福本 武久
ESSAY
Part 4
 福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。
 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。
ビジネスマンの風景……会社人間の未来
初出:雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)

 会社人間、「勉強会」に走る



そこには企業戦士の素顔が

 夜の新宿、裏通り……。
 まさにそんな雰囲気の新宿三丁目の午後六時半。両側からもれて、ぶつかり合う光の暈が、暮れなずむ狭い路上を夜の気配に彩りはじめていた。
 めざす会場は歓楽街のどまんなか、間口せまい建物の三階にあった。エレベーターを降りてドアを押すと、エンジの帳に縁どられた室内にテーブルと椅子が整然とならんでいた。あるメンバーズ・クラブを会場にしていると聞いてはいたが、およそ勉強会の会場イメージとはほど遠い。まるで禁酒法時代の地下秘密クラブにさまよいこんだようだった。
 室内には、思い思いに夕食を摂る人影がちらほら……。取材にやってきたぼくたちは、隅の席で落ち着きなく体をゆすっていた。参加メンバーは、一人、二人と静かに現われて定刻前には、空席がまばらになった。
 午後七時。司会をつとめる女性メンバーの声が室内に流れる。まずは初参加者の自己紹介。この日はカメラマンともども取材にやってきたぼくたちだけが初参加。最初に指名されてマイクの前に立つ。取材にやってきたことがたちまちバレてしまう。
「勉強会を一日体験しようとしてきたのだから、そんな隅にかたまっていないで、みなさんの中に入ってください。名刺交換などして、雰囲気を直に体得されたらいかがですか」
 代表者のTさんから声がかかった。
 例会のトピックは「真夏の夜の夢〈音楽よもやま話〉」。カセットテープによるミニコンサートと聞いていたが、少しちがった。講師は、あるレコード販売会社の営業担当者二人。結果的には、クラシック・レコードのセット販売システムの全貌を知らされることになる。のっけから、クイズ番組「ドレミファ・ドン」方式のイントロ・クイズで聴衆を惹きつけ、あとは巧みなセールス・トークで、ぐいぐい引っ張ってゆく。最後にはチャッカリと商売もする。一時間はあっという間だった。
 午後八時。コーヒーブレイク。好みの飲み物を手に会場は交流の場となる。名刺交換がさりげなくはじまる。たちまち手持の名刺が尽きてしまった。
 およそ一〇分後、こんどは同社の専務さんが前に立つ。「いまの○○のセールス・トーク、あれは非常に下手ですねえ」と言って、またまた聴衆を手のうちに収めてしまう。
 販売ノーハウを創った経過にさしかかるあたりから勉強会らしくなる。セミナーなんかでは耳にできない裏話を聞けるのも、少人数の会ゆえにだろう。メンバーそれぞれの立場から、ごく自然に質問がとびだす。くつろいだ雰囲気は、出席者同士の底に流れる強い仲間意識のせいだろうか。
 午後九時。次回のテーマが告げられ散会。出席者は一人、二人と会場を後にしてゆく。
「今回は夏で特別なのです。いつもは、もっとハードなテーマなんですがね」
 Tさんは人なつこい笑みをもらした。
 表に出ると細かい雨が降りだしていた。夜の新宿の賑いは、これからというところ。肩を寄せ合う通り雨……。そんな光景が街にあふれていた。


「不安の時代」を反映して

 このところ小グループの勉強会とそれに参加するビジネスマンが増えている。
 勉強会の第一次ブームは昭和五一〜五二年ごろ。そして一〇年を経た今日、第二次ブームを迎えて定着しつつあるという。
 インフォーマルな勉強会の連合組織ともいうべき「知恵の輪」は昭和六〇年二月に発足、今年までに三回目の合同パーティがおこなわれている。年を追って参加グループが増え、現在では約一八〇の勉強会が名を連ねている。ほとんどが東京周辺のグループである。全国的にはもっと裾野はひろいだろう。
 第一次は石油ショック後、日本経済が新しい機軸を模索しはじめたころである。そして現在の第二次ブームはといえば、円高、産業構造の転換、貿易摩擦などが背景としてある。いわば不安の時代の象徴というみかたもできる。
 だが……。なぜ勉強会というインフォーマルな組織に眼を向けるのだろうか。勉強というだけなら、各種団体のセミナーや研修会もある。
「日本の社会は固定社会だから、同じ企業の者同士の付き合いしかなかった。それが石油ショック後、このまま会社にいてどうなるのだろう、という不安感を抱きはじめて、ヨコのつながりをもとめた。そして、自分の会社以外の人に接触をもとめて、自分の分からない部分を勉強しようとしたのでしょう」
 勉強会の発端について、石丸精一さん(ベンチャーズ・グループ代表)は、このように語る。
 人間の体験には、貴重な情報が含まれている。人間との関わりのなかで異なる分野の勉強をしたいという底意があるようだ。
「日本はパーティ社会ではない。外人にくらべて交際下手です。誰かに紹介されるまでおたがいに詰もしない。勉強会は一グループ内で異業種交流が自然にできる格好の場であるということで増えつつあるのだろう」
 と語るのは「知恵の輪」の提唱者・下村澄さん(社団法人ニュービジネス協議会専務理事)だ。勉強会は共通の話題を肴にしてたがいに発言する交流会だというわけである。


