだから、致命的な故障ではないらしいが困っている様子だ。埒があかなかったようで、電話帳はどこにあるのと聞く。電話帳を引いているが、字が小さくて読み取りにくいようだ。May I help you?これくらいなら私にも言える。修理工場の番号のようである。電話番号を読んであげるが、休みらしくて誰も出ない。じゃちょっと行ってくるとエンジンをかけたまま止めてあった車に乗り込んで出ていった。

夜:ブライアンの招待でサンダンス(映画祭とロバートレッドフォードで有名な高級リゾート)へ夕食に出かける。ブライアンのお母さんを交えて4人分、陽子が7時に予約をとってくれてある。家からはパークシティ(2002年冬季オリンピック会場)方面へ向かう途中、30分弱のところにある。レストランはTree Roomと言い、古い丸太小屋で、趣のある建物だ。料理はメーインディッシュが10ほど、サラダやアペタイザーが併せて10ほど。遠慮しないでおいしいものをいただこうと、ブルーチーズのサラダと、ダックのトリオ(3種類のアヒルの料理)をいただいた。きれいに盛り付けられた料理は、見た目と同じくらい味もよく最高のディナーだった。デザートもすばらしい盛り付けと、味だった。

食事が済んだらクリスマスのイルミネーションを見せてあげると、高級住宅街へ連れて行ってくれた。そこにある家の立派なこと。どうしてこんなに大きな家が必要なのと、思わず声をあげるほど大きな家が立ち並んでいる。3分の1ほどの家は家の軒や庭先をライトで飾り立てている。その見事さ、すばらしい、すごい、とにかくそんな形容しかできない自分が情けないほど「すばらしい」。ブライアンが時折適当なところで車を止めてくれて、何枚か写真をとる。お母さんが「ここは私のお爺さんのいとこの家よ」という家の庭には、馬車や馬のイルミネーションがところ狭しと飾れられていて、これまたなんともすばらしい。

アメリカ滞在最後の夜は、ブライアンの心遣いですばらしい経験をすることができた。



2000年11月25日:満席
いよいよ出発の朝。部屋を片付けて、荷物を作っていると杏子がルカを抱いて部屋に入ってきた。手渡されたルカを抱きながら、不自由な姿勢で荷造りをする。

杏子とオスカー、ルカ、タビの見送るを受けてブライアンの車に乗る。今日は土曜日、ブライアンも陽子も仕事は休みで空港まで送ってくれる。チェックインカウンターで荷物を預けると、搭乗口のカウンターでシートを決めてもらうようにと言われる。朝昼兼用の軽食をとり、搭乗カウンターでチケットを提示する。名前を呼ぶから待つようにと言われ、椅子に腰をかけて待つ。搭乗が始まり、シートナンバーを告げる間に、時折誰かの名前を呼んでいる。じっと耳を傾けて聞くが、私の名前はなかなか呼ばれない。「もしかしたら......本当に乗れないかもしれないね」陽子の言葉に笑いながら「うちに戻ってもいい?」とブライアンに軽口をきく。

だんだん残っている人が少なくなって来ると、さすがに心配になってくる。カウンターに「私の名前を呼びましたか」とたずねると、係りの人は「まだです、しばらく待ってください」とにこりともしないで言う。ブライアンがオーバーブッキングかたずねると、そうだが心配は要らないという。その言葉を半信半疑で聞きながら待つことしばし...。とうとう周りには誰もいなくなり、待っているのは私だけになった。ようやく「フュジカタ」と呼ばれ、搭乗の段になった。

ほっとした思いで陽子とブライアンに別れを告げ、機内の人となる。シートナンバーは40B、いつものことながら後ろの席だ。ついでながらポートランドからの便は41E。超格安航空券の宿命だろうか、私は41から前の席にはついた記憶がない(その昔のヨーロッパ旅行のときは記憶にないが....)。長い通路を通ってたどり着いた40Bにはすでに10代の女の子が座っている。ここはあなたのシートか、私のチケットにはこの番号が書いてあるがと言うとしぶしぶ立ち上がって、ほかの席に移動した。なんてやつだ。謝りもしないで。

座席の上の荷物置き場は高くて私にはとどかない。前の座席の下に何とか押し込んで腰掛けると、方をぽんとたたく人がいる。「よろしかったらその荷物をあそこに上げましょうか?」と聞いてくれる人がいる。なんて親切な人なんだ。お願いしてお礼を言って再びシートベルトをはめる。するとまた、ポンと方をたたかれる。「私が忘れていたら降りるときにってくださいね、おろしてあげますから」とこれまたご丁寧におっしゃってくださる。約1時間の後、親切に甘えてとっていただこうとすると、ほかの方が自分の荷物のついでにおろしてくださった。

ポートランドで乗り換えた成田行きDL51便は、超満員で、座席は5人がけの真ん中である。たぶんそうだろうと予想していたので、トイレにも立たず、たまに足を組替える程度で10時間じっと我慢の子であった。



2000年11月26日:日本到着
飛行機はほぼ定刻どおりに成田空港に着陸した。予定通り家に電話をかけて迎えを頼む。妹が大船まできてくれると言うので、荷物を宅急便で送らないで自分でもって帰ることにする。大船駅は成田エクスプレスの発着駅だから当然エレベーターかエスカレーターがあるはずである。何の疑いも抱かずにそう思い込んで、ちょうど良い時間に発車する大船行きの電車に乗り込んだ。

時差ぼけに悩まされたくないから機内ではずっと映画を見ていて、一睡もしていない。電車の心地よいゆれにしばしうとうととする。重い荷物も電車から降ろすときが大変だけど、あとは大丈夫だろう。車に乗せるのは妹に手伝ってもらえるし......。本当に心底そう思っていた。

ところが、ついたホームには見たところエレベーターもエスカレーターもない。あちこち歩き回るのも大変なので、駅員さんを捕まえて聞いた。「すみません、エレベーターかエスカレーターはどこにありますか?」そう、ただありますか?じゃなくてどこにありますか?と私は聞いた。「このホームにはエレベーターもエスカレータもないんです」。私は自分の耳を疑った。成田エクスプレスの乗客は、ほとんどが大きなスーツケースを持っている。そのひとたちが乗り降りするホームに階段しかないなんて......。

お土産は極力買わないで、荷物を少なくして帰ってきた。それでもスーツケースは30キロ近くはあるだろう.。キャスターはついているが、階段を上るのには何の役にもたたない。とりあえず小さいほうの荷物を上まで運び、改札口まで行く。改札口の向こうに妹の姿を見たときには、本当にうれしかった。荷物を預けてもう一度ホームに引き返し、今度はスーツケースを運び上げる。人を当てにして生きているわけではないが、誰かちょっと手伝ってくれたもよさそうなものを....と思うが、すでにホームには人影はない。私がまごまごしている間にみな去ってしまった。

元はと言えば私が調べもしないで勝手に「あるはず」と思い込んだことだが、なんともJRが恨めしかった