第二 捜査の経緯と特徴
一 事件発生から89年11月15日まで−初動捜査
ここでは、坂本弁護士一家の捜索願を出した89年11月7日からの公開捜査に踏み切った同月15日までを初動捜査を呼ぶことにする。
初動捜査においては、そもそもこれが犯罪なのだという認識、つまり事件性の認識自体が形成されなかったのではないかという疑問がある。いわんや最も疑わしい対象がオウム真理教であるという認識が形成されたとは言い難い。その結果、オウム真理教に的を絞った迅速かつ適切な捜査もこの時期には全くと言っていいほど行われなかった。しかし、この時期には、坂本弁護士一家の遺体を遺棄した実行犯らが富士宮の総本部に戻っているなどしているのであり、迅速なオウム真理教に対する捜査がなされていれば、その後の捜査の経緯は全く違ったものとなっていた可能性があった時期であった。
1.事件性の認識の欠如と89年11月7、8日の捜査の杜撰さ
1989年11月7日夜、横浜法律事務所の星山、岡田、武井、小島と坂本さちよが磯子署に捜索願を提出した。家出ではなく拉致であること、オウム真理教が最も疑わしいことなどを警察に必死に説明したが、警察は「特殊家出人捜索願」を出せという対応に終始した。
事件性の認識が欠けていたことは、横山、岡田が県警に連絡した11月8日午前の時点で本件発生の報告が県警に行われていなかったことからも窺われる。だからこそ、8日午前中に磯子署の鑑識が行われ、同日午後改めて県警が鑑識を送ったものと思われる。またその後89年11月17日に設置された捜査本部の名称が「横浜市磯子区弁護士一家失踪事件捜査本部」であったことも同様の問題性が感じられる。この捜査本部の名称は、結局最後に県警と警視庁の合同捜査本部になるまで変えられることはなかった。
また、事件性の認識が欠けていた結果、当初の実況見分における注意力を低下させたとの感は否めない。その問題の最たるものが、11月7日夜、磯子署当直警察官が現場をたったの約10分間のみ確認し、プルシャを発見できなかったことである。8日朝、大山やいと坂本さちよがプルシャを発見して連絡、ようやく磯子署鑑識が現場検証して指紋などを採取したわけだが、このプルシャの発見の遅れが強制捜査の可能性を著しく低下させたことは間違いなかろう。それだけではなく、後日オウム真理教に反論の隙を与えることにもなり、さらには後述するように県警は自らの非を詫びるどころか「弁護士が先にプルシャを見つけた。こんなものを公判で使えるか。」などと、当事者が先に発見したことで証拠価値が引き下げられたかのような発言まで行っている。
さらに、鏡台による襖のへこみや敷居のささくれ、さらには壁の疵も、通報の度に改めて鑑識がやってきたことからして、当初の実況見分段階では気が付いていなかったことは間違いない。
しかも、県警は、現場にあったプルシャを持ち帰ったものの、横浜法律事務所にあるプルシャについては、存在は認識していたにもかかわらず任意提出の要請をしなかった。坂本弁護士が収集したオウム真理教関係の資料について要請があって任意提出したのは、実に1995年7月である。 さらに、この89年11月8日の現場検証において、寝室の襖・畳などに20数カ所の血痕が発見されていたことが、最近になって実況見分調書に記されていたことが判った。寝室の襖・畳に20数カ所もの血痕が付着しているということは異常な事態であるから、その事実からだけでも何らかの事件に巻き込まれたのではないかという疑いをもってしかるべきである。しかし、県警はこの血痕を重視した緊張感ある捜査を行ったとは思えない。
2.89年11月15日までオウム真理教を捜査対象にしなかったこと