「人を知る、人の数ほどヨコ出世」

 勉強会と言っても、それぞれに独特の個性とスタイルがある。
 このほど体験出席した「ベンチャーズ・グループ」は、第一次ブームの昭和五〇年八月発足だから、すでに一二年の歴史がある。
 もともとはベンチャー・ビジネスをめぎす人たちの会だった。現実に発足以来一五人が企業からスピンアウトして新事業を起こしている。
 しかし会員の増えた昨今では、経営・経済だけでなく幅ひろい分野のテーマを取り上げている。
「人を知る、人の数ほどヨコ出世」というのが、この会のモットーである。
「最初から自分の仕事にプラスになると思って出席してもらってはこまる。出席すれば、またあの人に会えるという気持ちでいらっしゃいとよく言う。まずは人脈をひろげてゆこう……と。人脈をひろげてゆけば自然に企業脈がひろがるんです」と、代表の石丸精一さんは言う。
 人と人との出会いを大切にするという趣旨から例会は毎週一回、午後七時から二時間。講師を招いて講義形式で行われている。登録会員は約三○○人だが、一回の出席は三〇人から四〇人。だからフェイス・ツウ・フェイスで講師の話が聞ける。
 毎週数人の初参加者があり、年とともに顔ぶれは変わってゆく。「これは非常にいいことです」と石丸さんが言うのも、人と人とのつながりを重視する会のモットーからだろう。
 「プラス1」は朝食会形式である。毎月一回午前七時三〇分から九時まで、赤坂東急ホテルで行われている。ある警備保障会社の社内勉強会を母体にして昭和五九年七月に発足した。例会には、毎回二〇人ぐらい出席する。平均年齢は四〇歳代が中心で管理職が多い。テーマはトータルな知識の修得をめざすという視点から選ばれているようだ。
 長くつづいている理由のひとつは「自由参加で条件を出さないこと。朝なので時間が取りやすい」からだという。
 小川稔さん(ナウコーポレーション常務取締役)は幹事役として、「あくまで出会いの場を提供する」だけだと言う。
「あとは参加するみなさん次第。名刺交換で終わってしまうか。講師の方にも積極的に働きかけてゆくか……それは、みなさん次第ですよ、とよく言う。それをやらないと何もならないと思う」
 小川さんは勉強会も参加する人の気持ちが重要だと力説するが、最近では「自分をもっと表現したいという会員の方が増えている」という。今後は講義形式に加えてイベントを企画する意向もあるようだ。


