Back Numbers : No.16~What else ?



今年も一応、アカデミー賞

今年のアカデミー賞はまぁ平和であった。去年の在りようを少しは反省したのか(!?)今年は国内プロダクションの作品が中心だったようだし、その内容も、大本命の【タイタニック】がど真ん中を固め、対抗馬の3本【恋愛小説家】【L.A.コンフィデンシャル】【グッド・ウィル・ハンティング】でセミ主要部門(主演・助演・脚本)を分け合うという、大変分かり易い結果だった。
しかし今年のアカデミー賞にも ?? な点は多々あった。よく言われてるセンではディカプリオ君はどーしてノミネートされていないの ? とか※1。個人的には、【ジャッキー・ブラウン】のノミネートが助演のロバート・フォスターだけ※2、というのがひじょーに腹立たしかった。本作の彼が名演だったことは認めるが、この取り上げ方ではまるで、この映画の良さはそこにしかないのだと言わんばかりだ。タランティーノの仕事を認めないならいっそ全く無視すりゃいいのに。中途半端な取り上げ方をするなんて一層たちが悪い。
でもまぁそんなことも言い飽きた感もある。アカデミー賞はどうやら“一番いい作品”や“一番いい演技”※4に対して与えられるものでは必ずしもないらしい、ということは最早周知の事実だろうからだ。ではアカデミー賞は何に対して与えられるのかというと、ずばり「アカデミー賞の権威(or威厳)に最もふさわしい者」である。
「アカデミー賞の権威」 !? そんなものに何か意味があるのだろうか。
「権威」なんてものにそもそも実体はないし、私なんぞに言わせれば意味があるとも思えないのだが、それを認める人達の頭の中には、何かが存在しているのかもしれない。
ここでアカデミー賞の概略について少し触れておきたいと思う。アカデミー賞は、まだ映画の社会的地位が今より相当低かったであろう時代に、自分達で業績を讃え合い奨励し合い、存在を高め合って外の世界へアピールせんがために作られたような賞である。その成り立ちからして、自分達の仕事に自分達でハクをつけんがために作られたようなものなのだが、きっとかの時代には、そうすることにはそれなりの意味があったのだろう。この賞を選ぶアカデミー会員とは、映画業界で顕著な業績があった人が既存の会員の推薦を受けてなるものなのだそうで、一度会員になれば死ぬまで会員という終身会員制なのだそうだ※5。当然、会員の平均年齢は高めになりやすいし、そうなると、古き良きものをスタンダードとする価値観に傾きやすい傾向が出てくるだろう※6。また「権威にふさわしい」ものを選ぶということになると、現状の社会に反抗的であったり品行が方正でないようなものはしばしば除外されたりもする。従って、時代の変化に敏感に対応し、今まさに新しい時代の扉を開けようとしているような者を見いだす、といった芸当は、アカデミー賞にはしばしば難しいことになるのだ※7
リムジンやタキシード、ドレスに宝石、赤絨毯、晩餐会。また年々「権威」づくりの歴史を重ねていくことで、その特別階級としての意識はますます膨れ上がる。私はそもそも一般的に「権威」なんてものが大嫌いなのに、自分達の権威を増幅し合い、確認し合うための巨大な装置と化している現代のアカデミー賞と、根本的にそりが合う筈はない※8。ましてやその賞の基準が、自分が映画を選ぶ基準とは全く違っているとなるとなおさらである。
とは言え、彼等が彼等の「権威」を楽しむのは自由だし、自分達で好きな映画を決める権利もあることだろう。けれど、それは世界で一番素晴らしい映画を決める権利などではなく、ましてや、それを世界の残りの人々に押しつける権利でもないのだ。ということを、彼等は分かっているのだろうか。分かっている人はやはり少ないのではなかろうかと思う※9
私とて昔ほど、ハリウッドを毛嫌いしている訳ではない。ハリウッドでも多くの人が自分達なりの誠意とビジョンを持って精一杯仕事をしているのだ、ということがこの年になって段々分かってきたし、それはそれで何か面白いものを生み出す可能性もあるのかもしれない、と思い始めたからだ。ただ、アメリカが世界の中心なのだという考え方と資本の論理がいつか勝利して、世界中の隅々までがアカデミーの「権威」を頂点としたハリウッドの価値観のみに席巻されてしまう日が来てしまうのだけは真っ平御免なのだ。世界中のいろいろな形の映画を観ることが出来ないのなら、最早映画を観る意味なんて何も無くなってしまうだろうから、私は、映画を見るのをきっぱりやめてしまうに違いない。しかしながら、現状の在り方の中に本当にそんなことになってしまいかねないような芽が見えてしまうような気がするから、たまに気持ちが悪くなって、“やめてくれ~ !! ”と叫び出したくなってしまうのである。
でもハリウッドの側だって、実際は、方向性に行き詰まるたびに世界中から新しい血を輸血して活力を得てきた歴史もある※10のだから、もし本当にそんなことをしでかしてしまった日には、かなり困ることになる筈なんだけれどもね。


