ズッコケ回顧録

玉川大学出版部と英文科

小田不二夫

 都立高校を卒業して、二年間も国立大学からお呼びがなかったので、これはもうどっか私立に入るっきゃないなと、受験雑誌をペラペラ見ていると、なんと「無試験・作文形式による選抜」というのがあったoアッこれだ、と思ったのが玉川大学である。早速願書を取りに行ったらもう〆切った後、また今年も浪人かと思いきや父の友人で「玉川こども百科」の絵を描いて居られた片岡京二画伯が、編集の松崎先生(ニックネーム・おっちゃん)を通じてオヤジに頼んでくれた。礼拝堂の右手にある私邸の和室に通され、待たされること約二、三十分、お茶と和葉子が出されたので食べていると、現れたのがさっき駅前通りを掃除していた人ではないか。噂には聞いていたが玉川は学長自ら駅前通り等掃除するのか、大した教育方針だと思ったが、あとでさっきの人ほオヤジの弟の郵便局長だという事が分った。オヤジは開口一番「おお、王川向きのいい男じゃないか、よく訪ねてくれた、叩けよ、されば開かれむ、音楽は好きかね、体操は好きかね」と言われたので本当は両方共嫌いだったけど「はい」と答えた。「お、松崎、入学の手続とってやりなさい」というオヤジの言葉で、面接は終り約十分位でオヤジのファンになった。教育学部は定員だけど英文科の方が余裕があるという事で、別に英文学が好きでも何でもないのにそこに入る事に決った。ついでに編集部も紹介され、労作数育の一貫で「こども百科」の仕事も手伝う事になったのが、一生出版界とつき合うご縁となった。

 当時英文科の数室は三角点の下に研究室と数室が四室あるだけで、教育科、農学科(昭和三十年頃はこの三学科しかなかった)からは疎外された感じの所にあったし、人数も定員四十人の所三十五名と少なかったのですぐ皆仲よくなった。

 出版界も一つのマスコミュニケーションメディアに違いないが、この頃はまだ「マスコミ」という言葉も作られていなかったし、他の大手出版社に見る所謂マスコミ的な雰囲気は学園編集部には全く感じられなかった。第一、都内へ電話を掛けるのにも手動式でハンドルをグルグル五、六回廻し、電話局を呼ぴ出して申し込み、普通で三十分から一時間待たなければ通じなかったし、特急で頼んでも五分から十分は待たされたのんぴりした状態だった。尺貫法も切替時で、何尺何寸も立派に通用していた。当マスコミ会の関野利之氏がまだ入りたて、今教授になっている瀬山健一氏、農学科の先輩だった中山淳氏、小学校の先生になられた鈴木正気氏、産業能率短大へ行かれた佐藤瑛吉氏等々が若手の面々で、田口迪太郎編集長、先ほどの松崎修己先生、浅川利一氏、伊藤祐信氏等の長老(?)の下で活躍していた。女性は英文科の四回生加藤まゆみさんが全人の編集、黒瀧さんが子供百科に居られた。

 取材の長野さんや、財務の山田さん、写真の上原さん等は直接閣係ないので、お顔は存じていたが、お話しする機会は余りなかった。

 高校の時、用器画を学び、卒業後レコードジャケットの版下を画くアルパイト等していたので、「こども百科」の図版制作を任される事になり、毎月一、二巻ずつ刊行されるので結構忙しく、授業が終ると必ず編集部へ立寄る事になった。そのうち原稿の〆切近くなると編集部の窓に赤い布か出た時は「すぐ来い」という目印が考案された。それでもまだ急を要する時はとうとう授業中でも電話で呼ぴ出されて仕事優先を余儀なくされた。別に文学に興味があるわけではなく、自分の描いた図版が印刷されるので仕事の方が面白くなり、得意になって仕事に熟中する様になった。

 クラスでは高等部から来た高橋芳治君がリーダーとなり舟沢登山が計画され、男子は前夜発、女子は早朝発で行われた。この頃から同人誌「三角点」が企画され、厚木の北川雅子さんの自宅や、日黒の伊藤博子さんの下宿先に集って、年刊という形で四号迄刊行された。創刊号ほ制作する過程が楽しかった割に出来栄は他の大学のものと比較出来るものではなかったが、四号目になってやっと表紙も二色で、可成りの水準迄達し、内容も充実した。

 山は尾瀬、昇仙峡、富士登山などを二年間に登り、箱根や江の島、多摩川へ行って遊んだり結構楽しかった。

 その頃編集部は学園本部の二階にあり、冬になると石炭ストープを焚いていても寒く、冷え込んだ時編集長の田口さんが自宅から豚汁を持って来てくれた事もあった。学長が参議院に立候補された時は、立看板の制作が編集部に持ち込まれ、「自民党公認参議院小原国芳」の立看板三十二本を徹夜で描き上げた。

 残念乍ら落選されたので、一銭も貫ってないが、レタリングの腕をあげさせて項いたと思って有り難く感謝している。それでも一部の父母で取調べを受けた方がいたという噂もあった事は確か。

 町田の駅前にあった選挙事務所の前に並べられた看板は、遠くから見ると立派に見えたので安心した。

 町田と言えば地方から来ていてここに下宿していた学生ほ多勢いた。英文科では斉藤英君、尾野公治君、福重一弘君その他五、六人おり、自宅通学組を尻目に自由を謳歌していた。郷里から送金があるとすぐ飲みに歩き、お金が少くなると毎日五円の納豆で過したという人もいたらしい。昭和三十二年の三月三十一日迄は「春」も売っていて、学割で五百円だったそうだけど、それを四百円にしたとか、街の不良と喧嘩して川に投げ込まれ、パトカーに乗せられて八王子の留置場に入れられ、翌日担任の山崎先生が身許引受人になって、貰い下げに行った話など、学園側には内緒になっている筈である。麻雀も盛んで、質屋から千五百円位の安い牌を買って来て終ると翌日同じ店に入質に行ってやな顔をされた。そんな中にあって一人西垣千明君だけが現玉川大学教授になって居られるのは偉い。

 やがて創立三十周年を記念して玉川大百科事典の改訂が行われる事になり、編集部の人数も大幅に増えて来た。もち論こども百科も続刊されているので並行していて、図版の数も八百から千個位必要となり、教育科の萩原一好君や編集部の川上君、ニューデザインの田窪さん等動員され「マスコミ」的雰囲気が生まれて来た。改訂は天文・気象の第六巻から始まり、地質鉱物、動物植物、化学T・U等二か月位のペースで進んだ。当然授業の出席率は悪くなり、とうとう音楽、体操、物理の単位はとれないままになって了った。四年の時、編集部から頂いたお金が溜って三十万円でコンサルの中古を買う事が出来、たまに岡村一二君や一期下の廣瀬靖一君等と授業をサポって三浦半島や箱根にドライプに出掛けた。道路は未だ今の様に完備されておらず、国道16号は進駐軍向けの英文の看板だらけだったが車が少なく快適そのものだった。その頃三年前に玉川の分校をブラジルに造るとかで南米に行っていた三浦基臣君が帰国して英文科に再入学し、米人教師のダグラス・ハモンド氏が来られちょっぴり国際色が漂った。と言うと聞こえは良いが、三浦君はどうも現地で密輪を手伝って強制送還という新聞記事の方が真相らしく、ハモンド氏の方も何やらやらかして逆に二年足らずで送還されて了ったらしい。その後ブラジルの分校は失敗に終り、カナダのバンクーバーに出来たが、そのあたりのいきさつは不明である。(グラフィック・デザイナー)


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