 本音をはける唯一の場

 「竹林の会」は平均年齢三〇歳という若いグループである。もともと為替ディーラーの集まりとして昭和六〇年に発足したが、最近では調査マンと為替ディーラーがほぼ半数ずつ。銀行マンだけでなく生保や商社マンの参加も増えている。
 会月は五〇人で、うち三〇人が毎回出席している。激動する金融業界を背負うメンバーの眼は、日本はどう変わってゆくのかという一点に向けられている。 毎月の例会のトピックもマクロ経済、金融問題だけでなく科学技術や社会問題にまでおよぶ。専門家を講師に招くこともあるが、ほとんどはNHKの政治座談会方式である。
 サミットがあるとプレサミットをやったり、関東大震災を想定して土地問題をディスカッションしたりもする。最近では超電導や年金問題で議論が白熱したという。
 会を主宰する金岡良太郎さん(モルガン信託銀行投資調査部)は二八歳。「ぼくたちはアクセルを踏む世代、四〇歳以上の人たちはブレーキをかけてくれる世代」という役割認識でコミュニティづくりをめぎしている。
「アメリカ人社会には家族ぐるみのパーティがある。あれがほんとうの勉強会だと思う。これからは家庭コミュニティを中心にした教育が必要です」
 竹林の会も勉強会だけにとどめないで家族もふくめた新しいコミュニティに発展させたいという。
 「59年ミーティング」は、早稲田大学文学部の同級生の飲み会から発展したグループである。昭和五二年の三月、いわゆる第一次ブームに発足、例会はすでに一〇〇回を越えた。会員は約二〇人、ビジネスマンだけでなく弁護士、教員、マスコミ関係者と多彩である。月一回の例会は夕食会方式である。会月が交互に講師になって、自分の問題意識を語るというものだから、きわめてその範囲はひろい。
「テーマも限定せず、出席もとらない。何の条件もつけない。それに自分の問題を本音でぶつけるという形式だから長くつづいているのでしょう」
 と、幹事役の藤田昌煕さん(ダイニック経営企画室)は言う。
 たとえば教育問題など、テーマによっては家族も出席する。最近では大学生になった会員ジュニアが顔を出すようになっているという。
 さまざまなスタイルをもつ勉強会も、インフォーマルなグループであるがゆえに、運営上の悩みもある。よほどたんねんにフォローしてゆかないと会はつづかない。
 長つづきしているグループは、いずれも核になる幹事役がいるようだ。講師選びからはじまって、会場の設営、例会の通知、会報づくりなど、すべて幹事のボランティア精神に支えられているといっていい。
 酒飲み会の延長でやらない。リーダーの個性を強く出さない。会費をできるだけ安く。会場を変えないことなどが、長つづきするポイントだという。


「自己啓発」から「人脈づくり」へ

 勉強会も時代とともに変化しっつある。第一次ブームのころは、講師を招いて講義中心の自己啓発だけを目的にしていればよかった。
 最近は人のネットワークをつくりたいという要望が高い。遊びの要素も加えたサロン的な交流をもとめる傾向が強くなっているようだ。
 山に山小屋があるように都市に都市小屋があってしかるべし…‥。新橋にある都市小屋「集」はスナックと集会場とで構成されるサロンである。一三年目をむかえた現在、会員は約七〇〇人を数える。
 出会いの場「集」を取り巻くサークルはおよそ二〇あまり、いずれも会見相互の交流を通じて自然発生的に誕生したもの。「ぽんずの会」「流通部会」「トシコロジーの会」などハードな勉強会から「世界を語る会」「クラシックを気楽に愉しむ会」「流行歌をどこまで聞ける会」「俳句の会」など趣味の会まで多種多様である。なかでも「ぼんずの会」「流行歌をどこまで聞ける会」が長くつづいている。
 「ぼんずの会」は、宗教・教育・心理学・医学分野の話を聞く会で八〇回をこえた。
 「流行歌をどこまで聞ける会」は、昭和五四年に発足、例会では毎回テーマをもうけて選曲した流行歌を聞く。たとえば「山口百恵は菩薩であるか」「大企業のイメージソングはなぜ流行るか」「どマイナー流行歌の魅力について」など。最近では「鶴田浩二、石原裕次郎追悼」というのもある。
「われわれは流行歌で育ってきた。日本人とは何なのか、を考えてみたい」。
 肩を張って、つまらない意味を考えないところに、むしろ意味を見つけてゆくという。知的な遊びの達人たちの集まりのようだ。
 会員たちは、ぶらりと「集」にやってきておもしろければ会に参加する。酒を飲みながら話し合うというスタイルである。だから勉強して成長してゆこうという会にはならないという。
 「会そのものよりも、集という場所があって、そこで自由にいろいろな人にめぐりあえるということを大切にしたい」
 と、語るのは「ぼんずの会」や「クラシックを気楽に愉しむ会」を主宰する滝野博さん(シー・アイ・エル・ジャパン常務取締役) である。
 昼間の生活を脱ぎすてて、ナマの人間同士が向き合う場として位置づけられているようだ。
 インフォーマルな勉強会に参加するビジネスマンを企業側は、どのように観ているのだろう。少なくとも一〇年前なら、いい顔はされなかっただろう。
「この忙しいときに、社外の勉強会なんて…‥」と嘲笑され、「そんな暇があったら、一軒でもよけいにお客のところへいけ!」と、頭ごしにどやしつけられただう。
 ところが最近、社外交流を積極的に認める動きもはじまっている。


