Book Guide for 1999

第弐回 「エロティシズムなんて、と斜に構えるためのポルノ」

1. 「ロベルトは今夜」(クロソウスキー、河出書房新社)

今、エロティシズムなんて、とても恥ずかしいと思う。 冗談としてではなくて、真面目に澁澤龍彦とかを 読んでいる人はまだ存在するのだろうか。 と、斜に構えるためにも文学として読んで面白い、 または本当にポルノとして「感じる」ことのできるものを 選んでみたい。 「ロベルト」は夫と妻の日記を交代に並べると言う覗き見趣味の記述法によって、 夫が妻の浮気を覗きたい、という覗き見趣味が語られる。 書くこと、読むこと、書かれていることが、本質的に同じテーマを 扱っていることがポルノとして成立している。


2. 「ジュリエット物語 あるいは悪徳の栄え」(サド、富士見ロマン文庫ほか)

今、読むとサドというのは非常にナイーヴで純朴な妄想家であるに過ぎない。 そういうナイーヴな純朴さだけでこんな大作を次々書いてしまう所が、 中学生的な化物ぶりと云えよう。 ブランショやバタイユやクロソウスキには悪いが、 あんまり真面目に評論してはいけないと思う。


3. 「眼球譚」(バタイユ、白水社他)

禁忌の思想家バタイユが書いたポルノ。今となっては、 可愛らしい女の子たちが登場して楽しい。 図書館に閉じこもって難しいことばかり考えているから、 図書館のテーブルの上でストリップしたりセックスするくらいのことが、 凄く「いけないこと」のように思えてしまって、 一大思想になってしまったりするので、 うっかり人間は欲求不満にもなれない。


4. 「満潮」(マンディアルグ、白水社)

マンディアルグが一般的な意味で短編の名手であるかどうかはわからないが、 きっとこのようなガラスのような硬質で透明で、 その実は液体といったようなエロティシズムが、 シュルレアリスト達に随分珍重されたのはもっともであろう。 しかし、シュルレアリスムという枠に収めるにはマンディアルグはもったいない。 しゃれた短編ポルノ、というだけで随分立派じゃないか?


5. 「ペピの体験」(作者不詳、富士見ロマン文庫)

あんまり小難しい話ばかりしていてもしょうがないので、 ポルノらしいポルノの古典的名作を一作挙げておこう。 五歳から始まるペピが色々な体験をして、 立派な娼婦として一人立ちするまでの遍歴をリアルに語る。 大人の童話、と言う言葉があるが、「男性原理の童話」 と言った方がいいと思う。 ちなみに作者は不詳だが、シュニッツラーという意見が有力。


6. 「肉屋」(アリーナ・レイエス、二見)

ポルノ小説は現代どうなっているのか、という実例として。 「肉屋」は作者が21歳の時の処女作で、ピエール・ルイス文学賞受賞。 文明の感受性への凌辱としてのポルノが到達した極北。 翻訳でしか読んでないのだが、 明晰な文体がグロテスクとエロティックを血まみれに刻みつけていく。 それでいてお洒落。 古典的ポルノの雛型としての「ペピの体験」と読み比べてみると、 面白いかもしれない。


7. 「鍵」(谷崎潤一郎、新潮文庫他)

ロベルトは今夜と対応して、交換日記文学として挙げてみた。 大谷崎は大ポルノ作家なのだが、特に「老い」というものを 真面目に悲惨に書いた所が偉いと思う。 もちろん小説自体は文体のレベルから全体構成まで異常なまでに巧い。


8. 「家畜人ヤプー」(沼正三、新潮文庫ほか)

あまりに怪作なのでポルノという枠で紹介するのは勿体ないが、 作者本人があまりに変態なので。 奇怪過ぎて説明不能だが、昔読んだ時には、 ある意味「非常に日本人的な」感性なのではないかと思った。 マゾもここまで昇華されると反思想的とでもいうか、 神話的な凄みがある。


9. 「ナチュラル・ウーマン」(松浦理英子、河出)

昔、あるパーティで姿を見かけたが、 まるで読書好きな女子高生といった風情のおとなしそうな人だった。 この人はかんの強そうな女性に苛めぬかれるのが好きなのではないか、 という印象を受けたが、多分その通りなのだろう。 レズビアン文学と云えるものはあまりないが(「ビリティスの恋唄」とか?)、 それは時代がレズビアンを問題にしなかったからだと思う。 ポルノが支配と被支配の問題であったのは当然だが、 それに気付いて疑問が投げかけられるようになったのはそう昔ではない。 男性のいない所での支配と力の問題。


10. 「ロベルトは今夜」(山口椿、トレヴィル)

クロソウスキーのパロディで、劇台本として書かれた。 良くも悪くも、クロソウスキーに対比して現代日本的であり、 これが渋谷の"Xian's B"で上演された時は 「趣味のよろしい」女性達が一杯集まったのだそうだ。 山口椿という人は現代の問題、特に女性の問題を象徴的に表現している人だと思う。 山口椿の作品がそういう問題を表現しているということでは全然なくて、 山口椿という人そのものが存在そのものが、という意味であるが。


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Keisuke HARA, Ph.D.(Math.Sci.)
kshara@mars.dti.ne.jp