Back Numbers : No.15~雑想ノート



前から一度書いてみたかった……そんな宣伝は必要か ?

うーぴーは、映画の情報といえば主に『ぴあ』で得る。(『ぴあ』が今以上にメジャー路線に転換してしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう……。)他には、幾つかの雑誌を見たり、TVの情報番組を見たりする。しかして、今度観る映画を選ぶ時に、かなりの決め手になるのは実は映画館で得る情報である。置いてあるちらしに、開演前の予告編。映画の生の手触りを直に得て、面白そうか、面白くなさそうかの感触をつかむためには、これらの材料は欠かせない。
しかし、これらの(主に)映画館経由の宣伝媒体の中には、見ていて少し ?? と首をかしげてしまうようなものが含まれていることがある。どうやらそれらは、宣伝をする人達にとってはセオリーだと認識されている場合すらあるようなのだ。今回は、映画の宣伝によくあるそれらのお約束事の中で、個人的に常日頃疑問に思っている幾つかについて、少しばかり書いてみたい。

《キャッチ・コピー》
目立つ場合と目立たない場合とがあるが、何故か映画と言えば、必ずキャッチ・コピーが付いているもののようだ。これが、映画に合っているものならまだしも、映画の本質を歪めているとしか思えないようなヒドい代物も時々目にする(今すぐにいい例を思い出せなくて申し訳ない)。だらだら長いのも鬱陶しいだけで、センスが悪いような印象を与えられる。逆に、割と良くできているものでも、映画のトータル・イメージのコーディネーションの中にすっかり溶け込んでしまって、全然目立たなくなってしまっているものも少なくないような気がする。あってもなくても関係ないコピー、あっても害になるだけのコピーって、作る慣例になっているから作る、以上の意味合いがどこにあるのだろう。いっそ無くてもいいんじゃないか、と思ってしまうことが大変多いのだが。……但し、その配給・宣伝会社の映画に対する愛情(の無さ)を推し量る目安にすることは出来る場合があるかな。
《装飾その1 : オピニオン・リーダーなるもの》
最近特に、ちらしや予告編の中で“有名人のコメント”を載せているケースを多々目にする。つまり、それらの映画のターゲット層に影響を与えることが出来ると思われる“有名人”に映画の試写を見てもらって、映画をほめてもらうのだ。これらのコメントを寄せる人を称して“オピニオン・リーダー”と呼んでいるらしい。……しかし私は、たとえ敬愛する人物がほめていようと行かない映画には行かない。自分で見たい映画を自分で決めることが出来る目くらいは持っているつもりだし、誰かに自分の“オピニオン”を“リード”してもらう必要は全く感じないのだ。とはいえ、これが非常に含蓄のある言葉を述べて下さる方のコメントなら、映画に行く行かないは別にして、一応耳を傾けてみようという気にもなるのだが、一体誰ナンダソレハ !? というような聞いたこともないような人間の、これまたくっそくだらないようなコメントが滔々と載っかっているような日にゃぁ……そのコメントのどこに動かされて映画を見に行く気持ちになると考えているのだろう !? また最近は、このテの意味無しコメントが5つも6つも載っかっていることも決して少なくなかったりして……これはいっそ、自分はその映画を見に来るなとでも言われているのであろうか。
《装飾その2 : 名も知らぬ外国雑誌評》
多分最初は、『タイム』だの『ローリング・ストーン』だのといった、日本でもその名を知られているような有名な雑誌や新聞の、業界内でもそれなりにバリューがあると認められている評論の一部などが、宣伝に利用されたものだったのだろう。しかし最近は……“どっからそんなもん捜してきたんだーっ !! ”というような見たことも聞いたこともない欧米の雑誌や新聞に載っていたなけなしの賛辞の一行を、宣伝の一部として使用しているケースを、間々目にするのである。これまた、特別に感動的な文言とかならまだしも、どーでもいいようなコメントが実に多いんだな。……海外の人間が評していることだったら何でも正しく見えるだろう、とでも言いたいつもりなんだろうか。闇雲な西洋崇拝もいい加減にして欲しい。
《装飾その3 : 映画祭に出すのはいいけれど……》
いつになるとも知れぬ国内の評価を待つより、もっと自由な目で評価してくれる海外の映画祭に出品して箔をつける、というのは、最近のインディペンデント系の邦画の一つのセオリーである。海外で評価されれば国内のメディアでも注目される可能性が高いし、宣伝もずっとやり易い……のは分かるんだが。出品した映画祭の名前を列挙するのはいいけれど、それがあんまり多い割には一つの賞も取ってない場合には……どこの映画祭に持っていっても全然評価されなかった、っていうこと ? 勿論、正式出品の資格を得ること自体が大変な場合も多いのだ、ということは、知ってる人は知っているかもしれないが、一般的な目にはどう映るのであろう。作り手本人がいろんな映画祭に参加することはよい経験になるかもしれないが、それがどこまで宣伝に使えるか、ということについては、よく考えてみた方がいい場合もあるかもしれない。
《おまけ : 誰が読むんだその記事は》
さてこれは、“これから上映される映画の宣伝の話”ではなくなるのでちょっと余談になるのだが。映画館で最近、現在上映している映画について書かれた雑誌や新聞などの記事の切り抜きをベタベタ貼ってあるのをたまに見掛ける。次の回が始まるまでの間に読んでもらおうというサービスなのだろうか……その割には、人が立ち止まることが難しいような狭い通路や、映画館の外の屋外に貼ってあるケースがあるのは何なのだろう。もっとひどい場合には、記事と記事とがぎちぎちに重なって読むのが難しいことだってある……しかもそういうのに限って、大して読む価値があるような内容ではなかったりする。そこまで来ると、ためになる記事を読んでもらって少しでも映画に対する理解を深めてもらおう、といった配慮で貼ってあるのではさらさらなさそうで、宣伝の担当者がどれだけ営業努力をしてどれだけ多くのメディアに取り上げてもらったか、ということを誇示したいだけのように見えてしまうのだが、穿ち過ぎであろうか。それともよもや、たくさんのメディアに登場しているからいい映画だ、なんてことを言いたいのか ? 今日び観る方だって、映画自体の良し悪しとメディア上の露出度は必ずしも一致しないということくらい、分かっていると思うんだけど。

《結語》
これらの“宣伝のセオリー”も、最初に誰かが開発して使い始めた時には、それぞれがそれなりに意味がある方法論だったように思われる。ただ、これらのやり方が形骸化してしまい、やることになっているからやるとか、そうするように教えられたからやる、というだけなのであれば、最早、観る側として最も教えてもらいたい情報、すなわちその映画の本質が、一向に伝わってこない結果になってしまうのではなかろうか。安っぽい仕掛けが通用するほど、今日びの観客はアマくないと思う。観る側を苦笑させてしまうような方法論に余計な労力を注ぎ込むことはやめて、他の努力をした方が効率がいいのではないか。
いろいろぐちぐちと書いてきたが、私は、思わずこちらがう~んと唸らされてしまうような見事な宣伝を見て、もっともっと映画に対する興味を深めたいだけなのである。


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