 今や「社内人脈」は役に立たない

 住友信託銀行は、金銭的に援助する形で、勉強会や社外交流のインフォーマルな会への参加を奨励するようになった。現在約二〇〇人の若手中堅社員が、この制度を利用しているという。
 会社がこの制度の必要性を認めた背景には、自由化、国際化という時代の流れがある。金融マンも幅広い専門知識が必要になってきている。この制度を利用しているNさんは、「いままでは世のなかの動きを知らなくてもよかったが、最近は金融制度のワク組みが大きく変わってきている。もとめられる情報量、判断材料は五年前とは較べものにならない」と言う。
 個人レベルでの企業人、金融機関同士の意見交換や専門家との接点も、いままで以上に重要になってきている。
「世の中が、どのように動いているのか。ふだんから情報をとれる態勢をつくっておかなければならない。組織としてではなく、一人一人がルートをつくっておかなければ、これからの金融マンは勤まりません」
 若手中堅に限定したのは、毎日の仕事をかかえていて、外部の人間と摸する機会がとぼしいからだという。だが会社に金を出してもらったら、もうプライベートな場とはいえなくなる。個人のバランスシートでの損得勘定はどのようになるのか。
 それはともかく、これからの時代は根っからの会社人間より「あいつは顔がひろい」とか「あいつは社外に、いろいろな情報ルートを持っている」という人間がもとめられようとしている。
 企業そのものが、多角化や分社経営などで時代とともに大きく変化してゆくからであろう。
 ビジネスマンにとって勉強会とは、いったい何なのか。そこに何を期待しているのか。
 それは参加者の世代や職種などによっても微妙なちがいがある。
 千保喜久夫さん(三七歳)は、日本長期信用銀行の調査部勤務(副参事役)である。「竹林の会」に参加するようになって、一年半あまりが過ぎた。
 現在の勉強会に参加する中心年齢層は四〇歳前後、つまり団塊の世代だといわれている。千保さんも、そうした一人である。
 調査部の仕事も「長い眼でみて、いま世の中はどうなっているのだろう。いまは金余りといわれるが、現実はどうなのだろう。次は、どちらの方向にゆくのだろうか」などと、長いスパンでモノを見てゆかなければならなくなった。ディーラーが何を考えているのか。円高で日本の産業がどのように変化するのか。「小手先の仕事では、ニッチもサッチもいかなくなってきている。もう内部だけの知識では話にならなくなった」と、千保さんは言う。眼を外に向けて、幅ひろい見識を高めてゆかなければならない時代に突入した。
 勉強会は自分自身の視野をひろげる場として機能しているようだ。
「すぐに業務に役立つ……ということは、あまり考えない」が、何か教えてもらえるかもしれないという期待感を強く抱いている。
「自分の知らないことを教えてもらえる。しかも書物なんかでなく、議論という形だからナマの活きた情報となります。話を直に聞いて、その場で疑問点を質してゆくというのは、ものすごいクォリティですね」
 勉強会のメリットの一つは、多忙なビジネスマンにとって、フェイス・ツウ・フェイスで本音の話が聞けるということだろう。
「会をきっかけにして、さまざまな会社の方と知り合いになれる。これはどこで活きるかわかりません」
 千保さんは〈人のネットワーク〉も大切にしてゆきたいと語った。
 勉強会は、あくまで会社をはなれて個人として参加するものだが、調査という業務の延長にあるように思った。千保さんの表情やことばつきには、仕事が面白くてしかたがない……という雰囲気がただよっていた。
 それは好況つづく金融業界の昨今と無縁ではないだろう。


