ピアノ�レッスン

ピアノ・レッスン

　海岸に置き去りにされたピアノ。水を含んだ砂に、その影が写っている。その向こうは海。波が荒い。幾重にも打ち寄せながら砕け、飛沫が風にちぎれる。激しい音が存在するはずである。それなのに、そのときの波の音が、どうしても思い出せない。自然の力を拒むように、毅然とたちつくすピアノに驚き、圧倒されたのだと思う。もし、そのとき波の音が存在していたとしても、私には、その音が聞こえなかったと思う。波の音、風の音ではなく、ピアノの沈黙の音を聞いていた。だからこそ、そのとき映画館にどんな音が響いていたのか思い出すことができない。

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　ピアノ──その沈黙の音──それは女主人公の声でもある。女は口をきかない。話すことを拒んで成長した。女の体のなかには、激しい情熱があって、それがことばを拒んでいる。ことばでは語ることのできない何かが存在し、それが沈黙をつくりだしている。ことばでは語ることのできない何かが、すべてのことばを沈黙させてしまった──そういった方がいいかもしれない。海岸に置き去りにされたピアノが、その強烈な印象で自然の音を沈黙させたように、女のなかに存在する何かが、すべてのことばを沈黙させたのである。
　女は、ただピアノを弾くことだけで自分のこころを解き放ってきた。しかし、今、そのピアノはない。海岸に置き去りのままである。女は、結婚するため、ピアノと娘と一緒にニュージーランドに渡ってきたのだが、新しい生活にとけこめないでいる。ピアノがないから……。しかし、ピアノがあっても、女は新しい生活になじめないだろう。ピアノ、あるいは音楽は、あらゆる日常のなかで有効なわけではない。日常生活のなかでは、ピアノで表現するこころは、少しも有効ではない。日常生活で人が人に期待するのはピアノの美しい響きや音楽の深みなどではないからだ。
　女は娘とだけこころを交わす。娘が手話を理解できるからではない。娘だけが日常生活を生きていないからである。娘は、ただ自分のこころだけを生きているからである。他者と交流せずに生きるという共通性をとおして、女と娘はこころを交わすのである。

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　女とピアノと娘の間に、ひとりの男が割り込んでくる。夫ではなく、友人である。
　男は、ピアノが置き去りにされた海岸へ女と娘を案内する。そして、そこで不思議なものに触れる。ピアノを弾く女と、その音楽にあわせて踊る娘である。女は無心にピアノを弾く。娘は、その音楽にあわせて踊る。その、ことばを必要としない交流の、夢見るような美しさ。
　男が、その交流にこころを動かされたかどうかはわからない。しかし、男は、そのときの女に魅了されたことだけは確かである。女のなかにある、ことばにならない声を感じとる。女の沈黙が、けっして沈黙ではなく、激しい情熱であることを知る。それをもっと身近に感じとりたい。それを独占したい気持ちになる。
　男はピアノを運び、修理し、買い取り、ピアノのレッスンと引き換えに、ピアノを女に返すことを約束する。男は、そうやって、ピアノを弾く女と一緒にいる時間をつくりだす。

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　男は、たぶん、音楽のことなど知らない。しかし、音楽の奥に潜む、沈黙の声を聞くことができる。その声に誘われて、男は女に近づく。そっと脚に触れ、肩に触れ、首筋に触れる。女は、それを拒まない。拒めばレッスンが終わり、ピアノを自分の手に取り戻すことができなくなるから──では、たぶん、ない。男の、時間をかけた接近の方法、その肌への触り方──それが、女の沈黙の声を受け止め、大きく響かせる方法であることを理解するからだ。男の指が触れるとき、女がピアノのキイに触れるように、女のなかの沈黙が美しい響きを奏でる。ピアノをとおして語りかける女の沈黙──その沈黙にふさわしい沈黙の声が、男から女へ広がってくる。その、合奏のようなもののなかで、女の沈黙が溶け始める。男の沈黙と溶け合い、新しい音楽に変わり始める。
　女は、女のなかに、今までかかえていた沈黙以上の、新しい音楽を聞き始める。その音楽に酔う。
　女は、もうピアノを弾かない。ピアノを教えるという口実で男のところへ通い、ひたすら愛を交わす。
　女は、しかし、単にセックスがしたいのではない。肉体の快楽に酔いたいのではない。性をとおして、現実には存在しない、力強い音楽のようなものに触れたいのである。その不思議な音楽が女の命を支えている力だと知り、それを一瞬たりとも手離したくないのだ。
　性交をとおして、女の沈黙と男の沈黙──ことばにならない声が──互いに、そのことばを聞きあい、強く結びついていく。
　このシーンは非常に美しい。

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　娘が二人の至福へ割り込んでくる。母親と自分との至福を、男に奪われてしまったと感じるからである。
　「娘」とは、「家族」という制度として「母」を縛るかもしれない。娘は、自分と母とを繋ぎとめる「家族」という制度の力を直観的に理解し、それを利用して、母を自分の方へ引き戻そうとする。「父」に「母」の密会を告げ口する。
　しかし、女は、制度としての「母」よりも、女自身であることを選ぶ。選ぶ、というよりそうすることしかできない。娘は単に女の音楽を聞き、それに合わせて踊ることしかできない。男は、女のなかの沈黙に入り込み、その奥にある見知らぬ音楽を引き出すからだ。
　もし「制度」というものに注目するなら、女の沈黙の奥に潜む音楽は、「反制度」あるいは「自然」ということと関係がある──というふうに考えることもできる。男の、先住民を真似た入れ墨、開発されていない山や湿原の荒々しさ──そうした「自然」と結びつくものが肉体の自然というものである──というふうに考えることができるかもしれない。
　しかし、私は、そんなふうには考えたくない。
　女の沈黙の音楽、その広がりと基盤は確かに「自然」というものなのだろうが、それは「原始」とか「未開」とかという概念と結びつく「自然」というより、何か非常に洗練された「芸術」のようなものに思える。（「原始状態」や「未開状態」に「芸術」が存在しないという意味ではないが……。）美しいものへの激しい憧れが、あるいは純粋なものへの強い希求がつくりだした、とてつもなく完成した何かのように感じる。
　娘の願いさえも踏みにじっていく女の性──というような批評をどこかで読んだが、私には、そんな「定型化」した女以上のものを描いた映画に思える。ホリー・ハンターが信じられないくらい美しく輝いてみえる。もし、底知れぬ女の性などという定型化した概念が映画化されたものなら、そんなに女が美しく見えるはずがない。
　また、女の自然（根源的なものとしての性）を描いているというのであれば、最後に愛用のピアノを海の底に沈めてしまうということが矛盾するように感じる。女の分身、その沈黙の声を語りつづけたピアノ──それなしでも、女は音楽を語れるようになったことを、海に沈むピアノは暗示しているように思えるからである。
　性、官能の悦び──それは原始的なもの、自然なもの、野蛮なもの、などではない。人間が、長い歴史のなかで築き、磨きあげてきた音楽のように、非常に洗練されたものなのである。一見粗野に見える男の、ぎこちない指の誘い、それに応えて体を許していくときの女の初々しい輝き──それは、長い性の歴史の縮図のようにも見える。
　映画で見たセックスシーンの、もっとも美しいものの一つであった、と、ここまで書いてきて、あらためて思った。

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　音楽の奥に潜む沈黙、沈黙の奥に潜む音楽、あるいは肉体の奥に潜む情熱──というようなことを私は書いてきた。しかし、それは本当は奥に潜むものではない。はるかな高みにあって、私たちを誘い、育てるものなのかもしれない。

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