オウム真理教と坂本弁護士が事件直前まで厳しい対立関係にあったことや、オウム真理教が坂本弁護士を中傷するビラを配布していたことなどを、横浜法律事務所の弁護士らは当初の特殊家出人捜索願を提出した時点で速やかに神奈川県警に報告した。その後も、オウム真理教と坂本弁護士との対立状況については詳しく報告を重ねた。
これらの経緯を伝えれば当然、坂本弁護士拉致(殺害)事件はオウム真理教の犯行と疑って捜査がなされるであろうと横浜法律事務所所員は考えた。断定できないとしても、疑いをもって捜査をすべきであったのは当然であろう。ところが実際には、県警は初動捜査の時点ではオウム真理教には一切当たっていない。それは、11月8日に担当警視が、「我々警察は現場の聞き込みをする。オウムとの交渉は先生方にお願いする。」と発言したこと、翌九日に横山、星山がオウム真理教東京本部(世田谷区赤堤)を訪問した際、県警からは2名が同行したが、建物の近くで待機したに過ぎないこと、12日に武井他がオウム真理教富士宮本部に赴いて松本智津夫に面会を求めた際も同様に県警から同行した2名が付近に待機したに過ぎないこと、13日に担当警視が武井に対し「オウムの関係については、弁護士のオウムとの交渉に期待していた」と述べたことなどから明らかである。
11月8日以降、横浜法律事務所はオウム真理教に対し、プルシャの個数・配布先を焦点に何度も連絡を取って問いただしていった。その中でオウム真理教側の説明が不自然に変遷していくのを当時横浜法律事務所に常駐した2名の刑事は直接見聞し、それを県警に報告している。また、早川のアリバイに対しても、横浜法律事務所は、青山弁護士が横浜法律事務所を訪問した11月8日以降、繰り返し尋ねている。さらに、横浜法律事務所の弁護士がオウム真理教の東京総本部を訪問した11月9日には、上祐は、「警察の捜査には協力するが、横浜法律事務所の弁護士には協力しない」と発言している。そして、これらのことは、横浜法律事務所の弁護士は逐一県警に伝えている。
それにも関わらず、県警がオウム真理教に対してほとんど何もしなかったというのは実に奇異であり、私たちとしては残念でならない。今から振り返ってみても、このときのやり取りでオウム真理教が見せた矛盾は、まさに本件犯行の重要な手掛かりになったはずである。
しかも、後日判明した実行犯たちの動向を見る限り、7、8日の時点では未だ遺体や遺留品を隠すために富士宮と連絡を取りながら車で移動していた時期であり、富士宮を中心に検問を敷いたり、オウム真理教内の幹部らの動向を調べれば、一気に事件の解決に結び付いたであろうに、この点を怠ったためにその可能性さえ失われてしまっている。
3.事件性が不明であるとマスコミを意図的にリードした問題
初動捜査のみならず、公開前後にも、事件性の認識が欠けており、「事件ではないか」というマスコミの見方に対し、しきりに水を差そうとしていた県警の動きがあった。
まず、公開前であるが、11月1四日に県警は、「坂本弁護士は依頼者の金を使い込んだ結果、高利貸しに手を出し、自ら失踪した」という事実無根の噂を新聞社数社に流している。しかも、それと同時に県警は「任意の失踪の可能性は五分五分」とリークしている。それと同じ話を今度は公開捜査時に行い、加えて公開捜査時に県警は「11月2日の坂本弁護士の活動などについて、横浜法律事務所から弁護活動を理由に捜査協力を拒否されている」と事実無根の発言を行い、さらに「横浜法律事務所の言っているとおりに書くと恥をかくぞ。」と、横浜法律事務所を誹謗中傷し、その後も同様の発言を繰り返している。
これらの発言には、上記の問題点以外に横浜法律事務所に対する悪意すら感じざるを得ない。さらに、18日に東京・中日新聞が「内ゲバ」と報道したことも、後に捜査本部関係者からの情報に基づくことが判明した。