 団塊の世代の苦悩

 谷津孝男さん(アドケムコ営業課長)は、昭和六〇年二月から「プラス1」の会員となった。千保さんと同じ三七歳である。
 アドケムコは日本鋼管の化学事業部門で、多角化の一環として発足した新部門である。谷津さんは入社いらい造船の営業部門を歩みつづけてきた。プラス1には化学品部に転属したときに入会したという。
「同じ会社でもビジネスがまるでちがう。ケミカルというのは、まったく一から出発する事業、発想を変えて勉強し直さなければならなくなりました」
 谷津さんは「外の空気を吸ってみよう」という動機で入会した。日本経済を支えてきた造船・鉄鋼も、花形産業でなくなり産業構造の転換を迫られている。谷津さんもそのまっただなかにいる一人だろう。
 会社も業種や業界をこえて、外部につながりをもとめてゆく方針を出しているが、谷津さんは勉強会をビジネスの範囲でとらえていない。あくまで別の次元だという。
「講義に期待するというより、そこに集まってくる人たちの雰囲気とか、会社とはちがった人間関係に身を置いてみる。共通の話題で話したり、質問したりするところに意味がある」
 異業種交流とか実利的な何かをもとめるのでなく、自然体で対話できるという雰囲気を大事にしたいというのが谷津さんの姿勢だ。
 そこには鉄鋼・造船業界の現状をみつめ、そこから自らの世代が果たす役割を模索しようとする苦悩がある。
「われわれ団塊世代は高度成長の申し子といわれた。いままでは先輩の後についてガムシャラにやっていればよかった。ところが現在のようなむずかしい時代になって、オマエたちの出番だ……と、言われても、どうしてやっていったらいいのかと考える部分がある」
 自分のビジネスライフを考えると落ち着かなくなるなかで、勉強会は「いろいろな考えを持っている人たちのなかに自分を置いて、もう一度自分というものをみつめ直す」場だという。
 会社のありかたが変わる。本業以外の新事業をどんどんはじめる。谷津さんの日本鋼管も子会社で食用ハムの製造・販売をはじめた。まったく新しいビジネスが生まれてくる。
「いろいろな方面に眼を向けて、興味の幅をひろげる必要があります。むずかしい時代だが新しい発想が活かせるという意味で、いまはチャンスかもしれませんね」
 谷津さんは最後に、はにかみながらも笑顔をみせた。
 千保さんも谷津さんも同じ団塊の世代だが、仕事に対するボルテージがまるでちがっている。
 それは、あくまで業界の風向きがもたらしたビジネス環境のせいによるものである。本人の能力などとは、まったく無縁なのである。人材とは何なのか。ふと考えこんでしまった。


 定年後の人生を模索して

 塘敏夫さん五一歳(マルエツ取締役社長室長)も「プラス1」のメンバーである。日常業務は主に渉外と広報、社内外の情報を的確にインプットするためにアンテナをひろげておかなければならない立場にある。
「小売業というのは、何にでも興味を持ち、情報を高感度に受けいれていなければならない。プラス1では、講師のかたがたの話が非常に参考になります。とくに異業種の話がおもしろい」
 スーパーマーケット業は幅ひろいため、どんなテーマでも何らかのつながりがあるという。会に出席するのは、もっぱら時宜を得たテーマと講義への興味だというが、年齢的な要素もあるようだ。
 塘さんは仕事柄、会社を代表して多くの会議に出席する。社外の雰囲気に飢えているわけではない。にもかかわらずインフォーマルな勉強会に参加するのはなぜか。
「われわれの世代は、仕事ばかりで生きてきた。ふと仕事がなくなったら、どうなるんだろう……と、考えることがある。仕事をぬきにした友だちがないと、さみしいな……と」
 個人に立ちもどって納得できるものを、つかんでおきたいという気持ちもあるようだ。
「人生は長くなった。あと三〇年のうち一〇年ぐらいは仕事をさせてもらうとしても、あと二〇年は何をするのか。その準備もそろそろしておかなければならないなあ・…‥と思います」
 塘さんにとって勉強会は、ビジネスライフを終えたあとの人生プランを考える場でもあるようだ。
 五〇歳で「ベンチャーズ・グループ」に入会したKさん(大手ゴムメーカー研究開発部門)も、停年後の人生をにらんでいる。
「いままでの専門が活かせたとしても、適応性が必要だと思う。大会社のヤツは使い物にならないと言われては、どうにもならない」
 知識の幅をひろげておけば、専門も活かしやすくなるだろうというのが入会の動機だった。
 ほぼ二年間、例会に出滞してみて、思った以上に得るところが多いという。
「他業種の人たちと話してみると、そんな見かたもあるのか‥…と、非常におもしろい。本で得られる知識より生きたものがある。いろいろな人と話をするというのは、いいものだなあ‥‥‥と、あらためて眼を開かれる思いがします」
 ユニバーサルでサロン的な雰囲気がある勉強会は、得がたい機会だという。志を同じくする人と出会うと、通じるものがあり、本音で話ができる。Kさんは、そこに一般の研修会や講演会とのちがいを見出しているようだ。さしずめ勉強会は人生の第二ラウンドをにらみつつ、武器点検する場とけうべきか。


