BOOK GUIDE for 1999
目がつぶれるほど本が読みたい貴女のために
昔、私は一人の女に出逢った。
その女は私に一冊の本を開いてみせた。
一枚、一枚、自分の指で白いページをめくって。
実はそのページには何も書いていなかったのだが、
私は恍惚として、その指に自分の指と視線をからめるようにして、
ありとあらゆることを学んだのであった。
その女は最後にその本を閉じて、こう言った。
私が一冊の本であった時、世界は一人の貴方であった。
この本は二度と開かれないが、それは世界が二度と貴方ではないからである。
私の身体の中に貴方が指先を差し入れた時には、
私は一冊の本であったかもしれず、
貴方もまた、私にとって一冊の本であり、貴方は世界であった。
そして、今の瞬間はそうでない。
あの寝台の明りを消した時、貴方と私は消え失せた。
◆◆◆
第壱回「来たるべき文学を嘘ぶくためのミステリ」
第弐回 「エロティシズムなんて、と斜に構えるためのポルノ」
第参回 「夜明けまでの不眠を請け負う徹夜本」
第四回「恋愛という名の小説」
1. 「恋愛のディスクール・断章」
ロラン・バルト(みすず書房)
恋愛が書かれていない小説がむしろ珍しいような気さえするのは、 恋愛というものが人間の心が味わう最大の事件の一つであるからであろうか。 また小説という形式が恋愛というものを自然と呼びよせるのかもしれない。 そこであえて、小説でない「恋愛小説」から始めよう。 バルトの「ディスクール」を読めば、自分に起こったあの事件、 限りなく繊細で残酷だった私だけの特別なあの事件が、 平凡な(しかし致命的な)病として手慣れた医者によって 詳細につまびらかにされていくことにショックを受けるだろう。
2. 「ブラームスはお好き」
F.サガン(新潮文庫他)
サガンはパリの上流階級の恋愛沙汰を題材に軽い恋愛小説を書くような イメージを勝手に持たれているが、 それははっきりと間違っていると私は思う。 彼女がそういう舞台でしか書かなかったのは、 本人が実際に本物の上流階級の人間だったせいで、それは問題ではない。 サガンは天才少女としてデビューした時から、 既に老女のようなある種の悟りを持っていた。 ブラームスではどうしようもない恋愛小説の平凡さの中で、 その悟りが輝く。 最後のページで「わたし、オバーサンなの」と当たり前のことを言わせる サガンは何か凄く当たり前のことが分かっていた人だったと思う。
3. 「ナジャ」
アンドレ・ブルトン(現代思潮他)
私はシュルレアリストは嫌いだ。 彼等は女と運命的な出会いをし、女は最大の謎であり、 エロティシズムの奥儀に我々(男)を導き、 深層心理の秘密を開示し、性の道具となり、謎の微笑みを残し消えていく。 私にはそういうナイーヴさが耐えられない。 しかし、シュルレアリストは常に我々愚かな男性の心の中にいる。 そう私の中にも。
4. 「うたかたの日々」 (「日々の泡」)
ボリス・ヴィアン(早川書房ほか)
肺に咲く睡蓮の花に象徴される奔放で可憐なイメージ。 まるで泡のような透明感、何処かしら滑稽でポップ、 残酷で悲しいハッピーエンド。 この世で大事なことは綺麗な女の子との恋愛と、 デューク・エリントンの音楽だけで、 他は全て醜い、と言ったヴィアンの心臓。
5. 「夜叉が池」
泉鏡花(講談社文庫他)
日本における恋愛小説とは何か、というのは 真面目に考えた方がいいことだと思うのだが、 よくわからない。 でも人間を軽々と越えてしまうこういった恋のありよう、 という所に独特の感性があるような気がする。 もちろんそういうことをまるで抜きにしても、 鏡花の恋物語は徹底的に美しい。
6. 「春琴抄」
谷崎潤一郎(新潮文庫他)
あまりに激しい献身がセックスであるのは当然のことで、 私はこれを中学の現代国語で読まされたが、 もちろん何か間違っているのではないか、と思った。 谷崎潤一郎は変態だと思うが、徹底的に美的に恋愛というものを見つめると、 もちろん変態にならざるを得ないのだろう。 私は谷崎の書くものは何でも好きなので、 他にも挙げたいものがあるが、 非常に薄いのと私にとって最初に読んだ谷崎本なので、 これを挙げてみた。
7. 「ボヴァリー夫人」
フローベール(新潮文庫他)
恋に恋する、という言葉があるが、 多分それは一つの真実なのである。 恋愛が素朴な対象への欲望であったり、情熱であったり、微妙な心の襞(ひだ) だったりした時代もあったのかもしれないが、 ある時から恋愛はよくわからないある種の理想状態への渇望になった。 ボヴァリー夫人は我々なのである。
8. 「肉体の悪魔」
レーモン・ラディゲ(新潮文庫)
まるで幾何の問題を解くように、 徹底的に恋愛の心理を細部にわたって描写し解析していく、 というある種残酷な趣味がフランス文学にはある。 読むとやたらに勉強になってしまい、 何度読んでも感心するのだが、 これを書いた時ラディゲは十八歳だった。 そう思うと数学の天才が非常に若い時に才能を発揮することがあるのと、 似たような現象なのかもしれない、とも思うし、 一方では確かに少年でなければ書けない恋愛小説だとも思う。
9. 「真夜中の天使」
栗本薫(文春文庫ほか)
一時、不幸な伝染病のように日本の女子中学生を襲ったある文化の 元凶になった作品。 森茉莉の「恋人たちの森」のような先駆者はいたのだが、 栗本薫や当時の数人の少女漫画家達が、 何か現代日本の退廃をここに発見してしまったのである。 そういった悪口はさておいて、 人間が孤独であること、どうしようもなく他人を求めてしまうということ、 だけにテーマをしぼった非常にまっとうな恋愛小説だと私は思う。
10. 「失なわれた時を求めて」第一篇「スワン家の方へ」より「スワンの恋」
マルセル・プルースト(ちくま文庫)
最初に書いたように基本的に恋愛は平凡なものである。 したがって、自分と同じ恋を小説の中に見つけることはそう珍しいことではない。 それがいかに自分にとって特別な、私的な体験であったとしても。 私は「スワンの恋」の中に、信じられないことに自分と同じくらい繊細で、 さらに信じられないことに自分と同じくらい愚かな主人公を見出した。 もちろん、さらに信じられないことにそう思う人がたくさんいるからこそ、 この書物は未曾有の偉大さを持つ小説作品になったのだろう。


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