これらの動きは、県警が本件を意図的に迷宮入りさせようとしていたとまでは思わないが、事件ではないかと疑うマスコミに対し、無責任な憶測を流してでも事件という認識を薄めさせようとしたと評価せざるを得ない。
4.安易に公開捜査に踏み切ったこと
本件では報道協定が結ばれなかった。それだけでなく、横浜法律事務所の弁護士らが意図したよりもずっと早い時期に県警は公開捜査に踏み切ることを決定した。そしてこのような県警の姿勢が、事件に関する情報をマスコミに対して安易にリークするということにもつながっていった。
坂本弁護士一家に関するマスコミの横浜法律事務所への最初の取材は、10日夕方の毎日新聞の電話取材であったが、翌11日には毎日新聞に加えて日本テレビも電話で横浜法律事務所に当たり取材を行った。横浜法律事務所はこれらの取材に対しては、県警とも意思を通じたうえ一切事実の公表を控えていた。
しかし、翌12日には、江川紹子氏が週刊文春の契約記者だと言って捜査一課長自宅に電話したところ、名前まで名乗らないうちに事件内容を話し始めるなど、県警側は坂本弁護士一家の安否を気遣って公表を控えようという態度はまるで見られなかった。しかも、横浜法律事務所が14日に取材しようとした朝日新聞に対し報道を中止するよう頼んだところ、「既に文春の江川さんは知っているではないか。」と言われ、捜査一課長が江川に話した事実さえ県警側から漏れていることが判明した。
このような県警の口の軽さは、松本智津夫の任意取調の際、同人にプルシャが坂本堤宅から発見された日を教えたことにも見られる。さらに、オウム真理教による犯罪の疑いが濃いという横浜法律事務所の情報をことさら無視し、本来オウム真理教に対して行うべき捜査を尽くさずに安易に公開捜査に踏み切ろうとした、その姿勢に根本的原因があると思われる。
また、結果的には坂本弁護士一家の生存救出は物理的に不可能であった(捜査開始時点で既に亡くなっていた)ものの、仮に当時坂本弁護士一家が生存していれば、この早期の公開捜査によって、証拠隠滅のために坂本一家は命を奪われたかもしれないのであり、県警の取った一連の行動は軽率との謗りを免れない。
5.横浜法律事務所への誹謗中傷
横浜法律事務所は、県警に対し、特殊家出人捜索願提出後数日中には、坂本の訟廷日誌と日程予定表の写しを取って提出した。坂本の事件記録の一覧については、依頼者の承諾を取る必要があったので、その手続を経て、公開捜査前に速やかに提出している。事務所全員の指紋採取にも応じている。いずれも県警の要請に応えて、速やかに対応している。
このように横浜法律事務所は何等隠す事なく迅速に情報提供しているにも関わらず、以下のとおり、県警は横浜法律事務所に対し非協力的であるという非難を繰り返した。 まず11月15日の公開捜査における記者会見終了後、その場において、県警は、「坂本弁護士の11月2日の動きを弁護士が話さない。」などと非難、さらに翌日にも同様の非難を繰り返したうえ、「弁護士が先にプルシャを見つけた。こんなものを公判で使えるか。弁護士が警察より先に部屋に入った。弁護士に踊らされるな。」とマスコミに話している。 横浜法律事務所に対する謂れなき中傷については、本件を事件として扱いたくないという県警の思惑以外にも、横浜法律事務所に対する偏見があったのではないかとの疑念を払拭できない。
横浜法律事務所は当時、横浜でおきた国労組合員に対する刑事事件の弁護団の中心を担っており(後に横浜地裁で無罪判決、確定)、あるいは神奈川県警の公安刑事による共産党幹部宅盗聴事件の弁護団に加わっている弁護士もいるなど、警察と厳しく対立する事件に関わっていた。これらのことから、横浜法律事務所の弁護士の訴えに対して必要以上に慎重な姿勢をとらせる要因となったのではないかとの疑念は残る。
次へ
捜査の問題点もくじにもどる
MENUにもどる