「出会い」で育むビジネスの芽

 ソフト化、サービス化の時代だといわれる今日、ビジネスの社会にも女性がどんどん進出してきている。生活者としての感性を活かしたニュービジネスをはじめる女性も少なくない。「ベンチャーズ・グループ」の岩月和子さん(四三歳)もその一人である。
 岩月さんは昭和六一年七月、それまで勤務していた広告企画会社をスピンアウト、在日の米国人女性とともに有限会社「カルチュアショック」を設立した。海外に出かける日本人ビジネスマン、来日した外人ビジネスマンとその家族を対象に、日常生活のガイダンスを目的とするベンチャーである。
「日本にやってくる外国人は増えているが、奥さんのほうに問題がある。ご主人は仕事の関係でくるが、奥さんは日本にゆきたいと思っていたわけではない。日本語になじめず、外出もできない人が多い。そうなると最終的には夫婦関係も危うくなりますね」
 スタートして一年、思ったより反響があるという。
 岩月さんの仕事は異文化間のコミュニケーションをスムーズにすることにある。
「ポストオフィス、銀行にゆきましょう。買物にも一緒にゆきましょうというところからはじまる。一日六〇〇円のチケットを買って、地下鉄の乗降を練習したり……。そうして、まずキッカケをつくるわけです」
 きめ細かなサービスには、主婦・英語教師・海外留学・広告企画会社勤務など岩月さんのすべての体験が活かされているとみた。
「いままでは温室のなかにいた。ほんとうの意味で人生にチャレンジしていなかった。外の空気を吸ってみたいと、いつも考えつづけてきた。人間として甘やかされたまま終わるのはもったいないと思った」
 「カルチュアショック」は、その意味で自己実現の場というペきか。
「この仕事は自分の人間性も含めて、すべての能力が問われる。そういう意味でおもしろさがあります」
 同じような志を持つ女性が多いらしく、たえずアプローチがあるという。
 ベンチャーズ・グループヘの参加は、「何か自分を活かせることをやりたい」と念じつつ、コンセプトを模索していたときだった。
「日本の社会というのは人のつながりが非常に大事だと思う。ところが女性の場合は、何か仕事をしようとしても、まったくネットワークがないんです」
 会に出席する多様なジャンルの人との出会いが、大きな心の支えになっているという。
「ある人と知り合いになると、その人を介して、また新しい出会いがある。自分が落ちこんでいるときでも、声をかけてもらうだけで、ずいぶん救われた。そうした出会いを重ねるうちに、営業というものがどういうことかも、少しずつ分かってきました」
 もしかしたら、ベンチャーズ・グループのモットー「人を知る、人の数ほどヨコ出世」を、最もよく体得しているのは岩月さんなのかもしれない。
 「勉強」会などという構えに反発するビジネスマンのグループもある。たとえば都市小屋「集」のメンバーたちである。
 「流行歌をどこまで聞ける会」と「世界を語る会」に参加している川崎正三さん(パシフィック・コンサルタンツ・インターナショナル)は、つぎのように言う。
「仕事と結びついた勉強会というのは、つまらない。たとえ仕事に関連したテーマ内容であっても、ひとたびは切り離して考えないと……。大上段にかまえた目的なんて、ないほうがいい」
 教育とか勉強とかというように、理由をつけることを嫌う。
「参加してよかったなあ……。それがありさえすればいい。何かを学ぶ会≠ニいうのは、コアにすぎない」
 会やグループそのものも、誰かが好きでやりはじめたもの。集まる者が多ければいいというスタイルになっている。
 「会そのものに意味をもとめたら長つづきしないと思う。たとえば〈流行歌……の会)は、テープを聞きながら、勝手なことを喋っている。流行歌を通じて通訳不能の世界をみんなで共有する。別にどうということはないが、チョッとおもしろいという部分をみつける楽しさがある」
 大野正之さん(日本たばこ産業)は言う。そこにあるのは、都会的なエスプリを楽しむという知的な遊びの精神だろう。
 〈真面目〉があって〈遊び〉があるのか。〈遊び〉があって〈真面目〉があるのか。遊びから何かをつかもうとする川崎さんや大野さんの姿勢は、おそらく後者にちがいない。
 日本の現代社会は、とかく〈真面目〉に価値をもとめすぎる。縮み思考の活性化は、あんがいこんなところから開けてくるのかもしれない。