注 :
※1 : ディカプリオ君は若くて美しい上に才能まである、なんてふうには認めたくなかった(要するにやっかみ)のではあるまいかと私は思う。アカデミー会員には俳優出身者が一番多いらしいし、しかも年もかなり上の人が多いはずだから。【ギルバート・グレイプ】の時に演じた役とは違って今回はカンペキな二枚目役だし。(今回主演男優賞にもノミネートされていたマット・デイモン君は、お顔だけ冷静に見てみると、必ずしもハンサムという訳ではないような気が……。)
※2 : アカデミー賞は、ロバート・フォスターさんのように長く地道に頑張ってきた人にスポットを当てるのはとても好きそうである。彼が演ったマックス・チェリーがあの映画の中では一番のカタギの役だというのも、何か考えさせられる。パム・グリアーの方は見当たらないというのも象徴的である。
※3 : 賞なるものこれ総て、選ぶ人の思惑を反映するものと相場が決まっている。各国の映画祭の賞の選定には、またそれぞれの思惑がある。
※4 : “一番いい”とは誰にとって、誰たちにとってか ? どういう基準でなのか ? 定義することはとっても難しい。
※5 : 一度アカデミー賞のノミネートを受ければほぼ間違いなくアカデミー会員に推薦されるのだそうで、終身会員制であることを考えるとこれはつまり、一生“名誉ある”立場に浴することができるパスポートを手に入れることが出来たようなものである。ノミネートされただけでも喜ばしい訳だ。
※6 : でも、やはり少しずつは新しい価値観も入ってきている気がする。最近だと、メジャー製作の超大作でない作品も主要部門に食い込んで来ているとか、若くてきれいな女優さんばかりではなく年齢高めの実力派の人も評価されるようになってきたりとか。
※7 : しかし、アカデミー会員の皆様は、自分達に新しい才能を見いだす力がないとする考え方はあまり好きではないようだ。そうなると、「権威」ある筋にお墨付きをもらった“新世代の騎手”なんて、評価する材料としてはうってつけだと思われる。“ハーバード在学中の”マット・デイモン君達は脚本賞とかもらうんじゃないの ? とか思っていたらはからずも当たってしまったし。
※8 : きっとかの地にもそういう性格の人はいるんじゃないかと思うのだが、アカデミー賞が、しばしば業界内でも影響力を持つような同業者達によって選ばれる賞である以上、その後の仕事のことを考えた場合、全く無視するというスタンスを取るのも難しいのだろう。そうやってお互いにどんどん取り込まれて「権威」を増強させていってしまうのだとしたら、えらいワナである。せいぜい、自分と価値観が近いような人が一人でも多く会員になって少しずつでも賞の性格を変質させていくことを願うばかりだが(※6参照)、その人達の価値観がアカデミー内で支配的になるような時代が来る頃には、これまた若い世代の人達なんかとはズレが生じていそうである。
※9 : 最近読んだ「『Shall we ダンス ? 』アメリカを行く」に丁度こんな話が載っていた。周防監督はある人に以下のようなことを言われたそうだ。「ハリウッドで撮りたいと思わなくても、ハリウッドで撮りたいというべきです。なぜならアメリカ人はハリウッドが世界最高の場所で世界中の映画監督がハリウッドを目指していると考えています。だからハリウッドに興味がないといえば、それは嘘で、単に自信がないだけなのだと理解するでしょう」(それでも周防監督は結局は「ハリウッドで映画を撮ることが僕の目標ではない」と言うことにしたのだそうだが。)
※10 : 今現在また、まさに世界中から輸血を受けている時期にあるのではないかと思われる。


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