Back Numbers : No.22~雑想ノート



こんな夢を見た~追悼・黒澤明監督

黒澤明監督が亡くなってから、当然のことながら、いろいろなところでいろいろな人がいろいろなことをおっしゃっている。私が特に印象深かったのは、リリー・フランキーさんの小コラムにあったコメント、“黒澤作品で、ボクらは映画の質の基準点を築いてしまった。”というものだ。日本の人は黒澤監督の作品をフツーだと思って映画の優劣を判断しているので、映画を見る眼の水準が自ずと高いのではないか、といった趣旨である。成程、そう言われてみれば、外国の人が黒澤監督の映画をあまりにもべた賞めするのを何故、と感じてしまうのはどうしてなのかも、少しは分かるような気がする。
勿論、黒澤明監督一人が日本の映画界の水準を押し上げたという訳ではない。日本の映画史上には偉大な映画人が星の数ほどいただろう。しかし監督はその水準を高めることに最も寄与した一連の人々の一人だったことは間違いないだろう。そのことに異論を差し挟む人は、まず存在しないのではないかと思われる。

私自身は、映画を見始めた時期も遅かったし、映画をたくさん見るようになる過程において特に黒澤監督の作品に影響を受けたという訳でもない。というより、それなりの数の邦画を見るようになり始めたのも、黒澤監督の映画を見て凄いと思い始めたのもかなり最近の話であり、私には“原体験としての黒澤明”といったようなものは全くといっていいほど無いのだ。
それなのに何故、私は黒澤監督の死にこれほどまでに悲しい気持ちを覚えるのだろうか ?
形あるものはみな壊れ、人は皆いつか必ず死んでいくのだとしても、彼の作品やその中に込められた精神は確実に後世まで残されていくのだとしても、“黒澤明”という形をとった映画の魂そのものの実体は、この世の中のどこかから永遠に失われてしまったのだ。私は、あるいは私達だけで、彼が宿していたような魂を果たして引き継いでいくことができるのであろうか ? 今私が感じているものは、どうやらそのような寂寞とした不安感に類するものであるに違いない。

数えてみたのだが、私はどうやら、黒澤監督の映画は半分くらいしか見ていないようである。そんな乏しい体験の中から、初めて黒澤監督の映画を見るという人に敢えて最初の一本を勧めてみるとすれば、やはり【七人の侍】ということになるだろう。(【羅生門】は、芸術的な評価云々はともかく、入門編として見るのにはあまりお薦めしない。)【用心棒】【野良犬】なども素晴らしい。【天国と地獄】なども面白い。他にも好きな作品はまだまだたくさんある。
しかし、監督が亡くなってからというもの私は、【夢】という一本のことが、何故か何度も思い出されてならないのである。
実はこの映画は、初めて映画館で見た時にはそれほどピンと来た訳ではなかった。この映画には全体を貫く明確なストーリーのようなものは存在せず、小篇8本のオムニバス映画というよりはまるで8枚の絵であるかのような印象がある。しかしこの8枚の“絵”には、偉大な映画を次々と創り出した監督の感受性のルーツを形成した心象風景の数々が、凝縮された形で大切に綴り込まれているように思う。そして監督が映画というもののなかに見た“夢”のようなものも、この映画の中に閉じこめられているのではないか。といったような気が、今になって段々としてきたのである。

私も死なずにいる限りは、映画という夢を見続けていたいと思う。夢はどんなに美しくても夢でしかないが、夢の消え失せた現実もまた、生きるには値しないから。

黒澤監督という人が存在したことに対して、心からの感謝を捧げたいと思います。



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