「会社人間」よどこへ行く

 今年の会社説明会がはじまる前日、「サラリーマン/という仕事は/ありません」というヘッドラインの採用広告が朝刊紙の全面でほほえみかけていた。サラリーマンというのは顔がないんだな……と思った。ノッベラボウなのである。
 高度成長時代は、顔がなくてもよかったのかもしれない。ヨーイ、ドンで全員一丸となって走っていればよかった。ある意味では、標準化された仕事を忠実にこなしていればよかった。それだけで業績に結びついたから、仕事がおもしろくてしかたがないという会社人間を増殖した。仕事だけでなく、昼飯を食うのもアフターファイブの麻雀も赤提灯に首を突っこむのも相手は社内の上役や同僚、あげくに休日のレジャーまで職場ごと移動する。四六時中会社人間も悪くはないが、どこかホモセクシュアルな匂いがつきまとう。
 知恵の時代といわれる昨今のビジネスマンには、アイディアや個性がもとめられるようになった。ほんとうの意味での実力が問われるようになってきたのだろう。顔のないノッベラボウのサラリーマンは、企業のなかでもお荷物になってゆく。
 サラリーマンという仕事はありません……という広告コピー出現は、日本型経営を支えてきた年功序列と終身雇用制が崩壊しつつある兆しではないだろうか。
 産業構造転換の時代、会社のありかたが変わる。仕事も変わる。サラリーマンゆえに明日はどんな仕事に就くかわからない。そうなると、いままでの社内の人脈や情報など何の役にも立たなくなる。自分自身をみつめ直して、アイデンティティを確立するしかない。
 ビジネスマンが勉強会や趣味のサークルに参加するのは、きっと自分の顔が気になりはじめたからだろう。外部の人間を鏡に見たてて自分を映してみる。さまぎまな鏡に映る自分の姿をみることによって、望ましい自分のイメージをつかむこともできる。
 自分というものを強く意識して、眼を外に向けはじめた。勉強会は、そのきっかけのひとつだろう。
「やっと、あたりまえになってきたという感じ。仕事、仕事……という、いままではおかしい」
 ビジネスマンに英語を敢えていた経験もある岩月和子さん(前出)は、きっぱり言いきる。
「アメリカの男性は仕事もハードだけれど、自分の生きがいとか価値観をちゃんと持っている。だから話していてもおもしろい。日本の男性はジョークのセンスもよくない。酔っぱらうと、とたんに品性が落ちる。知識はあるが、話していてもおもしろくない」
 日本男性の対女性コミュニケーションは、二〇年から三〇年遅れているという。それはやはり、いままで狭い世界に固執していた幼児性ゆえにだろう。ホモの世界にどっぶりつかってることにさえ気づかなかった。
 自分……を強く意識して、眼を外に向けはじめたといっても、会社の肩書きをひっさげてゆく勉強会だけでは、まだビジネスの延長のような気がする。

  もうひとつの自分の世界なのですなんて 社名入り名刺をばらまきながら いってしまっていいの。

 誰かのパロディでふざけてみたくなる。だが、ホモの世界から脱するきっかけをつかみかけていることだけは確かなようだ。   


目次
海の魚と川の魚
雑誌「経済往来」(経済往来社)1978年 9月号 (1978.08)
机と椅子
雑誌「商工にっぽん」(日本商工振興会)通巻499号 (1989.05.15)
ロクでなし″とワカラズヤ″
NOMAプレスサービス」 No.449 (社団法人 日本経営協会) (1986.06)
Eやんの見事な年金生活
雑誌「年金時代」2004年4月1日号(社会保険研究所) (2004.04.04)
運転しながら化粧をしないで!
雑誌「Forbes」2004年11月号(ぎょうせい) (2004.11)
会社人間、「勉強会」に走る
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1987年10月号 (1987.09.10)
「出世レース」を疾走する「不惑」の男たち
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年5月号 (1988.04.10)
相続をめぐる「悲しき骨肉の争い」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1988年9月号 (1988.08.10)
「遺書」が浮き彫りにする男の生き様
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)1989年4月号  (1989,3.10)
23年ぶりの民間選出の理事長となった「北浜の風雲児」
雑誌「プレジデント」(プレジデント社)2001年2月11日号 (2001,1.20)
西堀流部下活性法
講座「ビジネスリーダー活学塾」(プレジデント社)

|トップへ | essay4目次へ |