ストーリーという罠

−−『アミスタッド』の問題点



 スティーブン・スピルバーグの『アミスタッド』には問題点が一つある。「ストーリー」が巧みすぎるという問題点である。

 この映画のなかで、「ストーリー」ということばは、次のように使われている。
 スペインの奴隷船。ジャイモン・ハンスゥを初めとする四十人が、自由を求めて立ち上がる。船長や乗組員の多くを殺害し、船を乗っ取り、故郷のアフリカへ帰ろうとする。その彼らがアメリカの警備艇に捕らえられる。それを知った善意の市民が彼らを解放しようと試みる。法廷で弁護を試みる。
 だが、どんな弁論を展開すればいいのか。そう問いかけるモーガン・フリーマンにアンソニー・ホプキンス(元大統領、ジョン・クインシー・アダムズ)が、「ストーリー」を語ればいいのだ、という。
 「ストーリー」とは、人間が何をしてきたか、何を感じてきたかを、具体的に明るみに出すものである。何を経験することで、人は、その人自身になったのか。ジャイモン・ハンスゥたちは何を体験したから、船長たちを殺害するにいたったか。彼らは、なぜ、どうやって「殺人者」にならざるを得なかったのか……。そうした、人間の感情に触れるもの、思い、思想のつらなりが「ストーリー」である。
 この方法でマシュー・マコノヒーが演じる弁護士は、いったんは裁判に勝利する。彼が語ったジャイモン・ハンスゥたちの苦しみ、怒りは、彼らの行為を「正当」なものに位置づけた。「正当」であるから、彼らは無罪になった。
 「ストーリー」とは、ある行為に、特別の価値を与える構造のことである。この映画では、そのように定義されていると思う。

 マシュー・マコノヒーの、そしてジャイモン・ハンスゥの、最初の勝利は、すぐ挫折する。大統領が裁判に意義を申し立てた。最高裁で、もう一度審理しなおされることになる。この裁判に、「ストーリー」の概念を教えたアンソニー・ホプキンスが登場し、そこでもう一度「ストーリー」を展開する。
 アンソニー・ホプキンスが利用する「ストーリー」は、ジャンモン・ハンスゥたちの苦しみ、怒りを超える「宗教」あるいは「哲学」ともいうべき「ストーリー」だ。
 ジャイモン・ハンスゥが語るには、「自分が苦しい時には先祖の魂があらわれる。それは自分とともにあり、自分を励ます。」そして、彼が、その苦しみのなかに今存在するのは、実は先祖の魂を実現するためなのだ。多くの先祖の魂を実現するために、今、ここに私がいる……。過去の全ての魂が、今という試練のなかによみがえり、活気づき、現実を切り開いて行く。未来は、そうした過去の魂が切り開く方向にひらける。その接点、その発露の場として私が存在する。
 この力強い哲学を、アンソニー・ホプキンスは、とても巧みに変更する。
 アメリカ建国の父、ジェファーソン、ワシントンらの大統領は、どんな国を夢見ていたか。自由の国を夢見ていた。自由のためなら戦いを恐れない国を夢見ていた。今ここで、ジャイモン・ハンスゥたちを解放すれば、もしかすると「内戦」が勃発する恐れがあるかもしれない。しかし、その恐れのために、自由を求める戦いを放棄していいのか。我々は、この国を築いた大統領たちの精神を引き継ぎ、生かしていかなければならない。「過去」を「過去」のままにしておくのではなく、「過去」を現在に引き寄せ、そのエネルギー(理想)で「未来」を切り開いていかなければならない。「過去」を正当に引き継ぎ、「未来」を切り開く−−そこから「歴史」が生まれる。そうやって「歴史」はつくられる……。
 アンソニー・ホプキンスが語ることは、私の書いたままではないが、だいたいそういうことだ。彼はここでは「歴史」が「ストーリー」であることを雄弁に語り、その「ストーリー」への参加を、裁判官や市民に促すのである。

 アンソニー・ホプキンスの「ストーリー」は勝利をおさめる。彼の弁論によって、ジャイモン・ハンスゥたちは自由を獲得し、アフリカへ帰ることができる。まことに美しい「友情」の「ストーリー」が完結する。
 だが、この美しい「ストーリー」の完結が、私には、大きな問題点に感じられる。
 その「ストーリー」はアメリカの善意、白人の善意を浮き彫りにする。奴隷制度に問題を投げかけ、それを解決した人々。彼らが「歴史」を切り開いた。アフリカ系の人々と白人との間の、人種を超えた「友情(アミスタッド)」の「歴史」をつくった。
 「ストーリー」とは、ある行為に、特別の価値を与える構造のことである、と初めの部分に書いたが、ここではその裁判に、そうした「歴史敵」の意味を与えているのだといえる。
 だが、ここに描かれている「歴史」は本物だろうか。
 アンソニー・ホプキンスの演じたジョン・クインシー・アダムズらの「博愛」と「正義感」は、たしかに「歴史」だろうが、その「歴史」を強調する時、他の「歴史」が見えなくなりはしないか。

 「ストーリー」には、実は重大な欠陥がある。「ストーリー」は、そのなかで息づき、動き、一つの明確な形(概念)になるものには大変便利な存在である。しかし、「ストーリー」は「ストーリー」からはみ出したものには、とても不親切である。「ストーリー」にならないものをどんどん捨ててしまう。捨てることで「ストーリー」を力強く、明確にする。
 「ストーリー」は一つの完結した姿を取る時、同時に、多くの「ストーリー」にならなかった命、苦しみ、怒りを切り捨ててしまう。そうした存在を見えなくさせてしまう。
 スピルバーグはアメリカの「善意」の「歴史」を「ストーリー」に完結させることで、その「ストーリー」からはみだした多くの苦悩を切り捨てた。(彼に、そうした意思があったかどうかは問題ではない。)アメリカはその判決以後も、「奴隷制度」を維持していた。多くのアフリカ系の人々を差別してきた。そうした問題が、この映画からは、すっぽり抜け落ちてしまっている。
 これは『アミスタッド』と別の問題である、という指摘があるかもしれない。
 確かに別の問題である。だからこそ大切なのだ。
 現実には「ストーリー」にならないものがある。「ストーリー」をはみ出して存在するものがある。それをどれだけすくい取る意識があるか。そのことが大切なのだ。一つの「ストーリー」が描かれる時、そのわきで、血を流し続ける現実がある。それを描かなければ、本当は何も描いたことにならない。
 「ストーリー」をはみ出して存在するものに光を当てること、その存在を明るみに出すこと−−それを「歴史」をえぐるという。スピルバーグに、そういう意識があるか。「歴史」を巧みにつくる(ストーリーにする)のではなく、「歴史」(ストーリー)を解体し、「歴史」を否定してしまうかもしれない苦悩を、命の叫びをえぐりだす意思があるか。
 「歴史」をえぐる時,傷つくのは「歴史」だけではない。えぐった本人そのものが傷つく。血まみれになる。自分の立っていた「歴史」が体をなさなくなるからである。
 しかし、そこからしか、本当の歴史は始まらない。本当の未来は始まらない。他者を傷つけ、同時に傷つき、その血のなかからしか、人間は回復できない。

 『シンドラーのリスト』『アミスタッド』と、2本つづけて、スピルバーグは「善意」を明るみに出した。「歴史」を支えた「善意」の素晴らしさを教えてくれた。次は、「歴史」をえくりだすことを期待したい。


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